鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

鮎川式部大輔入道の乱に関する検討

2023-07-17 22:43:42 | 鮎川氏
鮎川式部大輔入道の反乱(以下鮎川式部の乱)は下掲の一次史料などで確認できる史実である。一方でその検討は進まず、年次比定も『編年上杉家記稿』における永正9年の他に有力な説もない状況であった。私も永正9年において概ね矛盾ないと考え、その比定に従ってきた。しかし、『長尾為景』(*1)所収の阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」によると、下掲[史料1]、[史料2]、及び同内容の吉田千代智宛長尾為景書状(*2)に認める花押は阿部氏の分類で4S型であり永正9年とは考えられないことが指摘されている。今回は、鮎川式部の乱について検討していきたい。

[史料1]『新潟県史』資料編4、1432号
向鮎川要害御張陣、日々御動之由候、炎天時分、一入御苦労奉察候、各被仰合可被急行事肝要候、陣労為可承態以使者申候、珍子細候重而可示給候、巨細猶彼仁可申候、恐々謹言
    五月晦日                 長尾為景(4S型)
     築地修理亮入道殿

[史料2]『新潟県史』資料編5、3367号
依鮎川式部大輔入道逆心御出陣、長々陣労令推察候、弥忠節簡要候、恐々謹言
    九月二日                   為景(4S型)
     江口与三郎殿

まず、花押型4L型は永正11年1月まで確認され、花押4S型の使用は永正11年4月(*3)から永正18年4月まで認め、さらに大永4年4月より花押5S型に変化している。よって、鮎川式部の乱も永正11年以降、大永初期あたりまでのイベントと考えられる。

[史料1]の宛名である築地修理亮入道(祥翼)について考えてみたい。詳細は割愛するが、この人物は永正8年3月まで「修理亮」で所見されるが、永正10年11月以降は「修理亮入道」として所見される。よって、鮎川式部の乱も築地修理亮が入道として確認できる永正10年代から大永初期として矛盾ない。鮎川式部の乱関連文書に登場する江口与三郎や福王寺掃部助も永正10年代から大永初期の活動が想定される人物である。つまり、花押型だけでなく登場人物からも永正10年代から大永初期という推測は妥当と考えられる。


しかし、ここからさらに年次を絞っていく作業は困難である。情報が少なく特定の年に比定することはできないと言う他ないのである。できる範囲で考察を進めてみたい。まず、永正10年11年は上杉定実や八条上杉氏が挙兵し、広域に内乱が生じていた。しかし、築地氏や中条氏が上田庄まで出陣している状況を考えるとその近隣の鮎川氏が反乱していたとは考えにくい。永正12年は史料が少なく国内の状況はよくわからない。逆にいえば鮎川式部の乱もあり得るといえる。永正13年は長尾為景が越中出陣を企図しており、国内は安定していたのではないか。永正14年も史料が少なく詳細は不明である。永正15年から永正18年・大永元年までは越中攻略が中心であり、国内は安定したのではないか。大永2、3年も史料が少なく国内情勢はよくわからない。

つまり、時代背景からは、鮎川式部の乱は永正12、14年もしくは大永2、3年あたりであったのではないかと推測されようか。個人的には後述するように大永2、3年と考える。


さて、そもそも鮎川式部大輔とは誰なのかという問題もある。[史料1]より反乱の拠点が「鮎川要害」であり、江口氏や福王寺氏など遠方の諸将も動員されているところを見ると鮎川氏の庶流などではなく、鮎川氏当主とその傘下による反乱だった見てよいだろう。前回鮎川氏の系譜を検討したが、永正後期から大永初期における鮎川氏の当主は鮎川藤長にあたる。藤長の官途名、受領名は他史料から確認できず、式部大輔である可能性を否定するものはない。藤長は祖父の27回忌、父の33回忌を執り行っており、同時期に入道する年齢で矛盾ない。

藤長は永正17年とその翌年に法要を行っていることが確認され(*4)、以降は所見されずに享禄期から次代清長が所見される。鮎川式部の乱が大永初期とすると、長尾為景に鎮圧後に式部=藤長から清長への代替わりが行われたという見方もできる。大永期に揚北衆と長尾為景の間で起請文が交わされるが、例えば黒川氏宛(*5)では「本庄・色部・中条其外国中面々」というように小泉庄、奥山庄では鮎川氏が除かれた表現となっている。本庄氏、色部氏、中条氏宛でも鮎川氏の名は出てこない。この点も大永前期に鮎川藤長が反抗し、一時的に政治的立場を悪化させていた可能性を示唆するのではないか。

ここまで、鮎川式部の乱の主体は当時の鮎川氏当主、鮎川藤長であり、式部大輔入道を名乗ったことを推測した。また、その時期は大永2、3年あたりと考え、反乱の失敗により鮎川氏は為景へ降伏、清長への代替わりを認め、その政治的立場は低下した可能性を推測した。


[史料3]『新潟県史』資料編4、1436号
依先度申入候、御祝着旨態示給候、誠御深志義快然候、自何以霜台無御等閑被入御心、毎日御動之由候、可然題目候、自元不可有御余儀事候条、此方も御心安候、山吉孫左衛門尉至于中途令出陣其庄、旁鮎川へ可被相重由申付候、各御相談御忠節簡要候、如推量、御牢人等計相動候哉、急度被成御行、落居候様、御武略専一候、返々態承候、令満足候、委曲猶長授院可申候、恐々謹言、          
    五月廿二日                長尾為景(3型)
     築地修理亮殿

[史料3]は「鮎川」に関する記載から従来、鮎川式部の乱に関する文書とされてきた。しかし、花押型は阿部氏の分類で3型であり、鮎川式部の乱当時に用いられていた4S型と異なる。3型は永正5年から同8年にかけて用いられた花押型であり、[史料3]もその間の文書と推測される。永正5年5月から7月にかけて長尾為景は色部氏や本庄氏、竹俣氏らを攻め降伏させる。すると、鮎川周辺が戦場となり為景家臣・山吉能盛まで派遣されている[史料3]も永正5年と推定される。


以上が、鮎川式部の乱に関する検討である。従来の永正9年とした年次比定と大きく異なる結果であった。越後史を考えるにあったて大きな影響はないかもしれないが、その年次比定は慎重に考えていくべきであろう。


*1)『長尾為景』(黒田基樹編、戒光祥出版)
*2)『新潟県史』資料編5、2829号
*3)三分一原合戦関連文書を永正11年4月に比定したことによる。三分一原合戦の実像 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~
*5)『新潟県史』資料編3、236号