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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

フランス映画、九月に咲き誇る。

2012-09-01 23:57:52 | インポート

 

いよいよ今年も三分の一を残すのみとなり(って感慨文句、変?)

映画への好奇心で身を滅ぼしている人間にとって秋という季節は、

まさに心身共に映画祭に支配されてしまう暗黒シーズン。

(映画館滞在時間が異様に増すので名実共に・・・)

 

さて、そんな「映画祭の秋」本格化前夜的セプテンバーに、

多様なフランス映画がこぞって公開されるという嬉しくも苦しい今月。

6月に開催されたフランス映画祭から2・3ヶ月後ということもあり、

そこで上映された作品もかなりの数が劇場公開となる今月。

私も何本か既に観ているものがあるので、独断と偏見にまみれた紹介を。

 

 

カルロス(2010/オリヴィエ・アサイヤス)

いま最も本気で好きで本気で信頼できる監督の一人である、アサイヤス。

彼が実在のテロリストの半生を三部構成・合計5時間半の「大作」で撮ってしまった。

しかし、そうした作品の成り立ちとは裏腹に、三部構成も上映時間も既存の枠としては

機能しない。三部はいずれも分断ではないし、上映時間は決して長さではない。

 

実はこの三部作、昨年1月にWOWOWで放送された。

それを録画し、私は休日に一気に観た(各部終了毎に軽く休憩は入れたが)。

また、映画版(?)として編集された3時間程度のものを

昨年のラテンビート映画祭で観賞。

結論から言えば、断然、圧倒的に三部構成の五時間半版こそが本物。

ちなみに、「第一部と第二部を続けて観て、休憩後に第三部を観る」というのが

アサイヤス流のベストな観賞法だと何処かで読んだ気がする。

それにも至極賛同(というのはおこがましいが・・・かなり納得)。

逆に言えば、この三部を別の日に分けて(まして日を空けて)観るのは、

(私としては)あまりお薦めしません。可能であれば一日に一気に!

それが難しければ、せめて第一部と第二部を同日に、

後日(なるべく早く)第三部を・・・というのは、あくまで個人的な意見なので、

各人のスタイルで観ればそれで好いとは思います。

が!(しつこい・・・)個人的な感想をもとに述懐すれば、

私は第二部が極めて好きだったのですが、それも第一部からの流れがあり、

更に「時間の蓄積」によってもたらされる何かが確実に作用していたからでもあり、

あの素晴らしい第二部が単独で「存在」するような接し方だったとしたら、

同じようなインパクトを享受できていたかが甚だ不安だったりもするわけです。

というわけで、騙されても好い人(苦情セルフ処理可能な方)、時間に融通がきく人は、

上記のパターンを参考にして頂けると・・・(って、結局強力に推してるし)。

 

『カルロス』はテレビシリーズとして撮られてはいるものの、

紛れもなく「映画」の威力が放たれ続ける緊迫と興奮の厳粛なる坩堝。

ミステリーズ 運命のリスボン』(邦題が・・・)にしろ『贖罪』にしろ、

新たな「枠」を映画的に消化し昇華する傑作群は、

新たな潮流を確実に産み出す気がします。

 

画面サイズはシネスコなので

(これ又テレビ放送前提なのにチャレンジングだし、

それを許容する寛容さというか自由さにも惚れ惚れ)、

本当は正直イメフォの縮みシネスコやバウスの小箱では物足りないけれど・・・

『カルロス』のシネスコは必ずしもダイナミズムだけを期待してのそれというよりは、

無限の広がりをみせる閉塞感を演出してもいる気がするので、

あの狭苦しく息苦しいイメフォの地下や視聴覚室みたいな隠れ家バウスでの観賞も

実は結構味が出るかもしれない。(と、素直に思ってます。)

ただ、その二劇場での観賞となるとハード的絶好なのは、

15日からのバウス1での爆音上映なのだろうと思うのですが、

それだと前述の観賞スタイルが不可能(一週毎に一部ずつなので)。

ま、バウス1は非常口の灯が(4列目くらい以降は)ちょっと眩しいし、

結局、どういう見方にしても完璧は見込めなさそうなので、

むしろ自分なりの選択が「完璧」になりうると前向きに考えましょう!

(って、自分に言ってます・・・)

 

ちなみに、

当時の世界情勢などは多少頭に入れておいた方が好い。

断然好い。

ウィキペディアでさらっと確認するも好し、

事前に(もしくは早めに劇場に行って)必要情報凝縮のパンフを読んでおくも好し、

ラースロー・リスカイ『カルロス/沈黙のテロリスト』(徳間書店)で予習するも好し、

ネタバレとか気にせずに(そもそもこの手の事情は掘れば掘るほどミステリーだし)

予習すればするほど燃える映画だと思われます。

 

 

最強のふたり(2011/エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ)

おぉ!オリヴィエ監督作が同日公開だ!と、どうでも好い気づきはさておき。

こちらは昨年の東京国際映画祭のコンペに選出され、見事グランプリ獲得。

その際に見逃して悔しい(?)思いをした私は、フランス映画祭でようやく観賞。

TIFF上映時にもかなり好評だし、その評判はどれも温かいものだったりもしたので、

どれだけ楽しく優しくなれる映画なんだろう~とワクワクして見始めたのだが・・・

私は全く楽しめなかったのです。何故だかを巧く説明できぬ困惑が苦しいほどに。

映画サービスデーが公開初日ということもあり、異様なほどの大入りを記録し、

更には絶賛コメントがあちこちで既に飛び交い始めている印象の本作に対し、

こんなネガティブなこと書いたら、あちこちから弾飛んで来そうで怖いけど

(そんなに読まれてないから全然大丈夫だろうけど)、なぜ敢えて要らん愚痴書くのか。

それは、熱狂絶賛旋風のなか、僕のような孤独を味わってる人がいるかもしれない!

という「君はひとりじゃない!」というメッセージ。

という体の「僕はひとりじゃない」ヴァーチャル確認。

 

あれから劇場で予告編を観たときにも、

微動だにしなかった私の心の枯れ具合は、もしかして深刻?

自分なりにそうした「敗因」を分析してみると・・・

 

フランスで大衆から絶大な支持を得たって時点で、

どう考えても(いくらフランスとは言え)芸術性よりも娯楽性(しかも大味な)が

かなり優先させられている作品だくらいは頭ではわかっていたはずなのに、

TIFFとはいえコンペでのグランプリ作品ということへの私的期待によって

自分のなかで「期待すべき勝手な作品像」という足枷を自分で造った気がします。

だから、むしろ純粋に享受すべきベタやラフがいちいち癪に障るという

典型的な感じの悪い(頭も悪い)シネフィル気どりに堕したのでしょう・・・

と、謙虚さを示しておいて(フリかい!?)、

それでもこういった作品をコンペに入れ(随分迷った挙げ句だそうだけど)、

更にはグランプリまで(男優賞も)授与しちゃう東京国際映画祭の先行きが不安。

監督だってその時には来日してなかったので(本国での公開時期が重なってたから)、

授賞式も随分と寂しいものだったし、ポピュラリティはずば抜けてただろうけれど、

そういったものを評価する場なのか?という大いなる疑問も・・・。

そんな結果は、今後TIFFコンペに集まってくる作品群にも影響あるだろうし、

今回のようにグランプリ作品の中規模公開が決まり、更に大ヒットとなると、

映画祭自体の再起に弾みがつきそうだから、ますますそうした志向が強まりそう。

いや、別にそういった方向への舵取りが即悪いとは思わないけど、

いまやTIFFといえば完全に「トロント国際映画祭」というのが世界共通認識化してしまい、

おまけに開催時期も東京の1ヶ月前。大注目娯楽作が見事に集結するビッグ・イベント。

更に9月にはベネチア国際映画祭では巨匠から注目気鋭までの芸術性が鎬を削る。

東京と同じ10月には、世界的注目急上昇で、強力なバックアップは東京の比にならない

釜山国際映画祭だってある。東京とは毛色がやや違っているが、明確な方針が頼もしい。

それに、今年のアジア映画新人発掘的コンペの審査委員長はタル・ベーラだよ!

 

審査委員といえば、昨年のTIFFコンペの審査員に映画監督は1人だけ(小林政弘)。

審査委員長はプロデューサーだし、他にもプロデューサーがもう1人入っている。

他には女優(ファン・ビンビン)と特殊メーキャップ・アーティストという・・・。

バランスもおかしければ、面子も・・・だから、結果も当然かもしれない。

おそらく小林監督が「最後の砦」的に『プレイ』を何とかねじ込んで抵抗したのだろうが、

審査員の人選からしても、折角粒が揃い始めてたTIFFコンペの迷走再び必至の印象。

確かに、昨年は震災(というより原発事故か)の影響も大きかったとは思うが、

とはいえ明らかに方針の欠如が諸々露呈しまくりのコンペ周りだった。

 

と、今更そんなことをグチグチ言うために取り上げられた『最強のふたり』もいい迷惑。

って、俺が便乗なのか炎上なのか勝手にしてるだけでした。

作品内容に関した違和感としてはやっぱり、《越境》の杜撰表現に尽きるかも。

その「結果」で感動させようとして、「過程」が等閑な印象を終始受け続けてしまったので。

明快で際立つキャラクターに二者を色分けするのは娯楽作として至極正しいと思う一方、

そのキャラクターの力にばかり寄りかかり過ぎて、普遍性がほとんど感じられなかった。

(「ふたり」の話なんだから、そういうところでツッコむのは野暮だろう・・・とは思うけど)

ただ、そうした私の思い込みもあながち見当違いではなかった気もする。

本作の基となった実在の二人のうち、オマール・シー演じる介護人の「本人」は、

アルジェリア系移民で黒人ではない。オマールが放つ面白味と、白黒の対照性。

そういった「わかりやすさ」やユニークさこそが欲しかった。と、監督自身も語ってた。

本当に人間と人間の矛盾/葛藤/克服といったドラマを描きたいのであれば、

「アルジェリア」という現実を回避せず、真摯さを携えながらも笑い飛ばして欲しかった。

奇しくもその前年に同じくフランスで『神々と男たち』が大ヒットしたという心底感心現象とは

正反対とも思える国民性(?)は、日本も含め万国共通の現象なのかもしれないな。

いや、そもそも日本では『最強のふたり』系はヒットしても、

『神々と男たち』系はヒットしないか・・・。

 

 

9月15日には、フランス映画祭で私が観賞した3本が封切られる。

 

スリープレス・ナイト(2011/フレデリック・ジャルダン)

今年最高の強度と持続で爆走した興奮の一作!傑作!というか、大好き!

公式サイトには脚本に参加しているニコラス・サーダの名前が一切見受けられない!

公開もヒューマントラストシネマ渋谷のレイトショー限定っぽい(チラシに記載)!

こんなに極上な逸品を、本気で届ける気があるのか!?>トランスフォーマー@配給

ニコラス・サーダはカイエ・デュ・シネマで執筆してた批評家でもあったのだけれど、

アメリカ映画とかに造詣が深いらしく、また監督はコリアン・ノワールを参考にしたらしく、

それらが納得のエキスを含みに含み、更には絶妙ケミストリーな唯一無二の愉しさ!!!

ハリウッド・リメイクが決まってるらしいが、そんなことはどうでも好い!

第二のリュック・ベッソン × 第二のヴァンサン・カッセルによる仏版『ダイハード』

などという誰得な、ド素人ド無能コピーも完全に無視してください!

ニヤニヤしながら手に汗握る、不思議な興奮をあなたに!!

(『最強のふたり』ビミョーとかいうズレた私の大推薦ですので、予め御了承のほど・・・)

 

 

そして友よ、静かに死ね(2011/オリヴィエ・マルシャル)

(あ、またオリヴィエだ!・・・すみません。

こちらは、『スリープレス・ナイト』大興奮の直後に観た為に、

だいぶ分が悪かったというのもあるかもしれませんが、個人的にはピンと来ず。

そもそも『あるいは裏切りという名の犬』もあまり好きではなかったので当然の帰結かな。

ということは、『あるいは~』が好きな人は必見なんだろうとは思います。

もう『スリープレス・ナイト』の興奮で(しつこい)本作はほっとんど記憶にないのですが、

日本語字幕が下端ギリギリに表示されるイライラ感は鮮明です(笑)

なんで最近(デジタル上映ではしばしば)こういうことやる(になる?)んだろう・・・。

私が観たのは日劇3(前席の頭部かぶり率激高劇場)だったこともあり、背筋疲弊。

ちなみに、次に紹介する『わたしたちの宣戦布告』も字幕表示位置は同様でした。

映画祭上映時から改善されていなければ、要注意!

(銀座テアトルシネマなら段差が結構あるので、『そして友よ~』は何とかなりそうだけど、

  あのル・シネマで下端ギリギリ字幕表示って、それこそ観客への宣戦布告か!?だし。

  ま、改善されていることを祈りましょう。)

 

 

わたしたちの宣戦布告(2011/ヴァレリー・ドンゼッリ)

一年前、日仏学院のカイエ・デュ・シネマ週間で観させて頂いた本作。

そのときには英語字幕だったにもかかわらず、なかなかの集客と好評で、

私も見事に魅せられました。サントラも即購入(けど、届くのに時間がかかった・・・)。

詳しくは、こちらに感想を書き留めております。

トリビア的な小ネタとしては、本作は全編キヤノンのEOSで撮影されているのですが、

一箇所だけフィルム撮りされてる場面があるのです!是非劇場で確認してみて下さい。

・・・とか言いながら、フィルム厨の私も気づかなかったのですが。

フィルム原理主義者失格!(ただ、後から言われれば「あぁ!」って思える印象は有。)

 

フィルム話が出たついでに。

私が昨秋に日仏で観たのは、フィルム上映でした。

デジタル撮影(しかも一般的なカメラで)の作品なので、

フィルム上映にさほど意味はなさそうですし、デジタル上映がベターな憶測。

ところが、機材のスペックの影響か、フィルム上映の方が格段に好かったのです。

つまり、やはりフィルム・マジック(コーティングとでも言いますか、

あの現実と隔ててくれるオブラート的な)が働いていたのかも。

フランス映画祭でのデジタル上映は画に厚みが些か不足。

とはいえ、シネスコ作品ですので是非劇場で!

 

ちなみに、日本版予告はあくまで「ル・シネマ(=マダム客層)」仕様になっております。

勿論、シリアス成分もセンチな要素も散りばめられてはおりますが、

キッチュさやファニーさこそが本作の魅力でもあります。

マダムに負けるな!(意味不明)

 


映画から遠く離れて

2012-08-30 23:59:08 | インポート

 

 

映画から遠く離れて。時間も空間も。

映画ではない物語の旅に、

身をゆだねる。

 

 

先週の後半から、岩手県のある町を4日間ほど訪れた。

三陸沖にあるその町に、親戚が住んでいる。

25年ほど前に一度だけ、そこを訪れたことがある。

当然、憶えている光景は限られた瞬間がいくつか。

だが、微かな記憶が眼前に現れる現物によって甦ることはない。

おぼろな記憶が鮮やかに転じてしまうほど、眼の前に広がるのは消滅。

 

 

しかし、その光景は予想を遙かに逸脱し、

名状を凌駕した強度で迫り来る激情などではなく、

渾沌たる静謐が無限なる不可視な時間を展開し、

消滅の隙間から生命力が溢れ出す。

 

つい最近草むしりをしたらしい一帯にも、

草花は生い茂り、瓦礫や土砂の山はいつしか長閑な丘に化す。

 

 

私の親戚は幸いにも被災を免れた。

数軒先の家までがすべて波に浚われながらも、自宅はほぼ無傷。

近い親類もほぼ無事という極めて「運が好い」立場にあった。

 

あれから約一年半が経ち、

あの日やあの日々のことを淡々と客観的に語れるほどにまでなっている。

ところが、激烈すぎる記憶の断片とは裏腹に、

喪ったままの記憶の欠片が時折脳裏を蝕んでいるようにも見えもした。

敢然と前へ進む時間と、止まったままの時間が混在しているのだろうか。

 

 

津波の爪痕に立つと、海は必ずこちらを見てる。

海を眺めていたはずなのに、気づけば海がこっちを見てる。

 

 

人間が見たい貌だけを見てきた海は、

文明という技術の未熟さをそっと囁きかけただけかもしれない。

 

 

単位も桁もまるで違う。まして想定するなど過ち。

 

 

それでも今さら引き返せずに、技術は復興し、技術が復興さす。

 

 

自分たちが産んだものを、自分たちで片付ける。

そんな営みは日々の営みで、間に自然のリセットが入っただけかもしれない。

 

 

仲人たる自然は、人間の生成と消滅の表裏を一時一箇所に、集結させ、集約させる。

生産ばかりに気をとられ、破壊の自覚を失った人間が、

消滅を凝視しながら創造する姿は想像できない。

でも、いまここに在るのは、その姿。

破壊と対峙しながらの、建設。

再見のための再建。

 

人影が消えた海辺の町。

破壊の後始末に従事する作業員以外、

日常に身をひたしている者が往来することなど極めて稀だ。

身体も家も無事だったとはいえ、海を見るのがいまだに怖いと言う人もいた。

そう言いながらも、ひとたび海に眼を遣れば、自然と浮かび出す恩讐。

海から離れた再起の場所に、静かに灯る遠慮深げな胎動の兆し。

そこから必ず眼に入る、受難と受容の相克風景。

癒える間もなく傷口から剥がされる絆創膏。

対峙するしかない傷痕に浮かぶ静寂。

自然と唯一の対話法、沈黙。

 

数ヶ月の後に自宅への電力供給は復旧するも、

町の電灯に明かりが戻ったのは、つい数ヶ月前。

家々が消えた一帯の夜は暗い。深い闇が蔽う夜道。

 

 

町の灯りは厳かに、月の光に啓蒙される。

 

 

空かない腹も、見果てる夢も、明けない夜もない。

再出発。

 

 

駅に入ってくる列車はない。

映すカメラはここにある。それを動かす人もいる。

もう一度、物語を始める準備はある。

物は消えても、心に残ったレールを走る。

今度は暴走しない線路を敷きたい。

 

 

夜の月と同様に、昼の太陽の存在感。

自然は脅威でありながら、それでも微笑み続けるという驚異。

それは人間もまったく同じで、それは人間がまったく自然だという証。

 

 

自然が人間と関係なく在り続けても、人間は自然と関係なく在り続けることなどない。

 

栄華から遠く離れて。

そこを支配しているはずの哀しみは、いま歓びの産声に変わる。

 

 

※時の経過と事態の収拾によって、奇妙な秩序と不穏な安穏がそこには在り、

   背後にある人間の現実への思慕や顧慮に欠けた感慨かもしれない。

   実際は、現実的な復興への道のりは極めて遠く険しいという実感で、

   それはメディアの媒介では伝わりにくく、また伝わらないという諦めからか、

   達成や希望にばかり目を向けようとする。現地の人々の前向きとは訳が違う。

   彼らにとっての「がんばろう」や「ありがとう」や「絆」という言葉(実際よく目に入る)は、

   不運や艱難辛苦をすべて飲み込みながら、精一杯歯を食いしばっての前向きで、

   その響きや訴えには、正負も表裏も陰陽もすべて引き受ける覚悟が刻印されていた。

   綺麗事な前向きと疎んじては、その空気を批判するだけで過ごしてきた自分こそが、

   逞しき前向きに背を向けて、無責任な前向きの先頭を歩いていたことを思い知る。

   今頃足を踏み入れることに、今更な感を覚えもしたが、

   おそらく実際は「今更」などという言葉が相応しくなる迄に

   厖大な月日を要するだろう。そのことすらも行かずには知ることができなかった。

   百聞は一見に如かず。

   いまは、「聞」ばかりがメディアじゃなくて、「見」のメディアが溢れてる。

   でも、実際に「見る」ということは、その場に「立つ」ことでもある。

   それはほんの束の間のことかもしれないし、

   時には傲慢既知の奴隷と化すかもしれない。

   それでも、「見る」ということの本当の意味を知るためにも、

   「見る」ということの意義を(再)発見する稀少で貴重な体験であることは間違いない。

   そのうえで、何も見ていなかったという事実が、何も知らないということを気づかせる。

   その呆然の向こうに、知ることの悦びを渇望する新しい自分が現れることを期待する。

   まだ戸惑いと躊躇いのなかにいるけれど。

 


アンハッピー・リリースな映画たち

2012-08-18 19:27:27 | インポート

 

横文字(ってか、片仮名か)にして幾許か愚痴っぽさを軽減(したつもり)。

洋画の配給本数が減少する一方で、洋画が日本へ紹介される術も多様化してる。

フィルムで劇場公開後、ソフトリリース&レンタル、各種チャンネルでの放映・・・

といった従来の流れ(順序)も変容し、いまでは多様な形態や流れが可能となった。

しかし、その一方で「本物」に近い状態で作品に触れる機会が稀少化してるのも事実。

 

1.劇場公開されずにソフト化

残念パターンにもいくつかあるが、

まずその典型(従来からもあるパターン)が、DVDスルー。

ただ、最近ではその「スルーされるスピード」も相当迅速で、

本国公開から1年も経たず(下手すると半年すら経たず)スルーされることも珍しくない。

ソフトは販売にしろレンタルにしろ低調(というか下落?)を続けていると思われる一方、

多チャンネル化によって最近目立ってきているのが、

BSやCSのチャンネルで放送される劇場未公開作。

 

WOWOWプレミアでは興味深いラインナップが展開されているし、

BSスカパー「スカパー!シネマアワー THE PRIZE」でも未公開作が放送されたり。

なかでも最近随一のオススメはWOWOW今夜初放送のなんだかおかしな物語

iTunesで観られるようになってはいたが、ソフト未発売の快作秀作佳作な逸品。

原題は、『It's Kind of A Funny Story』。(私が昨年書いた感想はこちら

『4.3.2.1』にも出演していたエマ・ロバーツの魅力もたっぷり堪能できます。

そういえばこの2作、冒頭シーンがちょっとダブります。橋の上から川に・・・っていう。

これを機に、ライアン・フレック&アンナ・ボーデンによる絶品日本未公開作群が

日本に紹介されることを祈ります。(ライアン・ゴズリング主演作もあるんだし。)

 

 

2.作品を汚す冒涜のボカシ

私が映画を観始めた学生時代、映倫の規準なのか時代の趨勢なのか、

映画における性器の露出に対する規制は随分と緩和していってた印象だった。

それが昨今では退行が加速し、おぞましい作品汚しをしばしば見かける。

ボカシ(時にモザイク)をかければ公序良俗が守れるという単細胞な発想が、

余りにも卑猥なボカシを出現させている愚劣極まりない卑劣な所業の数々。

数年前に観た『バーダー・マインホフ/理想の果てに』の冒頭では、

ビーチを裸で駆ける幼児たちの股間にボカシを入れていた。

誰が入れてるか知らんが、とんでもなく「卑猥な施し」をしてることに何故気づかないのか。

 

今日から公開されている『籠の中の乙女』(2010/ヨルゴス・ランティモス)にも

同様の受難が起こってしまったらしい。(おまけに、BD上映だから[後述]でもある・・・)

最初に観たときから予想してはいたことだが(それゆえに日本公開は難しいだろうとも)、

R18指定にまでしておきながら、滑稽なボカシで作品のもつ空気を台無しにする。

映画だろうが何だろうが性器が見えたら即ポルノ(扱い)。ってことだよね。

「意味がある」から「意義のある」露出を記しているというのに、

それを何の思想や権利があって塗りつぶすというのか・・・。

真っ黒に塗りつぶされた戦時中の映画の脚本や、

最初と最後の挨拶くらいしか読めぬほど塗りつぶされた思想犯の手紙、

それらと同様の扱いを受けているように思えてしまう。

映画は産業でもあるので、闘うよりも妥協で模索するしかないのかもしれないが、

ボカシで解決しようとする思想が再び蔓延し始めたことで、

日本における映画の娯楽的位置づけは増進され、芸術化は妨げられる。

どちらも大切な側面であり方向性だが、自由に舵をとれない現況は文化後進国。

 

『籠の中の乙女』は実に興味深く、見事な作品なので、

多くの人に「目撃」してもらいたくはあるのだが・・・

(私が昨年書いた感想はこちら

 

 

3.低クオリティ画質で劇場公開

いまやデジタル上映でもフィルム上映に比肩するクオリティの画を映し出す時代。

しかし、そのためには「まともなデジタル素材」を用意せねばならず、

現在スタンダード化しつつあるデジタル上映フォーマットのDCPを制作するには

およそ100万円程度がかかるらしい。その費用を節約するためか、

ブルーレイやDVDによる上映で公開に踏み切るケースも少なくない。

 

今月、銀座テアトルシネマにて2週限定ずつでレイトショー公開されてる作品も、

ブルーレイ上映によるものだ。

公開が決まったことに喜び、入手したソフトにも手をつけず公開を楽しみにしていると、

残念画質のケチくさい上映だったりするということが少なくない。

DVDなど問題外だが、ブルーレイでも映画館のスクリーンに映すには不十分。

というか、何故自宅で観るよりも劣化した画質で観なければならないのか自問のお時間。

しかも、映画館のスクリーンで観る「あの画調」は家でソフトを観るよりも虚しさが増幅。

 

前述のレイト枠で絶賛公開中の『ヘッドハンター』(2011/モーテン・ティルダム)

こちらはフィルム撮影のシネマスコープ作品。それをブルーレイで上映か・・・。

ハリウッドリメイク(マーク・ウォールバーグ主演?)も決まってる秀作だというのに。

 

監督のモーテン・ティルダムと主演のアクセル・へニーは、

監督の前々作にあたる『Buddy』でも仕事をしている。

いくつもの映画祭で観客賞系を獲っていて、本作同様娯楽色豊かな作品のよう。

(「額は既に」だが、アクセル・へニーが若々しい。)

 

敵役のニコライ・コスター=ワルドーは、

『トロン:レガシー』のジョセフ・コシンスキー監督によるSF大作『Oblivion』にも出演予定。

共演はトム・クルーズ、モーガン・フリーマン、アンドレア・ライズブロー、メリッサ・レオ等。

(当初主演を務めるはずだったジェシカ・チャステインは降板・・・)

ジョセフのオリジナル・ストーリーをウィリアム・モナハン(『ディパーデット』)が脚色。

それを更にカール・ガイジュセック(『ブレイクアウト』)がリライトしたらしいが、

IMDb情報ではマイケル・アーント(『リトル・ミス・サンシャイン』『トイ・ストーリー3』)も

脚本に参加しているみたいなので、それが何を意味するのかは興味津々!?

音楽には、ダフトパンクが『トロン:レガシー』から引き続き参加するようだ。

情報的には怪しさ満点なオーラがムンムンだが・・・

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』で気を吐きながら、

ロック・オブ・エイジズ』では壮絶にコケてしまったトムの今後は如何に!?

(『Oblivion』の前には『Jack Reacher』の公開が控えているようだが、

  ロバート・デュヴァルやリチャード・ジェンキンス、ヴェルナー・ヘルツォーク(!)

  といった渋い共演陣には期待だが、『誘拐犯』以来の超久々にして監督2作目となる

  クリストファー・マッカリー(いまだに『ユージュアル・サスペクツ』脚本家という肩書)が

  仕事ぶりを見せてくれるかが半信半疑・・・)

 

原作は、ノルウェーのベストセラー作家ジョー・ネズモによる同名小説。

この原作者、随分とマルチな才能をお持ちのようで、豪快プロフィール

 

エンディングテーマを担当しているのは、

A-haのポール・ワークター=サヴォイと

Oursジミー・ネッコによるユニット、Weathervane。

(今回のコラボや楽曲についてのインタビューはこちら。)

 

と、久々に余計な情報てんこ盛りで本編そっちのけ。

個人的な感想としては、巷の絶賛ぶりに比べれば「そこまでノレなかった」かも。

100分程度を一気に見せる監督の手腕は確かだろうし、役者陣も好い。

ただ、「ハリウッドがリメイクしたくなる」ってところのみが醍醐味っぽくなっていて、

冒頭と最後で語られる主人公のコンプレックス(及びそこから派生する内面的葛藤)が

本編全体にとっては随分と希薄な気がする。

原作は小説で、そちらではおそらく内面的な描写も充実していそうなので、

映画化においてそうした部分は割愛してスピーディな運びを実現したのかな、と推測。

でも、そうなるとやっぱり話の中心はドキドキハラハラな展開重視に偏って、

折角冒頭で「おっ!」と思った奇抜なアプローチが全く活きず。

確かに、敵役の男や妻との「明白な身長差」は、画だけで大いに語ってるとはいえ、

それだけに頼りすぎな気もするし、低身長が判官贔屓の一誘因として処理されてる気も。

ノルウェーのランドスケープが醸し出す空気は十分味わえるし、

言葉より表情や間で魅せようとするのはアンチ・ハリウッドっぽいけど、

やっぱりハリウッド的な勢い偏重型の傾向を感じなくもない。

というか、ヨーロッパ映画でもこの手の作品が(逆輸入的目的もあって?)

量産されてる気がするけれど、楽しければ楽しいほど寂しさもこみ上げる変な気分。

そんな中、来月公開の『スリープレス・ナイト』は真剣にオススメなので

(おそらくブルーレイじゃなく、まともなデジタル上映。フランス映画祭でそうだったから)、

公開が近づいたら感想を記事にしておきたいな。

 

どんな形でも日本に紹介されるのが好ましい、と考えるか

酷い形で日本に紹介されるのは好ましくない、と考えるか

なかなか難しい問題ですね。

TO BE or NOT TO BE... ちょっと(だいぶ?)違うか。

ま、少なくとも、TO BE CONTINUEDだな。

 


メリダの勇気と、おおかみこどものお母さん。

2012-08-16 23:49:12 | インポート

 

公開直後の平日夕方からハシゴした。メリダ、おおかみこども。の順で。

結論から言えば、どちらも余り好みではなかった。

かといって(いや、だからか)、激しくどうこう云いたい欲求に駆られることもなく。

ところが、1ヶ月が経とうとしている今、この2作の明暗は激しい分かれ様。

評価にしたって、叩かれるのをよく目にする『メリダ』と、

絶賛の嵐に上昇気流な『おおかみこども』。本当、対照的。

どちらも母と子の物語だったりするのだが、そこに描かれる関係性は異なる。

『おおかみこども』では獣を愛した女が獣の血を引く子供を産むが、

『メリダ』では母親自身が獣になる。獣性の描き方も決着も大いに異なる。

どちらも子供の自立を最終的に描きながら、その道程はやはり違う。

 

別にどちらが好きでも嫌いでもない。

というのは、観てから時間が経ったからかもしれない。

いや、正直に言うと、『メリダ』はそれほど楽しめなかったけど嫌いになれない。

『おおかみこども』はそれなりに楽しんだ気もするが全く好きになれない。

おそらく世評の激しい「風」がなければ、後者は思いっきり貶してるかもしれない(笑)

あれ、なんだかさりげなく嘘つきながら書き始めてたな、俺。

 

『メリダとおそろしの森』は、

その制作過程(特に監督交代劇)からして、

「いびつ」になる運命は免れなかったろうし、

『おおかみこどもの雨と雪』は、

自分でスタジオ起ち上げた細田守の心意気が、

敢然たる熱情をもって結実しているだろう。

ことは、観る前からわかっていたし、観た後も大いに感じた。

 

『メリダ』は、予想外に活劇要素でおしてくる前半を過ぎると、

急に切羽詰まった語りを始める。

今まで忘れていたテーマを取り戻そうとでもするように。

『おおかみこども』は、予想外にスペクタクルは訪れず、

淡々と全編に語りたいことを塗しまくって去ってゆく。

『メリダ』の断絶感は戸惑いを生じさせるものの、

圧倒的な躍動感は束の間の忘却を可能にする。(観てる間だけだけど)

『おおかみこども』の説教は、ソフトであるが故に終始こちらを構えさせ、

結局素直に講釈聞けぬまま散会迎えた集会のよう。

 

細田守はインタビューで、

「母(性)を描いた映画があまりにも(少)ないように思う」と語り、

だからこそ「お母さん」を中心に据えて物語をつくりたかったと云っていた。

これを読んで、自分が彼の映画と相性がよくない理由がわかった気がした。

(激しい違和を感じるようになったのは前作からですが)

ヨーロッパの映画における「母親」という存在は、

それはもう頻繁に主題の中心に据えられて、

あらゆる角度から、あらゆる方法で、重ねて語られてきている。

というより、アメリカ映画が余りにも「父親」寄りなのだ。

アメリカ映画では断然に「父と子(特に息子)」が物語の中核にある。

民族的なつながりを基盤にし、歴史的系譜に誇りをもつヨーロッパの社会が「母」を、

浅い歴史と多民族によって精神性で団結を図ろうとするアメリカの社会が「父」を、

その拠り所のモチーフとして描こうとするのは自然な流れのように思う。

飛躍し過ぎな思考かもしれないが、

細田監督は自然とアメリカ映画にコミットしてきたタイプなのかと。

そんな思いが頭を過ぎり、そういったバックグラウンドから見た場合の

『おおかみこども』で描こうとした母親中心世界が新鮮に見えなくもない。

ただ、母親を描くということは同時に女性を描くことでもであるわけで、

父親との差異、男性との差異にこそ必然的な「個性」が現れたりもする。

しかし、『おおかみこども』では父親が早々に退場するし、

そもそもそちら側を描く気が更更ないゆえ、

母親が男性的役割を取り込もうなどとは一切しない。

そもそも、《社会》から遠ざかることによって解決しようとしているようにも思える。

(いや、ムラ社会の厳しさもあるだろうけれど、

  『おおかみこども』では《社会》を描こうという動機は希薄に思える。

  そういう描き方もあるのかもしれないし、それは成功しているらしい。

  ただ、個人の内面に寄り添いながら語られる物語に物足りなさを感じるのは、

  そもそも「個人」という存在が認識されるのは「社会」の中であって、

  二者の対峙や対照性がマイルド過ぎれば、それはやはり前近代的展望に思えてしまう。

  脱近代的な超克があるでもないし、都合よく「かつての自然観照」的感傷で閉じる。

  そんな風に私の目には映ってしまった。)

 

細田監督は、

映画なのだから多少絵空事に映っても「理想」を描きたいと云う。

そうした気概には大いに賛同したいのだが、

フィクションにおける「理想」が魅力をもって活力を与え得るのは、

その背後に紛れもない「現実」を垣間見、その醜悪さから清廉たる孤高が起ち上るから。

『おおかみこども』にもしっかりした現実が描かれているらしいのだが、

私には冒頭十数分程度の在京時代にしか現実を見ることはできなかった。

それは、私が田舎で生活したことがないからかもしれない。

しかし、田舎生活のリアリティとは、

田舎での生活を経験した者だけが共有できるものとは限らない。

そこは、些末な部分を捨象した上で残るであろう普遍的な現実を見せて欲しい。

 

『おおかみこども』の冒頭、主人公は大学に通い、そこで愛する人と出会う。

その「背景」は、実在する大学や街並が見事に「再現」されている。

実際に私が通っていた場所であっただけに、

それらの風景を目の当たりにする度、驚嘆の連続だった。

その現実感は、実写で映し出される以上のものがあった。

アニメとはそうした抽象化による強烈な普遍性の提示が可能になるものだと思う。

ところが、東京を離れてから以降、それ以上に「真に迫る」描写を

目の当たりに出来た気がしない。それは私の個人的な背景から来るものかもしれない。

しかし、田舎に移り住んでからは自然という背景以上に「人間関係」が重要な背景になるが、

主人公が築く「自分たちだけの領域(理想郷)」を際立たせるほどの「現実」感はない。

学校にしても、都合の好い「もう一つの場所」程度の機能しかないのが残念だ。

(染谷将太は好い役者だと思うが、あの声と喋り方は「あの先生」には不釣り合い。

  画と合ってない。染谷君も細田監督も好い人そうなので、そういうコラボは詰めが甘い。)

 

観た直後には、異質な者への排除の描き足りなさがとにかく気になった。

というか気に障った(笑)のだが、あれから肯定意見や監督の話を聞くにつれ、

そういったところに本題はないことが見えてきて、そういう難癖は不戦敗のようだから割愛。

とはいえ、やっぱりこの監督は「善意に期待」し過ぎな気もするし、

それは一方で「悪意を敵視」し過ぎだからな気もして、それらが表裏一体であり、

現実社会でも渾然一体であるからこそ痛みも喜びも生まれると思っている私としては、

おそらく世界を眺めるために立とうとする場所が異なっているのだろうと痛感した。

だからこそ、そういったところから世界を見渡せる人間にもなってみたい・・・

というのも、半分は素直に思っている気もする。羨望よりも嫉妬に近い気がするが。

 

さて、『メリダ』の話はどこへやら。

前述の通り、作品全体としては「いびつ」な印象から評価し難い気もしたのだが、

細かなところで新しさや愛しさを感じるところもいくつかあった。

例えば、最後の最後でメリダが語る言葉からは、ポスト・キリスト教(?)的発想も。

つまり、運命が「決められいる(既に書き込まれている)」ものではなく、

自らが「選んだり決めたりする(書き換える)」ものだという結論。

そして、それを導くのは「神」ではなく「自己(の心=brave)」だという。

まぁ、日本語で書けば「心(精神)」にも神は住んでいるが(笑)

おそらく、その心を清めるためには信仰が必要って前提はあるのだろうけれど。

それでもそうした「勇気」が厭らしく思えなかった理由に、

メリダだけの改心ではなかった点が挙げられる。つまり、母親の改心もあった。

世代間の交流における、相互の歩みよりと相互の理解。互いへのリスペクト。

それを遂げる瞬間が「言葉」に因らなかった(手話)というのにも感心してしまった。

理性(ロゴス=言葉)に固執する男性とは異なった、

感情を許されるが故の寛大さをもつ女性の可能性。

このワンシーンだけで、私は『メリダ』を観てきたなかで感じた不服が氷解してしまった。

 

つまらない気づきだが、父親から娘に贈られるのが弓矢という妙にも思いを馳せた。

現代なら、そして息子ならいわゆる「グローブ」だろう。父親とのキャッチボール。

しかし、弓矢でキャッチボールはできない。いや、キャッチボールとは結局、

「俺のボールを受け止めろ」という父親のエゴの表出に過ぎぬのかもしれない。

そう考えれば、弓矢という「自ら放たれ、継承を期待しない」運動は現代的!?

しかし、そこには他者を殺傷する可能性を常に孕んでいる。のも現代的だな。

 

結局、どちらの作品も「自分の映画」として楽しめることは叶わなかったものの、

お母さんを描きたいと云いながらタイトルに子供の名だけを冠した現代性よりも、

邦題に削られようがダメ押しのように明言してまで主張を届けようとする『Brave』が、

私のハートは射止めたな。(ホントか!?)

 


月光の囁き(1999/塩田明彦)

2012-07-17 23:59:18 | インポート

 

基本的には新作(的なもの)の感想や紹介を中心にしている当ブログ。

でも、あまりにも嬉しすぎる再会の興奮を伝えたく(誰に?)、

ちょっとばかし認(したた)めたい。

 

現在、神保町シアターでは珍しくレイトショー(連日20時30分~)を敢行中。

小学館 ピッカピカの映画大全集」と題された小特集が組まれている。

その一本として『月光の囁き』がエントリー!

スクリーンにかかる機会は極めて稀少な作品な気がするし、

何より公開当時は漠然と気に入ったまま、バッチリ見極めるに至っておらず、

いつか再見しては「舐める」ように(笑)味わい尽くしたいと予てから蠢く願望、欲望。

 

そして、本当に本当に本当に素晴らしかった!

今年観た日本映画でダントツ!(って、今年の日本映画じゃないけどね)

いや、日本映画とかいうカテゴリーを超越して、どこまでも威光!!

途轍もなく特異で異形なる愛の物語でありながら、その普遍性たるや偉業!!

これほどまでに閉塞した世界に焦点を当てながら、とんでもない解放感に向かってゆく。

 

まず、本作をこれほど熱く推薦したい想いに駆られたのは、

やはり「映画館で観るべき!」という必然性をびんびんに感じまくったから。

映像的には、とにかく自然光のスペクタクルに酔いしれる。

「フィルム」の味わいを十二分に堪能できる光の饗宴に大興奮。

そして、色彩の妙も特筆すべき。青のトーンで始まり、一瞬赤の時間が訪れ、

奇異なる黄の小部屋を過ぎれば、そこに待ち受ける緑の抱擁。

そして、ラストの・・・

 

音も素晴らしい。

とにかく主演二人の声が瑞々しくも小粋な妖艶さ。

いや、演技も確かに好すぎるが、とにかく一言一言が美しく響く。

声質の妙もだが、話すリズムや間合いが見事な完璧さで構築されている。

だからこそ、THX認定劇場たる神保町シアターで観られるなんてこの上ない幸せ!

 

あと、温泉旅館に行くところなんかは見事に日本映画クラシックなルックにニヤリ。

(その辺、あまり詳しくないから巧い指摘や説明できないけれども、)

神保町シアターで最近も組まれた清水宏の映画に出てくるような旅館の光景にハッとしたり。

勿論、「彼ら」の日常の風景においても、

小京都的な光景や田園風景などのささやかな美が漂っている。

 

そして、そして、ラストに流れてくるスピッツの「運命の人」。

バスの揺れ方で人生の意味がわかった日曜日・・・そう、あれです。

もうこのイントロが聞こえて来た瞬間(その恐るべき運命的タイミング!)、

全身総毛立つようなゾワゾワ系の感動に号泣必至。

「運命の人」自体が実はメロディー・歌詞・サウンドが妙なブレンドで絶妙なのですが、

その感覚が本作とギュッと抱き締め合って、とんでもない至極のハッピーブレンド。

 

まだまだ色々語りたくはあるものの、まぁ俺なんかが今更語らずとも、

しっかりとレジェンドになってる作品だと思うし、とにかくまずはこの機会に是非!

(というのも、予想外にかなり空いていたので・・・)

残すは19日(木)20時30分からの1回のみ!

 

◇塩田監督は、ゼロ年代の日本映画を牽引する作家の筆頭になるかと思いきや、

   『黄泉がえり』以降、典型的な大作監督業による才能の空費スパイラルに・・・

   しかし、最近ではようやく「蘇り」の兆しが!?

   テレビ東京系のD-TOWNシリーズ(第一弾は青山真治)で現在放送中(金曜深夜)の

   『スパイ特区』で監督を務め、アテネフランセ文化センターでの講演も控えていたり。

   塩田監督が再び傑作を撮ってくれる日を信じてる!