(下高井戸シネマ:8月18日~24日11:40/13:45) 全国順次公開中
監督をつとめるジム・ローチは、本作で映画監督デビューとなる。
大学で哲学を学び、ジャーナリストを志し、ドキュメンタリーでテレビの世界へ。
その後、テレビドラマの演出を着実にこなし、いよいよ初長編映画を手がけることに。
父は同じくテレビの仕事からキャリアをスタートさせ、いまや巨匠たるケン・ローチ。
本作のシノプシスを知り、父と「同じ土俵」に挑もうとしている気概に感心するも、
些か無謀に思えなくもなく、ケン・ローチ作品をこよなく愛する自分としては、
観る前から勝手な憶測で識らず識らずのうちに二の足を踏んでいた気がする。
一見甘ったるい印象のタイトルやキーヴィジュアルも又、変な心配を喚起した。
しかし、実際に観てみると、父からの見事な継承を感じさせながらも、
ジムならでは篤実と厳格が確かに全編しみ渡ってる。
ケン・ローチの息子のデビュー作ではなく、
ジム・ローチのデビュー作。
主人公(エミリー・ワトソン)はソーシャル・ワーカー、しかも彼女は母でもある。
そんな彼女の眼を通して語られるなら、感情で感情に訴える術に走ることになるだろう。
ところが、驚くほどに移入を拒むかのような俯瞰の眼差しは、同情を駆逐する。
それは同時に、何か(誰か)を責めることで「解決」しようとする安易との訣別だ。
父ケン・ローチがこれまで貫いてきた常に自戒の先の慈愛の自愛。その不信。
救済であり闘争でもある彼女の物語に、
ジム・ローチはクライマックスもカタルシスも与えない。
あらゆる再会にドラマを与えない。そこに在る、そこに生起する姿を写す。
それらを最大の「見せ場」にすることは、本作が「贖罪」という癒しに堕してしまうから。
過去と現在を切り離し、過去を他者として責める自己(現在)。
しかし、過去は必ず現在に含まれて、不可分など不可能だ。
ならば、それをどう引き受ければいいのだろうか。
過去を奪われた人間も、過去を自在に育めたはずの人間も、
常に過去になる現在を生きている。喪われようがなかろうが、過去は常に在る。
そうした時間のなかで「自分とは誰か」という問いをつきつけられながら生きている。
喪われたアイデンティティを取り戻そうとする人間の方がより「自分」を掴み、
アイデンティティの喪失を憐れみ助ける者の自我が揺らぎ始める。
人間は、他者からの承認によって自己の存在を認められるところがある。
主人公のマーガレットは承認を授けるための仕事に従事し、
いつしか承認される機会を逸していってしまう。
だが、その時初めて、彼女が勤しんできた仕事の意味を知る。
その価値の大きさは不可避の代償を求めるが、
その使命を彼女自身のアイデンティティとして他者が認めるとき、
彼女は自分のために、自分の足で歩き出す。
主人公が終盤に訪れるある場所。
そこに隠遁している「罪人」こそ、自分が誰かがわからぬ「下僕」であり、
それは欲望の「奴隷」であることに自ら承服してしまった崩壊自我の「未成年」。
罪を憎んで人を憎まぬが、罪を恐れて罪を重ねる者の矛盾を憐れみながら認めない。
本作では怒りなどの感情をストレートに表出するような場面が極めて稀だ。
むしろ、それを堪え忍ぶ姿、あるいはそれに堪え続けた挙げ句自己に染みこんだ姿。
それを人間のひとつの優しさとして、人間に唯一残された「自由」として呈示する。
やや煽情的に響かないでもない女流作曲家によるスコアや、
ロードムービー的感傷がたびたび去来する構成から、
父ケン・ローチに比べればドラマ性を求める作風なのかと思っていると、
最後の最後に父親以上に厳粛な現実主義的側面を垣間見せられ驚いた。
(物語の最終場面に触れます。)
主人公が支援してきた人々が開いたクリスマス・パーティー。
彼女の夫や子供も出席。
参加者の女性が彼女の息子にプレゼントを私ながら冗談まじりに尋ねる。
「あなたから私たちにプレゼントはないの?」
息子は表情一つ変えずに答える。
「お母さんをあげたでしょ。」
強ばる主人公や周囲の人々の表情。
「そうね、私たちはそのプレゼントを本当に喜んでるわ」と答える女性。
そこで微笑をもらす息子に救われる一同。
その次の場面ではオーストラリアの彼女のオフィスから
イギリスに帰国するため去ってゆく夫と子供。涙で見送る主人公。
現実の厳しさを描くことに全くの妥協を許さぬ、畏るべきラストシークエンス。
客席では安堵まじりに咽び泣くような女性の声がしていたが、
私はむしろ出かかっていた涙がぴたりと止まってしまった。
息子の一言は、まぎれもなく主人公が払ってきた(いる)犠牲の大きさを、
彼女にも、観客にも決して「忘れさせまい」とする、紛れもない戒めだ。
しかし、その現実をただ受け容れるだけでなく、自覚し葛藤する。
彼女の選択の正しさだけを語って終わらない。
どの選択にも正しいとは言えない側面が付随する。
それを忘れない。それがどうしようもないことであったとしても。
迷いと悔恨の涙を常に両眼にためて、その源泉を抱きしめる。
「正しくない」ことを識っているとき、人はかろうじて「正しく」いられるのだろう。
そして、そんな想いだけが人を強くする。
◇イギリスとオーストラリアの共同制作である本作には、
オーストラリア気鋭のスタッフが多く参加している。
撮影監督のデンソン・ベイカーはその仕事をオーストラリアで高く評価されており、
本作もフィルムによるシネマスコープの画面で、臨場感と静観を見事に使い分けている。
閉塞を免れぬ展開のなか時折訪れる解放の風景(海や砂漠などの自然のなかで)は
心許なさと美しさを一手に引き受け、この物語の尊厳を詩情によって体現させる。
◇脚本のロナ・マンロは、ケン・ローチの『レディバード・レディバード』でも実話を基に
社会派作品ながら滋味あふるる筆致で物語に厚みと柔らかさを与えていた。
確かな脚本は勿論だが、やはりそれをどう演出し、どう映すかという段における
ジム・ローチの才気を私は感じずにはいられなかった。本当に今後が楽しみ。