ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2024-12 盛岡もの識り検定試験へ挑戦

2024年01月29日 | 日記
1月28日日曜日10時から検定試験があった。
主催は商工会議所。30分前に着いた。ほぼ駐車場の空きは数台を残すのみ。
受験者数100人。例年よりも30人ぐらい多いそうだ。

もの識り検定試験とは平成18年 2006年からスタート。今年で18回になるそうだ。
盛岡市に関する歴史、文化、産業、観光、自然、風土など他分野にわたる内容。
盛岡に特有な風土や街並み、歴史的建造物、多くの偉人とその業績、食文化などを
知ることで、その魅力を国内外に情報発信していこうとするねらい。
各地でも同様の内容でやっているようだ。
ちなみに金沢市を旅行した際にもあったのを覚えている。

問題数は100問 時間は90分
1ヶ月前に申し込む。テキスト150p内容はびっちり厚く内容は濃い。
1月に入って少しずつ空き時間に読みこなしてきた。

地方史は一般的に知られておらず初めて知ることもあり結構難しい。
盛岡は城下町として発展してきた街であり、南部藩と城下町は必須項目。
そして近代史として原敬、新渡戸稲造、米内光政、
文学として金田一京助、石川啄木、宮澤賢治の街でもある。
経済発展に寄与した方々など。覚えることは山ほどあった。
知らないことも多いのだ。楽しみながら学んできた。
100問、想定外の問題もあり最初は苦戦。
途中から歴史が入りここはスムーズにいった。50分ぐらいでどうにか終了。
問題には全くわからないのや迷ったものがあった。

1週間前は7割チョットの力だった。7割が当確ライン。
そこで前日まで気を引き締めてテキストを読み直していた。
その結果は・・・
家に戻って見直したら8割ぐらいの出来だった。
2週間後に発表だ。楽しみでもある。












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2024-11 深夜到着😥

2024年01月26日 | 日記
郡山についたもののそこから先は停電のため新幹線不通。
先ずは先にいくこと。
在来線を使って仙台までいくことにした。
郡山から福島へ。そして福島から仙台へ。
同じように新幹線客が在来線利用のため混雑していた。
シルバーシートに座っていた青年が席を譲ってくれた。
荷物があったので有り難い。福島着。

次は福島から仙台へ。乗り継ぎはスムーズにだったが
前よりお人が多かった。満員だ。
仙台に向かって1時間30分。
2駅ぐらい過ぎた所で乗客が降りた。
そこでも先に座ろうとした若い人が席を譲ってくれた。
疲れた表情をしていたのだろう。
周りを見渡すと幼児を抱えた親子が立っていた。
見かねて席を立とうとしたら隣の方が親子のために席を譲ってくれていた。
若い方の行動に感謝だ。親子連れに聞いたところ
デイズニーランドに行く途中、止まったので仙台に戻るとか。
また出直して行きますと。7時過ぎに仙台に着いた。新幹線なら1時間弱のところだ。
そこから盛岡へは新幹線が通っているようだ。
しかし、往復ピストン輸送のため1時間に1本が2時間に1本ぐらいしか走らないと。
ここで足止め。次は9時45分発のようだ。
2時間30分間、仙台の構内で待つ羽目になった。
駅の地下で夕食を食べる。隣の席で同じように夕食を食べていた方に声をかけたら
地元の方で仕事帰りとか。不動産業の営業マンらしい。
そこで最近の不動産の傾向など話がためになった。
そしてようやく新幹線に乗り込んだ。
家に戻ったのが11時過ぎ。
予定より4時間強、遅くなってようやく我が家に辿り着いた。
1年半ぶりの上京だったのに。・・・・

思いがけない親切心を肌に感じた旅行だった。








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2024-10 新幹線止まる

2024年01月24日 | 日記
1月21日から23日まで熱海・東京付近を旅行。
毎年、年に一度はいっていたのだが、今回は更に半年伸び
久しぶりの再会だった。
熱海は暖かかった、梅や桜祭りが開催されていた。
活気があった。観光客も多かった。坂の街だ。
滞在時間11時20分から16時まで。小雨が時折降ってきたがゆっくり休むことができた。
姪が前を見据えて元気で仕事していることが何よりも喜びであった。
夜は新宿の友人宅で宿泊。
朝は近くのワシントンホテルで朝食。モーニングは宿泊客だけでなく一般客も自由だ。
外国人観光客が多い。真ん前が都庁。25階のラウンジで都庁を眺めながら1時間のバイキング朝食。
2200円。この辺では安いようで人気があるらしい。
友人とは仕事で別れ、新宿を散歩してその後三角ビルの三井住友ビルの平和祈念館へ。
午後からは埼玉へ。かつての同僚たちと久しぶりの会食会。
話が弾み瞬く間に時間が過ぎた。夜は猫好きな友人宅で2泊目。
猫をなんと保護猫も含めて9匹。捨て猫の一匹は警戒心が解けずスッとにげていく。
猫談義で盛り上がった。
そして3日目。大内宿に行って帰るコース。
上野、8時半発。郡山で磐梯西線に乗り換えて会津若松へ。
その後私鉄に乗り換えバスに乗って大内宿についたのは12時半。
帰りは2時発。滞在時間1時間30分。
大内宿、江戸時代にタイムスリップしたような風情のあるところだった。
茅葺屋根の家が44件並んでいた。縁側では手にとって眺めたいような小物が並んでいた。
あいにく雪がなかった。雪があるとより、風情が増す景色だ。
昼に名物のネギそばが食べた。1本のネギをはしがわりにして食べる。
同時にネギも食べるのだが、太くてからかった。半分ぐらいしか食べられなかった。
その素敵な大内宿を後にして郡山についたのが4時。
そこからだ。何でも大宮あたりで故障。それで全線新幹線が止まっていると。
さてどうしたらよいか。・・・
続く。

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2024-9 街巡り 盛岡城跡公園

2024年01月21日 | 日記
今回は盛岡城跡約1,5キロ 90分
スタートが歴史文化会館。2011年にオープンした。その広場に原敬の記念碑。
何故か、ここはかつての県立図書館。(現図書館は西口のアイーナだが。)
図書館を建設する時、多額の資金を提供したといわれる。もちろん大正時代の建物はないが。

南部の歴史
さて盛岡城は東北の石垣三大名城といわれる。
盛岡城は南部藩の始祖 南部光行が1189年平泉の藤原泰衡との戦いでの功績により
源氏から拝領したことに始まる。
南部は元々山梨の巨摩郡南部の領主。青森の三戸町に城を構え馬産を中心に栄える。

南部藩初代南部信直は北条討伐に参加し秀吉から領地の朱印状を頂く。1590
九戸政実の乱を制定したことで不来方の地を検分、浅野、蒲生が城を築くことを進言。1591
1592 信直、秀吉朝鮮出兵で肥前に滞在中許可を受ける。
1597 2代目利直が鍬初め。しかし北上川氾濫のため完成したのは3代目の重直の時だった。1633

石垣の特徴 自然石を積み上げる、隙間に小さな石を詰める「野面積み」
石の並びが不規則な「乱積み」と規則的に並べる「布積み」
角の強度を強める算木積み(さんぎづみ)長方形の石を交互に積み重ねる。

他に丸い石を重ねる笑い積み、や補強をしたはばき石垣などがある。
本丸には天守櫓が3階建てであった。二の丸、三の丸とあり、今、三の丸の石垣を修復中。
堀は3重にあった、内堀は埋め立てられ鶴の池、亀の池として残っている。

桜山神社は場内に建立。南部家だけの社殿だった。明治に2度の変遷を経て市民に開放された。
城跡を一回りして、この方向はいいなと新たな石垣の美を再認識できた城廻だった。

午後からあんべ光俊コンサート。懐かしい「イーハトーブの歌」を味わった。

明日は1年半ぶりの東京・熱海での友人との再会だ。


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2024-8 街巡り 賢治と啄木たちの青春

2024年01月15日 | 日記
先日の土曜日、盛岡の街巡りを小雪降る中行った。
知っているようで知らないことが多いことをいつも実感。
新たな気づきの発見が面白いのだ。
例えば
啄木の 盛岡城跡にある石碑に刻まれた有名な歌
「不来方の お城のくさに 寝ころびて 空に吸われし 十五の心」

啄木が盛岡中学で15歳の頃、学校をたびたび抜け出してここで過ごした歌なのだが
このお城の草に注目。
盛岡城は戊辰戦争で幕府側につき、新政府に取り壊しになった城であった。
啄木が入学したのが明治31年明治35年に退学になる。
城が岩手公園として造園されたのが明治39年(1906年)
それまでは草がぼうぼうの城跡だったのだ。

賢治下宿後の賢治清水
賢治は啄木と10歳違い。賢治が盛岡高等農林に入学の際に玉井宅に下宿。
そこが賢治清水となっている。
その井戸が今でも残っている。碑に「ちゃんがちゃがうまこ」4首が刻まれている。
大正6年(1917年)「盛南地区の馬は夜明け前に下の橋を通を走り抜け蒼前神社にお参りした」とあるのだ。
つまり、今のように蒼前神社から八幡宮にパレードしたのではないのだ。
逆に、大正時代はそれぞれの地域から蒼前神社にお参りしていたとらしい。
1930年昭和5年、馬好きな秩父宮殿下が来盛した時、馬ぞろいをご覧に入れ、これが契機に
現在のパレードの原型が出来上がったと伝わっている。

最後の新渡戸稲造の生誕の石碑のところで足を滑らせてしまった。
この像と同じ銅像が多磨霊園にもある。東洋のロダンと称されたのがこの像である。







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