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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

オレンジと太陽(2010/ジム・ローチ)

2012-08-19 23:59:04 | 映画 ア行

 

(下高井戸シネマ:8月18日~24日11:40/13:45) 全国順次公開中

 

監督をつとめるジム・ローチは、本作で映画監督デビューとなる。

大学で哲学を学び、ジャーナリストを志し、ドキュメンタリーでテレビの世界へ。

その後、テレビドラマの演出を着実にこなし、いよいよ初長編映画を手がけることに。

父は同じくテレビの仕事からキャリアをスタートさせ、いまや巨匠たるケン・ローチ。

本作のシノプシスを知り、父と「同じ土俵」に挑もうとしている気概に感心するも、

些か無謀に思えなくもなく、ケン・ローチ作品をこよなく愛する自分としては、

観る前から勝手な憶測で識らず識らずのうちに二の足を踏んでいた気がする。

一見甘ったるい印象のタイトルやキーヴィジュアルも又、変な心配を喚起した。

しかし、実際に観てみると、父からの見事な継承を感じさせながらも、

ジムならでは篤実と厳格が確かに全編しみ渡ってる。

ケン・ローチの息子のデビュー作ではなく、

ジム・ローチのデビュー作。

 

主人公(エミリー・ワトソン)はソーシャル・ワーカー、しかも彼女は母でもある。

そんな彼女の眼を通して語られるなら、感情で感情に訴える術に走ることになるだろう。

ところが、驚くほどに移入を拒むかのような俯瞰の眼差しは、同情を駆逐する。

それは同時に、何か(誰か)を責めることで「解決」しようとする安易との訣別だ。

父ケン・ローチがこれまで貫いてきた常に自戒の先の慈愛の自愛。その不信。

 

救済であり闘争でもある彼女の物語に、

ジム・ローチはクライマックスもカタルシスも与えない。

あらゆる再会にドラマを与えない。そこに在る、そこに生起する姿を写す。

それらを最大の「見せ場」にすることは、本作が「贖罪」という癒しに堕してしまうから。

過去と現在を切り離し、過去を他者として責める自己(現在)。

しかし、過去は必ず現在に含まれて、不可分など不可能だ。

ならば、それをどう引き受ければいいのだろうか。

過去を奪われた人間も、過去を自在に育めたはずの人間も、

常に過去になる現在を生きている。喪われようがなかろうが、過去は常に在る。

そうした時間のなかで「自分とは誰か」という問いをつきつけられながら生きている。

喪われたアイデンティティを取り戻そうとする人間の方がより「自分」を掴み、

アイデンティティの喪失を憐れみ助ける者の自我が揺らぎ始める。

 

人間は、他者からの承認によって自己の存在を認められるところがある。

主人公のマーガレットは承認を授けるための仕事に従事し、

いつしか承認される機会を逸していってしまう。

だが、その時初めて、彼女が勤しんできた仕事の意味を知る。

その価値の大きさは不可避の代償を求めるが、

その使命を彼女自身のアイデンティティとして他者が認めるとき、

彼女は自分のために、自分の足で歩き出す。

 

主人公が終盤に訪れるある場所。

そこに隠遁している「罪人」こそ、自分が誰かがわからぬ「下僕」であり、

それは欲望の「奴隷」であることに自ら承服してしまった崩壊自我の「未成年」。

罪を憎んで人を憎まぬが、罪を恐れて罪を重ねる者の矛盾を憐れみながら認めない。

本作では怒りなどの感情をストレートに表出するような場面が極めて稀だ。

むしろ、それを堪え忍ぶ姿、あるいはそれに堪え続けた挙げ句自己に染みこんだ姿。

それを人間のひとつの優しさとして、人間に唯一残された「自由」として呈示する。

 

やや煽情的に響かないでもない女流作曲家によるスコアや、

ロードムービー的感傷がたびたび去来する構成から、

父ケン・ローチに比べればドラマ性を求める作風なのかと思っていると、

最後の最後に父親以上に厳粛な現実主義的側面を垣間見せられ驚いた。

 

(物語の最終場面に触れます。)

 

主人公が支援してきた人々が開いたクリスマス・パーティー。

彼女の夫や子供も出席。

参加者の女性が彼女の息子にプレゼントを私ながら冗談まじりに尋ねる。

「あなたから私たちにプレゼントはないの?」

息子は表情一つ変えずに答える。

「お母さんをあげたでしょ。」

強ばる主人公や周囲の人々の表情。

「そうね、私たちはそのプレゼントを本当に喜んでるわ」と答える女性。

そこで微笑をもらす息子に救われる一同。

その次の場面ではオーストラリアの彼女のオフィスから

イギリスに帰国するため去ってゆく夫と子供。涙で見送る主人公。

現実の厳しさを描くことに全くの妥協を許さぬ、畏るべきラストシークエンス。

客席では安堵まじりに咽び泣くような女性の声がしていたが、

私はむしろ出かかっていた涙がぴたりと止まってしまった。

息子の一言は、まぎれもなく主人公が払ってきた(いる)犠牲の大きさを、

彼女にも、観客にも決して「忘れさせまい」とする、紛れもない戒めだ。

しかし、その現実をただ受け容れるだけでなく、自覚し葛藤する。

彼女の選択の正しさだけを語って終わらない。

どの選択にも正しいとは言えない側面が付随する。

それを忘れない。それがどうしようもないことであったとしても。

迷いと悔恨の涙を常に両眼にためて、その源泉を抱きしめる。

「正しくない」ことを識っているとき、人はかろうじて「正しく」いられるのだろう。

そして、そんな想いだけが人を強くする。

 

 

◇イギリスとオーストラリアの共同制作である本作には、

   オーストラリア気鋭のスタッフが多く参加している。

   撮影監督のデンソン・ベイカーはその仕事をオーストラリアで高く評価されており、

   本作もフィルムによるシネマスコープの画面で、臨場感と静観を見事に使い分けている。

   閉塞を免れぬ展開のなか時折訪れる解放の風景(海や砂漠などの自然のなかで)は

   心許なさと美しさを一手に引き受け、この物語の尊厳を詩情によって体現させる。

 

◇脚本のロナ・マンロは、ケン・ローチの『レディバード・レディバード』でも実話を基に

   社会派作品ながら滋味あふるる筆致で物語に厚みと柔らかさを与えていた。

   確かな脚本は勿論だが、やはりそれをどう演出し、どう映すかという段における

   ジム・ローチの才気を私は感じずにはいられなかった。本当に今後が楽しみ。

 


アメイジング・スパイダーマン(2012/マーク・ウェブ)

2012-07-13 23:59:19 | 映画 ア行

 

"amazing" は勿論、通例「素晴らしい」意を表す語なのだろうが、

"amaze"の語源には「困らせる」といった意が含まれているらしい。

確かにこの新シリーズのスパイダーマンは、困惑や戸惑いがどこまでも付きまとう。

それは、「新たな古典」と化したサム・ライミによるアメコミ映画の威光がチラつくからだし、

アンドリューもエマも役者キャリアが名実共に絶頂期を迎えたタイミングであるからだし、

マーク・ウェブが楽しくも切ない「僕らの」映画を送り出してくれた直後に手がけるから。

引き受ける方も、そのチャンスのデカさと引き替えに相当のリスク覚悟で臨んだに違いない。

その心意気だけでも正直涙ぐましいものだし、だからこそ実際に観るのが怖くもあった。

驚くほど聞こえてこない評判・・・好いも悪いも。おそらく明言の難しい感想なのだろう。

私も正直巧くまとめられるかわからぬが、逡巡しながらの観賞を終えたとき、

支持したい気持ちが我が身を貫いたことだけは確か。

アメイジング・スパイダーマン is アメイジング!

 

◆私の支持したい気持ちを喚起した最大の理由は、

   マーク・ウェブが「アクション」「ヒーロー」といったジャンル映画にまで執拗に(?)

   自らの青春パステル・スピリットを譲らぬ構えで臨んでいたこと。

   おかげで「ちぐはぐ」な印象は終始拭えないけれど、

   普通に勝負したら「勝ち」でようやく何とか「引き分け」なゲーム。

   しかも、そんな試合はそもそもマーク・ウェブのフィールドじゃない。

   ならば、前シリーズでは描けなかった、サム・ライミじゃやら(やれ)なかった、

   そしてトビー&キルステンでは醸せなかった「ときめき」こそがメモリアル。

   「ヒーローがラブコメに出てる」体で進行していると思いきや、

   「ラブコメの主人公がヒーローだった」的な流れが出来上がりつつある前半。

   後半ではしっかりアクションへと舵を取って手堅くまとめようと努めたものの、

   いっそのこと最後までラブコメ成分全開なのも悪くないんじゃないかとすら思えてきたり。

   勿論、それは多くの人が求めるスパイダーマン映画とは懸け離れているだろうから、

   マーク・ウェブの「反動」は正しいのだろうけれど、ちょっぴり新たな地平を今後も期待。

   (『(500)日のサマー』だって、そもそも相当アクロバティックな恋愛映画だった訳だし、

     恋愛の高低差とアクションの緩急が見事にシンクロ&シナジーする映画、期待できそう。)

 

◆本作を支持したいもう一つの大きな要因は、二項対立を爽やかに氷解させる「健全」さ。

   ベンおじさんの「仕返しは解決ではない(むしろ、エゴを満たすだけ)」という主張。

   アメリカの大作映画には珍しい健気で全うな非弁証法的信じる力。

   勿論、バットマン新シリーズにおける「善悪」の問題に関する本気の煩悶は、

   現代のテキストとして最上の問題提起をもたらして来たし、最新作でも見事だろう。

   しかし、同年の近い時期に公開されることを意識してか否かはわからぬが、

   善と悪が対峙することでうまれる葛藤とは違った形で境界線を消そうとするのが本作。

   だって、本作においてはそもそも「明白な敵」が存在していない。

   トカゲ人間へと変貌を遂げるコナーズ博士(リス・エヴァンス)は

   そもそも悪役でも敵でもない。

   本作における最大の敵は「慢心」であったり(ピーターの調子乗りっぷりも象徴)、

   「利己心」であったり(自らの生命や権力へ固執する研究者や実力者)して、

   罪を憎んで人を憎まず的信条を貫こうとしているように思えてしまう。

   だから、活劇としての醍醐味は確かにいくらか(いや随分と)削がれてしまう。

   何しろ「やれやれ!」といった好戦モードで観戦するお膳立てが皆無だから。

   かといって、ダークナイト的に「ふりあげられない拳の震え」に涙する物語でもない。

   「北風と太陽」なら明らかに「太陽」オンリーで勝負に臨むような非イマドキさ。

   蜘蛛の糸が常に「落とすまい」とし、引き揚げ、重力(悪しきに流れる性)に抗い続ける。

   だからこそ、ラストの「落とすまい」は蹴落とす社会から転倒するための希望の象徴。

   詳しくは語られなかったが、ピーターの父が同僚で親友のコナーズ博士に語ったであろう

   「太陽」の言葉も、そうした重力から自由になるための「糸」として残っていたはずだ。

 

◆個人的には、スパイダーマンのイメージ(これはおそらく私が幼少期に観たであろう、

   日本版ドラマの再放送か何かの影響か!?)はかなりスリム体型だったりもしたので、

   トビー・マグワイアのがっしり体型には当初、正直違和感を覚えたりもしたものだ。

   勿論、次第に慣れはしたが、やはり今回のアンドリュー版を観てこちらの方がしっくり。

   手足を曲げたりしたヴィジュアルにおける「蜘蛛っぽさ」はやはり細長い手足が似合う。

   そのかわり(原作では強調されていたらしい)腕力などが余り発揮されておらず、

   人によってはそのあたりは物足りなかったり貧弱に映ったりするかもしれない。

   私もライミ版は大好きだし成功してると思っているが、

   ウェブ版はキャスティング含め「明らかに違う側面に陽を当てよう」的発想が好感だ。

   全部が全部うまくはいってないと思うし、アクション演出はまだぎこちなかったり、

   活劇としての語りの停滞は致命的と思えなくもない。でも、だからこそ次が観たい。

   マーク・ウェブが続投するかどうかはわからぬが、

   サム・ライミだって「2」で見事な飛躍を遂げたし、マーク・ウェブの「2」が楽しみだ。

   いろんな要素をまとめて全面的に彼らしく仕上げてくれると期待したい。

   そう考えれば、この第一章は上出来な「ホップ」に思えてしまう。

   (クリストファー・ノーランだって「ホップ」はねぇ・・・。だから、やっぱり「ステップ」本命!)

 

◆ただ具体的な不満がないでもなくて、最も微妙なのはやはり「3D」。

   私はIMAX(字幕版)で観賞したのだが、観づらくはないものの、3Dを観てる感覚皆無。

   ごくたまぁ~に飛び出したり奥行きが生まれたりしてて、「そういえば、これ3D映画」程度。

   空からビル群を映している場面で、高層ビルの飛び出し感が異様に強調された時には、

   「あぁ、これが例のAlways3Dで東京タワーしか飛び出さなかった事件ってやつか」気分。

   おまけに、最後の最後でスパイダーマンがこちらに向かって糸を放とうとすると・・・

   「え?何故そこで止める???」という不可解な焦らし3D。

   ただ、予告観たとき頭をよぎった「スパイディの動きに3Dが耐えられるか問題」は、

   こうした3D効果多用(重視)回避によって解決をみたのかもしれず、

   確かに予想以上に眼に優しい上映ではあった。

   ただ、かなり3D感強調してそうな『アベンジャーズ』と、

   あくまで2Dでじっくり魅せます『ダークナイト・ライジング』の間に挟まれて、

   何とも分の悪いハンパ3D映画っぽくなってしまったのは可哀想。

   3Dじゃなくて好いから、もっと派手に動き回ったり飛び回ったりする姿が観たいかも。

   次回は非3Dで、ただ摩天楼空中散歩はIMAX撮影で、とかが個人的には希望。

 

◆ピーターが廊下でスケボー乗ったり、意外と強気でマッチョに立ち向かったり、

   全然イジられキャラじゃない説から人物造形の不可解さを指摘する意見はわかるけど、

   アンドリュー・ガーフィールドをキャスティングした時点でトビーより明らかにイケてる訳で、

   だからこそ「周りからどう思われてるか」よりも「自分で自分をどう思うか」に重きを置いて、

   臆病や慢心や閉塞や勇気という《emotion》を《motion》と直結させるのは「正しい」かと。

   (ラストの授業場面でも、あらゆる物語のテーマは結局《Who am I?》だと語られる。)

   それに「いじめられっ子」的描写を強くすると、「絶対的被害者」的側面が強調されて、

   復讐の正当化(というより、それを希求する起爆装置)となる状況を生み出しかねない。

   だからこそ、「いじめる側も実は好い奴」描写が早々にあっさり挿入されてたり。

   そうした関係が全く硬直化されておらず、容易に転倒されるという点も、やや新鮮。

   やはり、流動するヒエラルキーの背後にある人間の欲望こそを唯一敵視してるのだろう。

 

◆ピーターとグウェンが青い服を着て歩いてるシーンは、

   『(500)日のサマー』オマージュ(って言わない?)な気がして、ちょっと嬉しくなった。

 

◆最近観た『星の旅人たち』(愛おしい映画だった)では息子を亡くした役の

   マーティン・シーン。彼が本作では兄弟を失い、自らも生者にメッセージを残して逝く。

   永い永い旅を終えた『星の旅人たち』の彼の物語の続きを観ている如き感慨も。

 

◆開巻と同時に登場するピーターの父。演じるのはキャンベル・スコット。

   アメリカのTVドラマ『救命医ハンク』の準レギュラーであるボリス役を演じる彼。

   同ドラマが好きな私はその時点で浮かれるも、ピーターがオズコープ社を訪れると

   その受付嬢がなんとジル・フリント!『救命医ハンク』のジル役(レギュラー)!!

 

(結末に触れます)

 

◆グウェンの父、最後の言葉は単純なようで実は意味深長。

   彼は「街に必要とされるヒーロー」としてスパイダーマンを認めるが、

   そうした彼には常に危険が伴うゆえに、娘からは離れろと告げる。

   これは明らかに警官としての自分自身と重ねての発言のようにも受け取れる。

   いま、私もこうして「犠牲」のもとに「ヒーロー」となった訳だが、

   そうした「ヒーロー」を愛する者たち(妻子)は常に傷つく運命にある。

   そんな彼が最後に託した「約束」とは、どんな意味をもつのだろうか。

   次作以降の課題であり、大きなテーマにつながりそうだ。

 


アクネ(2008/フェデリコ・ベイロー)

2012-06-14 23:25:05 | 映画 ア行

 

シアターN渋谷のモーニング&レイトショーで3週間限定公開。

3週間でも長いくらいで「限定」を後悔!?

最終日前日のモーニングショーに観客は一桁。

レディースデーなのに、全員男性・・・。

 

とはいえ、作品自体に魅力がないわけでは決してなく、

至って「配給してくれて、ありがとう」な小粋チャーミングな愛すべき小品だった。

傑作や良作といった範疇にはおさまらぬミニシアター作品は苦戦を強いられる昨今、

本作もやや独特な味わいがあるが故、宣伝も苦慮しただろうし、劇場選定も難航してそう。

声高にブラボー叫びたくなる傑作や、とりあえず誰にでも薦められる良作とは違った、

極めてパーソナルに噛みしめて、極めて稀な不意の想起に現れる。そんな映画。

 

ポスターやチラシのイメージでは、

それこそルイ・マルの『好奇心』あたりを思わせ、

少年の性のめざめっぽい印象を与えてしまいそうなのだが、

本作の主人公ラファエルは13歳にして「めざめ」どころか実際に済ませている。

13歳だから(おそらく)ユダヤ教の「成人祝い」も終え、ファーストキスも済まぬうちに、

親の金で娼婦と事は済ませてしまった。勢いで、娼婦にキスを迫るも拒否られて・・・

「口へのキスは恋人とするものよ」などと諭される始末。

 

当然、意中の女の子だってクラスにいる。

ストレートヘアが美しいブロンドの少女、ニコラ。

成人祝いの宴のときには、ほんの少しだけダンスを踊ったこともある。

が、彼女は覚えてすらいない。ラファエルはその場面をビデオで何度も見返してるのに。

 

まぁ、そんな話で、当然ラファエルの仲間たちとのエピソードなどもそこそこあれば、

離婚前後の両親の微妙な空気と子供への関心薄(対照的にさりげなく親への興味

というか心配を抱く子供たち)が微かな変化を淡々と収めながら物語が紡がれる。

 

経験済みなくせして、プールではバスタオルスカートで完全ガード着替えをしたり、

自分の二の腕に唇あてて、キスの感触に恋い焦がれたり。

ニキビを気にしてるくせして、クリームこってりなケーキをカフェで注文したり。

思春期ならではの、胸キュンというより青イタ(青臭くてイタイ)な矛盾メンタルがいじらしい。

 

ニコラとだって挨拶のキスは交わすわけで、

恋い焦がれる夢までの距離はあと数センチ。

数センチの果てしなさを、ラファエルはじーっと見つめる。

その視線にニコラは些かの迷惑と母性にも似た慰安で包んでは躱してく。

 

小さな小さな挿話の羅列のように、淡々と日常を拾い集める物語。

静観するカメラは、不自然なフレーミングなどないものの、いちいち魅惑な構図をみせる。

デジタル上映だったこともあるかもしれないが、奥行をあえて消すかのようなフラットな画は、

深遠なる浅薄を実行し続ける思春期の心象風景として妙なシンクロを感じも出来た。

 

とにかく「青」が印象的で(だからこそたまに出現する「赤」にドキッとする)、

濃い青、淡い青、明るい青、暗い青。いずれもクッキリな色味は、静かな画をひきしめる。

放課後の誰もいない教室でリップクリームを塗るラファエルの画など、

手前も奥も渾然一体の青と矩形の見事な競演。

 

ラファエルはスイミングやテニスのみならず、ピアノも習っている。

オープニングで下手くそなモーツァルトのピアノソナタが聞こえてくる。

勿論、エンディングでは・・・。『エレファント』の月光(ベートーベン)の切なさとは全く異なる、

やるせなくはないやる気なさ。だってピアノの先生は、太めのおばさんだからね(笑)

 

そうそう、画といえば、何度か登場する影絵な画面の魅力。

ラファエルの髪型が髪型なだけに、その味わいは格別。

 

特に仲の好かった友人アンディが休暇を利用してイスラエルに行ったまま、

移住してしまうという現実。アンディは軍に入るとかいう会話も聞こえたりした。

社会的な現実も背景として時折ヴィヴィッドに顔を出す。

ラファエルとは全く異種の切なき現実。

しかし、そうした立場や背景を超越して共有できるのも、青春の蹉跌。

 

舞台がウルグアイの海岸の街ということもあり、

さまざまな映画でお目にかかってきた街並の記憶が交錯しつつも収まりつかぬ、

懐かしいような新鮮なようなランドスケープ。それもまた一つの見所かも。

 

さりげなく、でもどこかじんわりと、記憶の小径に軽く残される足跡みたいに、

「そういえば・・・」的に思い出す小品を、そういえば最近観てないなぁって感覚に、

珍しく応えてくれるささやかな幸せ。こういう映画だって日本で観たい。

 

 


宇宙兄弟(2012/森義隆)

2012-05-12 23:58:56 | 映画 ア行

 

変に奇を衒わずに、爽やかなポップさにあふれるカラフル予告。

コールドプレイの疾走感と見事なマッチング。

こんなに素直に胸を躍らせることのできる邦画なんて、いつぶりだろう?

だから、本当かなり楽しみにしてたし、期待して観に行ったんだよな。

 

でも、結論から言うと、俺は完全にダメだった。

とはいえ、肯定派のみならず絶賛派の声もきかれる事実を知れば知るほど、

自分のツボとはとことんズレてただけなのかな、ともつくづく思い直してみたりもした。

だから、感想のまとめとしては、その「ズレ」を検証していきながら、

自分のツボを確認する機会にでもできればな、と。

 

ちなみに、原作は全く読んでもいなければ、

原作に関する知識というか情報も皆無に近いくらいの状態で観賞に臨みました。

したがって、原作既読者および既読で観た方からすると、

見当違いも甚だしい指摘や不満や疑問が並ぶかもしれませんが、

お許しください。

以下、完全に個人的嗜好を基準に感情的に語ります(笑)

(後半では結末まで含めて書いていきますので、ネタバレ自主注意!)

 

◆オープニングからセンチメンタル全開な回想シーンってどうよ・・・。

   おまけに、そのシーンが物語の終盤どころか中盤にすら差し掛からない序盤に

   繰り返し引用されるって、何手法?何効果狙い?

   というか、別に回想から始まるのは全然ありだと思うけど、

   この回想に全然あふれてないんですわ>ジュヴナイル感。

   そりゃそうだよな。彼等の日常や背景といったコンテクストが皆無。

   あの場面が単体で「大切なんだ!」と叫ぼうとしたところで、そうなのね・・・。

   JAXAに通いまくってる「いい話」も魅力的には思うけど、あれだけ?

   というか、要は幼少期もそうなんだけど、基本的に彼等が各々どんな人物で、

   二人はどういった関係性で、互いをどう思ったり、互いにどんな結びつきがあるのか。

   そういったことへの「言及」(台詞に限らず)が余りにも少なすぎるように感じる・・・のは、

   俺の眼が節穴なのか、原作知ってることが最低限のリテラシーだからなのか?

   つまり、ほんのちょっとの過去(幼少期)の断片が提示されるのみで、

   あとは現在だけで基本進行する物語。

   その物語だけでは解し難い人物像や二者の関係性を、

   こちらは勝手に(というか随分と楽天的好意的に)解釈せねば、

   眼前で展開されている主人公たちの言動に感じ入ることができない感覚だ。

   せめて回想シーンの幼少期と現在の間に流れた《時間》を想起させるような仕掛け、

   というか「現在」のもつ意味を観客が(というか俺が(笑))体感できるような経緯を、

   多少なりとも挿入して欲しいと願うのは、野暮な要求なのだろうか。

   あれだけじゃ、子供の頃にUFO見て宇宙行くって決意の約束を交わした兄弟が、

   弟は優秀とはいえ超絶順風満帆に、兄は少し遅れるもやっぱり見事な起死回生で、

   結局は二人そろって仲良く宇宙に行けました!イェーイ!みたいな・・・印象しか残らず。

   宇宙への「衝動」レベルの想いや、兄弟ゆえの絆と呪縛、コンプレックスと憧憬、

   煩悶や葛藤や超克、などといった原作の魅力の中枢であろう(完全に想像ですが)

   エッセンスが全く抽出されなかったのです。俺が観てる間においては。

   本当に、俺があまりに意識が鈍りすぎていたのだろうか・・・

   前日の人間ドックの採決で血も涙もなくなってしまったのか、

   バリウムが感情の潤いまで吸い尽くしてしまったのか・・・

   そんな身体の異常まで疑い出すほど、凄まじい不感なままで序盤が終了。

 

◆ただ、フロリダの風景(おもに空)は最高に綺麗でした。

   ロケット打ち上げ前の空からの撮影(予告で印象的な)の画はベタカッコイイ!

   そういうキャッチーな画が時折観られるのは本当に「映画感」を増幅さすものの、

   そうした画面とは裏腹なもたつくテンポやいびつなリズムがドラマをいちいち失速させる。

   思うに(ここからさらに独断色濃厚)、ドキュメンタリー出身らしい森監督は、

   こういったタイプの作品には全然向いていないのでは?

   『ひゃくはち』はボロ泣きの感動したくせに、作品全体としては印象薄く、

   心底「よかったぁ~」なんて想いが後に残らぬ微妙な作品だったのだが(俺の中で)、

   本作も同様な印象を受けると同時に、『ひゃくはち』のまったり感が本作にも共通し、

   そうしたテンポに最後までなじめず。

   もしかしたら、繰り返し見させられてきた予告から受ける本作のトーン(これはあくまで

   俺自身が勝手につくりあげてしまっただけかもしれぬが)との乖離が

   違和感として本編にこびりついたまま離れなかったのかも。

   つまり、躍動感や疾走感に「胸躍る」場面や展開に欠けていた。

   そういうものを求める映画(物語)じゃないのかもしれないけれど。

   (ただ、オープニングは[別の人がつくってる?からか]そういった方向だったよね。)

 

◆些末すぎることだけど、なぜ六太(小栗旬)のナレーション(モノローグ)の一人称が、

   「わたし」なのだろうか。劇中では普通に「僕」とか「俺」とかだったのに。

   「わたし」を使う効果があるとすれば、それは《現在》よりも時間がたった時点から

   《現在》を回想しているという構造を採っている場合だと思う。

   つまり、もう中年あるいは壮年となった六太が回想するという入れ子的な。

   まぁ、その場合の六太の声はだいぶ「老いて」いるべきだろうけど。

   でも、そういった趣旨はないようだから、あえて自分を相対化するような

   「わたし」という一人称で語り始めさせた意図(意義)は不明瞭。

 

◆そのくせ、面接時のネジの話とかは無粋なほどのしつこい説明描写。

   ああいうのは、「あれ?もしかしてなんかいじってない?」くらいにしておいて、

   タネ明かしで「あぁ!あれって・・・」な展開が定石でしょう。

   というか、本作における定石外し(ベタ忌避)はハンパないように思う。

   例えば、「知らないどこかのおっちゃん」だったバズ・オルドリンと

   TVか何かで再会し、「あぁ~~、あのときのオヤジってぇ~」とか。

   で、その「気づき」から彼の言葉の真意が自分のなかで広がりに広がる、とかさ。

   あと、地球にいる六太の「死ぬなーーー」って叫びが、

   月で昏睡しかかった日々人の耳に《届く》ってベタベタな展開は入れちゃダメなの?

   手垢のついたベタだって、定石たる効力を最大限に発揮すると思うんだけど。

   たまには気持ちよく(素直に、爽快に)心が高揚したいもの。

   画の面ではそういった(過去の作品[特にSF系]からの)継承を

   素直に敬意を払いつつ引用・借用・援用させてもらっている印象で、

   眼は(日本映画にはめずらしく)かなり楽しませてもらえたわけだけど、

   やはり「語り」の部分においては全く違う。

   ドキュメンタリー出身だから、極端に「作為」を嫌い過ぎな気もする。

   とはいえ、やたらと説明的な台詞のやりとりには鈍感すぎるが。

   って、これは脚本の問題か。

   大森美香ってドラマ書き始めた頃は、

   軽妙洒脱な雰囲気に小悪魔的毒っ気のスパイス効いた感じだったけど、

   最近のフィルモみると・・・

   少なくとも、今回の「男」「ロマン」「兄弟」「宇宙」なんてものが核のロングストーリーは、

   女性による捨象と抽象は無理があったように思うのですが。

 

◆感情移入を拒絶されるような感覚は、

   登場人物たちの行動の細部を雑に描きすぎているからな気もする。

   フロリダの日々人(岡田将生)の家で六太(小栗旬)がポップコーンとろうとして

   落としてしまう場面。どう考えても、不自然。そんな「とり方」しない。

   「無理してとろうとする」のト書きは、どんなとり方しても落とせばいいわけではない。

   そして、そのとき都合よく発見する「家族へ」の封筒(遺書在中)。

   おいおいおい。そんなとこには絶対置いとかねーだろが。

   あの見つけ方だってもっとドラマチックに描けるはずだろうに。

   ちなみに、ポップコーンを犬が食べに来るんだけど、

   「遺書」を読んでる間はスタンバってたのか?また不自然。

   最大の感情移入拒絶は、月での事故。ただの無用心・不注意じゃねーか。

 

◆これは最もナンセンス指摘(「おまえ、わかってないなぁ」なだけかもしれない疑問)

   かもしれないが、兄弟が一緒にいる時間(共演する時間)が余りにも短すぎね?

   原作ではどうなってるのか知らないけど、折角あの二人のバディ感みたいなものに

   熱いものを感じたりするのかと思ったら、なんか随分まったりした二人の時間だけが

   束の間挿入されてただけって印象で・・・。

   まぁ、それはラストへの壮大な助走かもしれないが、

   その後にくるホップ・ステップのあまりのぞんざいさに、

   最後のジャンプが全然飛躍しない。助走も助走として機能しない。

 

◆月面に兄弟で着陸して日の丸立てるっていう「感動的」な場面は、

   確かにラストシーンとしては相応しいのだろうけれど、

   ここはやっぱり打ち上げシーン(さぁ、これからいよいよ長年の二人の夢の実現だ!)

   の最高潮で締めくくるっていう後味も爽快だったりしたかもなぁ~とか。

   (まぁ、誰でも思うようなストレートすぎなベタラストではありますが)

   そして、そこに「Every Tear ~」のイントロがかぶさってきて、暗転!

   エンドロールの途中でさりげなく月面着陸と日の丸立てが映ったりする。

   そして、エンドロールが流れ終わった後に浮かび上がる二人の写真。

   くらいの、ベッタベタを期待してしまう俺は所詮、

   「おまえは〇〇〇でも観ておけっ!」って言われてしまうような映画素人かも。

 

   でも、本作の後に『ブライズメイズ』を観て、

   定石のもつ素晴らしさと、それを活用した上でちょっとズラした時の破壊力を

   心底思い知らされたりもしたもので、やっぱり《歴史》は受け取ってナンボかな、と。

 

こんなのつくられてるんだね。邦題がダサすぎる上に誤訳じゃね?な残念感。

 


おとなのけんか(2011/ロマン・ポランスキー)

2012-02-27 23:58:16 | 映画 ア行

  これから観るつもりの人は、予告観ない方が純粋に楽しめるよ!

 

このキャスティングで、その内容、あの監督で面白くないわけがない。

完全無欠の79分。匠な面々の巧みが連綿、緩急なんてつけてる暇はない。

誰かが踏んだアクセルは、ブレーキ不能でアクセル返し。

 

シネスコに浮かぶ4人の佇まいは、広すぎる空間を心許なく彷徨い続ける。

交わされる言葉の空々しさと、作風とは不釣合いな画面の余白が見事に競演。

その気になればいつでも相対化できる「鏡」の存在。しかし、見向きもせずに、

   I get angry, therefore I am.

いわば密室劇であるにもかかわらず、窓外には常に不敵な贅沢ランドスケープ。

そして、いわゆる勝ち組な方々の「キッカケさえあれば」という念願成就の爆発。

案外、「人生最悪の日」と「人生最高の日」は紙一重なのかも。

だって、素だろうが(登場人物的に)演じてようが(役者的に)凄まじい発散ぶり。

原題の「carnage」は大量殺戮や大虐殺を意味する語らしいけど、

それが可能になる背後には必ず凄惨な異常恍惚の心理があるわけで、

あの高揚感(激昂すればするほど役者冥利に尽きる職業病)からしても、

いかに徹底的な打倒に歓喜する獣性が人間に潜んでいるがわかる。

それを俯瞰で観て楽しんでいるつもりの自分がふと足元見てみれば、

それは束の間の安全地帯(客席という蚊帳の外)にいるからに過ぎない事実。

 

中盤にさしかかったあたりだっただろうか。

近くに座っていた客が携帯電話をいじりだす・・・

そういった光景は昨今、それほど珍しくはないのだが、

作品が作品だけに(観ればわかります)、その感覚に戦慄。

勿論イラッとは来たが、それ以上にこれまでもケータイネタに笑い、

その後もケータイネタに笑っている彼の精神構造が怖い。

さりげなく普通にケータイ出していじってたからね・・・

とりあげてトイレにでも落としてくれば好かったかな(笑)

『おとなのけんか』観ながら、おとなのけんか。

 

本作では登場人物の逆鱗に触れるポイントが悉く、

画集やケータイ、化粧品といった自分のコア・アイテムへの攻撃だったりしたから、

そういった意味では、映画観てる時の「妨害」に最高レベルの怒りが込み上げるのも、

劇中の彼等を追体験してるようで、なかなか興味深かった。

・・・なんて冷静に思えるかっつーの!!