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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

マルグリット・デュラスの《生きてるものはいないのか》

2012-02-22 00:38:54 | 映画 ア行

 

石井(元聰亙)岳龍による『生きてるものはいないのか』が先日封切となった。

そして、アテネ・フランセ文化センターでその前日から始まった

「特集:映画作家マルグリット・デュラス」。

 

M・デュラス特集は昨日までで制覇しようという無謀な計画を立ててみるも、

初日から崩れた計画は「むしろ今回は完全スルーでいいや」といった、

いつもの《全か無か》な自分に・・・という悪癖を何とか乗り越え、本日(私的)初日。

 

そのまえに『生きてるものはいないのか』を観たわけだけど、

作品自体の感想としてはイマイチの一言で一蹴終了な印象だったのだが、

そのなかで「ちょっと気になったこと」が、その後に観たデュラスの作品

(『インディア・ソング』と『ヴェネツィア時代の彼女の名前』)と結びつき、

そのどの作品も(理由は違えど)深く語れぬ不向きと未熟を一遍に解決・・・

とまではいかないが、いつもの「こじつけ」(Imaginary Possibilities?)で

むすんで(無理矢理つなげて)ひらいて(勝手に展開)。

 

『生きてるものはいないのか』は、

シュールなのかヒニルなのか私には判然とせぬ《笑い》の要素がふんだんなようだが、

まぁそれにクスリとも出来なかったのは相性が悪かっただけだろうし、

期せずして同タイミングで公開の『ニーチェの馬』やら『メランコリア』やらで

抜群な終末観を映像物語として享受してしまった以上、

完全に別腹感覚を割り切るのも難しく(そういう狭量カッコ悪いけど)、

恐ろしさは欠片もなく、虚無感は微塵も駆り立てられず、

結局は学生の「映画道場」に過ぎないとしか思えぬ意義不明物件。

同じく映画を志す師弟による作品『大いなる幻影』もユーロスペースで観たことを想起。

こちらは、黒沢清が映画美学校の生徒と撮った作品だが、

この作品では明らかに師弟の共同作業故のケミストリーが感じられ、

監督の作家性による牽引が十全になり得ぬ不完全さを作品の強度として反転させていた。

しかし、『生きてるものはいないのか』では石井監督の「支配」が勝ちすぎてる印象。

つまり、学生映画っぽいのに、学生の息遣いは感じられない。

こんな漠然とした印象批評で否定的な感想を述べるのはフェアじゃないが、

具体的な気がかりとしては、「必然性を感じないアフレコ」の違和感がある。

それは台詞のズレのみならず、(台詞以外の)音全体の不自然さも含めて。

その「不自然さ」が演出ならともかく、手を抜いてるとしか思えぬ音だったので。

音楽やら音響やらにはこだわっているようだが(バウスの爆音上映は盛況みたいだし、

ユーロスペースでもかなりの爆音で上映してた)、そこが悪いほうに今風で・・・。

それって、ノリで全てをチャラにしようって戦法で、確かに石井聰亙って監督は

そういう気質で撮ってきた人なのかもしれないが、名前も変えたし年もとったし

立場も変わったし違う撮り方でつくったし・・・

第一、トーンもテンポもその手のものとは違うわけだから、

抜きどころが違うのではないだろか?というのが私的な不満だったりしたわけだ。

 

しかし、少なくともアフレコ音声と映像の(滅多にお目にかかれないレベルの)ズレは、

音声と映像の関係なんかを改めて考察すべき欲求というか必要性を駆り立て、

その矢先に観たマルグリット・デュラスがまさに格好のテキストだったという偶然。

そもそも、デュラスの映像作品におけるその二者の関係は、

全作品に渡って主要なテーマのようでもある。

 

『インディア・ソング』では、

映像の内容と関連するが必ずしもシンクロしない音声が終始「外から」流れている。

同録では当然なく、単純なアフレコでもない。

役者たちに別途「朗読」させた台詞や語りなのだ。

映像における役者が無言でも、そこには音声(台詞や語り)は流れ続ける。

画における沈黙にダイアローグやモノローグの音が重ね合わされることもある。

 

そこに何が生まれるかというと、そうしたズレが《時間》を生む気がする。

眼前の世界(映像)とは別の時間に存在していると思われる世界(音声)。

その狭間には絶えず《時間》を意識させられる。

それは、「回顧」による《記憶》と《現在》との隔たりであったり、

「内省」による《想念》と《実践》の誤差だったりする。

そして、そうした居心地の悪さによって、作品は取り付き端のない流動性を帯び、

世界を《所有》できる感覚を味わうはずの映像から、そうした快楽を奪い取る。

 

更に、『ヴェネツィア時代の彼女の名前』では、

『インディア・ソング』の音声トラックをほぼそのまま用い、

廃墟となった撮影場所の光景を緩慢にひたすら映し出す。

想い出の場所に立つと、「あの時」の声や音が聞こえてくる・・・

といった手法を2時間ずっと続けているようなもの。(そんな単純ではないが)

そうすると、今度は時間の重層性は更に増幅し、観客が「見るもの」も重層化。

つまり、スクリーンに映し出された現在を両の眼がとらえると同時に、

音声によって喚起される過去(『インディア・ソング』)の光景が脳内で重なり、

更には過去から現在へ至る過程の補完が想像力によって始まるだろう。

二重+アルファ( or 無限大)な映像を見ることになる観客は、

120分という客観的な数量的時間のなかで、

計り知れぬ主観的時間のなかを彷徨い続けることになってしまう。

 

何が生きていて(現在)、何が死んでいる(過去)のか。

見つめる光景に生きてるものがいないなか、

見つめている者のなかには生きてたものが生きている。

 

私はよく、映画を見ているときでも作品とは全く関係ないことを考えてしまったりする

集中力不足なところに時折悩まされてしまうが、そのときの感覚は非常に妙で、

眼と耳でとらえた世界と脳で描いた世界が交わらないのに同時並行的に存続してる。

眼でとらえた部分は記憶からはみ出てしまう(残っていない)こともしばしば起こるが、

耳でとらえた部分は脳に描いた世界と融合してしまうようなことがある。

音楽が一瞬にして脳に《記憶》を拡げる力を有しているのは、そのせいかもしれない。

 

『生きてるものはいないのか』で感じた違和感は、

単純なズレという誤差によるものだけでなく、映像と音声の時間が重層化することで、

映像において起こっている《終末》とは別の時間(後の時制として認識してしまう)を

感じて起こる弛緩(緊迫とは真逆)のせいだろう。

単なる閉塞とは異なる《ユルイ終末》の演出としてそうした効果を用いていたとしたら、

(そうやって構築された「世界観」は全く好みではないが)お見事!完敗である。

 

基本的に女流作家というものに苦手意識のある自分としては、

世界を広げるためにも何とか機会をみつけてはそうした意識を払拭したいと常々思い、

小説よりは映画の方が入り易い気もして(現に好きな女性監督なら結構いるし)、

今回の企画はもってこいな気がしていたが、

予習がてら読んだデュラスの中篇と戯曲は正直好みではなかった・・・

しかし、こうして映像作品から入ってみるとやっぱり得るものが大きい。

彼女の映像作品では、文学者だけあって言葉や音声が大きな意味をもつようだ。

それゆえに、原語(フランス語)のまま感覚的にも享受できたらどれ程の享楽か。

そんな叶わぬ自分とのズレも想像の余地として《奥行》化を図りつつ、

今週はデュラスの世界に心酔してみたい。

 

 


永遠の僕たち(2011/ガス・ヴァン・サント)

2012-01-27 22:40:21 | 映画 ア行

 

どうやら僕は、この映画がどこまでも好きになってしまったみたいだ。

 

賛否両論というよりも、好悪両極端な印象の本作。

確かに、甘ったるいし(お菓子で始まり、お菓子で終わる映画だし)、

美化で埋め尽くした画面と時間は余りにも青すぎる印象がつきまとう。

でも、僕はその「甘さ」と「青さ」が好きなのだ。

だからって、それが嫌いだって言い放つ人が嫌いってことはない。

むしろ、僕と同じ様に好きだって「うっとり」してる人の方が嫌いかも(笑)

極めて個人的な交信で享受できる歓びこそが、本作の愛おしさの源泉だから。

分析だとか考察だとかいう認識の共有とは別次元。

僕の「好き」と君の「好き」は微妙に違う。その微妙が途方もないすれ違い。

だから、「わかる人にはわかる」って映画とは対極にあるスモール・ワールド。

オープニングのクレジット。すべてが小文字。すべてが手書き。

それぞれのマイ・プライベート・フィルム。個人が個人的に向かえば好い。

フリー・アズ・ア・バード。名声の重力から解放されて、翼のはえたガス・ヴァ・サント。

仕事も学校もない彼らはどこまでも個人だが、そのとき彼らにつきつけられる故人の問題。

《社会》という外部の世界を一切消して、向き合うべきは内なる世界。

《時間》は《記憶》を奪おうとする。悲しみに暮れるしかない人間は、それを恐れる。

しかし、不可逆な《時間》とは相容れない、個人の《記憶》が宿るとき。

故人の《記憶》は《時間》を奪う。

 

(以下、結末まで含めて語ります。)

 

◆冒頭で葬式に潜入しているイーノック(ヘンリー・ポッパー)の服は黒づくめ。

   おまけに足元は黒のロングブーツ。防寒?戦闘?やさぐれ具合が顕著な足元。

   しかし、アナベル(ミア・ワシコウスカ)に出会ってからの彼はスニーカー。

   服から少しずつ黒が抜けてゆき、終いにはアナベルと「同じ服」(白)にまで。

   そして、ラストの葬儀では、黒と白が混ざり合い、優しいグレーを身に纏う。

 

◆葬儀の「黒」と、病院の「白」のコントラストも印象的だ。

   「黒」に染まる世界の直前に、「白」で塗りたくって抵抗してるかのよう。

   でも、世界は「白」(生)と「黒」(死)で出来ている。

   アスファルトに横たわる二人は白と黒を身に纏い、

   アナベルの手袋は赤(血)。その手は、イーノックとつながって。

  (青や黄色の手袋の場面もあった。

    フェンシングや空手の「白」も印象的。まさに、生き生きしてた時間の「白」。)

 

◆イーノックが葬式巡りをしているのは、

   彼のなかに巣食う喪失感の行き場を求めたりしてたから?

   確かに、「誰もわかってくれない」的イジケでしかたない自己憐憫青年だが、

   自分の両親の葬儀に出られなかったという事実は、永遠のミッシングピース。

   ある意味、代償行為としての「参列」だったのだろう。

   その無意味さを確認した中盤での「参列」からラストの参列へという流れは、

   わかりやすい成長を描いてもいるが、死の痛みを死で癒すという離れ業。

   これほどまでに終始《死》で埋め尽くされているのに、

   《希望》ばかりを漂わせようとする映画は稀有なのでは?

   その反転具合は明らかにファンタジーっぽく映ってしまいもするものの、

   そうしたファンタジーを見出せてこそ、現実に不戦勝。

   戦うだけが克服じゃない。生きるためには戦うしかない、のはちょっと違う。

   まして自ら死を覚悟する戦いなど、悲しみすらまともに噛みしめられない。

   戦争という極めて現実的な社会の営み(動物的)と、

   ファンタジーという異次元創出の想像世界(人間的)とを対照させる、

   特攻隊のヒロシとイーノック。いや、イーノックにそれを教えたのは、アナベル。

   死に抗うでも、死を覚悟するでもなく、最期まで生を謳歌しようとしたアナベル。

 

◆「ナガサキ」の件は、どのように受け止めるべきか。

   若い二人のささやかながらも真剣な戦いと、地球規模の戦争。

   それらの対照性は確かに見出せもするが、それを凌ぐ共有こそが本作の肝だろう。

   それは例えば《死》が分かつもの。死者の時間は断絶し、生者の時間は続いてく。

   当然、去った後の世界を死者は知る由もない。取り残された生者が味わう孤独。

   語りかけても墓前に返答はない。しかし、死者もそうした痛みは同じはず。

   知らずに「済んだ」原爆投下を知ったヒロシの哀しみ。

   先に逝ってしまうアナベルが味わうであろう哀しみ。

   続いていく時間のなかで、断絶した時間をどう受け止めてゆくべきか。

   「向こう」のアナベルに、慰められない自責の苦しみ味わわせない。

   だけど、忘れたわけじゃない。

   永遠につづく記憶のなかで、微笑み交わし、微笑がえし。

 

◆イーノックとヒロシが最後に交わすお辞儀の美しさ。

   ディープ・リスペクト。それは、相手の流儀を受容し尊重する姿勢。

   そして、そこに生まれる新しい自己の成長。

   他者との交流において、自らが相手に残したものは他者の死によって消える。

   しかし、死して尚、その他者が自らに遺したものは消えはしない。

   それは、他者から受容したもの。アナベルとの時間も然り。

   「判ってくれない」イタみは、「判ろうとする」から癒される。

   それも、痛みとはちょっと違う悼みのなかで。

 

◆最後のヒロシが燕尾服を着て、丸眼鏡をかけてる姿が、

   イッセー尾形が『太陽』で演じたあの方を想わせるのは、意図的か?

 

◆極私的世界観で完走してしまう本作。

   「名誉」を与えられたがために、失ってしまった(両親の)命。

   名声の頂点を極めたガス・ヴァン・サントの抵抗を代弁するかのようなイーノック。

   そして、多くの人に記憶されるより、大切な人の記憶に残る素晴らしさを噛みしめる。

 

◆執拗に(笑)挿入される、「鳥」の存在感。

   アナベルが重力(病気や死?)からの解放を夢見るかのように思い描く鳥の人生。

   しかし、一方でそれは《死》をも重ね合わせていたのかもしれない。

   そんなことを、観賞後に散歩しながらふと思った自分。

   歩いていると不意に目の前を小鳥が歩いてる。

   ゆっくり後をつけてみた。しばらくすると、鳥は飛び、フェンスを越えて向こうへいった。

   ああ、これなのか。いつも取り残されるのは、生者の方かもしれないな。

 

◆原題は『Restless』。辞書をひくと、「落ち着かない、不安な」という意味と、

   「絶えず動いている、活動的な」という意味が載っている。

   同じ状態の二つの側面。異なる観点からの捉え方。存在における《生》と《死》。

   イーノックとアナベルは、落ち着かなさから絶えず動いていたのかも。

   イーノックが病院で興じる万華鏡。

   「kaleidoscope」とは、「千変万化するもの」を意味したりもするのだとか。

 

   また、「rest」には「永眠、死」といった意味もある。

   ならば、「restless」は(邦題の通り)「永遠」をも意図したタイトルなのかもしれない。

 

◇本作は年末に一度観て、今週に二度目を観賞してきた。

   初見はシネコンで観た為、デジタル上映だった。「そういう頭」がなかったもので、

   字幕が出た瞬間(デジタル特有の「白さ」を観た瞬間)、しまったぁ・・・と。

   しかし、字幕の明るい白さが本作の画調にミスマッチな点を除けば、

   それはそれで「綺麗」として割り切れる雰囲気もあったかと。

   二度目はシャンテ・シネで、フィルム上映を観たわけだけど、

   それはそれで(一度デジタルのくっきりはっきりを観てしまっていたので)

   なんだか「この画質、綺麗じゃない」なんて思ってしまうデジタル後遺症(?)視覚。

   最近のシャンテの映写が微妙(ピンボケ珍しくないし)だったり、

   場内の闇度低めなのもあるだろうけど、今後もそういった感覚は進行しちゃいそう。

   フィルムの画調を愛好しているはずの自分ですらそういう感覚が根づきそうな位だから、

   デジタル慣れして(フィルムに特別な愛着もない)観客からすれば、

   フィルムなんて「クリアじゃない」って印象しかもたれない可能性大かもね。

   まぁ、フィルムの醍醐味は大画面でピントばっちりなとき最大限発揮されるし・・・

   でも、そういった意味ではそういう「極上体験」の機会は既に絶滅の危機。

   午前十時の映画祭と共に去りぬ・・・が迫ってる?

 

   ちなみに、それでも二度目のフィルム観賞においてやっぱり「より堪能」できたのは、

   二人が闇の中で口づけ交わすシークエンス。

   闇(とそこに射している光)の美しさはやっぱり、フィルムでこそ味わえるものだろう。

 

◇本編でいきなり流れるビートルズの「Two Of Us」。

   エンディングのNicoと並んで本作の顔ともいえる重要ソングが予告で流れぬのは、

   大人の事情?それとも、その二曲を予告で使っちゃうと、予告が完璧すぎるから?

  音楽といえば、ダニー・エルフマンの胸キュン・スコア。職人ぶり。最高のアシスト。

 

 


ALWAYS 三丁目の夕日'64(2012/山崎貴)

2012-01-26 23:49:06 | 映画 ア行

 

一作目が公開されたのは2005年の11月。

私が観たのは年明けだった気がする。

2004年に今の仕事に就き、仕事に慣れるというか

仕事が少しはできている実感がもてるようになるまで数年かかり、

その間は映画をほとんど観ていない。時間がないというよりも、精神的余裕がなくて。

それでは、今は精神的余裕だらけかと問われれば、そんなことはないわけで、

今では「精神的余裕をつくる/うみだす」ために観ている感じだ。

 

だから、一作目が公開された頃も、映画情報に疎いばかりでなく、

よっぽど好きな作家の作品に何とか駆けつけ、観た事実つくって満足する程度だった。

『ジュブナイル』で感動させられちまい、『リターナー』で一気に冷めた山崎監督の

いかにも温そうでお涙頂戴臭が過剰に漂っていた作品を、私がなぜ観たのか。

今となってはよく思い出せないが、ボロボロ泣きまくった記憶はある。

 

映画は、その出会いに際して、さまざまな巡りあわせが影響するものだと思う。

公開時期や公開劇場、そのときの観客の雰囲気、そして勿論そのときの自分の情況。

《発信》側(作品自体が持っている)の力とは別に、

《受信》側の情況によって印象も感想も評価も変わる。

極めて過敏で脆弱ながら、だからこそ独特の愛おしさが随伴しもする映画という体験。

 

ALWAYSの1作目を観たときの私は、

(主に仕事に対して)自信がないのに自信を持たねばならぬ日々に

感情は上滑りと空回りを繰り返し、浪費と疲弊の悪循環に苛まれていた気がする。

そんな時に観たこともあってか(だから、こういう作品を欲したのかも)、

希望と滋味で埋め尽くされた映画に、異様に感応してしまった。

癒されるとか励まされるとかよりも、気づかされたような。

これまで受けとってきた優しさや、今まさに享けているはずの優しさ。

自己が荒むと、どんなに豊かな働きかけが周りに在ろうとも、気づけない。

そんな凝り固まって自棄気味だった自らの視座を、そっと旋回させてくれた気がする。

 

それ以来、このシリーズには好意的というか、

恩義(笑)のようなものを感じてしまっている。

そんな私ですら(だからこそ?)、二作目には全く心を動かされぬまま観終えたほどだ。

三作目となる本作に、期待と不安の拮抗ボルテージは急上昇。

鎮めるためにも早々観賞してきた雪の夜。

 

そう。本作を観終え、外に出てみると積雪はじまる白い夜。

映画でもなかなかお目にかかれぬほどの、美しい降雪の情景。

オレンジ色の街灯が照らす街の上空は、紙吹雪のような綿雪牡丹雪。

思わず見上げてしまう黒い空、白い樹々。夕日を見上げる三丁目の住人が、

厄介な現実(※)が抑圧しがちな美しさを、存分味わえる心の開放をもたらした。

穿った批評眼が脳裏から噴出することも時折あった観賞中。

でも、観終わった後のその感覚があれば、もうそれで好い。

それも「映画を観る」ってことの大きな醍醐味だ。

自然に思えた、自然に感謝。

 

※実際、電車止まってたし・・・まぁ、別ルートですぐに帰れたけど。

   それでも電車が遅れてたりもしたのだが、「厄介だ」「迷惑だ」って空気は

   あまり漂っていなかったように思うのは気のせいか?

   やっぱり「雪」って犬や子供だけのものじゃなく、大人もどこかでウキウキしちゃうもの?

 

 

◆「1964年=東京オリンピック」が前面に出てくることは思いの外なく、

   丁度好い具合の浮かれモードが適度なスパイスとして作用。

   意図したのかどうかは判らぬが、これまで明らかに右肩上がり一辺倒ムードの

   ザ・高度経済成長な空気に少しずつ、足踏みする足音が遠くで鳴ってる印象も。

   それはおそらく、みんなで一緒に手をとりあって幸せ求めた時代から、

   自分の道を自分で切り拓いては離散も辞さぬ時代への変化の萌芽かも。

   一億総中流の時代が到来し、それは最近まで続いていたように語られるが、

   経済的な暮らしはそうであったとしても、家族のあり方や個人の認識は早々と

   一億総~では(語りたくとも)語れぬ現状に突入していたんじゃないかと憶測したり。

   日本という国は、体力(経済)が一人前になったり、色気づいたりしてきたわけで、

   近代化の成長段階としては思春期に突入したあたりだったりしたのでは?

   そうすると、もはや自分の部屋で自分だけの時間や空間を生み出してゆく。

   この時期にしっかり修養を積まなかったが為に、

   大学に入ってから遊び呆けてしまい(バブル景気)、

   社会に出た途端に使いものにならなくなり(バブル崩壊)、

   挙句の果てに、親の貯金で暮らす生活?(平成不況)

   そんな金も底をつき、受験勉強で詰めこんだ知識じゃ立ちいかなくなり、

   いよいよ自分がどう生きるべきかを真剣に考えなければならなくなった而立のとき?

   貿易赤字化に突入らしいし、いつまでも《近代》未成年じゃいられない。

   そんなことを考えると、1964年にあった美しき生活は悉く姿を消し、

   その場しのぎの付け焼刃な処世術ばかりが氾濫していった、その後の日本。

   私の自覚的記憶が始まる80年代からは(例え好景気であったとしても)、

   社会のBGMには常に暗いニュースが流れ、政治の混迷というかダメっぷりは、

   私が小学生の頃からまるで変わってない。

   1964年を舞台にしている本作を観て、なぜそのような発想に至るのか?

   それは、本シリーズで初めて、「地続き」な感覚をおぼえたからだ。

   1964年といえば、自分の親が淳之介(須賀健太)たちと同世代の頃なのだ。

   ということは、この時期に《自我》が確立され、その後の人生のなかで私が生まれる。

   ここまで来ると、自分が生まれるだいぶ前とはいえ、感覚が少し変わって来たのだ。

   そして、本作で青春の最中で謳歌も煩悶もしている若者達(自分の両親)が、

   やがて彼等を見守り導いていた親と同じ立場になってゆき、そこに自分は生まれた。

   今度は自分たちが親になるような世代に突入している。そうした現実と重なるように、

   本作のなかでも世代間でバトンが渡される。それが本作の通奏低音。

   しかし、渡されたバトンは形を変え、手にする度に更新される。

   それでも、託された想いと受けとる優しさには普遍が根付きもしているだろう。

   自分が実際に見たことのない時代なのに、なぜかいつも感じる懐かしさ。

   その源流には、手を引いてもらえねば歩けなかった頃の記憶があるのだろう。

   三丁目の住人たちは、今はなき情味の世界の住人でありながら、

   いつまでも人間に棲みついて離れない慈愛の表象なのかもしれない。

 

◆本作の時代の空気で味わったもう一つの儚き予兆は、「自由」の終焉。

   《過去》は美化されるばかりでなく、時に《現在》を肯定するための解釈が適応される。

   例えば、「個性」や「自由」はかつての日本には乏しかったとか、抑圧されてたとか。

   前近代はおろか、明治大正期や、戦時中などは更に最悪だったと。

   しかし、声高に叫ばれるものほど危機に瀕しているというのもまた事実。

   「自然」や「環境」などが頻りに議論や保護の対象になるように。

   だから、現代の不自由さや没個性は深刻だと思えてしまう。

   やたらと個性だ自由だと叫び散らさず、むしろ自ら抑圧することも覚えていた時代。

   そこには現代とは異なった奔放さや開放状態が自然にあった。

   大昔にもそういった事例は枚挙に遑が無いであろうが、

   例えば本シリーズで見られる家族や共同体のあり方もその一つだろう。

   血の繋がりのない「息子」や「娘」が自然に受け容れられてゆく様や、

   常に開け放された玄関。(鈴木オートの新しいシャッターは終焉の予兆を語りもする)

   確かに、それは《個人》の意識が未成熟ゆえかもしれぬ。

   他者の侵食が止め処なく認められる呪縛のコミュニティかもしれぬ。

   しかし、そこにはどこまでも直進が許される主観の尊厳が垣間見られる。

   「血」という客観的因果関係や、「家」という客観的保証領域を凌駕して。

   つまり、個人の実感が、概念という「不確か」なシステムに収斂されぬ生活。

   《家族》は形式どころか、その内容たる感覚まで、いまや概念の世界へ移行した。

   決定打としての「DNA」鑑定。誰も「見た」ことのないDNAが家族の証拠だと言う。

   儀式で兄弟になれる任侠の世界への憧憬は、その不自然さの産物かもしれない。

   菊池(森山未來)の鼻血ティッシュを懇ろに掌で包む六子(堀北真希)の行為は、

   まさに二人の血義理(契り)の徴だったのだろう。

 

   他にも、概念的観念的世界へ移行しようとする狭間の世界が見えかくれ。

   テレビに映し出された五輪の飛行機雲。後から気づく、頭上のリアル飛行機雲。

   ファンレターの数(個人の実感より統計・数字)が物を言う評価。

   そして、《大衆》という観念の怪物が絶大な力を持ち始める。

 

◆そうした形而上的世界が肥大化する社会はコンピュータを開発・改良・革新し、

   やがて形のないものを象る技術を生み出した。それが、例えばCGで、

   それを生業にしている者だからこそ抱かざるに得ない不信もあるだろう。

   山崎貴が「トップランナー」に出演した際、

   ミニチュアだとしても必ずセット(模型)をつくると語っていた。

   (本作でも制作したり使用したりしているかは不明)

   その理由として、「やっぱり触りたいじゃないですか」的回答をしていた気がする。

   その感覚の自覚、そして吐露に、この男信頼できる的想いがわいた(笑)

   更に、彼は「現実の反射」の複雑性や流動性がCGでは表現困難だとの回答も。

   確かに、映像(これも或る種の反射の連鎖の産物か)において最も魅惑な表現に

   反射が挙げられるだろう。そして、本作においても異様なまでの反射への執着が。

   例えば、竜之介(吉岡秀隆)と淳之介のメガネに映る像の執拗な存在感は

   CGへのアンチテーゼともいわんばかりのリアル反射の賜物か?

   (これがCGだったりしたら、それはそれで興味深い。)

   メガネといえば、淳之介が泣きながら訴える場面での曇るレンズが生々しい。

   CGに四方を囲まれればこそ、生身の人間や実在の物質へ関心は凝縮される?

 

◆六子が、いまだに方言丸出しというのはリアリティないだろう・・・

   と思ってすぐに、別の仮説が頭を過ぎる。

   そうか、この頃は「標準語」の権威がまだまだだったのか?

   これは、東京という街が持つ最大の魅力たる混沌エネルギーの象徴かもしれぬ。

   しかし、もう少しすると、都市開発が進み、ジェントリフィケーションが図られ、

   街の風景は画一化への階段を駆け上がる。そして、それはそこに生きる人々の

   生活にも当然影響を及ぼして、言葉もやがて画一化。「標準」への収斂が始まる。

 

   私が通っていた大学は、さまざまな道府県から入学してくる者が多かったこともあり、

   (入学当初は特に)さまざまな「言語」が飛び交い、その混沌具合が新鮮で、

   言葉遣いや名称の違いのみならず、さまざまな文化の違いに発見の連続だった。

   と同時に、自分のなかで今まで「当然」とされてきた事象や規範の再検討も促され、

   刺激的な場としての混沌空間が束の間出現していた気がする。

 

   多様性といったお行儀の好い状態ではなくとも、ただ混沌があるだけで好い。

   それこそが東京の魅力であり、原動力だったのかもしれない。

   それが失われつつある今、東京に日本にどのような「資源」があるだろう。

 

◆前述のように、本シリーズは個人的郷愁によって完結する物語とも言える。

   従って、私の中では個人的情況ゆえか、やはり1作目が最も沁みた物語。

   しかし一方で、本作も長めの上映時間を一気に観られる面白さを持っていた。

   とはいえ、どこか物足りなさを覚えた自分なりの理由についても考えた。

   本作は、各エピソード(ということは個々人)の乖離が決定的な気がしたのかも。

   二作目では、一作目に見られた登場人物や各エピソードの有機性が完全消失。

   個々の感情や物語の強度が高められようが、バラバラでは意味が無い。

   本作においては、小話の羅列的な前回の失敗を受けてかどうかは知らないが、

   エピソードを精査し、じっくり腰を据えて掘り下げる覚悟で臨んだ印象。

   しかし、その掘り下げは「個人の人生」へと分け入るベクトルを多分に内包し、

   それぞれの旅立ち的寂寥感が漂った。そして、それはエンドロールで決定的に。

   各家族(核家族?)ごとに見上げる空。そこから巣立ち、離れた場所で見上げる空。

   勿論、それは現代の家族の「普通」のあり方であり、それもまた感動のドラマ。

   しかし、一作目で見られた帰郷の場所としての家族とは、やや対照的。

   そうした変遷が確実に見受けられるというのは、本シリーズの特長だろう。

   それなのに、感傷的な郷愁に未練が残るとしたら、

   それは私が一作目の頃から成長してないだけなのかも(笑)

 

◇些末なひっかかり。竜之介の父の言葉「こんなんは小説じゃねぇ」とか、

   鈴木則文(堤真一)が「幸せにしなかったら殺す」とかの表現について。

   本シリーズでは「文学」って表現にこだわっていた気もするし(一作目)、

   「小説」って語がジャンルや形式を表していたり、そもそもは「小人の説」

   といった意味合いから出てきた気がするので、用い方にやや違和感。

   また、(これは思いっきり個人的な感覚の問題だが)「殺す」という表現は

   やっぱりどうしても冷たさが拭いきれない気がするので、「ブッ殺す」くらいが

   丁度好いように思ったりも。そういう感じ方は人それぞれなのは判るけど、

   本シリーズの弱点の一つが、台詞の細部に稚拙さが漂っている点でもあるので。

   って、指摘する二点がそんなつまらんところじゃ、指摘にすらなってないけどね。

 

◇バンプのエンディングは好かったな。

   前作の主題歌は、個人的にかなり好きだった。

   本編以上に思い入れがあったりもする。(普段は聴かないんだけどね>バンプ)

   ちなみに、その「花の名」に出てくる一節、

   「一緒に見た空を忘れても 一緒にいた事は忘れない」ってとこが、とにかく好き。

   前半は、ALWAYSシリーズに真っ向から喧嘩売ってるし(笑)、

   後半は《記憶》を思索する上で示唆に富んだ見解だ・・・って大袈裟だ。

   本作のエンディングを聞きながら、バンプ(というか藤原基央)巧くなったなぁ~

   なんて偉そうに感心したり(笑) メロディにしても、歌唱にしても。

   好いかたちで成長してるバンドなのかもしれないな。

 

 


永遠の僕たち(2011/ガス・ヴァン・サント)

2011-12-28 21:56:32 | 映画 ア行

 

レストレス。

そう、安眠できなかった、あの頃の僕たち。

 

黒装束は、心の闇を隠してくれた。

悲しみに暮れる人たちは、僕の存在を消しも確かめもしてくれた。

 

信じられないほど突然に消えた、つい昨日までいたはずの生者には会えぬのに、

知りもしない時代の知りもしない国のヒロシとは、好きなだけ話ができた。

まるで死んだ人なんて思えぬくらい。でも、それはきっと、僕が生きてなかったから。

 

君はなぜ、僕に気づいたんだろう。

僕を隠すために紛れ込んだ黒のなか、なぜ黒の僕を見つけられたりしたのだろう。

そこに闇はなかったのか?僕の闇が嘘だったのか?僕にも光があったのか?

「お別れ」のできなかった僕にはまだ、そこがどんな場所かどんな時間かはわからなかった。

 

だって、僕の大切な人たちは多くの人の記憶に刻まれた後、

僕の記憶から慌てて出て行った。

ほんのちょっとの転寝と、三日の臨死と、しばしの昏睡してる間に。

美しかったはずの時間が、想い出せない。

彼らが甦らなくとも、彼らと過ごした時間の蘇生を願う。

 

君はやたらと鳥の話をしたね。

あの車に翼がはえてたら・・・でも、ヒロシを乗せた翼は・・・

人間にはどうしても、重力がはたらくんだね。

でも、だからこそ、空を仰いで大地を踏んで、海にもぐって浮かんでくるよ。

 

なぜ君はあんなに演じていたんだろう。

一生分を演じる勢いで、カレイドスコープ・ライフを過ごしたね。

演じきることも見届けることもできない本番のリハーサルまでして。

それを無意味に感じた僕は、まだわかっていなかった。

すべてのリハーサルが本番だったとは。

 

なぜ君はあんなに笑顔を見せていたんだろう。

悲しみが充満したカラダをかかえ、涙じゃなくて笑顔でいつも僕を見た。

 

でも、わかるんだ。今なら僕も。

悲しみは喜びの数だけふくらむものだから、微笑みこそが悲しみの証だと。

君は僕に本当の悲しみ方を教えてくれた。直向きに、笑顔でいることを。

でも時には涙がとまらない。それなら、陰で静かに落とせばいい。

いつまでも消えぬ美しい君は、光のなかで微笑むだろう。

それに僕は、応えなければ。

 

レスト、レス。

そう、永眠なんてない、永遠の僕たち。

 

 

 

 


アントキノイノチ(2011/瀬々敬久)

2011-11-29 21:41:27 | 映画 ア行

 

瀬々監督のピンク映画は観ておらず、彼の真骨頂未踏な自分にとって、

彼の世間的な(限定的な世間ではあるが)評価には正直ピンと来ないまま今日に至る。

フィルモ的最重要作となった『ヘヴンズ・ストーリー』は観ているものの、

もう一方の重要(?)作『感染列島』は未見だったりするので、

そうした意味でも(もどきレベルだとしても)作家論的な物言いは避けるべきだろうとは思う。

が・・・

『ヘヴンズ~』の異様な持ち上げられ方が正直腑に落ちず、

それは期せずして遭遇した監督のトークショーにおいて体感してしまった

日本映画全体に蔓延る閉塞感(後述)のコンテイジョンに慄えた今、

これはしっかりディスリスペクトせねばならんと思い・・・

というか、驚異的愚作のモニュメント作成の一助となれば(ならんわい)と思って、

ひたすら観賞中に味わわせていただいた極上極寒をフィードバックしてやるか!みたいな。

 

◆タイトル

タイトルがふざけてるとか、もう今更どうでもいい。タイトルは重要だと思うけど、

どんなイマイチなタイトルでも作品内容によって正当化され得るのも事実だし。

ただ、いまどきオール片仮名というスガシカオですら卒業したオールドファッションど真ん中に

抛って来るセンスには黄信号。でもって、「いのち」すら片仮名にする感覚は青信点滅。

でも、これは「さだまさし」由来な訳だから、映画そのものの責任とは無関係?

かと思えば、物語の設定も展開も随分と変更されているらしいので、

だったらタイトルだって変えられたわけではないかと・・・(ベストセラー原作じゃないのだから)

ま、しかし、観賞した後ではもう、タイトルの違和感なんてめちゃくちゃ可愛い小ネタに過ぎず。

 

◆遺品整理という仕事

映画の宣伝では、主人公が従事する「遺品整理の仕事」が物語の主軸となる印象を受けた。

しかし、それは(同じTBSの)『おくりびと』想起作戦に過ぎなかった。

(同様の「手口」は、『余命何チャラの花嫁』でライト層を、『ヘヴンズ~』想起[これは前面に

出しちゃいないけどクレジット見れば釣れる]でシネフィル(?)層を、

そして撮影秘話的震災ネタで社会派層を取り込もうという、超ワイド風呂敷戦略)

結局、本作における「遺品整理」という仕事は、客寄せパンダ的なネタに過ぎない。

死者の生きた証(痕跡)に触れ、それを整理するという作業のなかで感得したものが、

自らの過去と語り合う・・・などということは全くない。ただ、「死に近い」という共通点だけで、

ひたすら踏み台にされて終ってゆく現場たち。大体、ワイドショーじゃあるまいし、

テロップで死者の背景を説明して片付けるとか、凄まじく興ざめ。

働く姿を映画が捉えるとき、そこに制作者たちの仕事観が透けて見える気がしてならない。

「労働」的に片付けてしまう場合もあれば、「仕事」を丹念に語ることもある。

「活動」として世界との関わり合いにまで言及してる場合は、単なる職業の域を出る。

本作における働く姿は、そのどれにも当てはまらない。

金もらってセラピー受けてるみたいなもんだから。

プロ意識なんて当然ない。求められもしない。〈公〉と〈私〉がせめぎあうなど全く無い。

何の葛藤もなしに暴走しては、全てが好転して終わる。それはもはや仕事じゃない。

趣味ならそれで好いかもしれない。しかし、社会的責任も意識せねばならない仕事で、

その感覚は不誠実きわまりない。ご都合主義万歳の娯楽映画ならいざ知らず、

片仮名とはいえ「イノチ」とか冠しちゃってる映画でそれは人間を馬鹿にし過ぎてる。

『ヘヴンズ~』にも垣間見られた〈人間〉や〈生命〉の道具的記号的処理と通ずる感覚。

結局、監督にしても脚本家にしてもカメラマンにしても(二作に共通して私的に最も

納得いかない姿勢の三者)、人間の現実を真摯にとらえようなんて気は更々ないのでは?

眼前の人間そのものなど見ておらず、その背後にある幻影を何とか「巧く」捕えたい

って思ってるだけなのではないかと思えてしまう。いや、背後も幻影も大事だとは思うけど、

目の前の人間を凝視しなきゃ、何も見えてこないでしょ。空々しい台詞を吐かせ続け、

落ち着きの無い眼差しであたかも葛藤しながら見つめるふりしても、そこに生命はない。

あるのはせいぜいイノチだよ。(なら、丁度好い>タイトル)

 

◆映画のリアリティ

『ヘヴンズ~』でも感じたが(そここそがノレなかった主因でもあるように思うが)、

とにかくリアリティが欠如。というよりアクチュアリティを浮かび上がらせようという誠実さが

微塵も感じられない。個人的な物語をあくまで「社会」のフレームに嵌めこんで語ろうとした

『ヘヴンズ~』なのに、画面を包み込む背景はどこまでもテレビドラマ未満で書割的。

個人を語る場合でも勿論だが、社会を語ろうとすればするほど、細部まで真実味を追求し、

(どんなに追求しても現実そのものに敵わないまでも)その姿勢こそが「現実」として迫る。

しかし、日本のインディペンデント映画にありがちな、メインな「やりたいこと」さえ出来れば、

それ以外は後回し的ノリが垣間見られ、観ている間中興醒めの連続だった気がする。

そうした意味では、海外ではウケるというのは納得。リアル日本社会、知らないんだからね。

でも、まさにその社会の中で生活している者からすれば、

批判する自己に陶酔した戯画としてしか映らない。

その程度の学芸会的お手頃書割感。

日本の映画界というより映画批評界(そんなものがあるのかわからんが)が、

いかに現実社会から遠く離れたところで浮かんでいるかが、よく判った気がした。

 

そして、本作においても現実を活写する気などサラサラない

(或る意味潔く一貫した)姿勢が見事なまでに息づいていることに、半ば感心してしまった。

だから、本作はまさに『ヘヴンズ~』の瀬々監督が撮った紛れもない瀬々作品だと思う。

 

以下、気になった点を具体的に列挙してみる(物語の結末含めオールネタバレ)。

 

*二度描かれる、高校での刃物登場騒然シーン。

   何故に、あれほどまでに教師たちが来るのに時間がかかるのか。

   それも、二度ともに見事なほど同じようなタイミングや同じような形式で登場する。

   舞台裏でスタンバってる教師役たちに「よし今だ!」って横で囁く声まで聞こえて来そう。

   とにかく、ご都合主義が嫌いというわけじゃなく、「巧く騙して」「巧く没入させて」くれ。

 

*教師ネタで言えば、「あんなとこ」を生徒だけで行かせるなんてありえないだろ。

   まぁ、全く頼りにならない教師だから「しそう」って思ったのかもしれんが、

   あいつが「見て見ぬふり」なのは、力量不足や感知不能だからでは決してなく、

   基本的に「保身」と「打算」で満たされた功利主義的人間だからなわけで、

   そういう人間はああいう状況で、「後で自分が責められる可能性」を絶対つくらない。

   要は、自分が描きたい展開ばかりが優先されて、「人間」やら「精神」など後回し。

 

*誰もが観ながら不思議に思ったであろう、止まったままの観覧車。

 

*ゆき(榮倉奈々)の屈折がアクセサリー程度で、都合よく立ち直ってくれる人物像。

   過去もほとんどが喋って終わりだし、現在に棲みついたままの影が余り見受けられない。

   それ以前に、主人公二人とも結局高潔すぎて・・・日本映画にありがちな性善説前提。

   そういう立場を執る以上、社会(環境)と個人の関係を描くことは困難だと思います。

   (別に「性悪説」に立てとは言わないが、人間が後天的な要素により善にも悪にもなり得る

     という前提を無視しているかのようだから。広い意味での「教育」的観点無視。)

 

*染谷将太や松坂桃李が演じる主人公の同級生が、あまりにも記号的過ぎる。

   何も脇役まで深層に迫れとは言わないが、描き方・配置・展開がとにかくコマ扱い。

 

*出さなかった手紙を届けたり、勝手におしかけた老人ホームで遺品整理ごっこ始めたり、

   どう考えても仕事をナメている・・・個人的な矜持と組織的責務とのせめぎ合いによる葛藤に

   常に苛まれつつも歯を食いしばりながら理想を志しては現実に打ちのめされている

   真摯な社会人に謝れ(笑) いや、待てよ。「元気があれば何でもできる!」って裏テーマ?

 

*ラストの展開は、映画独自らしいのだが(原作と色々異なる中で、ここが最も違うらしい)、

   展開自体に閉口するのは必然だろうが、それ以前に、あの見晴らしの好い道路で

   突進してくる暴走トラックって・・・飲酒運転?居眠り運転?それとも画的わかり易さ重視?

   いずれにしても、運転手が「悪人」になるわけで、結局この映画は自分の正当性を

   誰か醜いものを持ってきては証明しようとしている構えで成り立ってる気がしてしまう。

   穿ちすぎなのは百も承知だが、全篇漂う「純粋被害者意識」が私的に受け入れ難かった。

 

*「ネタ映画」を目指しているのなら、最後の最後のシークエンスはかなりのもの。

   「元気ですかぁーーー?」のバックで凄まじいフォルティッシモで高鳴る感涙演出スコア。

   そういう映画なのか?『二十歳の約束』の牧瀬里穂を想起してしまったよ(例え古過ぎ)。

 

◇私がユーロスペースで『ヘヴンズ~』を観た回はたまたまトークショーがついていた。

   そんなことは知らずに劇場に入ったので、予想外の観客の多さに戸惑ったほど。

   折角だから上映後のトークショーにも残ったのだが・・・

   瀬々監督、鈴木卓爾(男優もする監督)、そして熊切和嘉。

   結論から言うと、「楽屋オチ」な話ばかりで展開させようとしていた瀬々&鈴木と、

   何とか話題を一般化させて身内的観客以外にも開かれようと尽力した熊切監督。

   なぜ映画を観賞した後のトークショーなのに、作品の内容について何も語らぬのか?

   裏話にすらなってないお喋りというか雑談をわざわざ観客の前で展開するのは何故?

   しかし、その疑問はすぐさま「誤り」であることに気づかされる。

   上映中の大半を睡眠に費やしていた隣の男性客が、大ウケしてたりするのだから。

   彼は友人と二人で来ていたが、どうやらその二人は映画学校つながりのようだった。

   何なんだ、この需給関係!?日本のインディペンデント映画っていうのは、

   こういう「温室」のなかで培養されて久しいのだろうか?

   薄々感じていたことが、紛れもない真実として眼前に提示された気分だった。

 

◇瀬々監督作品は6本くらいしか観てない自分だが、

   そんな私がそのなかで最も楽しめたのは・・・『フライング☆ラビッツ』。

   今まで書いてきたことが一気に信憑性ゼロになりそうな、

   トンデモチョイスなのは判ってますが、要は瀬々監督って世界のリアルを撮ろうとするより、

   ファンタジックに撮る方が向いてるんじゃないかなぁ~って勝手な推測してみたわけです。

   ピンク映画という出自(及びそこでの成功)から考えてみても、

   それほど外れてもいない見当な気もします。

   もういい加減リアル路線に見切りをつけて、

   清々しいほど突き抜けた快作撮って欲しいな。