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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

東京国際映画祭(番外編)チケットボード

2012-10-20 18:29:49 | インポート

 

今年から東京国際映画祭のチケットが、

チケットボードの独占販売になったことに関しては賛否等々沸騰したし、

私も当初は不満たらたらモードで、いつか本格的に愚痴ってやろうと虎視眈々だった・・・

のに、まず発売当日のサクサク&ピンポイント座席指定の快適さに望外。

発券手数料もかからず、購入した後も特に手間もかからずに(カード決済なので)、

購入直後は万々歳だったのに、いざ開催が近づくと不安になる入場時。

 

ところが、前日になってチケットボードからメールが届く。

「お客様には多数の上映作品をお申込みいただきました、

改めまして御礼申し上げます。」(原文まま)等といった挨拶の後、

「この度、ご希望のお客様に限り、10/19 20:00までにご購入された全上映分を

紙チケットとして、ご用意させていただくことが可能となりました。」などと云うではないか!

希望する場合は10/19 20:00までに電話すれば好いとのことで、早速電話。

昼間はなかなか繋がらず、夕方に繋がった際、オペレーターにその旨話すも・・・

「それでは紙チケットを希望される作品名と上映日時をおっしゃってください」と云われ。

てっきり、「紙チケット希望!」と申し出れば自動的に全て用意してくれると思っただけに、

(そうは都合好くいかないわけね・・・向こうだって手間かかるし、

ペーパーレスの意味ないしね)と意外にも物わかり好く納得。

さすがに初日は心配だったので、初日分だけは作品名を伝え、

紙チケットを受け取れるよう手配した。

 

ちなみに、手数料などはかからず、当日に指定された引換場所に行けば好い。

混雑が予想されるので早めに来場を、と言われ、確かにそうだと思い、

余裕をもって行ってみると、驚くほど予想外の即対応可状態ブース。

 

こちらの氏名を告げると、「10作品以上ご購入の方ですか?」と訊かれ、

「はい、そうです」と答えると、紙チケットが入った封筒を渡されて「確認して下さい」と。

そうして手にした封筒には・・・全購入分のチケットが。

あれ?あのテレオペのおばちゃんとのやりとりは何だったんだ!?

何となくそんな気はしていたのだが、きっと彼女がよくわかってなかったんだろうな。

やっぱり「紙チケット希望」さえ告げれば自動的に全作品分を発券してくれたのだろう。

とはいえ、対応してくれたテレオペはやや拙いながらも感じはとても好かったので

(しかも、営業的ではなく親しみが感じられる朗らかさという珍しいパターン)、

なんかちょっとしたドラマ仕立てな展開を楽しませてもらった気分。

 

以上のことから察するに、「10作品以上購入した人」には、

「紙チケットの発券サービス」が(今回は)用意されていたってことになるのかな。

ちょっとやりすぎなメール攻勢(ダウンロードお忘れなく!の)はやや辟易ながら、

それでもそれなりに頑張って親切丁寧な配慮を心がけてる気もして好感。

と、いつも愚痴の多い自分がそう言っちゃうのも、VIP的待遇してもらったからか!?(笑)

 

更に、実際に会場行ってみて意外や意外。

トラブル続きで渋滞三昧かと思ってたのに、全くそんな気配はない。

でも、ここで単純に「よかった、よかった」ではいけないのかもしれない。

なぜなら、このシステムのおかげで此処に来られなくなった人がいるかもしれないのだし。

勿論、代替的手段は用意されているとはいえ、その手間もさることながら、

疎外感はおそらく相当なものがあると思う。

 

映画祭や特集上映で何度か席が隣になったことのある上品な年配の女性。

彼女なんかも今回のTIFFには参加できてるのかな。そんなことをふと思ったり。

 

また、これだけ今年は「至れり尽くせり」だったりすると(初年度だから批判回避や

今後の継続のためにも当然か?)、今後の動向がやや不安になったりも。

来年からは何らかの手数料とられたり、座席指定の範囲や仕方がかわったり。

 

あ、ちなみに、今日の入場は普通にスマホのQRコードかざして入りました。

 


男は黙ってトニー・スコット!

2012-10-16 23:59:03 | インポート

 

今週金曜(10/19)までの早稲田松竹トニー・スコット監督作2本立て

しかも、その組み合わせが絶妙だ。『トップ・ガン』と『アンストッパブル』。

両作が良作であるのみならず、それは謂わば「はじまり」と「おわり」の確認なのだ。

彼が英国で長編処女作を撮った後、米国に渡って監督したのが『トップ・ガン』。

そして、遺作となってしまったのが『アンストッパブル』。

 

2作には物語における共通点も少なくない。

人生における師弟関係や、愛する者の喪失と不在、自己決定的な個人、

そして何よりも文明の暴走とそれに落とし前をつけるべく立ち向かう人間への信頼。

 

『トップ・ガン』を劇場で観るのは初。

スクリーンで、フィルムで観ることによって初めて味わうことのできる魅力に感応。

彼流の映像美学はこの頃から徹底・一貫しているが、そうしたことだけではない。

トニー・スコット監督作品はいずれも、真夜中の静寂に包まれて観る感覚がよく似合う。

しかし、必ず最後には「夜明け」を迎えて終わるのだ。エンドロールの向こうには朝焼けが。

暗闇で息をひそめて凝視する、その行為と一体になる体験こそが、

トニー・スコットの「フィルム」の唯一の体現なのかもしれない。

 

彼の作品は一般的に、極めて《動》的なものとして捉えられている。

私もそのように認識し、そうしたアクロバティックな映像に魅せられてきたつもりだった。

しかし、今回劇場の暗闇で改めてみつめた『トップ・ガン』から溢れ出て来たものは、

むしろ途方もない《静寂》であり、徹底的な《沈黙》だった。

 

勿論、『トップ・ガン』ではおなじみのサントラ楽曲が繰り返し、アレンジも変えつつ、

頻繁に流れている。ジョルジオ・モロダーの雄弁さが画面に派手さを無理矢理押しつける。

しかし、それは余りにも寡黙すぎる登場人物たちへのエクスキューズなのかもしれない。

映画において描かれる彼らの内面は、安易なお喋りを拒んでいる。

関係性から生じる変化や相対によって個人を定義しない。

彼らが対峙するのはどこまでも、自己自身。

社会と闘うわけではない。自分のために、信念のために闘うのだ。

勿論、それは愛する者のためであることもあるが、

それも単なる利他的自己犠牲とは異なって、

親愛への信条を貫こうとする気概。

 

『トップ・ガン』だって、舞台となる「学校」の設定や主人公を取り巻く人物たちからすれば、

普通はそこに羨望や嫉妬、競争や駆け引きといった「人間関係」からいくらでも

劇的な展開を産み出すことは容易なはずなのに、そうした相対的なパズルに興味はない。

敵は他者などではなく、あくまで自己。いや、抗うべき敵というよりは、叶えるべき本領。

そうした自己が耳を貸すべき声は自らの外にあるはずはなく、自らの内に響くもの。

だからこそ、心象風景としてざわめき続けるサウンドトラックがあるのかもしれない。

雄弁なのは言葉などではなく、心であって、その心が繰り出す「動き」なのだろう。

 

後期作品において顕著さが増しに増したアングルやスピードの自在な操りは、

いわば客体の動きよりも主体の動きの激化であって、

それは内省の表出なのかもしれない。

 

静寂と沈黙の中、

響き続ける音と暴れ続ける映像の嵐につつまれて、

溢れるダイナミズムの全てはきっと、人間の内側に由来するものであることを確かめる。

トニー・スコットの《動き》はすべて、静寂と沈黙のなかで暴れてうまれて来たものだ。

そうやって走って来た彼が、永遠の静寂のなかへ自ら飛び込んだ。

誰も彼を止められず、彼も留まりはしなかった。

 

人間や人間の産み出した文明に対する不信や懐疑は確固たるものでありながら

(『トップ・ガン』でも航空機は想定外の故障によって人間が犠牲になるし、

  『アンストッパブル』でも自らが産み出した「兵器」によって生命は危機に晒される)

そうした現実にただ萎縮したり抗議したりするのではなく、実際に何とかしようとする。

それもただ議論を繰り返したり、論理を構築するだけではなく、不言実行で。

言葉ではなく動きで、台詞ではなく画で、語りを聞かされるのではなく、立ち会わされる。

それはギミックなどでは決してなく、ただただ誠実なだけなのだ。

 

◇前述のような理由でも、トニー・スコット作品は映画館で観るべきなのだが、

   今回3度目(かつ1年以上ぶり)に観た『アンストッパブル』における色彩の豊潤さは、

   フィルムでしか味わえない深みと広がりを終始感じさせ続け、

   その色にしてあの動きという贅の尽くしように翻弄された。

 

◇トニー・スコットが亡くなってすぐ、

   このプログラムを決定し手配された早稲田松竹に感謝。そして、敬服。

   2作の組み合わせも最上な追悼である上に、いつもの上映より明らな大音量上映。

   シネコンで観るトニスコ作品もそれはそれで合ってる気もしてきたが、

  二番館や名画座でかかってる事実の下、まったり観るのも至幸哉。

   

◇聞くところによると、『アンストッパブル』の日本での上映権は年内で切れるらしい。

   延長の可能性等については不明だが、観られるうちに何度も観ておきたい逸品。

   年末には吉祥寺バウスシアターでの爆音上映も予定されているようだが

   (それだから、今回の上映は随分と空いているのだろうか…残念)、

   やはり『トップ・ガン』とセットで、続けて観られる意義深さは偉大。

   それをこのタイミングで提供してもらえる幸福を享受せずして、

   トニーの冥福を祈ることはできますまい。

   彼に心躍らせてもらった全てのファンよ、いざ早稲田松竹へ。

 


ジャン=マルク・ラランヌ講演:歌い続けるフランス映画

2012-10-14 12:09:13 | インポート

 

アンスティチュ・フランセ東京[旧東京日仏学院]にて開催中の特集「映画とシャンソン」。

 

今回の企画協力者でもあり、

フランスの人気カルチャー・マガジン「レ・ザンロキュプティーブル」編集長で

(元カイエ・デュ・シネマ編集長でも)あるジャン=マルク・ラランヌ氏の講演を聴いた。

内容は、フランス映画においてミュージカル的要素がどのように取り入れられ、

どのような役割を果たしてきたかの変遷を、映画の抜粋を観ながら解説するというもの。

これが、実に簡明ながらも多様な示唆に富んだ切り口語り口。

備忘録的に、(かなりダイジェスト的ではあるが)採録しておこうと思う。

 

ハリウッドでは古くからミュージカル映画という確たるジャンルがあり、

インドやエジプトなどでも産業的後ろ盾の下に生産されてきたが、

フランスにはそうした形では存在して来なかった。

(ひとつのジャンルとして確立させていない)

 

歌いはじめたのは、まさに「トーキーの始まり」と符合(意味)する。

例えば、次の作品を観てみると。

 

ル・ミリオン(1931/ルネ・クレール) Le million

サイレント映画の美学を歌が継承していることがわかる。

追跡やドタバタ、そして集団で歌うことによる意思表明。

サイレント映画の伝統と、トーキーの可能性がハイブリッドな状態にある過渡期。

 

フランス映画におけてミュージカル要素を見事に昇華させたのは、

ヌーヴェルヴァーグの作家たち。

ハリウッド映画への評価や共感と共に、ミュージカル的要素も受容されてゆく。

そんなハリウッド製ミュージカルにも比肩する作家といえば、ジャック・ドゥミ。

 

ローラ(1961/ジャック・ドゥミ) Lola

ここでは、女優が歌い出すと「オーケストラ」が鳴り始める。

スクリーンに映っている世界とは別次元の音が聞こえてくる。

『嘆きの天使』のマレーネ・ディートリヒを思わせる衣裳を身にまとい、

その動きまでオマージュが捧げられている。

ジャック・ドゥミはミュージカル映画を夢見てた。

他のヌーヴェル・ヴァーグの作家たちとはそこが異なるが、

なかでもアニエス・ヴァルダ(彼の妻でもある)とは近さを感じるところもある。

 

5時から7時までのクレオ(1961/アニエス・ヴァルダ) Cléo de 5 à 7

これは、映画で進行する時間と実際の時間が全く同じハイパー・レアリズムな作品。

しかし、一方でこの場面では「幻」のオーケストラが聞こえてくる。

ヌーヴェルヴァーグは、スタジオから飛び出して写実性を追求する一方で、

写実的世界から切り離された様式的な要素も追究していった側面がある。

そして、この場面のように、映画の中で抑圧され続けてきた現実(ヒロインの病)から、

歌が解き放ってくれるという効果をもたらしてくれている。

 

やがて映画における「歌」は、

ミュージカル映画におけるそれとは無関係なものとして現れてくる。

ゴダールの『女は女である』では、入れ子的挿入によるウォーホル的手法がとられるし、

次の作品のように、歌っている人ではなく聴いている人の存在が意味をなすことも。

 

女と男のいる舗道(1962/ジャン=リュック・ゴダール)

Vivre sa vie: Film en douze tableaux

ここでは、場面に流れる音楽を「聴く」人間が、それをどう受け止めているか。

その情動こそをとらえようとしている。

そして、ジュークボックスから流れる歌を歌うべき人がそこにいるのに、

それは歌われずに、聴かれるものとして登場している。

 

シェルブールの雨傘(1964/ジャック・ドゥミ)は、

冒頭から常に台詞が歌にのせられる。

自動車修理工場やそのロッカールームなど、

およそミュージカル映画には似つかわしくない空間にまで歌が入りこむ新鮮さ。

更には、歌のなかに別の歌(例えば、ビゼーの「カルメン」)が入りこむことも。

こういった手法は、20年後の『都会の一部屋』にも継承されてゆく。

 

『ジェルブールの雨傘』と実に対照的な例を見てみることにする。

 

ワン・プラス・ワン(1968/ジャン=リュック・ゴダール) Sympathy for the Devil

これは「歌」が生まれる瞬間に立ち会う体験だ。

「歌をつくる」事それ自体が、映画の母体となっている。

80年代までゴダールの映像は音楽から生まれていることがしばしばだ。

   

『勝手にしやがれ』が公開された年に生まれたレオス・カラックスは、

ヌーヴェルヴァーグ的アプローチを継承しつつも、自ら模索した作家の一人。

 

汚れた血(1986/レオス・カラックス) Mauvais sang

ここで流れる二曲は、カラックスの二面性を象徴しているように思える。

ヌーヴェルヴァーグも持っていた一面でもある古典が持つ様式への憧憬と、

自らの同時代性(ミュージッククリップ的要素)の標榜だ。

そうした傾向が更に顕著に現れているのが、次の作品だ。

 

ポンヌフの恋人(1991/レオス・カラックス) Les amants du Pont-Neuf

カラックスは、「完全な映画」を夢見ていたのだろう。

それはもはや、映画という一つのカテゴリーを超越し、

あらゆる芸術との間にある壁を壊そうとしていたに違いない。

すべての芸術の混交として生まれる映画を夢見ていた。

しかし、それに対する産業からは返答はNOであった。

 

90年代のフランス映画におけるヌーヴェルヴァーグの継承は、

文学的であったり自然主義的な側面において顕著にみられた。

アルノー・デプレシャン、グザヴィエ・ボーヴォア、セドリック・カーン、パスカル・フェラン等。

 

しかし、2000年代に入ると、それとは異なる流れで継承する作家が出てくる。

その先駆的存在が、クリストフ・オノレだろう。

 

パリの中で(2006/クリストフ・オノレ) Dans Paris

 

美しいひと(2008/クリストフ・オノレ) La belle personne

この場面は、ゴダールの『女と男のいる舗道』への明らかなオマージュ。

レア・セドゥがアンナ・カリーナの如く、髪を黒に染めているのもそのためだ。

更に、もう一つの入れ子が存在する。ここで登場するキアラ・マストロヤンニは、

本作の基となった小説『クレーヴの奥方』のオリヴェイラによる映画版の主演女優。 

 

こうしてヌーヴェルヴァーグのボキャブラリーを駆使しようとしたオノレに続くように、

ヴァレリー・ドンゼッリやグザヴィエ・ドランなどによる新たなミュージカル的映画が生まれた。

 

フランス(2007/セルジュ・ボゾン) La France

本作は、録音済の音源に合わせて演じるのではなく、

ライブ録音的に録られているドキュメンタリー的な側面を併せ持つ。

使われている「楽器」も撮影現場に実際にあるものを用いている。

しかしその一方で、用いられる音楽には

物語の背景となる第一次世界大戦時にはなかった要素がふんだんに。

そうした傾向は、昨今の映画と音楽の関係に顕著となってきている。

『ムーランルージュ』では唱われる歌もそのアレンジも、その時代を「無視」した現代だ。

ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』では、庭園にニュー・オーダーが響いてる。

そうした潮流のなかで傑出した名場面は、次のものだろう。

 

メゾン 娼館の記憶(2011/ベルトラン・ボネロ)

L'Apollonide (Souvenirs de la maison close)

20世紀初頭の娼館を舞台にした本作で、

彼女たちは50年後にうまれる1960年代のソウル・ミュージックに「悲しみ」を託す。

 

以上のように、歌とは、

その瞬間のあらゆる感情を吸い込んだカタルシスを生むのだ。

 

 

(以下、本特集に寄せたジャン=マルク・ラランヌ氏の言葉をチラシより引用。)

 

アメリカ映画のミュージカル・コメディに比較できるジャンルはフランス映画にはない。

専門家(プロの歌手、ダンサー、美術監督など)を育成するシステムが

スタジオの中につくられることもなかった。

しかし、トーキーの発明以来、フランス映画は歌い続けてきた。

フランス映画では、歌は素人の持つ瑞々しさをともなって、突然侵入してくる。

ジャック・ドゥミの作品はまさに他に例を見ない

「歌われた(魅惑の)[アンションテ]」映画の原型と言える。

ゴダールからカラックスまで、ヌーヴェルヴァーグとその後継者たちは

シャンソンという「間」を戦略的に表現方法の中に位置づけてきた。

セルジュ・ボゾン、ヴァレリー・ドンゼッリ、ラリユー兄弟、ティエリー・ジュス、

クリストフ・オノレ、その他、現代のフランス映画の作家たちは

この風変わりなフランス映画の遺産を自らの作品に取り入れている。

不意の出現、予期せぬ出来事、急激な変化として、

シャンソンを突如出現させる方法は、こうしてフランス映画の重要な部分を占めている。

 

 

※私の不十分な知識と拙い表現により、

   ラランヌ氏の意図の誤った解釈もあるかもしれませんが、

   私が解せた範囲内での記録ということで、お許しください。

   それにしても、駆け足ながらコンパクトに明晰に、

   それでいて物語性を浮かび上がらせる講演内容は実に面白かった。

   実際に映像と向き合わせてくれた上で考えさせてくれるというのは親切なだけでなく、

   記号的都合好さによる記憶の脱構築にも繋がると再認識。

   確認のための参照ではなく、再発見のための再邂逅。

 

   これから映画で出会う「歌」たちが更に楽しみになってきた。

 


鍵泥棒のメソッド、夢泥棒のリゾット。

2012-09-26 22:48:18 | インポート

 

『鍵泥棒のメソッド』と『夢売るふたり』を続けて観た。

もう1週間以上も前になるので記憶はおぼろ。今夜の月も?

と思ってベランダ出たけど、月見えず。位置関係。

 

私の中では全幅の信頼印が燦然と輝く、内田けんじ。

全身で苦手表明したいくらいに相性の悪い、西川美和。

そうした好悪の傾向は、それぞれの新作を観た後も変わらぬものの、

若手(中堅?)最注目な二人の作家性は、やっぱりちゃんと進化はしてた。

 

『鍵泥棒のメソッド』は正直、

前半(というより三分の二くらい?)どうも乗り切れず、

「またか?」という程でもないのに妙な胃もたれ停滞感から抜けきれず、

一時期の竹中直人を彷彿させる頻出っぷりの香川照之に辟易・・・

のはずが、意外にも堺雅人にじれったさを覚えてしまうとは。

いやね、本作の香川照之は好かったわ。

彼の「新鮮」がなければ、途中リタイア絶対してた。

最近の食傷傾向は明らかに「香川印」でしかない演技ばかりで押し切っていたからで、

こうしてまだ新しい抽斗があったのか!という醍醐味を引き出す内田監督はやはり匠。

ただ、「元に戻った」後の香川照之は香川照之でしかないんだけど、

さっきまでの「新鮮」からの反動は妙に心地好い「しっくり」を運んで来てくれた。

広末の成長しない演技に絶妙な「違和感」を託したりしてるところも、何だかんだで巧い。

主役(の一人?)のはずの堺雅人には、最後の最後にちょこっとだけ見せ場がある程度。

ってところの「引き」加減も観ている最中は馴染めぬものの、

終わってみればナイスバランス。

 

前半に味わった「停滞感」はおそらく、

これまでの作品における交通や運動といった主成分が、

観察や凝視に移り変わりつつある過渡期における脱皮の時間だったのかもね。

これまでの内田作品においては、

人間そのものよりも、人間相互の関係性やそこで発生する紛糾の可笑しみを、

神の視点によって操り続けて最後には観客がその操作を疑似体験。

そこに浮かび上がる「公式」の完全無欠に万歳喝采。

 

しかし、今作では人間そのものにこそ照準は絞られる。

そして、関係性が生みだすダイナミクスより、関係性が生む内的バイオリズムに注視する。

そういう眼で再度観賞すべき秀作なのだと見終えて実感。

 

これまでの作品が加速度的にスピードアップ後の跳躍!

であるならば、

今回の作品はひたすら歩きに歩いて突然駆け出す躍動!

 

平易に言い切ってしまうとするならば、

頭脳戦から心理戦、いや心裏腺。

ウラを隠すことで引きつけてきた策士が、ウラを最初から見せて勝負してるから、

その更にウラを勘ぐる観客に、そもそもウラもオモテもありません!

とはいえ、確かな助走なしに、あのような最後の飛躍を楽しむことはできないだろう。

ラストが胸にキュンときちまう私には、冗長助走が生き返る。

 

それに比して『夢売るふたり』の投げやりな失速感はどうだろう。

そこにこそ「疲弊しきった色気」のような匂いが立ち籠めて来てるでしょ?

的な媚態が終盤幕間、顔を出す。松たか子のドヤ顔っぷりが監督のそれを映し出す。

というか、ドヤ顔ってもう滅多に聞かなくなったねぇ。流行後の流行語。

 

阿部サダヲのモテ度に疑問云々はわからないでもないが、私はそこまで訝りもせず、

むしろ直前に見た『鍵泥棒~』の無垢香川に胸キュンだったので(笑)

インパクトの薄さというか阿部サダヲ想定内に些か物足りず。

 

つい先日に早稲田松竹で堪能した名カメラマン柳島克己の仕事、その現在。

ベタがべたっとしない画を、さりげなさとえげつなさの間を右往左往。心地好い定点。

そんな魅惑を味わいつくせる配慮には、西川監督の余裕を感じたり。

 

それでも、彼女が紡ぐ物語の歪さに作為しか感じられぬのは、

人間の内面を掘り下げることを主意としながらも、

結論(完成形)から図面を引いたフィクションだから?

まずは主張が先にあり、そこから「そのための人物」「そのための展開」が配置され、

それらが効率よく作用するよう組み立てられる。そんな駒の動かし方に見えてしまう。

あまりにも主張したげな「行間」は、想像力を緊張状態に追い込んでしまう。

弛緩による解放の美学は許されない。だから作品はいつだって開放しない。

ただ、そうした性念の主張にバッチリ共鳴できる人々にはおそらく、

他では味わえぬような感銘や感慨がもたらされるのだろう。

だから、「デキる」リーダーであることには間違いない。

 

内田・西川両名とも、

作家性と娯楽性を意固地に峻別することなく、

共存を探りつつも自分なりの表現を模索する真摯な姿勢には敬服する。

一方で、マンネリかブレイクスルーかの分岐が次作で決するだろうことにも期待と不安。

 


『カルロス』爆音上映

2012-09-21 23:59:14 | インポート

 

『カルロス』を観るのは初めてではないはずなのに、

明らかに、確実に、絶対に、初めて観た。

ようやく、出会えた。実物に。

 

映画作家とは、映画館でしか出会えない存在だ。

どんなに高画質大画面の自宅で観ようとも、

それはやはり映画に似た何か、限りなく近づこうとも成れないない何か。

視界いっぱいに広がるスクリーン、そこから視界を超えて放出される画の飛沫。

座席に身を埋め、固唾を呑んで共に目撃する同乗者たち。

いま、ここに、映画という怪物にのみ込まれんとする空間が立ち現れる。

 

アサイヤスが選んだシネスコ。

それは大きなスクリーンに映し出されてこそ映える《世界》。

元はテレビシリーズとして制作された本作に、

そのような選択と使命を装填したアサイヤス。

テレビに映画の魂、お見舞いしてくれた。

 

何から何まで映画を生きている。

世界を切り取り、世界を編集し、世界を語ろうとする映画として。

全編に隈無く張りめぐらされたシンコペーションなエディティング。

闇のリズムに時折挿し込むブラックアウトは一瞬不在を刻み込み、

フィルムの矜持に魅せられ続ける光の饗宴ライティング。

映像も、音も、すべての残響は鳴り止まず、

あらゆる予響を喚び起こす。

 

私はセザンヌの絵が大好きで、

それは凝視していると胸騒ぎがするからだ。

そして、今回の爆音『カルロス』を観る私の胸はまさにそれ。

絶対に止まらず固まらぬ世界のざわめきに、私の胸は弄ばれる。

そのために必要な、大きな画面と大きな音。うねりの目撃、狂騒への埋没。

臨場する価値を享受せねば、本作が放つ熱量の半分すらも受け止められぬ。

いま観るべき傑作に間違いない本作に、いま最上な環境で立ち会える悦び。

3部をまとめて(通して)観られぬという口惜しさは否めぬが、

この上映を「体験」することは、伝説に立ち会うことかもしれないと、

早くも来年の爆音映画祭における「一挙上映」への夢想が確信させる。

 

残念ながら第1部の上映は今日で終わってしまったが(※)

明日からは第2部、そして来週末からは第3部の上映が控えている。

また、本作が放つ威力を存分に享けられるのは、二度目や三度目の観賞でこそ。

反復するたびに、映画のもつ縦軸と横軸は伸長を続け、すべての奥の揺らぎは止まぬ。

ゾクゾクでもソワソワでもない、渾沌たるゾワゾワの全身体験を、

夏を駆逐する秋の夜にぶちかませ!

 

『カルロス』公式サイト

シアターイメージフォーラムでは各部をいずれも続映中。

    但し、上映形態やタイムテーブルは日によって変わるので要注意。

吉祥寺バウスシアターならサービスデーも充実してるので、利用するのも好いかも。