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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

紋竹庵か、絞竹庵か。

2023-09-07 21:41:38 | 長尾為景
長尾為景は晩年に入道し、入道名を名乗る。『新潟県史』は「紋竹庵張恕」とし、私もそれに従ってきた。しかし、前嶋敏氏(*1)は原本から見て正しくは「絞竹庵張恕」であったことを指摘している。「紋」と「絞」と表記に相違がある。今回は改めて長尾為景の庵号を確認したい。


まず、『新潟県史』では先述のように「紋竹庵」である。『越佐史料』においても「紋竹庵」とある。また、研究者の論稿を見ても多数の文献で「紋竹庵」が散見される。つまり、通説的には「紋竹庵」が広く伝えられていたことがわかる。

しかし、前嶋氏のいうように原本や謄写本を確認すると「紋」ではなく「絞」に見える。例えば、築地彦七郎宛長尾張恕書状(*2)の原本や『歴代古案』の謄写本である。『長尾政景夫妻画像』における戒名を見ても「絞竹庵」と記されている。 

長尾為景文書を詳細に検討した阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」(*3)においても庵号は「絞竹庵」とされていた。


以上から、主要な刊本において誤読され、それを元に誤った庵号が通説化したと考えられる。よって正しくは「絞竹庵」であり、長尾為景の入道名は長尾絞竹庵張恕であったことが理解される。

以前の記事においては『新潟県史』を参考として表記していたため修正しておきたい。原本の確認が大切であることを再認識させられた。


*1)前嶋敏氏「越後享禄・天文の乱と長尾氏・中条氏」(『長尾為景』戒光祥出版)
*2)『新潟県史』資料編4、1438号
*3)阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」(『長尾為景』戒光祥出版)

三分一原合戦の実像

2023-06-10 21:44:14 | 長尾為景
これまで越後・三分一原合戦は天文5年4月における長尾為景と上条定兼(旧名定憲)の決戦という通説が広く浸透し、私もそれに従ってきた。古くからこの合戦の勝敗の是非が論じられ、近年は『越後過去名簿』より上条定兼の没年が天文5年4月23日と判明したことで定兼の戦没と為景の勝利が推測されていた。しかし、先日刊行された『長尾為景』(*1)所収の阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」によると三分一原合戦関連文書[史料1、2]の長尾為景花押型は阿部氏の分類で4S型であり、天文期ではなく永正10年代に使用されたものという。阿部氏論稿では具体的な年次には言及していないが、この文書を永正期のものとして認識を改める必要があると提起している。

実際、阿部氏の研究を踏まえて長尾為景発給文書を見てみるとその花押型は3型(~永正8年)→4L型(永正10年~永正11年1月)→4S型(永正11年7月~永正18年)→5S型(大永4年~天文2年)→5L型(天文2年10月~)と変遷を認める。よって、[史料1、2]が花押4S型であることは年次比定の上で無視できず、阿部氏の主張通り天文期の文書よりは永正10年代と見るべきと考えられる。

阿部氏論稿の初出は1986年と早いがこれまで拝読する機会がなく、花押分析を基礎とした卓見について触れることができなかった。無知を恥じるばかりである。今回は、三分一原合戦の実際について検討してみたい。


[史料1] 『新潟県史』資料編5、3494号
於去十日頸城郡夷守郷三分一原対宇佐美一類柿崎以下一戦、数刻矢師鑓突誠散火花砌、被入馬御武略異于他故、得大利、敵数千人討捕之、御戦功之至存候、恐々謹言
    四月十三日                  為景(4S型)
     平子右馬允殿

[史料2] 『新潟県史』資料編5、3483号
於去十日頸城郡夷守郷三分一原対宇佐美一類柿崎以下一戦、数刻矢師鑓突誠散火花砌、於眼前碎手突鑓之条、敵数千人討捕上、負鑓手一ケ所儀、神妙之至感候、謹言
     四月十三日                 為景(4S型)
    芹澤弥四郎殿

[史料3] 『新潟県史』資料編5、3658号
於去十日頸城郡夷守郷三分一原対宇佐美一類柿崎以下一戦、数刻矢師鑓突誠散火花砌、碎手突鑓故得大利、敵数千人討捕候、殊被鑓疵二ケ所之条、粉骨之至感之候、謹言
    四月十三日                  為景
     山村藤蔵殿

[史料4] 『新潟県史』資料編5、3661号
   猶々かうやく二進之候、以上
於于今度三分一原合戦、御名誉之由聞得候、心地好存候、殊疵被蒙候由承候、無御心元存候、能々御養生尤候、恐々謹言
    四月十三日                  政盛
     山村藤蔵殿


[史料1~4]は三分一原合戦に関する古文書である。うち[史料1、2]で花押型が確認される。[史料3、4]は写本につき花押型は不明である。文書には上条氏や天文の乱などを示す文言はなく、天文5年とする通説が不確実な推測であったことがわかる。

花押4L型の終見が永正11年1月であり、同年中に花押4S型が初見されることを踏まえると、[史料1~4]は永正11年1月以降と考えられる。

そもそも[史料4]の発給者高梨政盛の署名は決定的である。『高梨系図』によると高梨政盛は「永正10年4月27日」に58歳で没したとある。実際、永正10年以降に政盛の所見はなく、高梨澄頼や政頼の活動が見られるため、概ね正しい記述と考えられる。つまり、政盛の署名がある点からも永正期の文書である可能性が高い。[史料4]は永正11年以降の文書と推測されるが、政盛の没年を「永正10年」とする系図の記載は永正10年代の死去を断片的に伝えたものであり実際には永正10年代の初めはまだ生存していた可能性があろう。系図類によく見られる誤伝と推測する。


さて、史料をみると長尾為景の敵は一貫して「宇佐美一類・柿崎以下」と記されている。これまで私は天文の乱において上条定兼を支持する宇佐美氏や柿崎氏を表すと理解していたが、先述の通りそれは誤りである。素直に為景と宇佐美氏、柿崎氏の抗争であったと解釈すべきであろう。すると、永正10年から11年にかけての上杉定実の反抗とそれに追従した宇佐美房忠との抗争が想起される。この場合、合戦の日付は4月10日であるから、永正11年4月と推測される。花押型も矛盾しない時期である。

ここからは三分一原合戦が永正11年4月10日に生じた長尾為景と宇佐美房忠の会戦であったと仮定して、この抗争の経過について検討してみたい。為景と房忠の抗争は、長尾為景と上杉定実・八条上杉氏・山内上杉憲房の抗争である永正10・11年の乱における一つの局面と捉えられるが、乱全体の経過については別稿を参照していただきたい。


[史料5]『新潟県史』資料編3、164号
去廿一、被成一戦敵被打取験并手負注文給候、御動一段比類候、各感状只今雖可進候、向小野陣取候条、取乱之間、先一筆及御返事、高梨衆長峰原に張陣候、御屋形様某館へ御移府内無事候、恐々謹言
 此趣備中へ同前申              弾正左衛門尉
    十月二十八日                  為景
     長尾弥四郎殿 御報

[史料6]『越佐史料』三巻、609頁
雖未申通候令啓候、抑累年越州不思議之様体、定可為御覚悟之前候、就中去年以来対定実、長尾弾正左衛門尉慮外之刷、前代未聞、依之宇佐美弥七郎露忠信候之処、剰取成不儀催国中之衆小野要害へ取懸候、去春以代官弥七郎心底依申披、自其方之証人、既至于柏崎雖着陣候、弾正左衛門尉不及信用成行候故、弥七郎生涯、無是非次第候、憲定事も弥七郎為合力、信州御方中之義調令出陣、諸口之行調談半、如此凶事出来、誠所存之外候、可為御同意候哉、雖然弥七郎息無相違上路山方片倉壱岐守有同心、帰宅之由承候間、簡要候、然者被加御扶助之段都鄙不可有其隠上者、一段被成御刷、先揚河北之者共凌御方候者、静謐不有程候、至于其時者、定実可為如本意候、依同報此方も急度可成働候、巨細細尾山新左衛門入道可申達候、恐々謹言
    六月十三日               藤原憲定
   謹上 伊達殿

[史料7]『越佐史料』三巻、609頁
御屋形様へ萬度御祓并熨斗鮑五百本被致進上趣御披露之処、御喜悦之由候
御出陣聞召被参籠萬度御祓被進候、披露御返事取候渡候、仍愚書へ千度御祓并熨斗鮑二百本、木綿一端、茜給候、目出祝着候、御祈念候故、岩手要害去月廿六日落居、宇佐美方一類不相洩生涯候、爰元則属無事、委曲彼使可申候、恐々謹言
    六月廿二日                  妙寿
     蔵田左京亮殿

[史料5~7]は宇佐美討攻めに関連した文書である。永正10年10月上杉定実が挙兵すると宇佐美房忠もそれに従い長尾為景に敵対する。[史料5]より10月中、為景による定実による攻撃と並行して宇佐美氏の拠点へ栖吉長尾氏ら為景方諸将が進攻していたことがわかる。為景方は小野城を攻め、その手前長峰(現上越市吉川区)などに陣を張ったことが窺える。[史料6]「剰取成不儀催国中之衆小野要害へ取懸候」はこれを指す。同年10月23日長尾為景書状(*2)には「明日者向宇佐美在所可進陣分候」とあり、為景は定実を降伏させた後に宇佐美攻めを敢行する予定であったことがわかるが、この時実際に出陣したかは不明である。

宇佐美討伐戦は同年冬から翌年初頭にかけて小康状態となる。理由は上田庄における八条上杉氏・山内上杉氏の動きが活発化したからであろう。永正11年1月六日町合戦で為景方の諸将が八条上杉氏らを討取る戦果を挙げ、一連の抗争における為景の優位が確実となる。

これを受けて宇佐美房忠も為景との和睦を模索したようである。[史料6]「去春以代官弥七郎心底依申披、自其方之証人、既至于柏崎雖着陣候、弾正左衛門尉不及信用成行候」と、伊達氏より仲介の使者が柏崎まで来ていたが為景がそれを受け入れなかった様子が記されている。[史料7]より為景は宇佐美討伐戦を継続し、5月26日岩手城の落城と共に房忠が死亡したことがわかっている。現在の遺構の規模や宇佐美領を継承した柿崎氏の所領を検討した市村清貴氏の論稿(*3)などから、この岩手城が宇佐美氏の本拠であろう。

恐らく、永正11年4月10日に生じた三分一原合戦はこの宇佐美攻めに際して春日山・府中より進軍する長尾為景軍を迎え撃った宇佐美房忠軍の戦いであったとのではないか。三分一原は保倉川の近辺に位置し、房忠は保倉川を天然の障害として迎撃を図ったのだろう。この合戦にそれに勝利した為景は侵攻を進め、翌月末に房忠の本拠岩手城を落とすという結末に繋がると考えられよう。つまり、三分一原合戦は矛盾なく永正11年4月に比定される。[史料7]における「宇佐美一類方」という表現も[史料1~3]で見られた表現と共通しており、共に同時期の文書であることを示唆していよう。

推測だが保倉川まで宇佐美氏の勢力圏であったことより、永正10年の宇佐美攻めでは小野城は持ち堪えていたのではないか。そして、永正11年4月から5月にかけて小野城を始め宇佐美方の領域は浸食されていったのだろう。為景は伊達氏の仲介を受けた和睦交渉まで拒否して宇佐美氏を滅ぼそうしており、宇佐美氏・宇佐美領の差配が越後支配するにあたり重要であったと推測される。宇佐美氏に関する史料は少なく、その政治的立場は後考を要する。

[史料6] 「憲定事も弥七郎為合力、信州御方中之義調令出陣、諸口之行調談半」と、上条憲定(定憲・定兼)は房忠を援助すべく信濃の味方と軍事行動を計画中だったと述べている。しかし、結果として定実、房忠、八条上杉氏らの敗北に関して明確な軍事行動を起こしていないわけであり、正面切って為景と敵対することは避けたのでないか。


以上、三分一原合戦が天文5年4月における上条定兼との合戦ではなく永正11年4月における宇佐美房忠との合戦であったことを示した。過去記事における三分一原合戦についての記述は追って修正することとする。天文の乱における通説は史実と大きく異なることとなり、上条定兼の死去や抗争の経過など再検討が必要であろう。また、房忠に柿崎氏が味方していたことが明らかとなり同氏の動向に関しても興味深い所見といえる。今後、考えていきたいところである。

また、阿部氏論稿では他文書においても注目すべき考察がなされており、私のこれまでの検討の中にも年次比定に修正を加えるべき点が散見される。これも早急に取り組むべきな個人的な課題である。


*1)『長尾為景』黒田基樹編著、戒光祥出版
*2)『新潟県史』資料編3、157号
*3)市村清貴氏 「『越後国郡絵図』「頸城郡絵図」における柿崎領」

長尾為景・晴景と佐子上臈局「唐織物」をめぐる動向

2020-06-06 10:01:26 | 長尾為景
享禄3年に長尾為景晴景父子は権威上昇のため将軍足利義晴へ「御服」の下賜を願い出で、許された(*1)。その上で、為景晴景父子はさらなる権威獲得のため、佐子上臈局の「唐織物」の拝領も願い出た。これは、長谷川伸氏「長尾為景と晴景」(『定本上杉謙信』、池亨・矢田俊文編、高志書院、2000)では将軍義晴の御内書により許可されるも佐子上臈の拒絶により代わりに堆朱の香箱と盆が贈られただけで失敗したとされ、上杉氏年表増補改訂版(池亨・矢田俊文編、高志書院、2013)においても同様の見解を示している。将軍の御内書まで公式に発給されながら、一人の上臈がそれを覆したのか疑問であり、史料を確認してみたいと思う。

まず、佐子上臈についてみてみる。羽田聡氏「室町幕府女房の基礎的考察-足利義晴期を中心として-」では、三淵氏の出身で足利義輝の乳母を務め天文3年に隠居したという。臈次は小上臈といい、上から大上臈、小上臈、中臈、下臈にランクごとに区別される中の上から二番目となる。また、同氏は「室町幕府女房は将軍の代替わりごとに一新される傾向にあり、将軍の意向が色濃く反映され、その動向に左右される側近衆的な要素が強いのでないか」と述べている。

[史料1]『新潟県史』資料編3、440号
唐織物之事、内々度々承候、於身一切無疎意候、御佐子上臈御局、是又聊無御等閑候。然此事ハ、仰之趣、先度も如申候、一段子細有之御事候、
(後略)
二月五日     (大館)常興
神余越前守(昌綱)殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、470号
(前略)
一、唐織物事、当年も色々申入候処、此儀者、一段有子細御事候条、只今ハ不被進候、今度之御服之御礼御申之上、涯分可申達之由、上臈御局様、与州(大館常興)被仰事候、此旨御心得尤候、次今度之御礼被相急候者、可然存候、於其上、唐織之儀も可相調候哉、
(後略)
二月二十六日     神余隼人佑実綱
大熊備州(政秀) 御宿所

[史料1]と[史料2]は将軍の「御服」拝領後さらに唐織物について願い出たことに対し、幕府側が難しいという事を伝えているとわかる文書である。[史料1]より為景へ幕府が複数回に渡り「唐織物」の下賜を断っていると読み取れ、[史料2]よりその理由が「御服」下賜に対する謝礼が未納であったからだとわかる。さらに、謝礼が納められれば佐子上臈ら関係者も前向きであるという趣旨が記されている。

[史料3]『新潟県史』資料編3、98
(封紙ウハ書) 「ながおしなののカミ(為景)殿
               御返事まいる さ(佐子上臈)」
御ふく御たまわり候につきて、文御うれしくミ参らせ候、まことに御めんほく、めてたくおほえさせ御ハしまし候、まつまつおもひより候ハぬ三千疋、めてたさ御うれしく思ひまいらせ候、又をかしけに候へとも、かうはこ(香箱)、ついしゅ(堆朱)、一ほん(盆)、同一まいらせ候、めてたくいまよりハにあい候御よふも申うけ給り候ハんとすると数々御うれしく思ひまいらせ候、なをよろつくわしき御事ハいよ殿(大館常興)よりおほせ事候へく候、かしく、

[史料4]『新潟県史』資料編3、115
(封紙ウハ書) 「ながおいや六郎(晴景)殿
               御返事まいる さ(佐子上臈)」
御ふく御たまハり候につきて、文給り候、御うれしくミまいらせ候、まことに御めんほくめてたく思ひまいらせ候、まつまつ二千疋、御うれしく思ひまいらせ候。又めてたき志るしハかりに、をかしけに候へとも、ついしゅかうはこ(香箱)一、ついしゅぼん(盆)一まいらせ候、なをよろついよ殿(大館常興)よりおほせ事候へく候、かしく、

為景と晴景は [史料1][史料2]の後、為景が「御服」の御礼として足利義晴へ青銅一万疋太刀一腰馬一疋を始め、関係者へ多額の金品を献上した。[史料3]、[史料4]はその時、為景晴景父子が佐子上臈にも金品を献上したことに対する返事である。足利義晴や大館常興、晴光らも為景と晴景の二人へ返事を出しておりそこに書かれる献上された品の数値が為景宛と晴景宛とで異なるため、為景名義と晴景名義の別々で金品は献上されたと思われる。佐子上臈へも同様と思われ、[史料3]は為景へ[史料4]は晴景への返事である。これを読むとそれぞれ青銅を合せて五千疋も献上したとわかる。さらに「唐織物」の代わりに下賜されたとされる堆朱の香箱と盆についても言及されている。しかし、これらは献上品に対しての返礼品と読み取ることができ、足利義晴が為景の献上に対し「青銅一万疋到来、神妙、仍太刀一腰遣之候」(*2)と返礼品を送っていることと同じことである。よって、堆朱の香箱と盆は「御服」下賜に際しての御礼に関する返礼品であり、「唐織物」とは直接の関連はなかった。

将軍の「御服」の件ながら佐子上臈へ金品が献上されたのは「唐織物」の下交渉を兼ねていることは勿論であるが、前掲羽田氏論稿に「(女房の職掌として)あげられるのは、経済基盤とも関係する取次ぎである」とあるようにその政治的地位によるものもあろう。もしくは、[史料3][史料4]を「御服」という表現から将軍の「御服」に関する御礼のあった享禄3年にに比定したが、「唐織物」についての為景と晴景の御礼が享禄4年にみえ、この年に比定される可能性もある。どちらにしろ、堆朱の香箱と盆は返礼品であることに変わりは無い。

[史料5]『新潟県史』資料編3、295号
唐織物之事、遣晴景母分、得其意、可申下候也、
九月二十八日    (足利義晴花押)
大館伊予入道とのへ

[史料6]『新潟県史』資料編3、444号
連々内々御申候唐織物之事、被成其御意得、被対弥六郎殿(晴景)母儀、被遣之分ニ可申下旨、私へ以 御内書被仰出候条、為御拝見下進之候、一段之御面目、無比類事候、殊内々被望申候方少々雖有之、不被入聞食候由、局被申候、然間、先以御隠蜜之段、只今儀就承之、尤可然候、如此之次第、能々御分別候て、信州へ可被申下事肝要候、局よりも珍重之旨、よく心得候て、可申之由候、猶富森左京亮可申候、恐々謹言、
九月二十八日     (大館)常興
神余隼人佑殿 進之候

[史料7]『越佐史料』三巻、771頁
就唐織物遣之儀、青銅万疋、次太刀一腰、馬一疋、三千疋到来、神妙、猶常興可申候也、
七月二日     (足利義晴花押)
長尾信濃守(為景)とのへ

[史料5]はついに「唐織物」下賜を命じる御内書である。将軍から大館常興に伝えられ、[史料6]において常興が長尾氏配下の神余氏に伝えている。[史料5]は明らかに「唐織物」の下賜を表している。[史料6]はそれの添状であることから同様の内容であることは明らかであるが、内容を確認してみたい。「殊内々被望申候方少々雖有之、不被入聞食候由、局被申候」この部分は、密かに「唐織物」を望む人が何人かいたがその願いは聞き入れなかったと佐子上臈が言っていた、というふうになる。そして「先以御隠蜜の段」つまり越後長尾家へ下賜したことは隠密にして欲しい、と続く。[史料6 ]においても為景へ「唐織物」を下賜すると伝えていると明らかである。。

[史料7]は享禄4年に比定され、これを補強するものである。「唐織物遣之」とあり、「唐織物」が下賜されそれに対する為景晴景の御礼が京都へ届けられたことがわかる。

以上の検討により、為景と晴景は将軍「御服」に続き佐子上臈の「唐織物」獲得に成功していた。将軍や女房、近臣に対してパイプを築き多額の献上品を以て交渉する為景の政治手法は、京都において、上手くいっていたといえる。

*1)『新潟県史』資料編3、57号、294号などより
*2)同上、24号