イスラムやクリスチャン、そうしてユダヤ教などのアブラハムの宗教に従う人たちがラティハンを修しています。
(ラティハンを修するイスラムの多くはインドネシア人で、クリスチャンは欧州と南北アメリカ大陸各国とオーストラリア、ニュージーランド、そうしてユダヤ教はイスラエルとなります。)
バパがイスラムでしたから上記のような方たちはバパのトークの多くの部分に共感をもてたものと思われます。
そうして、バパもそれをよしとされたようです。
さて、上記のような信仰を持っている方たちは「唯一の神を信じなさい」という要求に対しては当然ながら、「わが意を得たり」と反応したのであります。
自分たちが従ってきた宗教はバパによっても認められたと感じたでありましょう。
そうしてバパも「今まで従ってきた宗教にこれからも従って行きなさい」といわれましたから。
ラティハンを受けるようになっても、従来の信仰には何の影響もなかったものと思われます。
そうしてバパがいう「ラティハンは神への礼拝である」というコトバは心地よく彼らの耳には聞こえたでありましょう。
従来通りの自分の信仰をもちながら、従来通りの宗教が教える礼拝を実践しながら、その上にさらにラティハンという「新しい神の礼拝方法」も実行できる、と言うのは何と素晴らしいことであるか!
そのように感じてもおかしくはありません。
さてそれで、ラティハンが到達すべきステージ、ロハニ、あるいは理解のステージにはどれくらいの方が到達できたのでありましょうか?
ラティハンというものはそれ自体で、それぞれの人が進むべき道を示してくれるものであります。
そうして人は其の道を歩くことによってのみ、内部が成長し、自分のジワを認識できるようになるのであります。
そのようにして成長してゆく時に、あるところまではそれまで自分が持っていた宗教はシェルターのようにその人を守ってくれますが、あるところからはそのように「外部にある教え」の頼るのではなく、内部から来る導きに従う必要が出てきます。
そうしてそのように内部から来る導きに従う事ができなければ、ラティハンの進歩というものはそこで足踏み状態になるでありましょう。
そうでありますから単に「ラティハンは神への礼拝である」というコトバを喜び、そうして自分の宗教を信仰している、というステージで満足してしまっては、それではラティハンがもたらしてくれる成長を実現することは、実感することはできないものと思われます。
さて、この話のポイントはなんでしょうか?
「ある特定の宗教のよき信者さんである、と言う態度と、ラティハンでロハニのステージに、あるいは理解というステージに到達する、ということははたして両立する事なのか?」という問いかけであります。
個人的な見解ではありますが、そこには意識して乗り越えなくてはならない壁が存在している様に見えるのです。
単純に素直にある宗教の教えを守って生活しラティハンを続けている、というだけでは、それは悪くはないのですが十分ではないと思われるのですよ。
PS
いくら慣れ親しんだ服であってもそれはやはり既製服であります。
それはけっしてオーダーメイドの服を超える事はないのであります。
しかしながら、「いや俺はこの服が好きなんだ」というならば仕方ありません。
その人は其の服を着続けることでありましょう。
PS
さてそれでバパのトークは、バパが与えてくれたガイドラインは既製服でしょうか?
それともオーダーメイドの服ですか?
まあその判断は読者の方々にお任せすることにいたしましょう。
PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。
さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。
それではラティハンではどうでしょうか?
ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。
そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。
さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。
追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。
バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。
そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。
そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。
したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。
しかし、本質はごまかす事はできません。
そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。
追伸2
さてその様でありますから、逆に自分の信仰に絶対の信頼を置いておられるムスリム、あるいはクリスチャンはバパの協会に入会するだろうか、という疑問がそこにはあります。
通常の宗教的な行為、実践だけで信者さんは天国に至る、あるいは緑園に至る、というものが宗教が教える事であります。
その事を本当に信じる、とするならばそこにはラティハンが入る余地は見当たりません。
さて、その事はやはりパラドックス、矛盾でありましょう。
こうしてアブラハムの宗教に従いながらラティハンを受けている人たちにも本質的な疑問点が存在している事が分かるのでありました。
そうしてその事がまさにイスラム発祥の地にラティハンが広まらない理由でもある様に見受けられます。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク
(ラティハンを修するイスラムの多くはインドネシア人で、クリスチャンは欧州と南北アメリカ大陸各国とオーストラリア、ニュージーランド、そうしてユダヤ教はイスラエルとなります。)
バパがイスラムでしたから上記のような方たちはバパのトークの多くの部分に共感をもてたものと思われます。
そうして、バパもそれをよしとされたようです。
さて、上記のような信仰を持っている方たちは「唯一の神を信じなさい」という要求に対しては当然ながら、「わが意を得たり」と反応したのであります。
自分たちが従ってきた宗教はバパによっても認められたと感じたでありましょう。
そうしてバパも「今まで従ってきた宗教にこれからも従って行きなさい」といわれましたから。
ラティハンを受けるようになっても、従来の信仰には何の影響もなかったものと思われます。
そうしてバパがいう「ラティハンは神への礼拝である」というコトバは心地よく彼らの耳には聞こえたでありましょう。
従来通りの自分の信仰をもちながら、従来通りの宗教が教える礼拝を実践しながら、その上にさらにラティハンという「新しい神の礼拝方法」も実行できる、と言うのは何と素晴らしいことであるか!
そのように感じてもおかしくはありません。
さてそれで、ラティハンが到達すべきステージ、ロハニ、あるいは理解のステージにはどれくらいの方が到達できたのでありましょうか?
ラティハンというものはそれ自体で、それぞれの人が進むべき道を示してくれるものであります。
そうして人は其の道を歩くことによってのみ、内部が成長し、自分のジワを認識できるようになるのであります。
そのようにして成長してゆく時に、あるところまではそれまで自分が持っていた宗教はシェルターのようにその人を守ってくれますが、あるところからはそのように「外部にある教え」の頼るのではなく、内部から来る導きに従う必要が出てきます。
そうしてそのように内部から来る導きに従う事ができなければ、ラティハンの進歩というものはそこで足踏み状態になるでありましょう。
そうでありますから単に「ラティハンは神への礼拝である」というコトバを喜び、そうして自分の宗教を信仰している、というステージで満足してしまっては、それではラティハンがもたらしてくれる成長を実現することは、実感することはできないものと思われます。
さて、この話のポイントはなんでしょうか?
「ある特定の宗教のよき信者さんである、と言う態度と、ラティハンでロハニのステージに、あるいは理解というステージに到達する、ということははたして両立する事なのか?」という問いかけであります。
個人的な見解ではありますが、そこには意識して乗り越えなくてはならない壁が存在している様に見えるのです。
単純に素直にある宗教の教えを守って生活しラティハンを続けている、というだけでは、それは悪くはないのですが十分ではないと思われるのですよ。
PS
いくら慣れ親しんだ服であってもそれはやはり既製服であります。
それはけっしてオーダーメイドの服を超える事はないのであります。
しかしながら、「いや俺はこの服が好きなんだ」というならば仕方ありません。
その人は其の服を着続けることでありましょう。
PS
さてそれでバパのトークは、バパが与えてくれたガイドラインは既製服でしょうか?
それともオーダーメイドの服ですか?
まあその判断は読者の方々にお任せすることにいたしましょう。
PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。
さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。
それではラティハンではどうでしょうか?
ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。
そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。
さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。
追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。
バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。
そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。
そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。
したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。
しかし、本質はごまかす事はできません。
そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。
追伸2
さてその様でありますから、逆に自分の信仰に絶対の信頼を置いておられるムスリム、あるいはクリスチャンはバパの協会に入会するだろうか、という疑問がそこにはあります。
通常の宗教的な行為、実践だけで信者さんは天国に至る、あるいは緑園に至る、というものが宗教が教える事であります。
その事を本当に信じる、とするならばそこにはラティハンが入る余地は見当たりません。
さて、その事はやはりパラドックス、矛盾でありましょう。
こうしてアブラハムの宗教に従いながらラティハンを受けている人たちにも本質的な疑問点が存在している事が分かるのでありました。
そうしてその事がまさにイスラム発祥の地にラティハンが広まらない理由でもある様に見受けられます。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク