鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

後閑下野守・又右衛門尉の動向

2020-12-24 17:53:36 | 新田後閑氏
戦国期後閑氏には、上野国碓氷郡にて活動した後閑信純とその息子宮内大輔・刑部少輔とは異なり、惣社周辺を拠点とし武田氏滅亡後は厩橋北条氏に従った後閑下野守、又右衛門尉が所見される。厩橋北条氏は天正7年8月以降武田氏に従い、その滅亡後は天正11年9月まで小田原北条氏に抗い(*1)、越後上杉氏との関係も確認される存在である。今回は、この下野守系統の後閑氏について検討してみたい。


[史料1]『上越市史』別編2、2354号
長倉之巣鷹三居到来、誠早々着之事、別而被悦思食候、如件
  天正十年壬午
      七月一日            安芸守
       後閑下野守殿

[史料1]は厩橋北条芳林(高広)が後閑下野守に贈り物について言及している文書である。ここで、「別而被悦思食候」という尊敬表現は、芳林自身が喜んでいるわけではなくその上位の人物が喜んでいることを表わす。この頃厩橋北条氏は越後上杉景勝と通じているから(*2)、下野守の鷹は越後上杉氏関係者に贈られたのではないか。

この頃、下野守と同様に厩橋北条氏への従属が確認される瀬下氏が見られる(*3)。この瀬下氏は天正13年に上杉景勝から直接「其地令在城、別而走廻り之由」を賞されているから、後閑下野守や瀬下氏が厩橋北条氏へ従属した背景には上杉景勝の存在があったとみて良いだろう。すなわち、この頃の厩橋北条氏は小田原北条氏へ対抗するため、また下野守を始めとする周辺小領主の支持を得るためにも、戦国大名権力として確立している越後上杉氏への帰属が求められたと捉えられる。


下野守は天正5年武田家官途状(*5)に所見される「後閑下野守」と同一人物であろう。天正4年武田家官途状によって「後閑又右衛門」が所見されることが想起される(*6)。この二通は伝来が同じで有り、後述するように下野守の次代にも又右衛門尉が見られることを考えても、天正前期の後閑又右衛門尉が後に下野守を名乗ったと考えられる。


天正11年12月には同じく厩橋北条芳林から後閑又右衛門尉へ「善之内闕分二十貫文」を宛がわれ、「軍役番普請等之儀、別而可走廻者也」と命じられている(*7)。これを含め、天正11年以降に所見される又右衛門尉は下野守の次代にあたる人物であろう。

天正11年9月に小田原北条氏によって厩橋城が落とされ、厩橋北条氏が大胡へ退去し厩橋城が小田原北条氏の管轄下となると、又右衛門尉も小田原北条氏に従った。

又右衛門尉は天正15年10月には大道寺政繁から北条氏政の下総国佐倉制圧を図る軍事行動のため福田氏、「鑓衆」と共に江戸への参陣を命じられている(*8)。この書状で又右衛門尉は同道する「鑓衆」の扶持を松井田で受け取るように命じられている。さらに、天正17年大道寺政繁書状(*9)には政繁が又右衛門尉に「松井田新堀へ御移候哉承度候、早々御移可為肝要候」とあり、松井田城に在番が命じられている。

又右衛門尉は、松井田城を拠点とする小田原北条氏重臣大道寺政繁の同心として配置されたことがわかる。


以上から、後閑又右衛門尉/下野守とその次代又右衛門尉は後閑信純と同様に甲斐武田氏に従うも、その滅亡後は信純の系統とは行動を異にして越後上杉氏権力を背景にした厩橋北条氏に従属、その後は小田原北条氏に従い大道寺政繁の同心として活動したと考えられる。


最後に、この下野守系が後閑信純とどのような関係にあるか整理したい。

『日本城郭大系』は『上州故城塁記』『上野志』『上毛国風土記』などから、下野守は後閑信純の長子「信重」であり天正5年に惣社へ分家したとして伝えている。下野守が官途名を名乗ったのが天正4年、その受領名を名乗ったのは天正5年であり、後閑宮内大輔・刑部少輔兄弟が官途名を名乗る以前のこととなる。よって長子であるとする所伝には合致するものの、下野守の次代又右衛門尉と信純の子である宮内・刑部兄弟が同時期に活動することを考えると、下野守を信純の子とするのは少し世代的にそぐわない感もある。

新田後閑氏の系譜は不明な点が多いため、下野守系統の位置づけも確実なことはわからないようである。

また、既に天正4年の時点で官途状(*6)が惣社周辺の領主瀬下采女らと同時に発給されていることから、惣社に分家した時期は所伝にある天正5年ではなく天正4年以前とみられる。瀬下氏と後閑下野守/又右衛門尉はその帰属先を武田氏-厩橋北条氏-大道寺氏(小田原北条氏)と同じくしており、この地域の小領主の動向を表わしている様で興味深いといえる。



*1) 栗原修氏「厩橋北条氏の存在形態」(『戦国期上杉氏・武田氏の上野支配』岩田書院)
*2)『越佐史料』六巻、394頁
*3)栗原氏(*1)に拠れば、天正10年6月には惣社領を攻める厩橋北条高広から「瀬下采女佐」に「従惣社爰陣江被相移、愚老在手前、昼夜忠信心遣被走廻候」のため知行が約束され、実際に翌月惣社を攻略した高広から知行を宛がわれている。よって、瀬下氏も厩橋北条氏に従っていたことがわかる。
*5)『戦国遺文武田氏編』五巻、2875号
*6)『武田氏編』四巻、2737号
*7)『戦国遺文後北条氏編』三巻、2600号
*8)『戦国遺文北条氏編』四巻、3201号
*9)『戦国遺文北条氏編』五巻、3930号



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