ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2024-15 三国同盟、なぜ光政は反対したのか

2024年02月09日 | 日記
ボランティア活動をしている先人記念館の
今年度のレポートテーマである。昨日ようやく終了した。

一言でいうと英米との軍事力の差が2倍以上と歴然としていたこと。また経済力、エネルギー
面でも同様。ならばなぜこの無謀ともいえる戦いに陸軍は突入したのかという疑問がわく。

1931年満州事変から端を発した日中15年戦争。1933年国連脱退。血気盛んな陸軍は
「海軍は腰抜け」と称していたのだ。陸軍は当時の戦力分析を甘くみていた。
そしてドイツは1939,9月にポーランド侵攻。1940,5月にフランス侵攻。
連戦連勝で勢いを増していた。そのドイツ・イタリアとの三国同盟に対して
「バスに乗り遅れるな」という機運の高まり。
しかし米内はソビエト、ヨーロッパ等に合わせて10年以上滞在。外交に詳しく、
ヒトラーの人柄や野望を危険視、信用できない男と見ていた。
当時、反対したのは海軍の山本五十六、井上成美と米内の3人であった。
つまり、1つ目の理由は陸軍との情報分析の違い。
2つ目は新聞マスコミを含め大政翼賛会の風潮で後戻り出来ない雰囲気の社会情勢。
当時をナイヤガラ瀑布で船をこぎ逆らうようなものと米内は表している。
米内内閣は1940年1月から7月の半年間。業績は三国同盟拒否したことだ。
陸軍の非協力で倒される。その時の新聞記事が「さあ新しい道が拓かれた。旧体制よさらば」
次の内閣で東條・松岡が入閣。2か月後に三国同盟が調印。翌年1941年、東條内閣成立、
第2次世界大戦へ突入したのだ。
3つ目、教育の違い
米内は敗戦後に東京裁判で語ったことは「陸軍は15歳に達しない少年から軍隊教育で
戦争以外の事は何も教えない。国際社会についての教育がかけており、海軍ほど広い視野で
物事を見られない。」と指摘している。
以上のことから英米との戦争は避けるべきと判断し三国同盟に反対したと推測される。



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