古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

弥生時代(九州限定版) 弥生時代の始まり

2017-05-04 10:47:02 | 歴史
ゴールデンウィークも後半ですね。
もう一度、弥生時代を見直してみます。但し、九州北部に限定しています。
弥生時代は、大陸から農耕技術、高床式の建物、織物、弥生式土器など大陸文化が伝わった時代が始まりです。
大陸の歴史書に、秦の始皇帝と徐福の記載があり
徐福一団が童男童女3000人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて、軍人、航海士らと共に20隻の大船団で出航し戻らなかった。
事が紹介されています。
紀元前500年頃の事ですので、日本での弥生時代の幕開けに一致します。
佐賀県で発見された吉野ケ里遺跡の国造りの始まりとも一致します。
秦の始皇帝は暴君で有名ですので、大陸から逃げて日本へたどり着く渡来人は徐福以外にもいたでしょう。
徐福は、大船団を手に入れたので大陸から直接、九州へたどり着きますが、少人数の一団は、朝鮮半島経由だったでしょう。
大陸との交易ではなく、大陸から一方通行で日本へ技術と文化が伝わります。
その窓口は、九州北部であった事はまちがいありません。
青銅、鉄がほしい所ですが、まだ交易することが出来ません。(九州から穀物を持って大陸へ出かけて、鉄と交換して持ち帰る)
幸いにして、焼物に使う土と沢山の森、森林がありました。
森林の伐採は、黒曜石など鋭い岩を使った石器を使ったでしょう。
生活に必要な 衣・食・住が変化します。
食・・従来からの川、浅瀬の海でとれる魚介類、森林でとれる椎の実、どんぐり に加えて、農耕で作った穀物が加わります。
料理の方法も、焼く、焦がす + 弥生式土器を使った 煮る(あく抜き)が加わり、食事に器が普及したでしょう。
住・・伐採した大きな木を使った高床式の建物が出来ます。村づくりの始まりになります。
衣・・動植物の皮をはいで作った衣類から、植物から繊維を取り出した織物へ変わります。ひょっとしたら蚕から絹糸を採取していたかも。

定住の生活は村づくりの始まりとなります。生活には 水 が必須ですので、おのずと村は河川の近くに発展していきます。
紀元前500年位から100年ぐらいの数百年間の歴史とします。


魏志倭人伝に登場する人物(難升米と牛利)

2017-05-03 16:05:14 | 歴史
魏志倭人伝に紹介される 難升米と牛利 の二人
238年に卑弥呼の貢物を魏の武皇帝に届けます。
翌年には、親魏倭王の金、銅鏡などを受け取り、倭国へ戻っています
二人は、大陸との交易を行う一団のリーダー、護衛のトップと副官の様です。
卑弥呼への贈り物は、銅鏡100枚ほか沢山の織物などがあります。
大きな一団ですので、この二人の役割、責任は大変なものだったでしょう。

過去投稿、魏志倭人伝に登場する人物(卑弥呼の意味)に従って、その名前の意味です。
難升米は なしめ、或いは なんしょうまい、なんしょうめ などと読まれているようです。
後の日本書紀では、難斗米 と紹介されていて、 1斗=10升なので、一段とグレードアップされています。

当時の倭国には、まだ漢字(文字)がありませんので、発音に応じて、大陸側が漢字をあてたとすれば
皇帝に自分の事を なしめ と伝えた。過去の古代日本人の発音と大陸の漢字のルールに従えば
なしめ は 奴斯め(?)の漢字になりますが、 一升、米 と意味がある漢字が当てはめられます。(大陸で普通に使われている漢字)
更に、既に大陸との交易を幾度か経験していたはず。漢字も読めたでしょうし、書くことも出来ました。大陸の言葉も使えたはずです。
なしめは、自分の事を 難升米 と漢字で書いて渡したのです。
なしめ は、倭国での自分の 役職、生まれた地名、一族の名前 だったでしょう。
たぶんに、倭国での交易団の護衛をする軍のトップを意味していたのではないでしょうか。
既に大陸との交易を経験していますので 米 も一升 も漢字を使っていたでしょうから、なしめは 自分が知りうる漢字を使います。
難 の漢字も交渉の中で使い、知っていたのではないでしょうか。
都市牛利 で使われる漢字も同じですね。奴国、倭国、邪馬台国などに使われている漢字ではなく、既に一般的によく使われていた漢字で名乗ります。
※難、升、米、都、市、牛、利・・・実際に私たちが小学校、中学校で学ぶ漢字です。卑弥呼の 卑弥 は珍しい漢字(?)です。
 
倭国では、人が名前を持つことはありませんでした。
国王クラスが、生まれた時から一族の名前を引き継ぎます。
その他は、大人になり王家に仕え、働き、それなりの役職に就いたときに、国王クラスから名前(役職)が与えられたでしょう。
但し、それは 呼び名 で文字はありません。なしめ は その呼び名を自分で漢字にしたのです。
例えば、奴国では
官 兇馬觚(しまこ) 副官 卑奴母離(夷守)(ひなもり) と3音、4音です。
官 難升米     と副官 都市牛利(なしめ と としぐり)も同じ意味の可能性があります。
使っている漢字は、自らチョイス(選択)した。実際によく使われる漢字を使います。
※聖徳太子より数百年前、すでに大陸と交易し金印を授かるなどしています。漢字や大陸の言葉がわかる役人は既にいました。

難升米は、245年に黄幢(黄色いはた)を受け取り、247年に狗奴国との争いで魏国に応援を依頼する際に登場しています。
帯方群から、女王国まで 水行10日陸行1月で一か月以上、難升米が伊都国に滞在していたとしても帯方群まで、一月ぐらい
更に洛陽までは、その2倍ほどの距離があります。
倭国と洛陽を往復するには、半年、一年かかります。一年間に2度往復する事が限界です。
二度目の渡航では、都市牛利の名前はありませんので
高齢で亡くなった、戦争で亡くなった、応益の途中で事故で亡くなったのでしょうか。

難升米は、初回の渡航(238年)で20歳代、2、3回目(247年)が30歳代とすれば、つじつまが合います。
まもなく、卑弥呼がなくなり、難升米についての記述もなくなります。
・卑弥呼亡き後の邪馬台国一団を引き連れで移住するリーダーとなったのか
・大陸へ逃げていったのでしょうか。
卑弥呼なき難升米は、大陸からみると何の役にもたちませんので、後者の可能性は少ないはずです。
新女王 台与 の元で実権を握った可能性が高いですね。
後の氏姓制度
天皇の元で働く豪族に 氏 があたえられますが、蘇我氏、物部氏の様な豪族の祖先ではないでしょうか。


魏志倭人伝に登場する銀印(銀印青綬)

2017-05-03 13:33:41 | 歴史
魏志倭人伝で紹介されている 「卑弥呼に贈られた親魏倭王の金印」は「委奴国王」の金印と共に有名ですよね。
しかし、魏志倭人伝を読んでいくと、更に続きがあります。

汝の来使難升米・(都市)牛利は、遠きを渉り、道路(たびじ)に(おいて)勤労(よくつとめること)した。
いま、難升米をもって、率善中郎将(宮城護衛の武官の長)となし、牛利を率善校尉(軍事や皇帝の護衛をつかさどる官)となす。
銀印青綬(あおいくみひも)を仮け、(魏の天子が)引見し、労賜し(ねんごろにいたわり、記念品をたまわり)、還らせる。

つまり、
難升米に、率善中郎将(宮城護衛の武官の長)
牛利を率善校尉(軍事や皇帝の護衛をつかさどる官)
の銀印青綬(あおいくみひも)を贈る。
その銀印には、「率善中郎将」と「率善校尉」と刻印されたのでしょうか。
当時、この銀印は大陸国内では多数発行されていたようです。
さすがに、金印は稀ですが、銀印はそれぞれの役目に応じて発行されています。
自分の護衛の役目ですので、多い方が良いのは当たり前です。
三つの印の意味を考えると
「親魏倭王」 卑弥呼が倭王で、魏と親しい。
難升米と牛利 は、宮や皇帝の護衛役につく。
もし、倭国が魏へ軍を出すような場合は、難升米と牛利は魏の防衛側になる事に
二人が気が付いていたのでしょうか。

当時の倭国最大の地域、伊都国、奴国 と 大陸の都 洛陽
二人が、その規模の違いに圧倒されたことは間違いないでしょう。
建物数、大きさに加え、軍(多分に水軍の船等)
魏の皇帝へ反抗する、敵意をみせるなど出来るはずがありません。
相手の言いなりになった事はまちがいありません。
「率善中郎将」と「率善校尉」の意味を知りつつもありがたく受け取ったでしょう。
この二つの銀印もどこかに眠っています。
もし日本で見つかれば、難升米と牛利のお墓に間違いないですね。


続いて、難升米と牛利の人物像について考えてみます。