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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

インモータルズ-神々の戦い-(2011/ターセム・シン)

2011-11-14 23:58:32 | 映画 ア行

 

デヴィッド・フィンチャーやスパイク・ジョーンズなんかと比べても、

「好き!」と公言しづらいターセムことTarsem Singh

しかし、『落下の王国』ではいよいよ彼の作家性が芸術的高みへ導かれ、

いよいよ彼らと同様、脱(単なる)ヴィジュアリスト宣言が聞かれた気がしたが・・・。

 

観る前から不安で仕方なかった本作。

ターセムとの蜜月も終焉か!?と不安で臨んだ観賞だったが・・・

 

許す!(笑)

ターセムはもうフィンチャーとかジョーンズとかみたいに、

哲学やら風刺やらを凝縮した高尚な物語の領域に踏み入れんで好い!

あんたはこのまま、あくまで魅せることだけ考えれば好い!

そしていつまでも石岡瑛子とコラボってくれ!

内容無視の様式美で突っ走れ!

そういう覚悟で観続ける!

以上!!

 

というわけで、開始数分で腹を括れてしまったら、

あとはもう「眼」だけで楽しみ、「眼」だけが喜ぶ絵巻の時間。

日頃は物語重視で、そうした核がスカスカだったりするとすぐに難癖つけるくせに、

何ら物語ってないとすら思える本作なのにワクワクしどおしな自分に戸惑う始末。

性格最悪で、頭悪くて、態度とかムカつきまくるのに、顔は好み・・・

みたいな心地よい(んかい!?)自己矛盾な恍惚感。

 

そうした「無条件降伏」とは恐ろしく、ツッコミどころがむしろ愛おしい。

ダサくなるほど、カッコいい。イタくなるほど、アガってしまう。

そんな感覚にはもってこいの、間違いだらけの邦題事件。

国語辞典ですら「イモータル」なのに、なにゆえ中学男子の下ネタレベル?

おまけにタイトルの「IMMORTALS」の中心は、そもそも「神々」のみではないのでは?

ラストのあの昇天も指すだろうが、自らの生の足跡が不滅であれと願う想いも指すだろう。

勿論、神々の存在と重ね合わせてもいるだろうが、それでも軸足は地上にあるんでない?

まぁ、そうは言っても確かに『イモータルズ』だと内容もイメージも想像し難いしね。

いっそのこと『聖闘士テセウス-正義の復讐-』とかでも好かったんじゃね?(冗談)

 

ターセムの映像は、とにかく「遠景」として捉えられた自然や物や人の配置や関係に、

ドギツイほどの「人工感」が充満してて、それが堪らぬ者ならば、全てを許して拝んでしまう。

今回のように、あまりにも安っぽくて丸わかりなCGだって、そうしたターセム・コーティングなら

観客側にも(人によって大いに異なるだろうが)幾分許容の準備も整うってものかもしれぬ。

ただ、デジタル上映だとCGの作り物感が強調されてしまうのが残念。これは今後の課題?

(映画館で観ると気にならない「それ」は、これまでフィルムの雰囲気に拠ってたんだね。)

 

神々の衣装(というか甲冑)がいちいち魅惑すぎ。もっと堪能したかった。

しかし、腹八分ゆえの満足かもしれず、コンパクトだけど定期的な挿入はジャストかも。

人間の方の衣裳はそこそこ「地に足の着いた」ものでありながら、微妙な凝りにしびれたり。

ハイペリオン(ミッキー・ローク・・・もうこんな役回り専門になってきてるよな)の甲冑も、

ダサかっこいいというより、かっこいいダサさで貫く感じがキャラ相応。

テセウス(ヘンリー・カヴィル)のスカート(?)の丈の長さ、絶妙!

巷じゃ巫女衣裳の評判こそ好いみたいだけれど、個人的には

『トリシュナ』想起でそれほど惹かれず。

 

意外なほど本作にノレてしまった自分を分析してみれば(?)、

我々世代特有の好物、「大映ドラマ」ノリと「戦隊シリーズ」なパフォーマンスゆえかもしれず。

それらもよくよく考えりゃ、物語なんてどうでも好かった歌舞伎な(?)出し物。

そのくせ、あんだけアドレナリン過剰分泌な通路での突撃場面には、

肝心な激突直前に怯んで後ずさりする奴がいたりもしてて。

気まぐれなこだわり仕事に、ニヤリな気分。

 

次回作『Mirror, Mirror』も来年3月アメリカ公開ということで、

神話の次は寓話でやりたい放題してくれそうだ。

 

 

◆本作の公開日は11年11月11日ということで、

   予告なんかでは、神々が地上に降りてくるところの光跡で記せばよかったのに・・・

 

◆ミッキー・ロークとスティーヴン・ドーフが共演とは、

   近年のヴェネチア金獅子受賞作の主演男優競演ですな。

 

◆これにて今年のフリーダ・ピント祭りも終了。

   作品的には『猿の惑星:創世記』がダントツ素晴らしく、

   フリーダ堪能度は(本作と)僅差で『トリシュナ』かな。

   『ミラル』はエリック・ゴーティエによる映像楽しみに観に行ったのに、

   まさかのユーロの裏切り(サイトにも告知なしでブルーレイ上映へ変更)に失望し、

   内容の微妙さに更に落胆した夏の終わり・・・。

 

◆神様の紹介テロップって必要だったのだろうか?

   アポロなんて死ぬ間際に出されても・・・

 

◆テセウスの息子のキャスティングは、なにゆえ手抜き?

   ヘンリー・カヴィルとフリーダ・ピントの息子の突然変異ぶりにはちょっぴりがっかり。

   凛々しく闘う姿を観客に嘱望させるような「端整さ」が欲しかったな・・・。

   もしくは『グラディエーター』(例えが微妙に古い・・・)のラッセル・クロウの息子

   (『ライフ・イズ・ビューティフル』の子役)みたいな、「いじらしさ」が欲しかった。

 

 


明りを灯す人(2010/アクタン・アリム・クバト)

2011-10-19 23:55:45 | 映画 ア行

配給:ビターズ・エンド   上映館:シアターイメージフォーラムほか

 

本作を観る前に、

私が同じ渋谷で観た作品は今年のイラン映画『花嫁と角砂糖』 だった。

NHKアジア・フィルム・フェスティバルで上映された作品のうちの1本だ。

レザ・ミルキャリミ監督も土日の上映時には登壇したらしい。

そして、その翌日には黒澤と小津の墓参りをしたとのことだった。

本国でも封切られたばかり、しかも今年最大のヒットの呼び声も高いという。

黒澤的スペクタクルと小津的情緒が交錯し、それはもう豊饒で鮮やかな氾濫が

上映時間いっぱいに流れに流れる。群像劇という意味ではアルトマンばりの

個のアンサンブルも奏でつつ、キアロスタミ的「死」との対話も忘れない。

見事なまでの換骨奪胎は、もはや揺ぎないオリジナリティを響かせる。

日本でも劇場公開されることを願ってやまない。

 

そして、そんな逸品との邂逅を果たした後に観た本作。

奇しくも、そのNHKアジア・フィルム・フェスティバルで昨年上映された作品だ。

私はそこでの観賞は叶わなかったが、こうして劇場公開されたことにより

これまた唯一無二な映画との語らいの機会を得られた。

 

本作は、タイトルが面白い。

原題は『SVET-AKE』。(「明りさん」といった意味らしい)

英題は『THE LIGHT THIEF』。そして邦題が、『明りを灯す人』。

たとえば、原題が示すのはまさに主人公そのものであり、

その背後には彼らを慕う民衆の想いが漂ってもいるだろう。

そして英題ともなると、明りを「盗む」というわけで、これはダブルミーニング?

つまり、電気代を払わないで済むよう細工する主人公「明り屋さん」のことを指しつつも、

本来は自然からの恵みの一部であるエネルギーを独占する「権力」をも指しうる表現だ。

つまり、そこには「搾取」とそれに対する「抵抗」の二重性を垣間見ることができるだろう。

そして、一見センチメンタルな邦題は、3.11以降の日本社会に特別な意味を語りかける。

灯さずとも、点いていた、これまでの「明り」。明るいのが当然で、明るければ明るいだろう。

そんな無意識、無自覚で手にしていた「明り」に対し、「灯す」ことに自覚を回復した今年。

いままでは当たり前のように「伴す」といった趣だった感覚が、「共す」になり、

「友す」でなければならぬかのような意識に変わろうとしてるかもしれない。

 

どんな発電方法だったとしても、それはやはり自然からの恵みなのだろう。

それは「再生可能エネルギー」に限らず、一回性の原子力やら何やらだって同じだろう。

私たちの意識がどこかで狂ってしまったとしたら、それは「人間が創造主」として

電気の番人になり得るという勘違いからだったのではなかろうか。

 

「風車を作って村中の電力を賄うこと」を思い描いた主人公の夢に、

観る者が寄り添いながら見守るならば、そこには文明の奴隷になるまいと、

社会の下僕になるまいとする私たちのなかの「自然」が共鳴するからかもしれない。

 

しかし、主人公のような存在を疎む論理の到来と共に、

そうした「自然」は退けられ、葬り去られ、自然はあくまで人の手の入らぬ場所だけに

見出されるものと変わっていた。人間の故郷では在り得ずに、もはや別荘になったのだろう。

 

ところが、実はコンクリートもアスファルトも、自然なしには精製し得ぬものであり、

いま此処で灯っている明りとて、さまざまな自然を経て届いた光に違いない。

そうした不可視化した現実を確かめる、歴史の始まり、歴史の裏側の一端を垣間見る、

そんな極めて根本的な「人間と社会」の関係を80分に濃縮された叙事詩に思える。

 

◆近代文明の悪辣さを、糾弾ではなく淡々と明らめてゆく本作。

   つまり、そうした西洋文明は、それを欲さぬものまでをも巻き込んで拡大してきた。

   そうして巻き込んでおいて、彼らの享受は保証せず、自らの報酬のみが関心事。

   グローバル化は地球を一つにしたかもしれないが、人間を二つに大別し、

   宇宙船地球号においては何等もに階層化した船室のヒエラルキーが肥大化しただけだ。

   しかし、本作の美しさは、そうした欺瞞や矛盾を批判や否定の対象としてだけ描かない。

   むしろ、そうした否定への注視の回避に努め、肯定への原動力に変える逞しさ。

   高い樹に登り、降りられなくなった少年が、「山の向こう」への興味を語れば、

   「俺も昔、おまえのように知りたがったよ」と微笑む明り屋さん。

   彼らは決して「知らない」故の懐古趣味でも、無知に留まる無欲な存在でもないのだろう。

   あの空の青さや遠くに見える稜線美、真珠のような湖と、開放的にそよぐ風。

   人間の永遠なる憧れである悠久との戯れが、そこには明らかにあるではないか。

   しかし、そんな情景をこれ見よがしに見せつけるなどという「宣伝」はない。

   あるのは彼らの自然な生活であり、情味あふるる想いのつながり。

 

◆本作における「営み」に、根源的な姿を垣間見る一因としては、

   男性と女性の関係(?)が影響しているようにも思われる。

   キルギスはイスラム教の国なのだが、監督曰く「象徴的なイスラム教で、

   キルギスの家庭では、女性が重きを置かれ、重要な役割をしめている」らしい。

   従って、封建以前の自然な男子と母性の安らぎが、映画の底流をなしている。

   つまり、そこには「金にもならない」などと文句は言わず、

   「夢ばっかり見て」と罵ることもない、母なる妻が存在している。

   そうした偉大なる自然(母性)に守られて、男は何とか「明り」を灯して回る道を往く。

 

◆主人公がいつも被っている帽子は、

   「アック・カルパック」というキルギスの伝統的な民族帽子らしく、

   いまだに文化的なアイデンティティの象徴として愛用する者も多いとか。

   「床や地面に置いてはいけない」「無くしたら、自分の頭も無くしてしまう」などという

   言い伝えもあるらしく、そうした背景をふまえてみると、ラストの「帽子の扱い」が

   更なる感慨を呼び起こす。遠景ながらも「あっ、帽子が」と思わせる撮影と、

   知識もないのに注目させる語りと画の力。不知でも伝わる映像ポエジー。

   本作の最大の魅力はやはり、こうした普遍的な物語の力がみなぎっている点だろう。

   確かに、パンフ等でキルギスの状況を知った上で思い返すと様々な気づきがこみ上げる。

   しかし、それでも尚、観賞中にダイレクトに受け取ったメッセージの大きさには適わない。

   好い意味で「社会的ではない」映画なのだろう。社会ではなく、世界であり、自然である。

 

◆アクタン・アリム・クバト監督曰く、原題「SVET-AKE」の「SVET」とは、

   「光/明り」を意味すると共に、「世界/世間」や「兄弟」を意味するのだとか。

   そして、本作における光とは「実際の光であるとともに暗喩的な光、人々の人生を灯す明り」

   であるとも語っている。そう考えると、「明り」はどこにあるのだろうか。

   それは人工的に点けて得ようとしなくとも、元々「世界」にあるのじゃないか。

   人と人がつながれば、人と人とのつながりに、いつも「明り」が灯される。

   そうとでも言わんとするかのような、映画の光。

   そして、「電力」という語が異様な響きを持つに至った今の日本で、

   見直されるべきもう一つの「光」。外が明るさ増すほどに、内が暗がる都会の黄昏。

   外も光を失った、夜更けの日本のその先に、光あふるる夜明けを祈る。

   そこには、「暗喩的な光」こそ見出したい。

 

 


アジョシ(2010/イ・ジョンボム)

2011-09-30 23:59:10 | 映画 ア行

 

今更、こんなとこで書くべき必要性が微塵もないのは重々承知だが、

それを書くためにあるかのような必然性抜きに語れぬ映画なのだから・・・

 

  ウォン・ビン、マジかっけぇ~!!

 

あまりにカッコよすぎるから、どう考えたって「アジョシ」目線で没入すべきストーリーなのに、

ソミ目線で「アジョシ」の助けを待ってる姫様気分に時折見舞われちまったぞ(笑)

勿論、ソミの幼気な顔が映ればそりゃぁ、気持ちは「アジョシ」。

しかし、そこは間違っても「気持はウォン・ビン」といかぬ二枚目無双ビン様(って言う?)。

これは、全盛期のアラン・ドロン映画を観るときのようなウホウホ感ではないですか。

ため息ハンサム指数はまさに、『サムライ』アラン・ドロン級。

 

 

特筆すべき「見せ場」が随所に散りばめられ、娯楽映画の喜怒哀楽てんこ盛りなので、

場面的にもキャラ的にも、「あそこ、あそこ」「あいつ、あいつ」と観賞後会話炎上必定。

しかし、それらがただ「盛った」だけじゃなく、ただ「アガる」だけじゃなく、

緻密に計算しつくされた描き分けがシーンごとキャラごとになされているから心憎い。

ウォン・ビン演じるテシクの、自責に独り沈潜する深い悲しみにまみれた「静」と対照的な、

どこまでも騒がしく跳梁しまくる欲望たち。徹底したコントラストはノワール美学の前提条件。

 

手垢にまみれた「型」だとしても、徹底的に煮詰めていけば、

鮮度はどこかで急上昇。役割弁えまくった演者の魂、見事なまでのアンサンブル。

 

泣きポイントならいくつもバッチリ用意されてはいるが、

私がグググッと来ちまったのは、最後に出てくるピンクのリュック。

ソミを包んで来た色は、それまでくすみにくすんでき続けた。

そんな彼女が唯一手にした「非現実世界」の入り口だった音楽プレーヤー。

その「ピンク」がいま、リュックにかわって小さな二つの肩に載る。

そこに詰められた、たくさんのさまざまな「甘美なもの」たちは、

テシクの託した「夢」であり、「現実」を生き抜くための想い出の証。

今までなりたくてもなれなかった、「子供」と「父親」。

ようやく取り戻された、失われた自己。

ただの「アジョシ」が完結する。

 

 


ザ・ウォード/監禁病棟(2010/ジョン・カーペンター)

2011-09-18 18:37:06 | 映画 ア行

 

観終わった人の多くが思うであろう、本作の正しい邦題>アリス・イン・ウォードランド。

え?「正」しくも、「邦」題でもないって?まぁ、そんな細かいことは気にすんな。

そんな映画さ、カーペンター。やっぱり叶った、イエスタデイ・ワンス・モア。

でもでも実は、細かなこだわり、興奮アシスト、じわじわニンマリ、エクスタシー。

 

「ジェットコースター・ムービー」という言葉が象徴するように、

昨今のアトラクション的娯楽作は、無理矢理「暴走」で脅しにかかってしまいがち。

そのくせダラダラ2時間近くの長旅せまったりすることも・・・

それに引き換え、無駄なき90分で贅沢な旅を提供してくれる本作の鮮やかな貫禄に感服。

必要以上に前のめりを強いることもしなければ、置いてけぼりにされることもない。

過不足なき「ジャスト」な職人芸。キャストも構図も編集も、すべてまるごと適材適所。

傲慢さなど微塵もないのに、物語をしっかり「支配」してくれている作家然。

懐古趣味とは別次元、正しき過去からの解答例。新人類には温故知新。

「旧き好き」とは呼ばせない。「好き旧き」こそが猛威を奮う。

 

ラストにはお約束的謎解きが待っている。

最近の特徴としては過剰な焦らしや伏線のバラ撒き(ほとんどただの散乱状態)で

観客を振り回したり煙に巻き、謎への興味も減退しきって「はい、それでは正解です!」。

しかも、それが親切すぎる答え合わせか都合の好いとこだけ説明かのどちらか多し。

本作の「とっとと結論だけ言いやがれ」な展開は、それまで溜め込んだ助走エネルギーを

エンドロールの暗闇にまで連れてける行間咀嚼の「間」を残す。

常に「背後」に現れる、恐怖の影が明かされる。

しかし、それは「正面」衝突のはじまり、始まり。

 

「謎」の伏線を決してちゃちな台詞に拠ったりせずに、

シャワールームの窓から射し込む「光の不穏」で描いてみせる。

あの幾筋もの分裂した光が照らし出す、運命共同体の矛盾と氾濫。

画で語ってナンボの映画作家の矜持が炸裂。

 

これだけ女子が集まって、エロに頼らないどころか、

むしろガーリーな雰囲気すら弄ぶ趣味の好さ(笑)

(あ、でも終盤の「パンチラ」は、「そこでやるかいっ!」な匠の悪戯)

The Newbeats の 「RUN BABY RUN (BACK INTO MY ARMS)」をかけては

場違いなドリーミー空間が一瞬表出するウォードの一夜。

雷に掻き消される、束の間ハーモニー。Run Baby Run って今後の展開、

Back Into My Arms って更にその後の展開・・・。

細かすぎるよ、カーペンター。でもでも、わかりやすくて親切だから、

みんな大好き、カーペンター。

 

近頃横行している脅迫まがいのスリラーに、

正しい身の毛のよだち方、教えます。

「ゾクゾク」と「ワクワク」が同義だったってことを、

久しぶりに思い出す、極めて楽しい恐怖の館。

それだけで十分満足できる、物分りのイイ!方限定で、超推薦!!

 

Rottenじゃ批評家のフレッシュ31%のみならず、なんと観客は更にそれを下回る27%・・・

   6点割りにくいIMDbですら、5.6点という・・・。

   『リメンバー・ミー』に続き、今月の判官贔屓セレクション!?

 

◇配給してもらえるだけでも有り難がらねばならぬような昨今、

   シネパトスってチョイスは「正解」だけど、武蔵野館って・・・とか、

   やっぱシネスコだしでっかいスクリーンで、会社帰りのシネコン・レイトでまったり観たい・・・

  とか、言ったりしてはいけないんですよね?(笑)

   ましてや、公式サイトがFacebook使ってることに「微妙」などと呟くなど、言語道断!

   なんですよね?

 

最後に、これ観たら絶対観たくなる極上コメントだぁ!

 

というわけで、ジャンケンなんかしてる場合じゃないですぞ(笑)

 

 


インシディアス(2010/ジェームズ・ワン)

2011-08-29 13:48:45 | 映画 ア行

 

『パラノーマル・アクティヴィティ』 × 『ソウ』 とくれば・・・

普通は、「賞味期限切れ」って印象しか受けねぇーだろっ!

でも、RottenでもIMDbでも、そこそこの評価におさまってるってことは・・・

なぁ~んて他人を頼りにしちゃだめだって・・・反省します。

 

『ソウ』(一作目ね)を初めて観たときは、そりゃぁ楽しみましたとさ。

本国で話題騒然大ヒットも大納得な大満足で、劇場をニヤニヤとあとにした記憶あり。

それから年中行事化した『ソウ』シリーズも完結し、いよいよ柳の下の泥鰌も絶滅。

利子だけで食ってけるプロデューサー人生にそろそろ訣別せねば!

そんなジェームズ・ワンの新たな門出を祝う(?)本作。

 

ちなみに、いっつも『ドラゴンボール:エヴォリューション』の監督か!?

と誤った混同をしちまいがちなのが「ジェームズ・ウォン」。

関わった人すべてにとって黒歴史となり、ラジー賞にすら見向きもされなかった『ドラゴン~』。

ジェームズ・「ワン」が「あんな駄作撮る奴と一緒にしてれるな!」

と思ってるかどうかは知らないが、ジェームズ対決においちゃ

とりあえず「ワン」Wonだ(駄洒落かい)。

 

というわけで、確かに上映時間分はドキドキハラハラしはしたものの、

恐怖映画(とりわけ心霊もの)の表現技法においては世界有数の日本において、

この何とも粗雑な脅かしアトラクションムービーは、やはりイマイチ納得いかぬ。

文化の違いなのかな。ホラーといえば、「背筋ゾクッ」で、観賞後もしばらく後を引く恐怖こそ、

作品のもつ霊的なまでの浸透力として、恐怖と哀しみが死を通して生を語ってくれもする。

しかし、洋物はとにかく上映時間内でワーキャー言って、場外出たら「何食べる?」なノリ。

まぁ、それはそれで気軽に観られて好いかもしれないけど、だったら遊園地行けよ・・・。

などと、ひねくれたこと言っては身も蓋もなければ、ただの独善頑固オヤジだな。

 

それにしても、これは相当低予算で仕上げちゃってるよなぁ。

まさに、パラノーマル手法なんだろうけど、それでも100分ちょっとを一気に完走してるのは

キャストもスタッフも皆さん芸達者なんだろうとは思います。

確かに、いちいちドキッとはします。

 

あと、よくありがちな「早く引っ越せよ」な苛立ちも、実は本作ではあっさりと解消し、

むしろその先にこそ真の恐怖が待ち受けていたりする展開は、やや斬新な気もするが、

そこで結局ありがちな「悪魔祓い」的な展開に流れていくと、「また始まった」感もする。

しかし、ここで「新しい」と感じるか、違和感を覚えるかは人によるのだろうけれど、

やたらと科学的なアプローチで霊を感知しようとするんだよね。光学機器にしろ、

さまざまな計測器にしろ、極めつけは何なんだ、あの防毒マスクみたいなの・・・。

心霊ってそもそも「超自然」なものだって認識が根底にある日本人(だよね?)にとって、

科学の力を借りて成敗してやるわ!的ないかにも近代的な対立関係は、しっくり来ず。

おまけに、日本人はどうしても霊がらみには「因果応報」的な背景を求める傾向にあり、

だから『スペル』なんて大傑作を本国人以上に楽しめちゃったりする(独断)一方で、

本作のようなアクシデンタルな霊(というか、悪魔なのか)の接近も又しっくり来ない。

 

それに、あの悪魔(なのか?)のビジュアル、ダースモールをついつい思い出しちゃって・・・。

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おかげで、怖さの中身が違ってきちゃったんだけど・・・

ちなみに、最後の最後だけ彼がCGで壁をかけ抜けるシーンとか、

どんな意味があるわけ?予算余ったから、ここんとこCGで派手にやっとく!?みたいな感じ?

 

父親がラストに挑む展開は、最初観ていてなかなか興味深い新しさを感じもするんだけど、

異世界と現実世界が随分と綺麗に分断されたなかで起こっているような見え方が、

現実世界にいる者たちのハラハラドキドキを盛り上げ切れなかったようにも思う。

というか、カメラに映る「あちらの住人」が、こちらの人間に見えるのはどういう場合なの?

 

魂抜けちゃうダルトン演じる子役は、結構活躍してるみたい。

来月公開の『スリーデイズ』でもラッセル・クロウの息子役をやってる模様。

父親役のパトリック・ウィルソンは好きな脇役(リアリティある好青年な感じが好い)だし、

母親役のローズ・バーンは『ダメージ』(グレン・クローズ主演の海外ドラマ)のエレン役で

ずっと気になってたし、今年は『X-MEN』の新作でも(人間代表で)活躍してたし。

おまけに、『ブラック・スワン』でニナの母親やってたバーバラ・ハーシーまで出てきて、

(『ブラック・スワン』観た人にとっては)彼女のオーラこそが一番不穏に感じてしまうという。

そうした、この手の作品にしては豪華なキャストには、大いにお得感あり。