古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

各地の遺跡を歴史ごとに(弥生時代中期)

2017-05-28 14:57:01 | 歴史
弥生時代中期も私の勝手ですが、倭国が大陸と交易を行うようになり漢委奴国王の金印が贈られるようになるまで
紀元前の2世紀ごろから西暦57年という事にします。
博多湾の村々は一つにまとまり奴国になります。当時最大の国の完成です。
一方では、菜畑遺跡 と 板付遺跡の様に、人が住まなくなり滅んでしまった村もありました。
朝鮮半島経由で伝わった文化に 支石墓 があります。
佐賀県背振山の支石墓西新町遺跡の支石墓から明日香村の石舞台古墳 (巨大古墳)など意外と早く全国へ広がります。
1世紀頃には、九州北部の玄界灘湾岸は、魏志倭人伝に紹介される、末盧国、伊都国、奴国、不弥国の4国にまとまり、最大の国は奴国です。
大陸の文化は、絹などの織物、青銅、鉄を使った農工具、高床式の建物や倉が作られていきます。
建物には、祭事や祈祷を行う建物が出現しています。
お墓も山奥の支石墓から墳丘を使った甕棺墓になり、吉野ケ里の様に王家の墳丘と他の人の集合甕棺墓と身近にお墓が出来ます。
祈祷は、ご先祖様の意思を聞く事が出来る巫女が行ったのでしょう。
八百万の神々を信仰する自然崇拝の古代神道から徐々にご先祖を崇拝するご先祖様への信仰に神道が変化した時代であったと思います。
小さな村が滅びて、力をつける国が出来るのですから、吉野ケ里の様な環濠集落もこの時代に発展します。
環濠内部では、王家一族の他役人や祈祷師、織物や鋳造などを行う先端技術者が生活し、周囲では、護衛や農耕に従事する人たち身分格差がはっきりしてきます。
支配者層が国をまとめるための数々の決まり事を作ったはずです。
魏志倭人伝には
下戸が、大人(身分の高い人)と道路にあい逢えば、逡巡(ためら)いながら 草(叢)に入る。
辞をつたえ、ことを説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるい は跪(ひざまず)き、両手は地に拠せる(平伏する)。
と紹介されています。

博多湾の村々を一つにまとめた奴国は、確かに 倭国の代表として大陸からみとめられますが、
大陸が知りえたのは、玄界灘湾の地域でした。
有明海側、山陰地方、山陽地方や近畿でも大きな国がありましたが、大陸への交易の窓口が伊都国だったので、その情報は伝わらなかったのでしょう。
明らかに、弥生時代初期の村々とは異なる時代と云えるでしょう。


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