上杉謙信の母(以下、謙信母)については確実な史料がなく、様々な所伝を元に推測がなされている。しかし、所伝によって伝えられるものはそれぞれに異なっており、謙信母がいったい誰の娘でどのような人物なのか、わかりにくい。
結論から言えば、謙信母は栖吉長尾房景の娘であり長尾為景の側室と推定できる。
以下、謙信母について検討していきたい。
1>正室・天甫喜清と側室・謙信母
まず、謙信の母は正室ではない点から言及したい。
長尾政景妻仙洞院がその生前に作成した『長尾政景夫妻画像』と呼ばれる史料は、仙洞院と政景の姿が描かれると共に家族の戒名が記載される。その戒名は、長尾晴景を始めとして為景の子供たちのものであり、長尾為景妻の天甫喜清も載る。しかし、謙信は載らず、他にも載らない為景娘が確認されている。この点から、片桐昭彦氏( *1)が『夫妻画像』は特に仙洞院の両親と同腹兄弟姉妹を記載したものであることを指摘している。
実際、謙信が誕生した享禄3年以前の享禄元年に晴景は元服しており、その年齢差は同腹とは考えにくい。
よって、謙信の母は側室であったと推測される。
次に、『夫妻画像』に記載があることから晴景、仙洞院らの母であることが推測される天甫喜清について、確認したい。高野山清浄心院への供養依頼の記録の写である『越後過去名簿写』、片桐氏により江戸初期の作成と指摘される戒名書上『公族及将士』、天文期に原本が作成された可能性が高い『天文上杉長尾系図』を参考とする。
まず、その没年は『越後過去名簿』に天文12年5月7日と記される。「天甫喜清 府中御新造サマ」とあり、天甫喜清が為景の新造=妻であることは明らかである。
さらに、『越後過去名簿』には永正11年に「長尾為景御新蔵御腹様」=為景妻の母、が供養されており、さらにこの人物には「上杉トノ上条殿上」という記載もある。つまり、天甫喜清は「上条殿」の娘であることがわかる。
ここで、『公族及将士』に目を移す。すると「朴峰永淳庵主」という人物に「てんほさま御そんふ」=天甫様御尊父、という記載がある。「天甫喜清」の戒名も為景の法名の隣に記載されている。
『越後過去名簿』にも「朴峰永淳庵主」の供養記録があり、そこには「上杉弾正少弼御新蔵立 上条入道」と載り、朴峰=上条上杉弾正少弼入道であることが明らかでる。
さて、ここに天甫喜清が永正11年時点で為景の妻となっており、その出身は上条上杉氏であったことが明かとなる。婚姻の時期が早く、出身が上杉氏であること、『公族及将士』において為景と並んで記載されることを踏まえて、天甫喜清は為景の正室である可能性が高いと言えるのである。
やはり、謙信母は正室ではないといえる。
2>謙信母の父は長尾房景か、長尾顕吉か
続いて謙信母に関する所伝を具体的に検討し、謙信母の父(=謙信の母方祖父)について推測していく。
米沢藩の編纂により江戸元禄期(1700年頃)に作成された『上杉御年譜』では謙信母の父について、「古志郡栖吉城主長尾肥前守房景」とする。
同じく米沢藩編纂の系図『藤原姓上杉氏系図』では「越後栖吉城主長尾肥前守顕吉」とされる。ここでは戒名は「青岩院天甫喜清大姉」であり、永禄11年5月の死去であることが記される。
さらには『上杉御年譜』の草稿的性格を持つとされる『謙信公御書集』には「栖吉城主長尾肥前守顕吉」とある。
以上が、米沢藩に伝わる代表的な所伝である。一貫して「栖吉城主」である点と、「長尾肥前守」である点が伝わる。実名は「房景」と「顕吉」の二通りがある。
長尾肥前守顕吉は上田長尾氏の人物であり、同時期には栖吉長尾氏として孝景や房景が存在するから、栖吉城主である点とは矛盾する。さらに母を天甫喜清とする点は先述の推測とは異なり、天甫喜清の没年も『過去帳』とは異なる。
片桐氏は、これらを整理し、正しくは「栖吉城主長尾豊前守房景」の娘が謙信母であったと推測する。
片桐氏は長尾房景説と長尾顕吉説が存在する背景には、受領名が似ていたこと、栖吉長尾氏と上田長尾氏の双方に「房景」が存在したことがあると指摘している。
つまり、「栖吉長尾豊前守房景」→「肥前守房景」→「上田長尾肥前守房景」→「肥前守顕吉」と所伝される過程で混同や誤解が重なり、最終的に「栖吉城主」の部分のみ原型を留めて「長尾肥前守顕吉」という誤伝が生まれたと推測される。
よって、上杉謙信の母は、長尾為景の側室である「栖吉城主長尾豊前守房景」の娘、と推測できるのである。
勿論、謙信母と天甫喜清は別人であり、没年と伝わる永禄11年5月も天甫喜清の没年天文12年5月との混同であろう。
永禄6年7月上杉輝虎願文(*2)には「吾是幼稚而後父母」と、幼少期に父母に先立たれたことが記されていることを踏まえると、その可能性は高い。
永禄6年7月上杉輝虎願文(*2)には「吾是幼稚而後父母」と、幼少期に父母に先立たれたことが記されていることを踏まえると、その可能性は高い。
この誤伝の形成について、私は血筋を美化する米沢藩による改竄という見方ができると考えている。時代が下るに従って正から誤へ変化しているわけではなく、不自然な変遷を辿っていることがその理由である。これについて後述していく。
3>長尾顕吉娘説の否定と米沢藩における誤伝形成への推測
ここまで、栖吉長尾房景娘=謙信母という説が有力であることを見た。しかし、近年の研究においても長尾顕吉娘=謙信母という主張は見受けられる。その理由は天正14年に原本が成立した『越後長尾殿之次第』(以下『長尾次第』)に謙信母=顕吉娘との記載があるからである。『長尾次第』は信頼性高く、根拠としては説得力があるようにも思える。以下において、『長尾次第』におけるこの記載について検討していく。
今福匡氏(*3)はその『長尾次第』に上田長尾氏の「肥前守顕吉」の嫡女「天甫清公大禅定尼」が「先代管領御母儀 御当代外祖母」=謙信母で景勝外祖母、と記載されることから、長尾顕吉娘=謙信母であるとする。
しかし、天甫喜清は先述したように謙信の母ではないことなどを踏まえると、『長尾次第』の顕吉の子供達には不自然な点がある。今福氏の主張も、『長尾次第』以外の史料とは整合性が取れていない。
つまり『長尾次第』は信頼できる史料の一つであるが、そこに何かしらの誤謬がある可能性がある。
[史料1]『越後長尾殿之次第』抜粋
・次男肥前守顕吉 法名寶樹永珎 息四人女二人
武庫
(中略)
長子右京亮景明 息三人別記
関興庵
次子玖圓侍者
∴嫡女天甫清公大禅定尼
先代管領御母儀 御当代外祖母 以上三人月州同腹
次女光室妙智大姉 栖吉於弥四郎殿内儀
末子伊勢守景貞 以上二人別腹
[史料1]は顕吉の子供達を表わす。「息四人女二人」の内、甥房長が顕吉の跡目を継いだために人数に含まれる。『長尾次第』が顕吉の実子とするのは、長子「景明」、次子「玖圓侍者」、末子「景貞」、嫡女「天甫清公大禅定尼」、二女「光室妙智大姉」の五人である。
他史料における、彼らを見てみたい。
まず、『長尾次第』における特徴である「天甫喜清」を長尾顕吉の娘とする点である。先述に推測した通り、為景の正室であるが謙信の母ではない。さらに父は上条弾正少弼入道である。
『長尾次第』のこの部分の記述は、信頼できる史料より『上杉御年譜』など米沢藩の所伝類に近い記載であることが特徴である。
続いて、「光室妙智」である。『長尾政景夫妻画像』に戒名が記載されることから仙洞院の同腹姉妹、つまり為景の子供と推測されている。『長尾次第』の記載では仙洞院の叔母にはなるが、為景との血縁はないことにされてしまっている。
さらに、『公族及将士』にも「光室妙智」が載り、「じょうじょうのかみさま」=上条氏の妻、とする記載がある。これは『長尾次第』における「栖吉於弥四郎殿内儀」=栖吉長尾房景妻という記載と大きく矛盾する。
「光室妙智」には刈羽郡鯨波の妙智寺にも関連史料がある。永禄8年5月に「小少将」なる人物が土地を寄進していることが文書(*4)からわかっており、『白川領風土記』に依ればこの人物こそ妙智寺の開基である「光室妙智」と伝わっているというのである。上条氏の拠点に近い刈羽郡という立地から上条氏の妻であるという『公族及将士』の記載が『長尾次第』における栖吉長尾房景妻という記載よりも整合性を持つ。
では、信頼性の高いはずの『長尾次第』においてこのような誤謬が生まれたのであろうか。
ここで『長尾次第』奥書に注目すると、天正14年に作成された原本は焼失してしまい、残った物は寛永3年に「上命」を以て書写した物であるという。
私は、書写にあたって「上命」つまり米沢藩の意向が介在したことに注目したい。上田長尾氏をルーツとする米沢藩上杉氏が、藩内で神格化されていた謙信との血縁を重視した結果、上田長尾氏と謙信母に関する系譜が政治的要素を内包することになった、と推測するのである。
すなわち、謙信の母が側室であることは神と崇める上で不都合であるから正室へと書き換え、さらにその正室を上田長尾氏へと紐付けることで景勝以降の米沢藩主の血筋の美化を図ったと考えられる。『長尾次第』の謙信母に関する部分が、米沢藩の所伝と一致していたのは、このような背景があったのではないか。
漸進的な誤伝というより書写の段階での改竄の可能性を推測するのは『上杉御年譜』が「長尾肥前守房景」と伝えるのに対し、それ以前の成立である『謙信公御書集』において既に「長尾肥前守顕吉」と記されているからである。先述した片桐氏の段階的な所伝の変化も一理あるが、年代順に並べると「顕吉」の記載が見られる時期は早く、時代経過によって「房景」→「顕吉」と変化しているわけではないのである。そして、「顕吉」に関する誤伝形成は『長尾次第』の書写された頃まで遡るのではないか、と思うのである。
誤伝の形成過程が時代の経過と一致しないのはなぜだろうか。それは米沢藩主の血統に理由があるように思える。『長尾次第』が書写された寛永3年当時藩主は景勝の嫡男上杉定勝であり、上田長尾氏の流れを汲む人物である。一方で、『上杉御年譜』の編纂を命じ、それを完成させた藩主は上杉綱憲である。綱憲は吉良氏からの養子であり、上田長尾氏に対する過度な修飾を必要としなかったと思われるのである。
ちなみに、『長尾次第』は長尾房景の法名を「実岑一貞禅定門」とする。しかし、この法名の人物は『公族及将士』や『長尾政景夫妻画像』に記載があることから為景の子息と推測され、房景とは別人である。ここにも誤りがあると感じる。
天甫喜清や光室妙智、実岑一貞禅定は皆『公族及将士』に載る人物である。恐らく、系譜を一部改竄するにあたり、米沢藩内に残る限られた史料から戒名を探すことになり、不自然に偏った人物が用いられたのではなかろうか。
長くなってしまったが、『長尾次第』における謙信母の記載は信用できず、長尾顕吉娘=謙信母とする説の根拠は乏しいといえる。そして、その誤伝形成には米沢藩内での血統美化のための作為があった可能性を指摘した。
また、他の所伝類について確認しても、長尾顕吉に関する史料は怪しい。
米沢藩作の系図として『平姓栖吉長尾系図』、『平姓上田長尾系図』が存在するが、顕吉は『栖吉系図』に記されている。その法名は『長尾次第』に載る「寶樹永珎」ではなく、「朴峰永諄庵主」とある。これは先述したように、上杉弾正少弼のものである
顕吉の法名が「寶樹永珎」であることは、楡井修理亮宛長尾房長書状(*5)で房長自身が「永珎三回忌」について言及していることから確実である。
本当に謙信の母が天甫喜清であり、その父が顕吉ならば上杉弾正少弼の法名「朴峰」が米沢藩に所伝されることはなく、長尾氏の系図に記されることもない。
やはり、米沢藩所伝において、上杉弾正少弼・天甫喜清がそれぞれ上田長尾顕吉・謙信母へ上書きされていることが窺われる。誤伝されたか、先述したように血筋の美化のため意図的な改竄があったことが推測される。
以上から、謙信の母が長尾顕吉娘である説は否定される。
ここまで、謙信母を中心に為景側室天甫喜清や栖吉長尾房景、上田長尾顕吉との関係を見てきた。諸々の史料を総合すると、栖吉長尾房景娘が謙信母である蓋然性が最も高く、これ以外の説ではどこかで史料間の整合性が取れなくなってしまう。
謙信母は栖吉長尾房景娘である、と論理的根拠をもって言えるのである。
今回は、近年の研究に加えて私見を交えながら上杉謙信の母について検討してきた。どのような史料に基づいて上杉謙信の血縁関係が推定されているかが伝われば幸甚である。
*1) 片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)
*2)『新潟県史』資料編5、23121号、2646号
*3) 今福匡氏『上杉謙信』(星海社)、『上杉景虎』(宮帯出版)
*4) 『越佐史料』四巻、530頁
*5) 『新潟県史』資料編5、3578号
※21/7/4 一部わかりにくい部分を改めた。
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