鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

後閑宮内大輔・刑部少輔の動向

2020-12-22 19:46:18 | 新田後閑氏
永禄-天正期に活躍した後閑信純の後、新田後閑氏としてその子宮内大輔と刑部少輔の活動が顕著である。今回はその二人について検討する。


[史料1]『戦国遺文武田氏編』五巻、3089号
一、後閑之儀、弥太郎殿・善次郎殿両息江五百貫文宛配分之事、
一、家財之儀者、簾中へ可被出置之事、
右之両条、任承旨令領掌之上者、速可有譲与、永代不可有相違者也、仍如件、
天正七年己卯
    二月廿日 勝頼
    上条伊勢入道殿


[史料1]によって、信純の子に弥太郎と善次郎がいたことが分かる。信純は同月に死去しているから、代替わりを示す文書と見られる。同年4月にはそれぞれに武田勝頼から判物が発給されており(*1)、宛名に「後閑弥太郎殿」、「上条善次郎殿」とあることから、後閑氏と上条氏をそれぞれが名乗った事が理解できる。なお、この両通に「任聴松軒譲与之旨」とあることから、信純が入道後は上条聴松軒を名乗っていたことがわかる。


[史料2]『戦国遺文武田氏編』五巻、3235号
一、高林郷 五百貫文
一、岩松之郷 七百貫文
一、高島之郷 三百貫文
右如此為旧領為之由候之間、東上州本意之上、速可進置之候、弥可被励忠勤儀、可為肝要候、恐々謹言、
追而、先判所持之人、又難去以忠節、右之地他人江出置候者、以替地可補候也、
天正八年庚辰正月廿日 勝頼
  上条宮内少輔殿


[史料2]では後閑氏の旧領として現在の太田市である高林、岩松の地が挙げられている。新田岩松氏の本拠地金山城の周辺であり、その関連は新田後閑氏が岩松氏の流れを汲むことを考えると興味深い。宛名の上条宮内少輔は、上条善次郎の後身である。


[史料3]『戦国遺文北条氏編』三巻、2483号
武田家以来被拘置候後閑之内五百貫文、無異儀進置候、軍役等厳重之儀専一候、畢竟武辺於御稼者、涯分可引立申候、恐々謹言、
 天正十一年癸未正月十一日    氏直
        後閑形部少輔殿

[史料4]同上、2484号
御本領之儀者、武田家之砌相違以来小幡拘来候条、無是非候、然間永禄十年丁卯武田信玄被申合候後閑之儀進置候、相当之軍役厳重之儀、可然候、自今以後武辺別而於御稼者、涯分引立可懇切申候、恐々謹言、
 天正十一年癸未正月十一日    氏直
     後閑宮内少輔殿


[史料3][史料4]は武田氏滅亡後、後閑氏が小田原北条氏へ帰属したことを表わす文書である。[史料4]から宮内少輔が上条氏から後閑氏へ復姓していることが分かる。復姓の契機は武田氏滅亡が最も有力であろう。そうすると[史料3]の後閑形部少輔は信純のもう一人の息子弥太郎の後身であろう。

さて、二通を比べると宛名の位置が宮内少輔の方が高い。信純の名乗り宮内少輔を継承していることを踏まえても、善次郎/宮内少輔が嫡男と考えられる。

[史料4]では、宮内少輔へ小幡氏の領有する「御本領」について言及されている。これは前回みた丹生の地のことである。後閑氏にとってやはり丹生が本貫地であり、嫡男宮内少輔がその回復を小田原北条氏へ帰属する際に掛け合ったのではないか。ただ、それは認められなかったことが読み取れる。


天正12年には後閑宮内少輔・形部少輔が厩橋城に在番している様子が見える(*2)。これ以後、宮内少輔は宮内大輔として記される。また、宮内大輔(少輔)は単独で宛名に見られるが、形部少輔へは一貫して宮内大輔との連名で書状が宛てられていることも特徴である(*3)。これらは兄弟がそれぞれ家を持ちながらも、やはり嫡流として宮内大輔(少輔)が存在していたことを表わすだろう。

また、「両後閑」と表現される文書も見られ、宮内大輔と形部少輔の二人を指す表現であろう(*4)。

天正11年9月に小田原北条氏は厩橋北条氏を攻め厩橋城の接収を果たし、家臣を城将に置き周辺領主を在番させる体制を取る。新田後閑氏もそれに漏れず厩橋城への在番が命じられている。天正16年にも後閑宮内大輔の厩橋城在番に関する書状が見られる(*5)。黒田氏は後北条氏における後閑氏の取次について、「指南」は不明ながら「小指南」を垪和康忠と明らかにしている(*6)

『小田原一手役之書立写』では、周辺の大領主安中氏、和田氏、小幡氏らが「一手役」と称され軍事編成の一単位を構成するのに対し、後閑氏は後北条氏直属の「旗本之一手」すなわち旗本衆に編成されたという(*7)。これは、後閑氏は所領規模で劣るものの、他領主の同心ではなく後北条氏に直接被官化した、政治的に自立した存在であることを意味している。

天正17年の豊臣秀吉と小田原北条氏の抗争においては、後閑宮内大輔が「陣用意火急ニ可有之候、先正月三ヶ日立、翌日諸軍打立、可令参府筋目之事」と命じられている(*8)。少なくとも宮内大輔は小田原城にて籠城したと考えらよう。そして、新田後閑氏は後北条氏と共に滅亡するに至る。


以上、新田後閑氏として信純(宮内少輔/伊勢守/入道聴松軒)とその息、(善次郎/宮内少輔/宮内大輔)と(弥太郎/形部少輔)を確認した。さらに信純とその息善次郎/宮内少輔/宮内大輔は一時上条氏を名乗り、期間は天正元年頃から天正10年と推測される。


最後に、二人の実名について考えてみたい。所伝、系図に伝えられるものを纏めると以下の通りである。

『系図纂要』岩松系図では、景純-信純-某-信久、と続く。某は上条善二郎、宮内少輔を名乗ったという。信久は信純の子とも記され刑部少輔とあるも、「大道寺麾下」とありこれは惣社周辺を拠点とした後閑下野守の系統、後閑又右衛門尉との混同がある。

『日本城郭大系』は『上州故塁城記』、『上野志』、『上毛国風土記』を参考として、後閑信純の長子を後閑「下野守信重」、次子後閑「重政」、三子上条「信久」、と伝える。

『新田族譜』では信純の子を「信久」とし今川家との合戦で戦死したと伝える、という(*9)。『系図纂要』にも「信純子信久今川合戦討死」との説も伝えられているが、そのような合戦で後閑氏一族が戦死した事実はない。

『甲斐国志』は信純の子を「刑部丞信久」と伝えている(*9)。

また、『西上州の中世-安中市の中世文書-』では信純の嫡子を「久純」としている。

このように、所伝類を比べて見ると天正期に活動した後閑宮内・刑部兄弟、後閑下野守・又右衛門尉父子の四人でその実名が混乱していることがわかる。従って、系図・所伝における実名をそのまま信ずることはできない、といえる。ただ、「信久」については多くの所伝にみえるから、宮内・刑部兄弟のどちらかの実名である可能性はあるかもしれない。


*1)『戦国遺文武田氏編』五巻、3114号、3115号
*2)『戦国遺文北条氏編』四巻、2616号
*3)同上、2833号
*4)『戦国遺文北条氏編』三巻、2500号
*5)『戦国遺文北条氏編』四巻、3250号
*6)黒田基樹氏「白井長尾氏の研究」(『増補改訂版戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*7)黒田基樹氏「和田氏の研究」(同上)
*8) 『戦国遺文北条氏編』四巻、3566号
*9)太田亮氏『姓氏家系大辞典』
*10)元亀元年12月武田家朱印状(『戦国遺文武田氏編』1628号)では、須賀佐渡守へ「後閑堀之内刑部少輔分」が宛がわれている。上述の後閑刑部少輔とは別人であり、以前より刑部少輔を名乗る新田後閑氏庶家があった可能性が想定される。



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