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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

四条上杉氏の系譜

2020-11-29 16:49:14 | 四条上杉氏
四条上杉氏は京都で活動した上杉氏の系統である。享徳の乱では京都から関東へ出陣し、足利成氏に対する関東管領上杉方に加わっていた。また、片桐昭彦氏(*1)は『天文上杉長尾系図』において四条上杉氏の系図が越後上杉氏と結びついて記されていることに注目し、同系図の作者と推測される守護代長尾氏にとっても四条上杉氏は重要な存在であったと考察している。今回は、この四条上杉氏の系譜関係を整理してみたい。


まず、『天文上杉長尾系図』に拠れば、上杉憲房の子憲藤(中務少輔)から朝房(弾正少弼)-朝宗(中務小輔)-氏憲(右衛門佐)と続き、氏憲を「四条上杉殿ノ御先祖」としている。氏憲は”上杉禅秀の乱”で有名な上杉禅秀その人である。ちなみに、同系図では憲藤の兄弟である憲顕から越後上杉氏が繋がることが示されている。

また、『上杉系図大概』は憲藤(中務小輔)を「四条上杉先祖是也」とし、朝房(弾正少弼)とその弟朝宗(中務小輔)に続き、朝宗の子氏憲(右衛門佐)に繋がる。さらに、氏憲次男の持房(中務小輔)が「叔父左典厩」の跡を継いで在京したという。この叔父は『藤原姓上杉氏系図』にある氏憲の弟、氏朝(左馬助)のことである。『上杉系図大概』では持房の後、嫡子教房(中務小輔)、その弟形部の存在が記されている。

『藤原姓上杉氏系図』、『系図纂要』には教房の子として政藤(中務小輔)、教房の弟に憲秀(刑部大輔)を記す。『系図綜覧』は憲秀を「刑部少」とする。

上杉政藤以降の人物については系図に見えない。

煩雑になってしまったが整理すれば、上杉朝宗、氏憲(禅秀)の父子は関東管領として活躍し、犬懸上杉氏と呼称される系統であり、氏憲の弟氏朝から氏憲の子持房へと継承されていく系統が京都を拠点とする四条上杉氏である。


さらに他の史料も用いて、持房の次代教房から四条上杉氏を詳しく検討していきたい。

そもそも京都における四条上杉氏の存在形態であるが、谷合氏の研究(*2)では室町幕府内において外様衆として一定の家格を有し将軍の軍事的基盤を支えていた存在として評価されている。そのため、幕府の家臣団が記された番帳を用いて人物を辿ることもできる。各番帳の年時比定は木下聡氏の研究に従う(*3)


文安年間の成立とされる『幕府番帳案』には「上杉三郎」とあり、木下氏は教房に比定している。

教房は寛正元年足利義政御内書(*4)に「去年於武州太田庄、父教房討死」とあることから、長禄3年10月の太田庄の戦いで戦死したことが明らかである。


また、同御内書が「上杉三郎殿」宛であることから、教房の子も仮名三郎を名乗ったことがわかる。系図類等で中務小輔政藤とされる人物である。

長禄~応仁の成立とされる『大和大和守晴完入道宗恕筆記一』には「四条上杉中務少輔」、長禄~応仁の成立とされる『条々事書』「四条上杉」、文明12、13年頃成立とされる『永享以来御番帳』には「四条上杉中務小輔」、長享元年成立の『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』「上杉代」、とあり、どれも政藤のことであろう。

政藤は教房死後に中務小輔の名乗りと四条上杉氏の家督を継承したことがわかる。このように番帳に記載が豊富であることから四条上杉氏は享徳の乱勃発に伴い関東に出陣した後、応仁期までには帰京していたことが推測される。『松陰私語』に上杉中務小輔が登場しないのも、頷ける。

『蔭涼軒日録』延徳2年2月11日の部分に「四条上杉殿爾来不例。昨日逝去云々」とあり、政藤の死去が確認される。


谷合氏は、申次衆としての所見ではあるものの延徳3年8月の六角氏攻めに「上杉四郎」が見え四条上杉氏と推定している。また、明応元年成立の『東山殿時代大名外様附』「上杉中務小輔」とあり、木下氏は政藤の次代と推測している。二人の考察を総合すれば、政藤の次代として四郎、中務小輔を名乗った人物がいたと推測される。


四郎/中務小輔の次代は『後法興院記』において文明18年から延徳4年までに散見される「上杉幸松丸」であろう。『上杉系図大概』において上杉憲藤、朝房が幸松丸を名乗ったとされ、四条上杉氏ゆかりの幼名のようである。


続いて、谷合氏の研究から近衛氏の日記である『後法興院記』、『後法成寺関白記』における四条上杉氏の所見を参考にして考えていく。

『後法興院記』では、幸松丸と入れ替わるように明応5年~永正2年まで「上杉三郎」が所見されるという。幸松丸の後身であろう。文亀3年の記述に「上杉三郎材房」とあることから、実名は将軍足利義材からの偏諱を受けた「材房」であることが明らかにされている。

『後法成寺関白記』では、永正9年~14年まで「上杉右衛門佐」が散見され、「三郎」は所見されなくなる。永正7年成立の番帳『永正七年在京衆交名』に「上杉右衛門佐」が所見されることから四条上杉氏であり、材房が右衛門佐に任官したとわかる。木下氏は永正16年にみえる「上杉後家」を材房の妻と推測し、以降材房の所見もないことから、永正15年末から翌年6月までには死去したとしている。


永正16年1月には「上杉虎千代」が所見され四条上杉氏と推定されている。材房の次代であろう。ただ、虎千代は以降所見がない。


大永6年には『後法成寺関白記』に「上杉幸松」が所見され、その幼名からも四条上杉氏の一族と推定される。虎千代に何らかの問題が生じ、代わって幸松丸が四条上杉氏を継承することとなったのだろう。

幸松丸は、享禄5年6月に三好氏らと共に切腹した「上杉次郎」と同一人物と考えられ、次郎の死去を以って四条上杉氏が史料上見えなくなるという(*3)。


以上から、政藤以降の人物については血縁関係に関して明かではないものの、四条上杉氏の系譜は次のように想定される。

持房(中務小輔)-教房(三郎/中務小輔)-政藤(三郎/中務小輔)
-(四郎/中務小輔)-材房(幸松丸/三郎/右衛門佐)-(虎千代)-(幸松丸/次郎)



*1)片桐昭彦氏 「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」(『山内上杉氏』戒光祥出版)
*2)谷合伸介氏「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的研究」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*3)木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」
*4) 『越佐史料』3巻、101頁


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