鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

後閑信純の動向

2020-12-19 21:11:23 | 新田後閑氏
戦国期上野国碓氷郡後閑は、永禄期に長尾景虎の関東出陣と甲斐武田氏の西上野進出を契機に新田岩松氏の流れを汲む後閑氏によって支配されるに至る。今回は、この後閑氏について永禄-天正期を中心に、その系譜と動向について検討していきたい。

後閑氏は新田岩松氏が名乗る以前にも存在した。『有道氏系図』に児玉党出身として後閑氏が見え、享徳の乱において長禄4年に足利義政から「後閑弥六」へ感状(*1)が下されている。ただこれ以降は所見がなく、没落したようである。新田岩松氏がこの元々の後閑氏の名跡を継ぐ形を取ったのか、単に入部した土地の名を取ったのかは不明である。新田岩松氏の後身である後閑氏を新田後閑氏として、以後進めていく。


[史料1]『戦国遺文武田氏編』一巻、772号
新田岩松方被拘来候知行并丹生之地、在郷之被官等以下之儀、向後不可有綺候、為後日令啓候、恐々謹言、
永禄五壬戌年
   三月九日 信玄
    小幡尾張入道殿

永禄5年頃に金山岩松氏が西上野の丹生を当地行していたとは考えられないから、「新田岩松方」は後の新田後閑氏のことを指す。これは後掲の[史料3]で後閑信純の本領は小幡氏が知行している、とあることからも明らかである。よって、永禄5年時点では後閑氏ではなく、新田岩松氏を名乗っていたと推測される。(後閑氏を名乗るのは永禄10年からであるが、便宜的に一貫して新田後閑氏と表記する。)

[史料1]からは、永禄5年の時点で新田後閑氏が所領を維持できなくなっていたことがわかる。他氏によって丹生を攻略されたためそれを奪回した武田氏が小幡氏へ与えてしまったのだろう。「被拘来候」とあるから、その契機は永禄3-4年の長尾景虎の関東出陣であろう。

新田氏(後閑氏)は『関東幕注文』にその名がなく以後甲斐武田氏へ亡命していることから、景虎の関東出陣に従わなかった可能性が高い。同じく景虎に従わなかった飽間氏も景虎の関東侵攻前後に没落したと推定されており(*2)、『関東幕注文』の後に離反した諏方氏も永禄4年末までにその所領を失っている(*3)。新田後閑氏も同様の転帰を辿ったと推測される。特に、諏方氏は武田氏へ亡命しその支援を受けるが西上野制圧後も本拠の松井田を回復できなかった。丹生を取り戻せなかった新田氏後閑氏とよく似ている。


さて、ここで永禄以前の新田後閑氏と後閑の地の関係を考える。本拠が丹生であり、後閑への入部が永禄10年を待つことは確認した。永禄4年から10年までは、安中氏が後閑を支配していたことも明らかにされている(*2)。永禄4年以前、新田後閑氏と後閑に関わりがあったかを検討してみたい。


[史料2]『西上州の中世-安中市の中世文書-』、17号、「長源寺文書」
  定
寄進状之事、三木十五貫文並門前屋敷八人、下郷之内二十貫文百姓四人、奉寄進之者也、為後日仍如件、
弘治元年乙卯九月十三日
        新田 伊勢守
進上長源寺

[史料2]は上後閑にある長源寺に土地を寄進した文書の写しである。署名の「新田伊勢守」は後閑信純とされているが、その花押型は生島足島神社起請文(*5)にある信純の花押型とは異なる。さらに、後述の様に信純は永禄10年以前では宮内少輔を名乗っていたから、発給者は信純ではない。花押型について信純との類似点が見受けられることや信純自身も後に伊勢守を名乗ることから、信純の先代にあたる人物だろう。『系図纂要』を始め、系図や所伝で見られる「景純」にあたる。

[史料2]をそのまま受け取ると、新田後閑氏は永禄期以前既に後閑氏を領有していた時期があった、ということになる。ただ、この「長源寺文書」は信憑性に問題があるようである。

安中市は「長源寺文書」を[史料2]と依田全棟発給文書二つの三点とするが、黒田基樹氏は「長源寺文書」について全棟の署名のある二点としている(*4)。実際、[史料2]は文明期の日付を持つ依田氏発給の他二点と文章や形式が不自然なまでに酷似している。「長源寺文書」は写であり黒田氏も文書の年代は直ちに信用できないとするように、[史料2]も鵜呑みにできるものではない、と言える。

そして、黒田氏は後閑の地について永禄3-4年の景虎関東出陣まで板鼻依田氏の領有を想定している。後閑に位置する長源寺も開山は依田全棟と伝わるという。

新田後閑氏と後閑の地を繋ぐものとしては、他に『上州故城塁記』や『系図纂要』の所伝がある。そこには、「景純」の代に「北条政時」から後閑を奪ったとされる。「北条政時」という人物は確認できず、明らかに誤りであろう。ただ、景純が後閑を奪ったとする点は一考の余地がある。天文末期から弘治年間であれば、山内上杉氏と小田原北条氏の抗争に乗じて板鼻依田氏からの後閑を奪うことも可能であろう。「北条政時」というのも或いは小田原北条氏との関連を示すものなのかもしれない。

以上、元々後閑は板鼻依田氏の支配を受けていたと想定されるが、永禄期に近い時期の状況は詳らかでなく、確実なことは不明と言わざるを得ないだろう。後閑信純の先代にあたる「新田景純」が山内上杉氏と小田原北条氏の抗争に乗じて後閑を制圧したとする見方も可能である、とするに留めておきたい。


話を新田後閑氏が甲斐武田氏の元へ亡命した時点に戻す。

永禄9年武田信玄書状(*5)には「新田宮内少輔」の名が見える。この人物が信純である。信純について信玄は工藤昌秀へ「不私高家と云、又武辺等無二心懸御方之条、則懇切申候」、「新田殿へ無疎略、可被致指南」と、信純を「高家」と表現し非常に篤い配慮を見せていることが注目される。武辺を無二に心懸ける人物と評されているのは、信純の人物像への言及であり興味深い。

また、ここで信玄は信純へ南栗林(現松本市)の内300俵を与えている。さらに「自身其地へ御越候」とあり、信純が北信濃へ派遣されそれに伴う扶持であったことがわかる。


[史料2]『戦国遺文武田氏編』二巻、1088号
近年在府候之間、本領安堵之儀、雖可申付候、以先忠小幡知行候之間、無是非候、因茲後閑遣置候、可被勤相当之軍役候事肝要候、恐々謹言、
永禄十年丁卯
   六月廿七日 信玄
  後閑伊勢守殿

[史料2]によって、それまで新田宮内少輔を名乗っていた信純が後閑伊勢守を名乗っていることがわかる。[史料2]では、先に信濃との関わりが見えたものの「近年在府」とあることから基本は甲府にいたこと、「後閑進置」より永禄10年に[史料1]で小幡氏に宛がわれてしまった本領丹生に代わる土地として後閑の地を宛がわれていることも読み取れる。よって、永禄10年に新田信純が後閑を宛がわれ後閑氏を名乗ることとなったと理解される。

また、同年7月朔日武田家朱印状(*6)で後閑伊勢守へ軍役が定められ、同年7月7日武田家朱印状(*7)では後閑宮内少輔が「安中者并松井田之知行」などを宛がわれている。この二通では伊勢守と宮内少輔が重複して見えるが、『戦国遺文』は双方、信純に比定している。この後、宮内少輔が所見されなくなることからも両者は同一人物であろう。

永禄10年8月の生島足島神社起請文(*8)を、「後閑伊勢守信純」が単独で跡部勝資へ提出している。ここで、実名「信純」が明らかになる。武田信玄の偏諱であろう。また、黒田基樹氏(*9)は武田氏家中で後閑氏への取次を務めた者の内「小指南」(簡便に言えば、当主近辺の取次のこと)をこの跡部勝資に比定し、また西上野の領主全般に当てはまることとして「指南」(支配地域近辺の取次のこと)甘利信忠を想定している。


さらに、信純は天正元年までに上条氏(カミジョウ)を名乗り、入道していることが天正元年武田勝頼書状(*10)の宛名「上条伊勢入道殿」からわかる。『尊卑分脈』に拠れば、上条氏は甲斐源氏武田氏一族の一条忠頼の孫頼安を祖とする氏族であるという。新田氏の出身という血筋から、武田氏がその名跡を継がせたと考えられる。

また、武田勝頼判物(*11)から入道後は、上条聴松軒を名乗ったことが明らかである。


高野山清浄心院『上野日月供名簿』には「新田伊勢守殿」が天正7年2月11日に供養されている(*12)。前日には後閑の所領を二人の息子に分割し家財を妻に与えているから(*13)、信純が危篤となりまもなく死去したことを思わせる。

信純の妻は、同名簿から天正9年4月に死去していることがわかる。

年不詳1月武田勝頼書状(*14)は「上条伊勢守殿」すなわち信純に宛てられており、武田信豊、逍遙軒信綱らの活動する下伊那方面大島城への着陣を要請されている。天正10年の織田氏甲斐侵攻に際した文書とも捉えられるが、信純の没年から天正7年以前に比定される文書となる。


以上が、新田後閑信純の動向である。次回は、信純の次代について検討してきたい。


*1)久保田順一氏「上州白旗一揆の成立とその動向」「享徳の乱と地域社会」(『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院)
*2)黒田基樹氏「安中氏の研究」(『増補改訂戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*3) 『戦国遺文武田氏編』一巻、764号
*4)黒田基樹氏「天文期の山内上杉氏と武田氏」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*5)『戦国遺文武田氏編』、二巻、1027号
*6)同上、1090号
*7)同上、1093号
*8)同上、1160号
*9) 黒田基樹氏「武田氏の西上野経略と甘利氏」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)
*10)同上、三巻、2173号
*11)『戦国遺文武田氏編』五巻、3114号、3115号
*12)久保田順一氏「戦国期碓氷郡の町と宗教的環境」(『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院)
*13)『戦国遺文武田氏編』五巻、3089号
*14)同上、3688号