高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

オイルショックが終って (2)

2005-05-23 | Weblog
75年、また新しい時代の風が吹きはじめていた。私にとって刺激的な仕事が次々と入ってきたが、それは不思議とその2年くらいのあいだ、コツコツと自分が生きてきたことが反映されていた。
資生堂は「インウイ」というブランドを開発し、キャリアウーマンをターゲットに、初めて外人モデルを起用した。
私はそのキャンペーンのネーミングあたりから関与し、キャスティングと撮影のために大勢のスタッフとニューヨークに行った。
モデルのヘロイーズはセントラル・パークで汗をかいてジョギングしたり、ロフトで、ヨガをしたりしたが、それも彼女の生活の実態に近いことだった。
私は撮影のあいだ、彼女と毎日話しをし、その内容をコピーライターの土屋耕一さんに報告した。
そのなかには、彼女の言葉がキャッチ・フレーズとして採用されたものもある。
「彼女が美しいのではない。彼女の生き方が美しいのだ」
化粧品の広告で、汗をかいているのを使ったのも画期的といわれた。
そのお披露目のパーティにまもなく創刊するクロワッサンの編集の方がいらして「実は私たちも、ジョギングしてる女性を創刊号の表紙にしたかったのよ」といっていた。

三宅一生さんは「健康に気をつけましょう」というテーマでショーをやり、私も参加した。(ショーはカーペンターズの曲で、はじまった)スタッフではなかったが、西武百貨店は「ウオーク」(Walk)がキャンペーンのテーマだった。伊勢丹が、新しいブランド、カルバン・クラインで、毎月新聞広告を打った。私はそのスタイリストとして「キャリア・ウーマン」のスタイリングをした。担当者と定期的に店内の商品を観て回るのはためになったし、この広告をつくる「スタジオ・ユニ」というプロダクションに通い、生涯の仲間が増えていった。新しい風のなかで、化粧品と百貨店の仕事をレギュラーで持てたのは、ラッキーだったし、ありがたいことに私の生活の基盤も以前よりはしっかりとしてきた。

写真 (撮影・Yacco) ニューヨークのロフトの屋上で、資生堂インウイの撮影。モデルのヘロイーズはヨガのポーズをしたり、シャワーを浴びたり、健康的な生活感をねらった。カメラは横須賀功光さん。(上半身裸の後姿)

オイルショック!(1) 

2005-05-23 | Weblog
1973年、私は毎日信じられないくらい忙しかった。寛斎さんのロンドンでのショーをお手伝いしたことがきっかけで、Tレックスや、デヴィッド・ボウイなど、グラムな世界が広がっていたけれど、それは純粋にクリエイティブな世界で、私の経済生活には関係なかった。
私が存在している広告業界では新しい試みがあるたびに、好奇心に溢れた人たちからお呼びがかかった。
もちろん、私はどんなことにもよろこんで参加した。
でも、エキサイティングな出来事の裏には必ず地道な準備が必要だ。
ひとつの肉体が引き受けるには不可能といいたいぐらいの作業の量と質が私に覆いかぶさっていた。(まだ、分業もはっきりしていなかった)
新しいことは、仕事の範囲のみならず、お金のルートが確立されないままスタートすることも多く、まだ、世間ではスタイリストにどのぐらい支払うべきかもあやふやだった。
というわけで、私は貧乏だったが、それにめげた記憶はほとんどない。

ある巨大な繊維メーカーからお声がかかって、中近東で行われるファッションショーのツアーをお手伝いすることになった。
ファッションショーが開催されること自体が画期的なことだから、あちらではステージにモデルが立っているだけでも、じゅうぶんセンセーショナルなのだ、と説明された。
だからモデルは健康で性格がよいことを第一で選んで欲しいとのことだった。
(当時、それと同じ言葉を別の仕事で浅井慎平さんから聞いたことがある。浅井さんはロケが多く、世界中で撮影をしていた。それで浅井さんの仕事に、健康で、性格もよく、売れっ子だったモデルを推薦したが、その長い撮影の旅の終わりには、そんな彼女に恋をした若いスタッフの男性がいて、ついにふたりは結婚することになった、、、)

中近東でのショーは私には想像もできない金額(たしか億に近い単位だった)で、とりあえず私は指示されるまま、走り回っていた。
金沢には輸出用の生地を生産している工場があリ、そこで生まれる中近東向けの生地は、信じがたくきらびやかな独特なセンスのもので、国内では決して見ることのない輸出用生地に私はびっくりし続けていた。

ある朝、テレビで中東戦争のニュースが流れた。
あ、と思った瞬間、担当者から電話が入った。
「ちょっと大変なことが起こっていて、ショーは大幅に縮小されるかもしれません、たとえば2千万ぐらいに」
夕方にはショーが中止される電話があった。
「とりあえず、今までのことは全てキャンセルです。またいつかいい仕事をしましょう」

この日がオイルショックの始まりの日であり、その後、電話はなかった。

世の中は不景気になり、順調に仕事をしているのは、業界でも一部の人たちだけになった。
私の仕事は激減した。
お金もなく、ぼろぼろに疲れきった私自身の健康を考える時間だけが与えられた。
とりあえず街を歩こう。今まで忙しさにまぎれてタクシーにばかり乗っていた。歩いて、社員食堂にでもまぎれこんで、安いものでも食べよう。

「朝日カルチャーセンター」開設というニュースを知って、早速ヨガ教室の第一期生になった。
そこで行われたヨガの沖先生は実はとても偉い先生だったが、こういう生涯教育の試みは、はじめてのことだったからだろう、一ヶ月に一回ぐらいはお弟子さんだけではなく、直接先生が現れた。
最初の日、生徒は床に寝かされ、身体のゆがみを指摘された。
先生は私を見下ろして、大声で「子宮後屈!」と叫んだ。

定期的に、沖先生を囲んで食事会があった。
これが全て有機農法でつくられた自然食だった。
がぶりとかじるトマトは、普段食べているものと全然違ったなつかしい香りとおいしさに溢れていた。
漬物に一滴たらしたお醤油の旨みに感動した。
でも、沖先生は「正しい食事」とともに「悪食」(アクジキ)の大切さも教えてくれた。

カルチャーセンターは新宿の住友ビルにあったが、階下の住友系の社員食堂で、豚肉のしょうが焼き定食を食べたり、ときには焼肉屋に行ったりした。

先生のヨガは、若い頃、中国でスパイ活動をして投獄された時、そこにいたラマ僧から教えを受けたものだそうだ。その冒険談はドキドキするほど、おもしろかった。
先生は腸癌をかかえていて、自分は癌と共生しているのだとも言っていた。今考えると、走りだったカルチャーセンターで、健康法ばかりではなく、一方方向に行きがちな精神世界の入り口に私は立っていた。
そこで、広範囲な視点が大事だという、基本中の基本を教えられたのだった。

この時期の経験をある時、ロケット博士といわれていた糸川英夫さんと話したことがある。
「オイルショックの時、あなたがヨガを勉強したのは、正しい。私はその時期、チェロを学んでいた」とおっしゃった。
そして、オイルショックはお互い大事な経験だったはずだ、と続けた。
糸川さんとお話したのは、何か雑誌の企画でのことだったと思うが、糸川さんはとても印象的な話をしてくれた。

ある時、団体旅行でインドに行った。バスである観光地に行き、ちょうど峠の茶屋のようなところで、大勢降りて一休みした。その茶屋には手伝いの子供がいて、ゾロゾロと入ってきたお客にグッド・タイミングでお茶を出した。その男の子は一瞬にして男女のお客の人数を数え、まず男性客にお茶を供する。そのあと、女性客にお茶を振舞ったと言うのだ。
それは男尊女卑ではなく、きわめて合理的な判断だった。
男性が全員 トイレに行く時間を計算して、さっとお茶を用意する。トイレに時間かかる女性客の計算も自然にできて、そのタイミングにあわせてお茶を出す。
糸川さんは、その少年にゲーム器を渡した。彼は何の説明も聞かずにそのゲーム器を上手に操った。
ゼロと言う数学的概念はインド人が発見したものだが、こんな山奥の少年でも、自然に数学的判断ができる。インド人は、数学に非常に優れた民族なのだ、ということだった。
私はたった一度だけ仕事でインドに行ったことがあるが、そのとき通訳だった中年の女性が「私の息子も娘もアメリカの学校で コンピューターを学んでいる」と言っていた。
現在のアメリカのITビジネスを支えているのがインド人だときいて、私はこのふたつのことを思い出している。

写真 (データ思い出せません) 話がカタイので写真はこれにしてみました。