いよいよ今年も三分の一を残すのみとなり(って感慨文句、変?)
映画への好奇心で身を滅ぼしている人間にとって秋という季節は、
まさに心身共に映画祭に支配されてしまう暗黒シーズン。
(映画館滞在時間が異様に増すので名実共に・・・)
さて、そんな「映画祭の秋」本格化前夜的セプテンバーに、
多様なフランス映画がこぞって公開されるという嬉しくも苦しい今月。
6月に開催されたフランス映画祭から2・3ヶ月後ということもあり、
そこで上映された作品もかなりの数が劇場公開となる今月。
私も何本か既に観ているものがあるので、独断と偏見にまみれた紹介を。
カルロス(2010/オリヴィエ・アサイヤス)
いま最も本気で好きで本気で信頼できる監督の一人である、アサイヤス。
彼が実在のテロリストの半生を三部構成・合計5時間半の「大作」で撮ってしまった。
しかし、そうした作品の成り立ちとは裏腹に、三部構成も上映時間も既存の枠としては
機能しない。三部はいずれも分断ではないし、上映時間は決して長さではない。
実はこの三部作、昨年1月にWOWOWで放送された。
それを録画し、私は休日に一気に観た(各部終了毎に軽く休憩は入れたが)。
また、映画版(?)として編集された3時間程度のものを
昨年のラテンビート映画祭で観賞。
結論から言えば、断然、圧倒的に三部構成の五時間半版こそが本物。
ちなみに、「第一部と第二部を続けて観て、休憩後に第三部を観る」というのが
アサイヤス流のベストな観賞法だと何処かで読んだ気がする。
それにも至極賛同(というのはおこがましいが・・・かなり納得)。
逆に言えば、この三部を別の日に分けて(まして日を空けて)観るのは、
(私としては)あまりお薦めしません。可能であれば一日に一気に!
それが難しければ、せめて第一部と第二部を同日に、
後日(なるべく早く)第三部を・・・というのは、あくまで個人的な意見なので、
各人のスタイルで観ればそれで好いとは思います。
が!(しつこい・・・)個人的な感想をもとに述懐すれば、
私は第二部が極めて好きだったのですが、それも第一部からの流れがあり、
更に「時間の蓄積」によってもたらされる何かが確実に作用していたからでもあり、
あの素晴らしい第二部が単独で「存在」するような接し方だったとしたら、
同じようなインパクトを享受できていたかが甚だ不安だったりもするわけです。
というわけで、騙されても好い人(苦情セルフ処理可能な方)、時間に融通がきく人は、
上記のパターンを参考にして頂けると・・・(って、結局強力に推してるし)。
『カルロス』はテレビシリーズとして撮られてはいるものの、
紛れもなく「映画」の威力が放たれ続ける緊迫と興奮の厳粛なる坩堝。
『ミステリーズ 運命のリスボン』(邦題が・・・)にしろ『贖罪』にしろ、
新たな「枠」を映画的に消化し昇華する傑作群は、
新たな潮流を確実に産み出す気がします。
画面サイズはシネスコなので
(これ又テレビ放送前提なのにチャレンジングだし、
それを許容する寛容さというか自由さにも惚れ惚れ)、
本当は正直イメフォの縮みシネスコやバウスの小箱では物足りないけれど・・・
『カルロス』のシネスコは必ずしもダイナミズムだけを期待してのそれというよりは、
無限の広がりをみせる閉塞感を演出してもいる気がするので、
あの狭苦しく息苦しいイメフォの地下や視聴覚室みたいな隠れ家バウスでの観賞も
実は結構味が出るかもしれない。(と、素直に思ってます。)
ただ、その二劇場での観賞となるとハード的絶好なのは、
15日からのバウス1での爆音上映なのだろうと思うのですが、
それだと前述の観賞スタイルが不可能(一週毎に一部ずつなので)。
ま、バウス1は非常口の灯が(4列目くらい以降は)ちょっと眩しいし、
結局、どういう見方にしても完璧は見込めなさそうなので、
むしろ自分なりの選択が「完璧」になりうると前向きに考えましょう!
(って、自分に言ってます・・・)
ちなみに、
当時の世界情勢などは多少頭に入れておいた方が好い。
断然好い。
ウィキペディアでさらっと確認するも好し、
事前に(もしくは早めに劇場に行って)必要情報凝縮のパンフを読んでおくも好し、
ラースロー・リスカイ『カルロス/沈黙のテロリスト』(徳間書店)で予習するも好し、
ネタバレとか気にせずに(そもそもこの手の事情は掘れば掘るほどミステリーだし)
予習すればするほど燃える映画だと思われます。
最強のふたり(2011/エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ)
おぉ!オリヴィエ監督作が同日公開だ!と、どうでも好い気づきはさておき。
こちらは昨年の東京国際映画祭のコンペに選出され、見事グランプリ獲得。
その際に見逃して悔しい(?)思いをした私は、フランス映画祭でようやく観賞。
TIFF上映時にもかなり好評だし、その評判はどれも温かいものだったりもしたので、
どれだけ楽しく優しくなれる映画なんだろう~とワクワクして見始めたのだが・・・
私は全く楽しめなかったのです。何故だかを巧く説明できぬ困惑が苦しいほどに。
映画サービスデーが公開初日ということもあり、異様なほどの大入りを記録し、
更には絶賛コメントがあちこちで既に飛び交い始めている印象の本作に対し、
こんなネガティブなこと書いたら、あちこちから弾飛んで来そうで怖いけど
(そんなに読まれてないから全然大丈夫だろうけど)、なぜ敢えて要らん愚痴書くのか。
それは、熱狂絶賛旋風のなか、僕のような孤独を味わってる人がいるかもしれない!
という「君はひとりじゃない!」というメッセージ。
という体の「僕はひとりじゃない」ヴァーチャル確認。
あれから劇場で予告編を観たときにも、
微動だにしなかった私の心の枯れ具合は、もしかして深刻?
自分なりにそうした「敗因」を分析してみると・・・
フランスで大衆から絶大な支持を得たって時点で、
どう考えても(いくらフランスとは言え)芸術性よりも娯楽性(しかも大味な)が
かなり優先させられている作品だくらいは頭ではわかっていたはずなのに、
TIFFとはいえコンペでのグランプリ作品ということへの私的期待によって
自分のなかで「期待すべき勝手な作品像」という足枷を自分で造った気がします。
だから、むしろ純粋に享受すべきベタやラフがいちいち癪に障るという
典型的な感じの悪い(頭も悪い)シネフィル気どりに堕したのでしょう・・・
と、謙虚さを示しておいて(フリかい!?)、
それでもこういった作品をコンペに入れ(随分迷った挙げ句だそうだけど)、
更にはグランプリまで(男優賞も)授与しちゃう東京国際映画祭の先行きが不安。
監督だってその時には来日してなかったので(本国での公開時期が重なってたから)、
授賞式も随分と寂しいものだったし、ポピュラリティはずば抜けてただろうけれど、
そういったものを評価する場なのか?という大いなる疑問も・・・。
そんな結果は、今後TIFFコンペに集まってくる作品群にも影響あるだろうし、
今回のようにグランプリ作品の中規模公開が決まり、更に大ヒットとなると、
映画祭自体の再起に弾みがつきそうだから、ますますそうした志向が強まりそう。
いや、別にそういった方向への舵取りが即悪いとは思わないけど、
いまやTIFFといえば完全に「トロント国際映画祭」というのが世界共通認識化してしまい、
おまけに開催時期も東京の1ヶ月前。大注目娯楽作が見事に集結するビッグ・イベント。
更に9月にはベネチア国際映画祭では巨匠から注目気鋭までの芸術性が鎬を削る。
東京と同じ10月には、世界的注目急上昇で、強力なバックアップは東京の比にならない
釜山国際映画祭だってある。東京とは毛色がやや違っているが、明確な方針が頼もしい。
それに、今年のアジア映画新人発掘的コンペの審査委員長はタル・ベーラだよ!
審査委員といえば、昨年のTIFFコンペの審査員に映画監督は1人だけ(小林政弘)。
審査委員長はプロデューサーだし、他にもプロデューサーがもう1人入っている。
他には女優(ファン・ビンビン)と特殊メーキャップ・アーティストという・・・。
バランスもおかしければ、面子も・・・だから、結果も当然かもしれない。
おそらく小林監督が「最後の砦」的に『プレイ』を何とかねじ込んで抵抗したのだろうが、
審査員の人選からしても、折角粒が揃い始めてたTIFFコンペの迷走再び必至の印象。
確かに、昨年は震災(というより原発事故か)の影響も大きかったとは思うが、
とはいえ明らかに方針の欠如が諸々露呈しまくりのコンペ周りだった。
と、今更そんなことをグチグチ言うために取り上げられた『最強のふたり』もいい迷惑。
って、俺が便乗なのか炎上なのか勝手にしてるだけでした。
作品内容に関した違和感としてはやっぱり、《越境》の杜撰表現に尽きるかも。
その「結果」で感動させようとして、「過程」が等閑な印象を終始受け続けてしまったので。
明快で際立つキャラクターに二者を色分けするのは娯楽作として至極正しいと思う一方、
そのキャラクターの力にばかり寄りかかり過ぎて、普遍性がほとんど感じられなかった。
(「ふたり」の話なんだから、そういうところでツッコむのは野暮だろう・・・とは思うけど)
ただ、そうした私の思い込みもあながち見当違いではなかった気もする。
本作の基となった実在の二人のうち、オマール・シー演じる介護人の「本人」は、
アルジェリア系移民で黒人ではない。オマールが放つ面白味と、白黒の対照性。
そういった「わかりやすさ」やユニークさこそが欲しかった。と、監督自身も語ってた。
本当に人間と人間の矛盾/葛藤/克服といったドラマを描きたいのであれば、
「アルジェリア」という現実を回避せず、真摯さを携えながらも笑い飛ばして欲しかった。
奇しくもその前年に同じくフランスで『神々と男たち』が大ヒットしたという心底感心現象とは
正反対とも思える国民性(?)は、日本も含め万国共通の現象なのかもしれないな。
いや、そもそも日本では『最強のふたり』系はヒットしても、
『神々と男たち』系はヒットしないか・・・。
9月15日には、フランス映画祭で私が観賞した3本が封切られる。
スリープレス・ナイト(2011/フレデリック・ジャルダン)
今年最高の強度と持続で爆走した興奮の一作!傑作!というか、大好き!
公式サイトには脚本に参加しているニコラス・サーダの名前が一切見受けられない!
公開もヒューマントラストシネマ渋谷のレイトショー限定っぽい(チラシに記載)!
こんなに極上な逸品を、本気で届ける気があるのか!?>トランスフォーマー@配給
ニコラス・サーダはカイエ・デュ・シネマで執筆してた批評家でもあったのだけれど、
アメリカ映画とかに造詣が深いらしく、また監督はコリアン・ノワールを参考にしたらしく、
それらが納得のエキスを含みに含み、更には絶妙ケミストリーな唯一無二の愉しさ!!!
ハリウッド・リメイクが決まってるらしいが、そんなことはどうでも好い!
第二のリュック・ベッソン × 第二のヴァンサン・カッセルによる仏版『ダイハード』
などという誰得な、ド素人ド無能コピーも完全に無視してください!
ニヤニヤしながら手に汗握る、不思議な興奮をあなたに!!
(『最強のふたり』ビミョーとかいうズレた私の大推薦ですので、予め御了承のほど・・・)
そして友よ、静かに死ね(2011/オリヴィエ・マルシャル)
(あ、またオリヴィエだ!・・・すみません。)
こちらは、『スリープレス・ナイト』大興奮の直後に観た為に、
だいぶ分が悪かったというのもあるかもしれませんが、個人的にはピンと来ず。
そもそも『あるいは裏切りという名の犬』もあまり好きではなかったので当然の帰結かな。
ということは、『あるいは~』が好きな人は必見なんだろうとは思います。
もう『スリープレス・ナイト』の興奮で(しつこい)本作はほっとんど記憶にないのですが、
日本語字幕が下端ギリギリに表示されるイライラ感は鮮明です(笑)
なんで最近(デジタル上映ではしばしば)こういうことやる(になる?)んだろう・・・。
私が観たのは日劇3(前席の頭部かぶり率激高劇場)だったこともあり、背筋疲弊。
ちなみに、次に紹介する『わたしたちの宣戦布告』も字幕表示位置は同様でした。
映画祭上映時から改善されていなければ、要注意!
(銀座テアトルシネマなら段差が結構あるので、『そして友よ~』は何とかなりそうだけど、
あのル・シネマで下端ギリギリ字幕表示って、それこそ観客への宣戦布告か!?だし。
ま、改善されていることを祈りましょう。)
わたしたちの宣戦布告(2011/ヴァレリー・ドンゼッリ)
一年前、日仏学院のカイエ・デュ・シネマ週間で観させて頂いた本作。
そのときには英語字幕だったにもかかわらず、なかなかの集客と好評で、
私も見事に魅せられました。サントラも即購入(けど、届くのに時間がかかった・・・)。
詳しくは、こちらに感想を書き留めております。
トリビア的な小ネタとしては、本作は全編キヤノンのEOSで撮影されているのですが、
一箇所だけフィルム撮りされてる場面があるのです!是非劇場で確認してみて下さい。
・・・とか言いながら、フィルム厨の私も気づかなかったのですが。
フィルム原理主義者失格!(ただ、後から言われれば「あぁ!」って思える印象は有。)
フィルム話が出たついでに。
私が昨秋に日仏で観たのは、フィルム上映でした。
デジタル撮影(しかも一般的なカメラで)の作品なので、
フィルム上映にさほど意味はなさそうですし、デジタル上映がベターな憶測。
ところが、機材のスペックの影響か、フィルム上映の方が格段に好かったのです。
つまり、やはりフィルム・マジック(コーティングとでも言いますか、
あの現実と隔ててくれるオブラート的な)が働いていたのかも。
フランス映画祭でのデジタル上映は画に厚みが些か不足。
とはいえ、シネスコ作品ですので是非劇場で!
ちなみに、日本版予告はあくまで「ル・シネマ(=マダム客層)」仕様になっております。
勿論、シリアス成分もセンチな要素も散りばめられてはおりますが、
キッチュさやファニーさこそが本作の魅力でもあります。
マダムに負けるな!(意味不明)