ODSこと「アザー・デジタル・スタッフ」という映画以外の上映コンテンツ。
オペラやら歌舞伎やら落語やらライブやら・・・あの手この手で好調らしい企画だが、
これまで観たことがないまま来たので、『レ・ミゼラブル』公開記念前夜祭ってなノリで観た。
この手のものを観たいと全く思わなかった一番の理由はやはり、
「実際のステージ」の矮小化というか縮小再生産的な印象が強かったから。
とはいえ、ここまで続けざまにいろいろと繰り出されてるってことは
それなりの需要があるんだろうし、一度は触れてみるかと思い、
映像化が奏功しそうなジャンルでもある本作を選択。
しかし、結論から言うと、個人的には全くもってNOだった。
もっと言うと、正直苦痛で苦痛で仕方なかった。
いや、パフォーマンスは素晴らしいと思うし、ステージも実に魅惑。
何が(俺としては)ダメだったかといえば、撮影や編集の単調にしつこいギミック。
もうね、とにかく1分として「凝視」することないカメラ(忙しなく動いてばかり)と
ガチャガチャしておけば高揚が生まれるのだとばかり確信一途な独善編集。
トニー・スコットのような匠の技を曲解援用し、ステージ自体のもつダイナミズム無視。
ステージの全貌など瞬間的に垣間見る程度で、アップを多用してばかりいるものだから、
自分が今観ているものが何なのかわからなくなる・・・。「ステージ」を観ていたいのに。
などという文句をたれるような人間は、
そもそもこの手の企画には向いてない、というか規格外。
おそらく、映像化=ステージとは別物にしなきゃ!な使命感のもと、
ショットもカットも作り手も受け手も「生まれ変わったもの」を求めるべきなんだろう。
でも、俺にとっては、そういう位置づけを自分のなかで処理する仕方がわからない。
ステージの醍醐味を堪能できなければ、映画では全くないのに映画っぽさばかり鼻につく。
ま、エンドロール観ても、誰が「監督」なのか、誰が「演出」してるのか判然としないし、
撮る側の演目に対する愛着や研究の強度は全く微塵も感じられなかったな・・・。
スコセッシの『シャイン・ア・ライト』とか観たときの高揚感を期待したりしたのが、
そもそもお門違いだったのかな。でもね、やっぱり「監督」って大事だよね。
責任というか、自己主張というか、表現というか、物語ろう精神というか。
ついでにスカラ座の音響イマイチなことまで再確認しちゃったりして。
あと、シネスコにしないのはソフト化の際に上下黒帯にならぬようにしたいから?
でも、せっかく劇場で観るステージの映像版なんだから、シネスコで観たいだろ。
ま、いろいろ愚痴っちゃいましたが、
要は俺には合わないみたいってことに尽きるかな。
だから、或る意味とっても好い勉強になりました。
あ、でも、「観客」との「共有」に何らかの価値や効果が求められるようなコンテンツなら、
ODSってやつも可能性が色々ありそうな気がします。あと、ライブ中継的なやつとかね。
『One Night, One Love/ワン・ナイト、ワン・ラブ』として劇場公開(日本)。
今年1月に劇場公開された『パーフェクト・センス』のデヴィッド・マッケンジー監督作。
個人的には『猟人日記』がかなり好きで、『パーフェクト・センス』も好みだった。
両作の出来はかなり差があるものの、感覚的に自然とシンクロできる何かが双方にあり、
この監督の作品は観ていきたいという緩やかな願望が芽生えつつあった。
まさか、本作が日本で劇場公開されるなど思いもしなかったので、
自力観賞も視野に入れていたものの、驚愕の劇場公開!
ところが、最悪な劇場公開(詳細後述)という悲劇に終わる・・・
しかし、作品自体はやっぱり「好き」な小品だった。
「T・イン・ザ・パーク」という(グラストンベリーに次ぐ)英国野外フェスに出演する男女が、
ひょんなことから手錠でつながれる。鍵はない。
女の所属するバンドのステージに一緒に上がるしかない男。気づけばセッション。
彼らにはそれぞれ恋人がいたが・・・。
実際のフェスでロケ敢行しただけあって、「臨場感」こそが本作の最大の魅力。
その雰囲気を積極的に味わえるような心の構えがもてないとしたら、
本作のユルユルで甘ったるい物語には全くシンクロできないだろう。
幸い、私は本作で切り取られたフェスのまったりとした盛り上がりに適度に魅せられ、
イベント内における出来事ならではイベント性がどんな展開にも「説明」をつけてくれ、
おとぎ話な本作に最後まで心地好く寄り添い続けることができました。
◆本作の隠れた(?)面白さは、アダムを演じる主演男優ルーク・トレッダウェイが、
『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』で結合性双生児のロック・ミュージシャンを演じてたこと。
あの時の記憶が巡り巡って、眼前のモレロと手錠でつながれた姿と奇妙にリンク。
このキャスティングのユーモア(?)だけで、ちょっとばかしほのぼのしてしまう。
相手役のナタリア・テナは、ルークと同じ1984年生まれ。
こうした「モロ同世代」な関係性も、二人が醸す気軽さと親密さを生み出してる気が。
そして、勿論、二人ともちゃんと歌えるし。意外と多くはないライブ・パフォーマンスも、
そこに集中させた魅力をバッチリぶちまけてくれている。
モレロ(ナタリア・テナ)が所属するバンドのステージに立たざるを得なくなったルークが
演奏に乱入し始め、次第に見事なコラボに展開する流れは、本作最大の見どころ。
セッションの原初的醍醐味を体感させてくれる。あぁ、またバンドやりたいな(笑)
◆音楽フェスを舞台にした映画だけあり、色んなアーティストのステージや楽曲が彩る。
なかでも吃驚したのが、The Proclaimersによる "I'm Gonna Be (500 Miles)"!!!
そう、『妹の恋人』の主題歌。映画も好きだけど、この歌も大好きさ。
ちなみに彼らも双子だから、またもや『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』つながり!?
そして、本作における彼らは、こっち(↓)みたいな感じ。
(観客の盛り上がり、楽しそう!本作においても最大の大合唱しておりました。)
◆『猟人日記』にしても『パーフェクト・センス』にしても、
画で魅せようという魂胆が根強いデヴィッド・マッケンジー。
本作はそのロケーションからも必然ではあるが、とにかく画の見せ方にこだわっている。
中盤は夜のシーンが続くのだが、闇になりきらぬフェスの夜。
野外ゆえに街ほどの明るさもないが、そのかわりに漂いまくるアドレナリン。
さまよい続ける二人の空回ってる情熱が、その熱りを放出すれば、
やがて一瞬の静けさが時めきはじめ、はじまりの予感が滲み出す。
朝のおとずれを儀式めいた時間にかえる鳥たちの羽ばたき。
夢の終わりと夢の始まりが交錯する、マジックアワー。
デヴィッド作品のほとんどで撮影を担当してきた盟友ガイルズ・ナットゲンズの好仕事。
ちなみに、彼はスコット・マクギー&デヴィッド・シーゲルともよく組んでおり、
先月の東京国際映画祭のコンペに出品された『メイジーの知ったこと』の撮影も担当。
たしかに、さりげなくきらびやかに透き通った感触の画が流れてゆく好きな撮影です。
ところが・・・
◇本作を上映しているシネクイントでの上映は、あまりにも酷い画質。
ブルーレイ上映らしいのだが、ディスクはブルーレイかしらんが、
画質的には完全に(HDには遠く及ばぬ)SD画質。本当ひどい。
私は途中から眼鏡外して観てました。
観賞後に外へ出て、渋谷の街が「普通に」クリアにみえたことにホッとしてしまったほど。
あのような画質で劇場公開、しかもロードショーするとは、
配給元も劇場も「映画館で映画を上映する」ということを一体どう考えているんだか。
まともな素材で観たかったよ。マジで。クリアな映像に、大音量とかならマジ最高なのに。
爆音上映とかにも回せる恰好の素材になったのに。
本当、最近増えてるこういった手抜き公開(配給)には本当にウンザリだ。
それこそ(こんなケースと比較しちゃ失礼だけど)ブレッソンの『白夜』配給・公開の物語の
「爪の垢」でも煎じて飲んでくれ。
というわけで、映画を届ける仕事をする者としての良識を甚だしく欠いた配給会社による
邦題を記事のタイトルにしなかったのも、そうした事態に対するささやかな(自己満足的)
抵抗。
シネクイントはオープニング(『バッファロー'66』だったな)から観ている劇場だけに、
本当に残念でならない。
◇ちなみに、この劣悪画質の上映前に流されていた予告編はフィルム上映。
シネマート六本木のブルーレイ上映(は比較的きれいだよね)前に見せられる
トンデモ画質な予告編は、その後の上映画質を相対的に美しく見せる効果があるけど、
その全く逆のパターン。
本作の前の時間帯に上映してる『鍵泥棒のメソッド』はフィルム上映みたいなんだけどね。
ちなみに、『パーフェクト・センス』もフィルム上映だったのだ・・・。
本作のような映画は、劇場の大きいスクリーン&大音量で観てこそ映えるもの。
大きな画面にきめの粗い画像を映し出し、音響も前方からのみの安っぽさのなか観ても、
その魅力は半減。とはいえ、暗がりでシートに身を委ねて没入をはかることで、
想像力による補完も手伝い、80分間の「一瞬の夏」にときめきました。
ここのところ、日本映画の公開ラッシュ!?
ここ数年、邦画観賞には些か慎重だった私だが、
東京国際映画祭の反動か、ここ最近は随分と邦画を観ている気がする。
映画祭後に今日まで観賞した20本のうち、日本映画はなんと7本。
手放しブラボー!な作品は個人的にはないものの、
どれもがそれなりに堪能できる充実時間。
北のカナリアたち(2012/阪本順治)
『新しい靴を買わなくちゃ』では激烈違和感だった東映の荒波三角ロゴのオープニング。
それが今こうして本編の一部として映えながら始まる映画を見始める・・・
それだけで味わえる感慨というものもあるんだね、という。
自分がこの映画をわざわざ映画館まで観に行った理由はいくつかある。
木村大作の画はスクリーンで観ておくべきかなという料簡。
でも、そのくせデジタル上映で観てしまってるんだけどね。
大人になった生徒を演じる役者たちが余りにも旬も酣(たけなわ)を迎えた面々だし。
また、そうした彼らが映画界の特殊アイコン吉永小百合との共演で何か産みそうで。
「原案」としてクレジットされている「湊かなえ」というアンバランスな意匠の不穏さも。
とにかく、時代遅れの自認や自負とは別次元で、それを真剣に自由にやってそうに見え、
おそらく監督の阪本順治は益々その作家性などを没しているだろうことは予想しながらも、
そもそも「ちょっと好きかも」レベルの低体温で彼の作品を観てきた自分にとって、
ここ最近の微妙な作品群の延長上に本作があろうともショックとは無縁だろうし。
結果、後半はややダレそうになるものの、
それでも吉永小百合という人の存在感は映画を終始緊張で包んでくれている。
いや、今回のそれは彼女によるものというよりも、
彼女を前にして演技する若者たちの畏敬と拮抗、葛藤、決闘。
若手と誠実に向き合うカトリーヌ・ドヌーヴさながらの異世代交流愛。
スケジュール管理の問題か、湊かなえ色の反映か、とにかく視点バラまき路線で進行。
つまり、吉永vs若手一人ずつ。普通なら、そうした分解は物語の本筋に断絶を生じさせ、
時間がいつまでも降り積もらない似非ロードムービーのような様相を呈しそうなもの。
しかし、本作における第三者を取っ払った「一対一」のそれぞれが放つ真剣さは、
役者たちの気迫と意気を余すところなく届けてくれるし、
そこには離ればなれの正しさもある。
密なほど堅固となる分かたれたときの懸隔。
意図よりも事情ばかりがチラつく本作とはいえ、
そこからは弛緩という名の行間が溢れだし、能動的解釈が促されたりもする。
「語り」のスケール不足を補うかのように雄大な自然の荘厳な姿を切り取る匠の撮影は、
描かれる人間模様に比べて余りにも立派すぎたりするのだが、
その不均衡こそが人間が勝てない自然の象徴であるかのように思えて来たりする。
そして、そうした自然の脅威は自らの外部にだけ存在するものではなく、
自らの内にもどうしようもない自然(情動)が息づいている。
最も理性的であってほしいと誰もが願う存在でさえも。
◇木村大作の有り難い画には魅せられつつも、
時折映し出される「合成」の画面に興ざめする瞬間が何度か。
とりわけ、序盤に出てくる吉永小百合が電車で移動する場面の背景(車窓からの風景)は
何十年も前かのようなスクリーン・プロセス的レベルで唖然。
大自然バックの場面でも、いくつか「合成」のように見える場面があり、
自然相手だから困難とはいえ、そういった選択にはやっぱり落胆してしまう。
◇子役と大人役の演者のリンクっぷりは見事。
日本映画ではなかなかお目にかかれないほど。
私は観ながら、てっきり「子役の演技を観た後に、自らの演技に似た要素を取り入れた」
のかとばかり思っていたら、実際の撮影は現在パート(冬)を撮った後に、
過去パート(夏)を撮ったというのだから、驚き。
本読み等で念入りに役作りを試行錯誤したのだろうか。
子役も皆、巧いというより精一杯さがはち切れんばかりな故に、
ドキュメンタリー的な熱量で溢れかえっている。
それもそのはずで、6人の子役はいずれも「歌で審査する」オーディションで選んだという。
その結果、多少の演技経験をもつ子はいても、みんな劇団に入っていない子たち。
確かに、歌声は魅力的。というか、やっぱり「歌声」の力には抗えない何かがある。
◇子供たちが唱う歌は脚本家の那須が概ね選定したらしいのだが、
クリスマスに歌う「クリスマス・イブ」(山下達郎)には違和感が。
恋愛ポップ・ソングのナンバー(小学生の合唱で聞きたいか!?)ではなく、
スタンダード・ナンバー的なものの方が自然にグッと来たように思う。
ただ、彼らが帰り道で歌っていたのが「夢の中へ」で、
奇しくも「クリスマス・イブ」がオリコン・シングルチャートで初めて1位を獲った年と、
「夢の中へ」を斉藤由貴がカバーしヒットした年は、同じ1989年だったりして、
その頃に小学生だった彼らと現在の彼らの年齢から察すると時代がそこそこ符合する。
などと、勝手に深読みしながら観ていたら、あくまで那須の趣味だったという・・・
ちなみに、その2曲をつなぐ斉藤由貴が小学生時代好きだった私の思い出の映画、
かつ極私的傑作『君は僕をスキになる』(1989/渡邊孝好)では、
山下達郎の「クリスマス・イブ」が実に実に素敵に使用されている。
(「おやすみロージー」も流れます。オープニングは中村あゆみ「赤鼻のトナカイ」。
そして、エンドロールの歌は・・・これがまた随分と粋なんです。)
思いっきりバブリーで、ザ・トレンディドラマ的佇まいでありまがらも、
和製ラブ・コメディとしては貴重な成功例だと思うし、
クリスマス・シーズンには必ず観てしまいます。
◇脚本はとにかく酷いと思うが、
その酷さが演者の健気さを引き立たせるという珍妙さが本作の不思議な運命。
そもそも、物語自体がたいして観る者に語りかける力を宿しておらず、
だからこそ自然の美しさや人間の機微を視覚的に精一杯堪能できるのかもしれない。
ラストの「ワンカット」が印象的な場面も、脚本によるものではなく現場での木村の提案。
ちなみに、吉永小百合による「チャン・ドンゴン」オマージュは彼女自身のオリジナル!?
(月刊シナリオを立ち読みしてみたら、脚本には台詞がなかった・・・)
黄金を抱いて翔べ(2012/井筒和幸)
本作における真の主役は、「大阪のおばちゃん」の最強さ。
これに尽きる。
だから、彼女たちが物語に混入しなくなってからの後半はどうしても退屈な冗長。
とはいえ、好みは分かれそうなものの、
私にとっては「説明不足」(背景の省略)な各人物たちの描き方も、
むしろ《存在》に奥行をもたせてくれるように思え、想像の余地と戯れる享楽も。
ただ、西田敏行の人物造形や示唆や啓示にはノレもハマれもしなかった。
井筒監督はやはり血縁よりもバディな絆がお得意なようで。
良心的ハリウッド映画風なテンポとスケール感でグイグイ引っ張っていってくれる心地好さ。
それを見事にアシストしているのが平沢敦士のスコアな気がした。
ジャジーなものからビッグバンド風なものまで、
スパイものや犯罪もののアメリカ映画スコアをパクリ以上オマージュ未満に
下世話さが鼻につく寸前でひかえた適量配合。
『ダーク・ナイト』風なスコアも混ざったりしており、
今風への目配せもある気の利かせ方。
役者たちが井筒監督を信頼して本領発揮に邁進している安定感は
観ていて心地好いものの、本作に宿るべき緊張感の助長には転化できなかったようで。
皆が皆、好演はしているものの、分相応プラスアルファでまとまってる気がしないでもない。
もうすこし現場由来のピリピリなヒリヒリを感じたかったりもした。
『今日、キミに会えたら』の邦題でDVD発売。
〈不在〉の存在感が高まれば、眼の前の存在は儚きに堕ちてゆく。
消え去った後に残るのは、単なる〈不在〉などでなく、
永遠に瞬きつづけるフラッシュバック。
忍耐強く待ち続けたり、辛抱強く怺えたり、
僕らはいつでも癒やされることなき患者かも。
それでも続き続ける人生を、空洞化が止まらぬ現在を、
失した狂おしさ抱きしめて、醒めた眠りを噛みしめて。
〈不在〉に夢見た過去と未来。
〈不在〉という存在証明。
辛さを抱きしめ続けているうちに、
その空っぽに満たされた。
虚無を抱えて満たされた。
幸せ抱きしめ続けるこれからは、
満たされるほど、こぼれてしまう。
動きを止めた心はきっと、別の時間を生きている。
いま動いている心臓は、誰のために刻む鼓動?
◆本作は一見、「スタイリッシュ」のようでいて、
極めて「クローゼット」な感情を刺戟する。
柔らかなクッションも、美しい革張りもない、
シンプルな木製の椅子に座る剥き出しな感触で。
そして、その椅子は一人掛け。
隣に座る場所がない。
◆「同じ川に二度入ることはできない」とヘラクレイトスは言ったという。
本作においても《儀式》のように映し出される「同じ」がいくつもある。
乾杯、裸足、椅子・・・。消失、不在、出現・・・。
それらは常に以前すべてを内包しながらも、以前と同じは叶わない。
過去が美しいほど、そこに灯る儚さの残り香が微かに今を吹き抜ける。
◆オーバーステイから始まる悲劇が歯車を狂わせる本作。
その予兆として、小旅行へ出かける船上で二人が座っている場面では、
彼らの間に星条旗が映っている。国家が二人を分かつ準備は始まっていた。
また、ラストにアンナ(フェリシティ・ジョーンズ)が来ているシャツはボーダー(border)。
国境なき愛する気持ちが国境に阻まれたとき、境界は私たちに何を問うだろう。
そして、境界は常に外にあるだけのもの?
内なる時間や想いにも、いつしか分岐や断絶が訪れる?
◆本作には「悪人」が登場しない。
文字通りの「悪い人」が出てこないという事実でもあるが、
メインを引き立てるためにサブを配置するといった構図とは無縁なのだ。
本気を輝かせるための浮気などではないし、
結ばれる二人のための結ばれぬ二人でもない。
だからこそ込み上げる苦しみも、引き受け続けねばならぬ痛みだってある。
そこから立ち上ってくるものこそ、まさに核心であり、すべての叙事が叙情に変わる。
◇珍妙極まる東映作品(『誰かが私にキスをした』)への出演とジュード・ロウ化する額で
キャリアが些か心配なアントン・イェルチンだが、本作では彼ならではの存在感を発揮。
フェリシティ・ジョーンズはアンチ・スタイリッシュなコケティッシュで摩訶不思議。
公園の芝生で膝枕する際の胸元や、最後の最後でシャツ越しに揺れる胸を捉えるなど、
監督のドレイク・ドレマスは甘酸っぱさの偏執エロティック。
ジェニファー・ローレンスが下着とワイシャツ?(男物っぽい)一枚
という明石家さんま好みの場面まで(一瞬ながら)挿入するというサービス精神も。
◇主演の二人が文句なしにアンナとジェイコブの人生を生きているのと同様に、
彼らに本気で心を寄せるジェニファー・ローレンスとチャーリー・ビューリーが見事。
ジェニファーは『ウィンターズ・ボーン』でも『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』でも
さほど私のなかではブレイクせずじまいだったのに、本作で大ブレイクですよ。
(『あの日、欲望の大地で』ではブレイクしてたけど、最近気づきました・・・)
溢れる涙をみせまいと顔を手で顔を蔽う場面は、今年最も胸いっぱいなワンシーン。
同じくらい、チャーリー・ビューリーの真剣勝負にも真剣に切実な気持ちにさせられた。
◇そして、何といっても本作最大の功労者は音楽を担当しているダスティン・オハローラン。
透明感のなかにヒリヒリしたときめきが散りばめられたスコアが作品全体をコーティング。
そしてラストの暗転と共に聞こえてくるStars“Dead Hearts”。未完の完結に容赦なき帰結。
その内容はこちらで。そもそも私が本作を観る動機も、
このブログ「マフスのはてな」でのpikaoさんレコメンドによるものだったりします。
音楽にしろ映画にしろ、軽眼にみせかけて透徹した慧眼に、
本当いつも多くの出会いを提供して頂いています。
私は輸入盤のブルーレイで本作を観賞。ちなみに、3回観ました。
それなのにろくな感想が書けません。でも、本当に好きすぎる作品です。
しかも、その愛おしい感情は、観ている最中よりも、観終わった後に押し寄せるのです。
いや、観終わった直後より、ふとした瞬間に込み上げるのです。
予告編みたりすると、また観たくなっちゃったりするのです。
という言い訳をこそが本作への最高のレコメンド。などというエクスキューズ。
ちなみに、日本盤DVDに収録されている映像特典は米国盤と同内容みたいだが、
米国盤に収録されていたコメンタリー(監督・編集・撮影の三者による)は未収録?
これこそ日本盤に入れて欲しかった・・・。というか、ブルーレイの発売はないのか・・・。
というより、やっぱりインディペンデントのアメリカ映画って本当に
劇場公開の機会に恵まれなさすぎる気が。本作も映画館で観たかった・・・
観賞後に明るくなった場内でゆっくりと立ち上がり、静かに劇場を後にする・・・
そんな一連が作品との対話を育んでくれそうな体験をうんでくれそうな映画だから。
かつての渋谷ミニシアター事情なら絶対に公開されてたはずだよな。
シネマライズの地下とかで夜に観たかった。
日本版(というか日本語字幕付の)予告
※予告編で使用されているIngrid Michaelsonの“Can't Help Falling In Love”は、
本編では流れません・・・が、作品には見事にハマってて好い予告編だな。