古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

魏志倭人伝の真実と間違い(戸数)

2017-05-14 13:34:55 | 歴史
魏志倭人伝の真実と間違い(卑弥呼の年齢)に続いて
魏志倭人伝に記述されている国々の戸数についてです。
対馬国 千余戸           方(域)は、四百余里
一支国 三千(戸)ばかりの家    方(域)は、三百里ばかりである
末盧国 四千余戸
伊都国 千余戸(そこは帯方の郡使が往来する時、常にに留まる所である。)
奴国  二万余戸
不弥国 千余戸
投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)
邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
国名のみ、場所、戸数の表記がない国が21国

・伊都国までが、帯方の役人が行き来できる範囲ですので、戸数も実際に近い。
・単位が千余戸 意外とおおざっぱ、実際に数えたわけではない。
・一支国 三千余戸、末盧国 四千余戸 他は、千余戸
・対馬国 周囲四百余里、一支国 周囲三百里 と実際と地図と大きく異なる。
謎解き
・千戸 は、そこそこ大きなムラ、或いは 港 の事
・対馬国には、港街が一つ、毎回同じ港に宿泊、島を探索することなく出向していた。
・一支国には、港街が三つあった。(大きな町が三か所あった)
・末盧国には、港街が四つあった。交易の荷物を降す、積む、伊都国まで陸路で輸送の期間に船を留めておく必要があった。
・伊都国では、帯方の役人が泊まる街は常に同じ場所であった。
戸数は実際の建物の数ではなく、そこそこ大きな町の数でしかなかった。
つまり、町がひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・の数え方

・奴国、不弥国は交易の商人からの情報
奴国は、漢委奴国王の金印を与えられた国、博多湾の広い平野と周囲に複数に島々がある。
他の国とは比較にならないほど大きな国であった事は事実ですが、実際の建物の数を数えたわけではない。
博多湾に注ぐ河川ごとに平地に十個ほど大きな町があり、博多湾内外に十個ほどの島々があり、奴国の領土であった。
湾の反対側に、伊都国と同じ規模の不弥国がある。


投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)
邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
交易の情報ではない。
邪馬台国は、180年に卑弥呼が女王になった時代、他の21国と同じレベルの国
238年に、卑弥呼が魏へ貢物を贈り、親魏倭王の金印を贈られて事で大陸が知るところとなる。
情報は、難升米など倭の役人や生口が伝えたものである。
難升米は、邪馬台国の建物の数を聞かれるが、当時に最大国 奴国を みっつ、よっつ合わせた国と同じと大嘘をこいた。
実際は、吉野ケ里ほどの国で祈祷を行っていたのが卑弥呼である。

邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
国名のみ、場所、戸数の表記がない国が21国
の情報も難升米が伝えた。
「水行10日陸行1月」は、難升米が女王国を出発して周囲の国々を回り、帯方群にたどり着くまでの日数です。あえて、伊都国を避けて、女王国=>有明海側=>武雄=>末盧国より水行10日
陸行一月は、かなり遠回りをしています。

投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)の情報は、更に後の事で
朝鮮半島経由、沖ノ島から山陰出雲の航路が発見されます。
280年前(陳寿の時代)の事が新たに書き加えられています。


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