鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

鮎川氏の系譜

2023-07-05 21:32:31 | 鮎川氏
越後鮎川氏は越後国小泉庄の伝統的領主のひとつであり、戦国期を通じてのその活動が確認される。鮎川氏についてその系譜を中心に検討していく。


1>系譜
鮎川氏の系譜は『耕雲慈堂老納法語』、『平姓鮎川氏系図』(本庄氏文書)、『鮎川氏系図』(上杉文書)が参考となる。

まず、『耕雲慈堂老納法語』から鮎川藤長の存在と、藤長が祖父「鮎川信濃」=「東英春公庵主」の27回忌、父「節叟忠公庵主」の33回忌を執り行ったことが判明する。

本庄氏系図所収『平姓鮎川氏系図』の記載では藤長の没年を長享2年3月15日として、次代清長、次々代盛長と三世代の系譜を繋げている。しかし、これでは年月に比して世代数が少ないと言わざるを得ず、その記載を鵜呑みにすることはできない。

この点は上杉文書所収『鮎川氏系図』の記載から明らかになる。『鮎川氏系図』でも「藤長」の没年を長享2年3月15日としているが、法名は「節叟忠公庵主」と記載される。また、次代「清長」は明応2年3月13日没とし、法名は「東英春公庵主」とある。そして、その次代は「盛長」「太年仙大禅定門」で没年は天正10年である。享禄・天文期に活動する清長が明応期に死去するはずもなく、「清長」と「盛長」の没年は約90年も離れているなど不自然である。そして何より、法名は「藤長」や「清長」ではなく、藤長の祖父、父のものである。つまり、実名と人物が一致していないと考えられる。

よって、正しくは法名より、系図における「藤長」は藤長の父であり、「清長」はその祖父鮎川信濃守のことを指すと推測できる。「清長」の項には「摂津守・信濃守」との記載もあり、人物が混同されていった微証がうかがわれる。そして、系図上における「清長」と「盛長」の空白期に藤長、清長が活動したと考えられる。

系図類の没年を引用すれば、藤長による祖父の27回忌は永正17年、父の33回忌は永正18年に行われたことになる。よって、藤長の活動期は明応から永正期であったことがわかる。

藤長の祖父、父が確認できる文書類はなく、系図作成において認識されなかった原因と考えられる。天正期に鮎川氏が事実上の滅亡を遂げたことが史料的な制約の一因であろう。藤長についても確実な文書は残っていないが、年不詳長尾為景書状に鮎川式部大輔入道という人物が反乱したことが記されており、活動時期から私はこの式部入道が藤長ではないかと考えている。これについては別稿で検討したい。


藤長の次代清長は享禄4年1月(*1)に初見される。大葉山普済寺は大永7年に清長が開いたとの伝承もあり、大永・享禄期に家督を継承したとみられる。清長は摂津守を名乗り、天文後期には入道し岳椿斎元張を名乗ったことが文書から確認される。終見は天文20年11月(*2)である。


清長の次代は盛長である。市黒丸の幼名で天文10年12月(*3)に初見される。天文11年2月(*4)に間もなく孫次郎を名乗る予定と記されているから、この頃元服し孫次郎盛長を名乗ったのだろう。終見は天正10年8月28日上杉景勝書状(*5)である。『鮎川氏系図』によるとその没年は天正10年10月20日という。また、盛長は最期まで孫次郎を名乗っている。

御館の乱で盛長は上杉三郎景虎寄りの立場を取り、その政治的立場は大きく低下する。伊藤正義氏・戸田さゆり氏(*6)の研究に詳しく、鮎川盛長は上杉景勝から「所領全体の何割かを本庄繁長に割譲して、繁長の要求に従って大葉沢城を自分破却して、本城を笹平城に移したと推定される」、という。さらに、文禄期の検地を検討して、新発田重家の乱に関連してさらなる所領没収を受けたことが推測されるという。具体的には「十五世紀末頃には城持領主の身分を剥奪されて、自立性が低下していた」という。新発田重家の乱に際して、盛長が重家へ与したことは天正10年8月25日新発田重家書状(*7)や天正10年8月28日上杉景勝書状(*8)に窺われる。天正10年頃に盛長は立場を悪くしたまま死去、事実上の鮎川氏は滅亡を迎えたと考えられる。『先祖由緒帳』「穂保八兵衛由緒」に詳しく、盛長の死後はすぐには当主が決まらず家臣穂保城左衛門が名代として朝鮮出兵のための名護屋在陣などに従軍したという。

鮎川氏の名字はその後、別氏からの入嗣で継承されている。慶長3年鮎川与五郎が小国城代、大浦城代なっているが、『鮎川氏系図』の記載では「秀定 与五郎、主計」、父は越中出身の武将二宮左衛門大夫長恒という。しかし慶長17年4月加賀へ出奔したためその跡目は本庄氏出身の「信重」が継いだという。


2>鮎川氏の出自
鮎川氏の出自について通説では本庄氏庶流とされてきた。しかし、近年の研究によるとこれは誤りである。

長谷川伸氏(*9)は鮎川氏を『平姓鮎川氏系図』の記載から相模三浦氏の流れを汲む会津の三浦蘆名氏支流新宮氏の一族であることを指摘している。

伊藤氏・戸田氏(*5)は、『瀬波郡絵図』などから小泉庄における鮎川氏、本庄氏の所領がモザイク状に入り組んでいることを明らかにし、13世紀末に年貢未進を生じた本庄氏の在地支配を圧迫するため鎌倉幕府が三浦新宮氏の人物を代官として派遣したのではないかと推測している。モザイク状の所領分布は同族であれば回避したはずであり、鮎川氏が本庄氏の在地支配を分断する目的で入部したならば説明がつくというのである。さらに、戦国期の本庄氏、鮎川氏の抗争の原因は「鎌倉時代以来の荘園公領制の枠組みと職の体系が色濃くのこっていたことが背景である」、としている。

系図類を見ると、江戸初期に鮎川氏へ本庄氏の人物が入嗣したことがわかる。このような背景が鮎川氏が本庄氏庶流と誤伝された一因ではないか。


3>拠点
鮎川氏の拠点についても触れておきたい。

[史料1]『新潟県史』資料編4、1104号
(前略)
随而当方逆意面々悉有白状人明白之上、□□退失仕候間、分目付先以心安奉存候、然者彼白状ニあいかハ、又御家風おも申候間、今朝従大葉沢者一両人被指越候て、被為聞候、
(後略)
   四月三日       矢羽幾佐渡守
                   長南
   弥三郎殿 参御報人々御中


[史料1]より、鮎川氏からの使者は大葉沢から来たという。よって、鮎川氏の拠点は現在も遺構のある大葉沢城とみて良いだろう。

史料にはその本拠を「相川」、「鮎川」と記されることも多く、大葉沢が本当に本拠地なのか疑問を示す研究者もいる。しかし、相川の地は村上城から見下ろされる位置にあり、防御にも向いている地形とはいい難い一方、大葉沢城は現在も圧巻の畝状阻塞遺構を認めるほど手が込んだ城郭である。

また、年不詳ながら『越後要害覚』という史料には当時の要害名前として、「あい川」が載る他「賀地」や「中条」、「色部」が記載されている。それぞれ揚北衆の領主の居城を示していると思われるが、中条氏の鶏坂城や色部氏の平林城など名字の地に城郭が存在したわけではないことは明らかである。つまり、「あい川」と呼ばれているからといって相川の地にあったわけではなく、大葉沢の城郭を「あい川要害」と呼んでいたとみて良さそうだ。



ここまで、越後鮎川氏について検討していきた。鮎川氏の系譜は次のように推測される。

(信濃守)‐某‐藤長‐清長/岳椿斎元張(摂津守)‐市黒丸/盛長(孫次郎)

他の揚北衆と比して史料の少なさに悩まされる点が多く、実態の解明が待たれるところである。


*1)『新潟県史』資料編3、269号 
*2)『新潟県史』、資料編4、1110号
*3)同上、1087号
*4)同上、1083号
*5)同上、1462号
*6)伊藤正義氏・戸田さゆり氏「越後国瀬波郡絵図の基礎的研究Ⅰ-戦国期瀬波郡の村町と軍役の負担体系-」
*7)『上越市史』別編2、2543号
*8)『新潟県史』資料編4、1462号
*9)長谷川伸氏 「国人領の世界」(『村上市史・通史編1』)