古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

魏志倭人伝の真実と間違い(難升米の大嘘)

2017-05-14 17:34:51 | 歴史
魏志倭人伝の真実と間違い(戸数)の続きです。
魏志倭人伝の記述には、難升米からの情報が沢山あります。
特に、卑弥呼、邪馬台国については、難升米情報が全てです。
難升米は、武皇帝に認められるために沢山の嘘の情報を伝えます。
以下が倭国の実態と難升米の嘘と倭人伝の記述です。

1、倭国の国々が卑弥呼を女王とたてた。
  諸国のもめ事を祈祷師 卑弥呼に委ねる事で争いが少なくなった。(女王と認めたわけではない)
  倭国の国々が卑弥呼を女王として立てた と伝えたのは、難升米です。
  難升米は、238年の卑弥呼の朝貢の時はまだ若いです。(多分、10代、20代)倭国大乱の時代を知りません。
  つまり、真実は知りえません。
2、邪馬台国は存在していなかった。
  女王国の国名は 台国(トコク)或いは 臺国(イコク)でした。
  ※奴国と同じ発音も一音で、古くからある国です。
3、難升米は、女王の国 台国(トコク) を 天空にある台国(トコク) と紹介
  天(アマ)の台国(トコク)がヤマタイ(邪馬台)国と記述された。
4、女王国までの道程
  自らが帯方群までたどり着くまで、水行十日陸行一月 と伝えた。
  魏志倭人伝には、既に知っていた奴国まで道程の後に、そのまま書き加えた。
5、女王国の規模 七万戸
  奴国が二万戸なので、七万戸と大嘘をこく。そのまま倭人伝に記述される。
6、大陸がまだ知らない21の国名を伝えた。難升米は、一生懸命に暗記したはずです。
  但し、この時は狗奴国の存在は伝えていません。
  結果、難升米は大陸から知識人としての信頼を得る。(難升米は多少の漢字も書けた、読めた
7、倭国を周旋すると五千里も難升米情報です。難升米が国々を回るのに月の満ち欠けが二回ほどあったのでしょうか。
  五千里は、50日ほどかかるという事です。
  朝鮮半島の三韓より大きいと実感させたはずです。

これらの結果、卑弥呼は、倭国最大の国 邪馬台国の女王となり、「親魏倭王」の金印を贈られます。
難升米・(都市)牛利にも銀印が贈られます
この「親魏倭王」の金印が邪馬台国の女王卑弥呼を倭国の代表にしてくれます。
一方、納得しなかったのが狗奴国の男王 卑弥弓呼 
狗奴国 VS 邪馬台国 の関係は、親魏倭王の金印が引き金です。
結果は卑弥呼の死亡で狗奴国の勝利ですが、その後、狗奴国が九州北部へ支配を広げる事はありませんでした。
よほど、卑弥呼が気に入らなかったのでしょう。卑弥呼がいなくなればそれで良かったのでしょう。

卑弥呼の死後、伝わった情報に 台与の記事があります。
台与は女王の名前では無く、台(臺)国と邪馬台国の元の名前です。
邪馬台国は存在せずに、台国が大分(後の豊国トヨコク)にありました。
卑弥呼の祈祷の宮殿も豊国(但し、福岡側)ではないでしょうか。
卑弥呼も台与も固有名詞の様に伝わりますが、実際は
卑弥呼 = 姫 巫女
台与  = 台国の女 の様に、その役名でした。
※倭国には、人に名前を付けると習慣がありませんでしたので、その部分が大陸にうまく伝わらなかったのでしょう。

陳寿は、当時の知りうる情報を元に魏志倭人伝を書き上げました。
残念ながら、難升米が伝えた嘘や裏事情を察する事が出来なかったのです。

魏志倭人伝の真実と間違い(戸数)

2017-05-14 13:34:55 | 歴史
魏志倭人伝の真実と間違い(卑弥呼の年齢)に続いて
魏志倭人伝に記述されている国々の戸数についてです。
対馬国 千余戸           方(域)は、四百余里
一支国 三千(戸)ばかりの家    方(域)は、三百里ばかりである
末盧国 四千余戸
伊都国 千余戸(そこは帯方の郡使が往来する時、常にに留まる所である。)
奴国  二万余戸
不弥国 千余戸
投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)
邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
国名のみ、場所、戸数の表記がない国が21国

・伊都国までが、帯方の役人が行き来できる範囲ですので、戸数も実際に近い。
・単位が千余戸 意外とおおざっぱ、実際に数えたわけではない。
・一支国 三千余戸、末盧国 四千余戸 他は、千余戸
・対馬国 周囲四百余里、一支国 周囲三百里 と実際と地図と大きく異なる。
謎解き
・千戸 は、そこそこ大きなムラ、或いは 港 の事
・対馬国には、港街が一つ、毎回同じ港に宿泊、島を探索することなく出向していた。
・一支国には、港街が三つあった。(大きな町が三か所あった)
・末盧国には、港街が四つあった。交易の荷物を降す、積む、伊都国まで陸路で輸送の期間に船を留めておく必要があった。
・伊都国では、帯方の役人が泊まる街は常に同じ場所であった。
戸数は実際の建物の数ではなく、そこそこ大きな町の数でしかなかった。
つまり、町がひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・の数え方

・奴国、不弥国は交易の商人からの情報
奴国は、漢委奴国王の金印を与えられた国、博多湾の広い平野と周囲に複数に島々がある。
他の国とは比較にならないほど大きな国であった事は事実ですが、実際の建物の数を数えたわけではない。
博多湾に注ぐ河川ごとに平地に十個ほど大きな町があり、博多湾内外に十個ほどの島々があり、奴国の領土であった。
湾の反対側に、伊都国と同じ規模の不弥国がある。


投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)
邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
交易の情報ではない。
邪馬台国は、180年に卑弥呼が女王になった時代、他の21国と同じレベルの国
238年に、卑弥呼が魏へ貢物を贈り、親魏倭王の金印を贈られて事で大陸が知るところとなる。
情報は、難升米など倭の役人や生口が伝えたものである。
難升米は、邪馬台国の建物の数を聞かれるが、当時に最大国 奴国を みっつ、よっつ合わせた国と同じと大嘘をこいた。
実際は、吉野ケ里ほどの国で祈祷を行っていたのが卑弥呼である。

邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
国名のみ、場所、戸数の表記がない国が21国
の情報も難升米が伝えた。
「水行10日陸行1月」は、難升米が女王国を出発して周囲の国々を回り、帯方群にたどり着くまでの日数です。あえて、伊都国を避けて、女王国=>有明海側=>武雄=>末盧国より水行10日
陸行一月は、かなり遠回りをしています。

投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)の情報は、更に後の事で
朝鮮半島経由、沖ノ島から山陰出雲の航路が発見されます。
280年前(陳寿の時代)の事が新たに書き加えられています。