石井(元聰亙)岳龍による『生きてるものはいないのか』が先日封切となった。
そして、アテネ・フランセ文化センターでその前日から始まった
「特集:映画作家マルグリット・デュラス」。
M・デュラス特集は昨日までで制覇しようという無謀な計画を立ててみるも、
初日から崩れた計画は「むしろ今回は完全スルーでいいや」といった、
いつもの《全か無か》な自分に・・・という悪癖を何とか乗り越え、本日(私的)初日。
そのまえに『生きてるものはいないのか』を観たわけだけど、
作品自体の感想としてはイマイチの一言で一蹴終了な印象だったのだが、
そのなかで「ちょっと気になったこと」が、その後に観たデュラスの作品
(『インディア・ソング』と『ヴェネツィア時代の彼女の名前』)と結びつき、
そのどの作品も(理由は違えど)深く語れぬ不向きと未熟を一遍に解決・・・
とまではいかないが、いつもの「こじつけ」(Imaginary Possibilities?)で
むすんで(無理矢理つなげて)ひらいて(勝手に展開)。
『生きてるものはいないのか』は、
シュールなのかヒニルなのか私には判然とせぬ《笑い》の要素がふんだんなようだが、
まぁそれにクスリとも出来なかったのは相性が悪かっただけだろうし、
期せずして同タイミングで公開の『ニーチェの馬』やら『メランコリア』やらで
抜群な終末観を映像物語として享受してしまった以上、
完全に別腹感覚を割り切るのも難しく(そういう狭量カッコ悪いけど)、
恐ろしさは欠片もなく、虚無感は微塵も駆り立てられず、
結局は学生の「映画道場」に過ぎないとしか思えぬ意義不明物件。
同じく映画を志す師弟による作品『大いなる幻影』もユーロスペースで観たことを想起。
こちらは、黒沢清が映画美学校の生徒と撮った作品だが、
この作品では明らかに師弟の共同作業故のケミストリーが感じられ、
監督の作家性による牽引が十全になり得ぬ不完全さを作品の強度として反転させていた。
しかし、『生きてるものはいないのか』では石井監督の「支配」が勝ちすぎてる印象。
つまり、学生映画っぽいのに、学生の息遣いは感じられない。
こんな漠然とした印象批評で否定的な感想を述べるのはフェアじゃないが、
具体的な気がかりとしては、「必然性を感じないアフレコ」の違和感がある。
それは台詞のズレのみならず、(台詞以外の)音全体の不自然さも含めて。
その「不自然さ」が演出ならともかく、手を抜いてるとしか思えぬ音だったので。
音楽やら音響やらにはこだわっているようだが(バウスの爆音上映は盛況みたいだし、
ユーロスペースでもかなりの爆音で上映してた)、そこが悪いほうに今風で・・・。
それって、ノリで全てをチャラにしようって戦法で、確かに石井聰亙って監督は
そういう気質で撮ってきた人なのかもしれないが、名前も変えたし年もとったし
立場も変わったし違う撮り方でつくったし・・・
第一、トーンもテンポもその手のものとは違うわけだから、
抜きどころが違うのではないだろか?というのが私的な不満だったりしたわけだ。
しかし、少なくともアフレコ音声と映像の(滅多にお目にかかれないレベルの)ズレは、
音声と映像の関係なんかを改めて考察すべき欲求というか必要性を駆り立て、
その矢先に観たマルグリット・デュラスがまさに格好のテキストだったという偶然。
そもそも、デュラスの映像作品におけるその二者の関係は、
全作品に渡って主要なテーマのようでもある。
『インディア・ソング』では、
映像の内容と関連するが必ずしもシンクロしない音声が終始「外から」流れている。
同録では当然なく、単純なアフレコでもない。
役者たちに別途「朗読」させた台詞や語りなのだ。
映像における役者が無言でも、そこには音声(台詞や語り)は流れ続ける。
画における沈黙にダイアローグやモノローグの音が重ね合わされることもある。
そこに何が生まれるかというと、そうしたズレが《時間》を生む気がする。
眼前の世界(映像)とは別の時間に存在していると思われる世界(音声)。
その狭間には絶えず《時間》を意識させられる。
それは、「回顧」による《記憶》と《現在》との隔たりであったり、
「内省」による《想念》と《実践》の誤差だったりする。
そして、そうした居心地の悪さによって、作品は取り付き端のない流動性を帯び、
世界を《所有》できる感覚を味わうはずの映像から、そうした快楽を奪い取る。
更に、『ヴェネツィア時代の彼女の名前』では、
『インディア・ソング』の音声トラックをほぼそのまま用い、
廃墟となった撮影場所の光景を緩慢にひたすら映し出す。
想い出の場所に立つと、「あの時」の声や音が聞こえてくる・・・
といった手法を2時間ずっと続けているようなもの。(そんな単純ではないが)
そうすると、今度は時間の重層性は更に増幅し、観客が「見るもの」も重層化。
つまり、スクリーンに映し出された現在を両の眼がとらえると同時に、
音声によって喚起される過去(『インディア・ソング』)の光景が脳内で重なり、
更には過去から現在へ至る過程の補完が想像力によって始まるだろう。
二重+アルファ( or 無限大)な映像を見ることになる観客は、
120分という客観的な数量的時間のなかで、
計り知れぬ主観的時間のなかを彷徨い続けることになってしまう。
何が生きていて(現在)、何が死んでいる(過去)のか。
見つめる光景に生きてるものがいないなか、
見つめている者のなかには生きてたものが生きている。
私はよく、映画を見ているときでも作品とは全く関係ないことを考えてしまったりする
集中力不足なところに時折悩まされてしまうが、そのときの感覚は非常に妙で、
眼と耳でとらえた世界と脳で描いた世界が交わらないのに同時並行的に存続してる。
眼でとらえた部分は記憶からはみ出てしまう(残っていない)こともしばしば起こるが、
耳でとらえた部分は脳に描いた世界と融合してしまうようなことがある。
音楽が一瞬にして脳に《記憶》を拡げる力を有しているのは、そのせいかもしれない。
『生きてるものはいないのか』で感じた違和感は、
単純なズレという誤差によるものだけでなく、映像と音声の時間が重層化することで、
映像において起こっている《終末》とは別の時間(後の時制として認識してしまう)を
感じて起こる弛緩(緊迫とは真逆)のせいだろう。
単なる閉塞とは異なる《ユルイ終末》の演出としてそうした効果を用いていたとしたら、
(そうやって構築された「世界観」は全く好みではないが)お見事!完敗である。
基本的に女流作家というものに苦手意識のある自分としては、
世界を広げるためにも何とか機会をみつけてはそうした意識を払拭したいと常々思い、
小説よりは映画の方が入り易い気もして(現に好きな女性監督なら結構いるし)、
今回の企画はもってこいな気がしていたが、
予習がてら読んだデュラスの中篇と戯曲は正直好みではなかった・・・
しかし、こうして映像作品から入ってみるとやっぱり得るものが大きい。
彼女の映像作品では、文学者だけあって言葉や音声が大きな意味をもつようだ。
それゆえに、原語(フランス語)のまま感覚的にも享受できたらどれ程の享楽か。
そんな叶わぬ自分とのズレも想像の余地として《奥行》化を図りつつ、
今週はデュラスの世界に心酔してみたい。