醉蝗茶房

80's&水滸&異常な日常

単に美意識の問題なんだけどさ

2008年10月28日 11時09分20秒 | 水滸
似た言葉だけど、世に「一所懸命」と「無我夢中」って言葉がありますな。
「一所懸命」は鎌倉期の武士の心情・習慣から来た言葉で、本来は自分の所領の維持に命を懸ける、転じて命懸けで何かを行うことっすね。
「無我夢中」もまさに文字通り、我を忘れて何かを行うこと、もしくはその状態っす。

寨主の美意識からするとね、前者より後者が美しい。
前者は何と言うか、意図しての必死さが傍から見ると暑苦しいっつーか、重苦しいっつーかね。
後者は意図しない何かしらの感情的なヒートアップで周りが見えてない、周りなんて見えないって感じかな?

例えば、前者の例は受験勉強、後者の例は遊んでる子供。
頑張って何かをすることを否定してるわけじゃないのよ、言っとくけど。
純粋に本人の心の在り様の話っす。
「好きこそ物の上手なれ」って言葉はこのことを言ってると思うんだけどね。
無心である状態、そのことだけに集中しきってる状態と言うのは、意図的にできないことはないけど、意図的だと長時間維持できないし、ひじょーに疲れるよね。
でも、楽しくて楽しくて夢中になってる時って、絶対疲れたりしないよね。

これ、禅語で言うところの「直心」ってことっす、寨主の理解の範囲では(笑)
素直で無雑な心の状態っすね。
あれこれ思い悩んだりしない、ピュアな心情と言うか。
例えば、子供が目の前の池で溺れてたとするでしょ?
ほとんどの人は、それを見た時、「あっ、助けなきゃ!」と思う筈。
でも、いざ池に飛び込んで助けるかと言うと、
・誰か助けないかな
・助けた後恥ずかしいな
・濡れちゃうのは嫌だな
等々、色々考えちゃって自分の行動が掣肘されちゃう人が多いよね、きっと。
この例で言うと、最初の「助けなきゃ!」って思う心が”直心”っすね。

つまり、李逵とか魯智深は直心の人ってことよ(笑)
その正反対が宋江になるけど。
金聖歎の好漢評も、全てがそーゆー観点じゃないけど、多分にそんな感じがするっす。

ん~、今日はオチがないな(^_^;