必ずすぐに戻ると言って、車に乗り保育園に向かいました。コダマのT字路に来ると、大国屋隣の元のマルシャンの建物の壁が崩れ落ちています。その先を用水路に沿って三ツ郷屋方面に入って行くと、車が大きく揺れます。あれ、こんな段差あったっけというくらい。大勢の人々が道路に出てきて、しゃがんでいます。
保育園の前に着くと、玄関前には職員10名ほどとと子ども達4名ほどがしゃがんでいます。お迎えに来ていた保護者の姿もあります。みんな玄関前に避難してきたのです。その中に、しっかり先生に抱っこされている娘の姿もありました。
「あ、次長先生!さくらちゃん、ここにいます。」みんなの元気な声に安心しました。「みんな大丈夫?」と言った言葉が、こみ上げてくるもので裏返りました。思わずしゃがみ込みました。
ホッとしてはいられませんでした。そうしている間にも余震が続くので、隣の公園に避難しました。近所の人も建物の中にいられなくて、大勢公園に移動していました。余震が来るたびに避難している人の間に悲鳴が起こり、立っている人たちはその場にしゃがみました。
時間が経つにつれて、寒さを感じるようになってきました。気象庁のデータを今見てみると、当日の長岡市の気温は16時の15.3℃をピークに1時間に1℃位ずつ温度が下がっていきます。寒さに澄み切った空に、星が輝いているのが見えます。職員の誰かが思わず「オリオン座がきれい」と言いました。
ラジオを聞いている人がいます。誰かが新幹線が脱線した!と言っています。
その日、妻と園長先生は埼玉県に新幹線を使い、研修に行っていました。研修を終えた夕方、地震の起こるしばらく前にセンターに電話をもらい、「これから帰るから、娘の迎えはわたしが行くね」と言っていましたが、まだ姿は見えません。2人は大丈夫なのか。ひどく心配でした。
職員がみんな、あちらこちらでケータイをいじっています。電話は通じないが、メールは通じるらしいとか、時々つながっては切れたりとかしています。電話回線の輻輳が生じていて、回線がダウンしているのか、ちっともつながりませんでした。
ようやく妻から誰かのケータイに電話が入りました。「今、ハイブ長岡のあたりを車で走っている」と。「どこだそれ?」と思いつつ、既に長岡に着いている事を聞いて安心しました。
センターに車で戻ると、職員3名が外で待っています。子ども達は井伊さんのご両親と希望が丘小のグラウンドに一緒に避難したとのこと。小川さんのみ保護者に引き渡せていないので、その確認を美佳、郁恵、石附先生に頼み、再び保育園に戻りました。
どれくらい経ったのか、しばらくすると妻と園長先生の姿が公園の入り口に見えました。お互いの無事を喜びました。
2人は長岡駅到着後、駅ビル1階のUCCカフェにいたところ、被災。外に急いで避難したとのこと。駅前は騒然として、大勢の人でごった返したと言います。富士山が噴火したらしいとか、情報が乱れ飛んでいました。園長の車が駅東口の新幹線利用者駐車場(とうちゃんらーめん向かい)にあったので、暗い街を2人で泣きながら歩いて、車に乗り込みました。混雑が予想される長生橋を避け、長岡大橋を渡って帰ってきました。橋の上でも、地震で揺れました。ハンドルがブレて、まっすぐ進めなかったといいます。
2人の無事を確認して、このまま公園にいるのは、寒くて危険と判断した私達は、屋内への避難を考えました。保育園の体育館を懐中電灯で照らし出すと、体育館は無傷でした。余震の危険はありましたが、鉄筋コンクリート造りで頑丈な太い柱のある体育館に避難を決意しました。
建物の中に入ると、寒さから隔絶されていて、ホッとしました。余震が来ましたが、体育館はビクともしません。安心感が広がりました。
大島保育園の様子を見に行くことにしました。希望が丘保育園も保育中で子ども達もいたのだから、大島保育園も大勢子ども達がいるに違いありません。車で移動するのは、ことによると渋滞にはまる危険があるので、アパートにある原付バイクを使うことにしました。
アパートに走って戻ります。途中の道路端に、しゃがみ込んで余震を園児とその保護者の姿が見えました。「大丈夫ですか?今、希望が丘保育園の体育館に職員と子ども達で自主避難しています。良かったらどうぞ!」と言って、走り去ります。
真っ暗なアパートを懐中電灯で照らしながら、防寒着を取りに入りました。土足はさすがに気が引けて、スリッパに履き替え、えいやっ!と意を決して入ります。
中は、玄関に置いてあった使ってない机が倒れ、リビングのテレビは落ちて、台所では食器棚の中身が崩れて床に破片が散乱、本棚が倒れて中の大量の本が散乱しています。冷蔵庫は傾き、引き出しやら扉やらが開き、中身が散乱。「あーーー」とかブチ切れながら、叫びつつ、入っていきました。
いつまた余震が来るのかもわからないため、とにかくあわてていました。先月買ったばかりの空気清浄機が倒れていました。あ~倒れちゃった、と思い、空気清浄機を起こしました。
今思えば、まったくばかばかしい話だけど。地震のときって、おどろくほど何もできないということがわかりました。センターで被災したときは、倒れた絵の具のボトルを立てたり、ひっくり返った扇風機を起こしたり。まったく、無意味なことなんだけど、そのときには必死でやっていました。
服のある和室は二つ入り口があり、一つは倒れた本棚が塞いでましたが、寝室側から入ることができ、当面必要そうな防寒着を取りだし、手袋を持って、バイクに戻ります。エンジンをかけ、大島へ。
「まるみや」さんの交差点の信号が消えています。道は、渋滞というほどでもなく、交通は混乱していません。大島保育園に着くまで、ずっと道沿いに人々がしゃがんでいるのが見えました。
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ガンバロウ長岡!!!
by 川上
保育園の前に着くと、玄関前には職員10名ほどとと子ども達4名ほどがしゃがんでいます。お迎えに来ていた保護者の姿もあります。みんな玄関前に避難してきたのです。その中に、しっかり先生に抱っこされている娘の姿もありました。
「あ、次長先生!さくらちゃん、ここにいます。」みんなの元気な声に安心しました。「みんな大丈夫?」と言った言葉が、こみ上げてくるもので裏返りました。思わずしゃがみ込みました。
ホッとしてはいられませんでした。そうしている間にも余震が続くので、隣の公園に避難しました。近所の人も建物の中にいられなくて、大勢公園に移動していました。余震が来るたびに避難している人の間に悲鳴が起こり、立っている人たちはその場にしゃがみました。
時間が経つにつれて、寒さを感じるようになってきました。気象庁のデータを今見てみると、当日の長岡市の気温は16時の15.3℃をピークに1時間に1℃位ずつ温度が下がっていきます。寒さに澄み切った空に、星が輝いているのが見えます。職員の誰かが思わず「オリオン座がきれい」と言いました。
ラジオを聞いている人がいます。誰かが新幹線が脱線した!と言っています。
その日、妻と園長先生は埼玉県に新幹線を使い、研修に行っていました。研修を終えた夕方、地震の起こるしばらく前にセンターに電話をもらい、「これから帰るから、娘の迎えはわたしが行くね」と言っていましたが、まだ姿は見えません。2人は大丈夫なのか。ひどく心配でした。
職員がみんな、あちらこちらでケータイをいじっています。電話は通じないが、メールは通じるらしいとか、時々つながっては切れたりとかしています。電話回線の輻輳が生じていて、回線がダウンしているのか、ちっともつながりませんでした。
ようやく妻から誰かのケータイに電話が入りました。「今、ハイブ長岡のあたりを車で走っている」と。「どこだそれ?」と思いつつ、既に長岡に着いている事を聞いて安心しました。
センターに車で戻ると、職員3名が外で待っています。子ども達は井伊さんのご両親と希望が丘小のグラウンドに一緒に避難したとのこと。小川さんのみ保護者に引き渡せていないので、その確認を美佳、郁恵、石附先生に頼み、再び保育園に戻りました。
どれくらい経ったのか、しばらくすると妻と園長先生の姿が公園の入り口に見えました。お互いの無事を喜びました。
2人は長岡駅到着後、駅ビル1階のUCCカフェにいたところ、被災。外に急いで避難したとのこと。駅前は騒然として、大勢の人でごった返したと言います。富士山が噴火したらしいとか、情報が乱れ飛んでいました。園長の車が駅東口の新幹線利用者駐車場(とうちゃんらーめん向かい)にあったので、暗い街を2人で泣きながら歩いて、車に乗り込みました。混雑が予想される長生橋を避け、長岡大橋を渡って帰ってきました。橋の上でも、地震で揺れました。ハンドルがブレて、まっすぐ進めなかったといいます。
2人の無事を確認して、このまま公園にいるのは、寒くて危険と判断した私達は、屋内への避難を考えました。保育園の体育館を懐中電灯で照らし出すと、体育館は無傷でした。余震の危険はありましたが、鉄筋コンクリート造りで頑丈な太い柱のある体育館に避難を決意しました。
建物の中に入ると、寒さから隔絶されていて、ホッとしました。余震が来ましたが、体育館はビクともしません。安心感が広がりました。
大島保育園の様子を見に行くことにしました。希望が丘保育園も保育中で子ども達もいたのだから、大島保育園も大勢子ども達がいるに違いありません。車で移動するのは、ことによると渋滞にはまる危険があるので、アパートにある原付バイクを使うことにしました。
アパートに走って戻ります。途中の道路端に、しゃがみ込んで余震を園児とその保護者の姿が見えました。「大丈夫ですか?今、希望が丘保育園の体育館に職員と子ども達で自主避難しています。良かったらどうぞ!」と言って、走り去ります。
真っ暗なアパートを懐中電灯で照らしながら、防寒着を取りに入りました。土足はさすがに気が引けて、スリッパに履き替え、えいやっ!と意を決して入ります。
中は、玄関に置いてあった使ってない机が倒れ、リビングのテレビは落ちて、台所では食器棚の中身が崩れて床に破片が散乱、本棚が倒れて中の大量の本が散乱しています。冷蔵庫は傾き、引き出しやら扉やらが開き、中身が散乱。「あーーー」とかブチ切れながら、叫びつつ、入っていきました。
いつまた余震が来るのかもわからないため、とにかくあわてていました。先月買ったばかりの空気清浄機が倒れていました。あ~倒れちゃった、と思い、空気清浄機を起こしました。
今思えば、まったくばかばかしい話だけど。地震のときって、おどろくほど何もできないということがわかりました。センターで被災したときは、倒れた絵の具のボトルを立てたり、ひっくり返った扇風機を起こしたり。まったく、無意味なことなんだけど、そのときには必死でやっていました。
服のある和室は二つ入り口があり、一つは倒れた本棚が塞いでましたが、寝室側から入ることができ、当面必要そうな防寒着を取りだし、手袋を持って、バイクに戻ります。エンジンをかけ、大島へ。
「まるみや」さんの交差点の信号が消えています。道は、渋滞というほどでもなく、交通は混乱していません。大島保育園に着くまで、ずっと道沿いに人々がしゃがんでいるのが見えました。
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ガンバロウ長岡!!!
by 川上