鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾晴景と天文11年の乱

2024-04-20 17:15:55 | 長尾氏
戦国期越後において長尾晴景期の史料は少なく、晴景の事績については不明な点が多い。これまで当ページでは、晴景の家督相続が天文9年8月頃であり、天文10年12月の長尾為景死後から本格的に越後長尾氏当主として活動を開始し、天文12、13年頃までに伊達入嗣問題を発端とした伊達氏、揚北衆中条氏らとの抗争を鎮静化させたことを示してきた。しかし、伊達氏、揚北衆との抗争、長尾為景の死は越後国内の反長尾氏勢力の活発化にも繋がったと考えられ、天文11年から13年にかけてその痕跡が見受けられる。今回は、天文10年前半期における越後国内の紛争に注目してみたい。

[史料1]『越佐史料』三巻、873頁
今度一乱以来、守前々旨走廻致忠信間、蒲原郡相残堀越半地、金津保下条村之事長尾弥六郎別而申沙汰尤可然条、永令知行、弥以相嗜可為簡要者也、仍如件
   天文十三年
     十月十日            定実
    安田治部少輔殿

[史料2]『越佐史料』三巻、873頁
先年国中各以同心対府内雖企不儀、被相守前々筋目、被抽忠功条、無比類次第、因茲蒲原郡堀越半分、同郡金津保下条村之事申沙汰之上、被成御判了、御執務不可有相違弥可被励軍忠事簡要候也、仍如件
   十月十日              晴景
    安田治部少輔殿

[史料1]、[史料2]は揚北衆で白川庄安田を拠点とする大見安田長秀に与えられた上杉定実知行宛行状と長尾晴景によるその副状である。「今度一乱」、「国中各以同心対府内雖企不儀」とあり、天文13年以前に晴景と越後国内勢力との間で抗争が生じていたことが確実である。天文13年4月20日後奈良天皇綸旨(*1)には「当国中令静謐」とあり使者として「勧修寺入道大納言」が下向していることを見ると、天文13年初めにはにはほぼ終結していたと推測される。晴景は抗争の終結と共に、綸旨、後奈良天皇の「御心経」を獲得し、国内統治のために朝廷の権威を利用しようとしたと考えられる。

そもそも国内情勢の悪化の原因はといえば、やはり天文10年12月の長尾為景の死去であろう。天文9年8月頃に晴景へ家督を移譲していたといえども、長年に渡り越後に君臨してきた為景の死は越後に動揺をもたらしたことは想像に難くない。恐らくは為景の死去程なく国内の情勢は悪化したと考えられる。以前の記事(*2)で検討したように天文11年4月上杉定実起請文は晴景が定実に対して締め付けを図った結果であり、この時既に国内において反乱が生じていた可能性が考えられる。

私が敵対勢力の一つと推測するのが白川庄八条上杉氏である。『高野山清浄心院越後過去名簿(写本)』(*3)に「雲高居士 白川庄八条憲繁 天文十一 八月三日」、「理帝宗郭 蒲原水原八条与四良殿 天文十一 十月廿三日」の所見がある。私は以前の記事(*4)で、近接した時期に二人が死去していること、これ以降越後において八条上杉氏が所見されないことを踏まえると、天文11年頃に八条上杉氏が没落したと推測した。その理由については保留としたが、総合すれば、ここまで見てきた為景死去後の国内紛争において反晴景派として活動、その中で晴景方の攻勢に敗北、八条憲繁、八条弥四郎は死亡し八条上杉氏は越後において滅亡したと推測できる。[史料1]、[史料2]において安田氏へ宛がわれている「堀越」という地名は白川庄水原の近隣であり、八条上杉氏の没落により生じた闕所であった可能性も考えられる。

ここまでのように、抗争は為景の死去後から天文11年を中心に展開し、天文11年の乱と呼べるような抗争であったと考えられよう。[史料2]において去年ではなく「先年」ある点も天文13年時点から天文11年を意識した表現だったのかもしれない。


このような点からは天文10年12月の為景死去後紛争を晴景が乗り切り、越後の統治を進めていく様子がうかがわれる。また、白川庄八条上杉氏の没落がこの時のことであったことも推測できる。天文11年頃には伊達入嗣問題に端を発した羽越国境の紛争の余波で奥山庄や小泉庄で中条氏や色部中務少輔、本庄亀蔵院らが伊達稙宗と通じ晴景方へ抵抗を続けていたわけだが、「国中各以同心対府内雖企不儀」という表現からはそれの他にも晴景政権へ敵対した国内勢力がいたことを見逃してはならないだろう。

ちなみに、[史料1]、[史料2]は知行宛行に定実、晴景の両者の文書が必要とされた例として挙げられ、晴景期における定実の復権があったとする根拠とされている。しかし、これは抗争直後の文書であること、宛がわれた土地が八条上杉氏所領であったという特殊性、そもそも晴景関連文書が少なく他の事例が少ないことなどから、その評価についても慎重であるべきではないかと考えている。この点について別に検討していきたい。


*1) 『新潟県史』資料編3、776号
*3)山本隆志氏『高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)』(『新潟県立博物館紀要』9号)

上条定憲の政治的立場

2024-04-07 18:32:50 | 越後上杉氏
上条定憲(天文期に定兼と改名、文中定憲で統一する)は享禄・天文の乱で長尾為景と抗争に及ぶなどその存在は越後史においても無視できないものがある。しかし、抗争前における長尾為景政権下での定憲の政治的立場は不明な点が多く、抗争以前に定憲と為景がどのような関係にあったのかはあまり検討されていなかったように思われる。今回はそういった点を中心に考察してみたい。

[史料1]「大般若波羅密多経奥書」
久知・宮浦城□二三年国マキナリケルカ、ヨクコラエテ已後開運云云、久知・羽茂対面、越後上条殿中媒ニテホサシ野トヤランニテ、馬上ニテタイメント申、越国一同ニ久知殿一人ニ御タイメントソ聞エケリ
   大永七天丁亥四月上旬比前代未聞之弓矢也

[史料2]「本願寺証如上人書札案」『石山本願寺日記』
一、       上杉播磨守 惣領
 上杉播磨守殿 進覧‐恐々謹言
二、       山本寺陸奥守殿 上杉殿一家
 山本寺陸奥守殿 床下‐恐々謹言
 本願寺 御同宿中  定種 恐々謹言


[史料1]、[史料2]は大永・天文期における上条定憲の史料である。森田真一氏の研究(*1)に詳しく、それによれば[史料1]において大永7年に佐渡の争乱を調停した「上条殿」は定憲と想定され、[史料2]における「上杉播磨守」は享禄・天文の乱の勃発において定憲が上杉氏惣領を名乗ったものと推測されている。

森田氏は定憲が享禄・天文の乱以前にも政治的影響力を行使できる立場にあったと推測している。さらに、守護定実を差し置いてその政治的求心力を高めていた定憲に越後国内の政治体制における矛盾を指摘している。つまり、大永期越後では上杉定実が守護の座にありながら定憲が影響力を強めていたことが示唆される。

このような体制は、永正後期において守護上杉定実を形骸化した上で長尾為景により事実上のトップとして上杉房安が擁立されていた事例と、類似しているように思える。上杉房安とその政治的背景については以前検討したように(上杉房安を考える - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)、長尾為景は幕府との交渉の都合もあり守護定実を排除できなかったが、実際に文書上に見えるのは房安であったように、為景がの上杉氏の二頭体制を画策していたことが推測される。上杉房安については所見が乏しく確実なことはわからないが、永正11年に定実が没落してから永正後期に活動したと想定されるが、それ以降には所見されない。すなわち、大永期に房安に代わって上杉氏代表として擁立された人物が定憲だったのではないか。

守護定実は永正後期から大永期においてその政治的な活動は所見されない。しかし、享禄・天文の乱において為景と定憲が抗争を開始してから再び定実の活動が所見される。定実を否定するために必要であった定憲という上杉氏の人物が失われたため守護定実の復権につながったとは考えられないだろうか。

[史料2]において定憲は上杉氏惣領を名乗り、記載からは上杉氏一族の山本寺定種もそれを認めていると考えられる。また、享禄3年11月長尾為景書状(*2)では「大熊備前守、上条播磨守・為景間種々申妨候」として享禄・天文の乱の勃発について触れている。森田氏は為景が定憲を自身の前に書き記していることに注目しており、定憲が為景の上位権力として位置していたことが窺われる。さらには両者の間を守護公銭方大熊政秀が妨害したとする記述より、定憲が越後の権力中枢と深く関わっていた可能性が想定される。やはり定憲は上杉氏の一庶流ではなく、守護定実に代わる権力として大永期に為景に推戴され活動していたと考えるべきであり、享禄・天文の乱はそのような政治的矛盾が顕在化した結果であると見ることもできよう。


ここまで、上条定憲の政治的立場について考察した。永正11年に定実が没落し、天文期に復権を果たすまでの間、為景は永正後期の上杉房安や大永期に上条定憲といった有力な上杉氏一族を推戴し国内政治を推し進めたことが推測される。その上杉氏二頭体制は政治的矛盾を内包し、それが享禄・天文の乱の一因となった可能性が想定される。そしてこのような政治体制が崩壊したことが、定実が再び表舞台に立つことの一因となったと想定されるのである。これらのことは長尾為景の治世において上杉氏が欠けることはなかったといえ、その関係は国内政治にも大きな影響を与えたことが想定される。為景による政治体制を考える上でも留意すべきことであろう。


*1) 森田真一氏「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」、「上杉家と享禄・天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版) 
*2)『新潟県史』資料編5、3756号

山内上杉憲房の政治的立場

2024-03-01 22:51:27 | 山内上杉氏
山内上杉憲房は山内上杉氏として活動する人物であり、山内上杉顕定(入道可諄)の後継者として語られることが多い。また、憲房が顕定の養子となっていたと推測されることが多々ある。しかし近年の研究において、憲房が正当な後継者山内上杉顕実との抗争の末に家督を継承したこと、憲房自身が顕定の養子となった事実はないこと、などが明らかにされている。また、憲房の存在形態は前回検討した越後上杉定昌と類似点が認められる。今回は、憲房の動向と定昌との関係性について考えてみたい。

憲房は『上杉系図』、『上杉系図浅羽本』(*1)において大永5年4月16日に享年59歳で死去したとされ、逆算すれば応仁元年の生まれとなる。これらの系図より、父は山内上杉房顕の弟周晟(周清)であり、妻は扇谷上杉朝昌の娘とされる。

1>近年の研究における憲房
憲房の初見は文明13年である。黒田基樹氏(*2)は鑁阿寺文書における文明13年上杉憲房書状(*3)と同年長尾景春副状(*4)、長尾景春書状(*5)を検討し、当時山内上杉顕定に反抗していた長尾景春によって当時15歳前後の憲房が推戴されていたことを指摘している。黒田氏によると、こういった事態は山内上杉氏被官の支持を獲得するために同氏の当主を擁立することが有効と考えられたことが原因とされ、両者は山内上杉氏当主憲房・その家宰長尾景春という政治的構造を志向したという。憲房のその後の動向については詳らかでないが、長享の乱において顕定に従っていることが見えることから、文明14年11月における古河公方家と上杉氏における都鄙和睦前後に帰参したと推測されている。長尾景春との関係は解消されたとみられる。

その後しばらく憲房の発給文書はなく、山内上杉顕定に従い活動していたようである。永正6年における顕定の越後出陣にも従い、憲房の発給文書も確認される。しかし、顕定は翌年越後戦死し、憲房にも転機が訪れる。この時山内上杉顕定57歳、同憲房44歳であった。

黒田氏(*6)は「顕定の戦死後、家督を継いだのは本拠の武蔵鉢形城の留守を務めていた養子の顕実」とする。顕実は古河公方足利政氏の三男である。顕実は永正4年8月頃に顕定の養子になっていたと推測されている(*7)。顕実は古河公方家出身という政治的地位と、顕定より居城鉢形城を預かり、共に仮名四郎、「顕」の一字を名乗る事実からも山内上杉氏の正統な家督継承者であったことは確かであろう。つまり、永正7年6月の顕定戦死後に顕実が家督を継承したが、憲房と憲房を支持する家臣団は承服せず内部抗争に至ったという。

背景には当時古河公方内部で足利政氏・高基父子の抗争、山内上杉氏内部での権力争いなどが想定される。実際黒田氏(*8)により、足利政氏は顕実、高基は憲房を支持、山内上杉氏内部でも顕実を支持する惣社長尾氏、忍成田氏、舘林赤井氏らと憲房を支持する足利長尾氏、箕輪長尾氏、新田横瀬氏など二分される様子が明らかにされている。乱は永正8年9月まで生じ、永正9年6月に顕実の本拠鉢形城が落城することにより大勢が決したとされる。抗争を経て山内上杉氏の家督を継承した憲房は、上野国平井城を拠点として活動したことが確認される。

通説においては、顕実と共に憲房も養子であったとされ、養子二人が家督を争ったと解釈されてきた。憲房が顕定の養子とする説は『上杉系図大概』「顕定養子」あることなどが根拠にある。しかし、上述のように憲房の政治的立場は顕定の後継者ではない。黒田氏は、仮名五郎からも当初から憲房を後継とする構想はなく、有力庶家としての位置づけであったと想定している。「顕定養子」の記載は憲房が家督を継承した後の粉飾であろうことを推測している。永正6年越後出陣に際しても憲房は顕定とは別に有力な一軍を構成していることがうかがわれ、そこからも有力一門としての地位が反映されていると述べている。

森田真一氏(*9)は憲房を有力一門とする黒田氏の論説に同調し、その上で白井城を拠点し長享2年に死去した越後守護家上杉定昌の権力基盤を引き継ぎ統治した存在と位置付ける。その根拠として、永正期に憲房も定昌と同様に白井城を拠点としていたこと、憲房と魚沼郡の領主間の所領問題に介入し地域における保証主体として存在していること、家臣団の中に越後上杉氏家臣出身の石川駿河守が所見されることなどを挙げている。

個人的にも白井城を基盤とした定昌権力を憲房が継承したことに同意したい。仮名五郎もそれに伴って名乗った可能性がある。黒田氏(*2)は五郎を当初からの名乗りとするが、古志上杉氏を継いだとされる憲房の実弟憲明も同氏由来の十郎を名乗っており、憲房や憲明は越後に対しその正統性を主張するため仮名を改めた可能性も十分あろう。

2>憲房に関するいくつかの私見
ここまで憲房に関する新たな事実を整理してきた。しかし、まだ言及されていない点は多い。ここでいくつかの疑問点について私見を示してみたい。

まずは、白井を中心とした権力基盤が越後守護家の上杉定昌から別家の山内上杉憲房へ受け継がれた理由である。大きな背景として山内上杉顕定が越後上杉氏出身であることから当時山内上杉氏と越後上杉氏が政治的に一体となっていたことが挙げられるだろう。しかし、やはり定昌の死がその原因にあるように思えてならない。つまり、定昌の死が末弟房能を推戴する越後家内部の勢力との政争にあるとすれば、その遺跡が越後家に継承されない理由になり得ると考えるのである。そもそも白井城が山内上杉氏の影響下にあったからとも考えられるが、石川駿河守といった越後出身の家臣団や越後国内の一部所領も憲房が継承していることを踏まえるとやはり前述の理由で定昌亡き後その権力基盤が越後家から定昌と近かった顕定の山内家へ移行していることは確かである。

また、後継者でもなく有力一門の一人にすぎないと明らかにされた憲房が越後進攻に関連して発給文書が散見され顕定と並び御内緒を受給する存在となる理由を検討したい。

[史料1]『戦国期山内上杉氏文書集』87号
伊勢八郎左衛門尉盛正知行分越後国松山保事、近年不知行由候、如元申付者可為神妙、委細貞陸可申候也、
  十二月廿四日
     上杉四郎入道とのへ    同五郎とのへ

[史料1]は永正6年12月に出された将軍足利義伊御内書である。当時越後の上杉定実・長尾為景を追放し府中に在陣していた山内上杉四郎顕定入道可諄・同五郎憲房へ越後国内の所領問題の解決を命じている。この文書は顕定とその後継者・憲房という構図の根拠ともなり得るが、黒田氏により否定されている。しかしそれでは越後を制圧した山内上杉氏当主で関東管領の顕定と単なる一門にすぎない憲房が連名で記されていることとなり、不自然な感がある。ここで、上述したように山内上杉五郎憲房が越後上杉五郎定昌の権力基盤を継承したことが思い浮かぶ。つまり、憲房は定昌の遺跡を継承し、越後守護房能が敗死した後に越後守護家の正統な後継者として顕定に擁立されたのではないか。[史料1]において憲房は山内上杉氏後継ではなく、越後守護家後継として記載されたのではなかろうか。

永正7年に顕定も敗死しその支配が継続しなかったためあまり話題にされることはないが、もし顕定の支配が続けば越後守護と越後上杉氏は誰が継承したのか。実際にはそれぞれの家臣団の思惑や将軍家の意向、さらには古河公方や扇谷上杉氏など関東諸家とのパワーバランスもあり、既に山内家である顕定が越後守護や越後上杉氏を併呑できたとは考えにくい。そのため顕定は自身によって越後の統治を安定化させた後、憲房は越後上杉氏としてその支配にあたらせようとしていたのではないだろうか。その結果が[史料1]に見える御内書や永正6、7年に見える越後諸氏への発給文書と考える。

また、憲房の実弟十郎憲明(入道長茂)が時期は不明ながらも古志上杉氏を継承していた可能性が指摘されている(*2)。古志上杉氏の仮名十郎を名乗り越後で活動する実弟憲明と、元々守護継承が予定された五郎定昌の遺跡を継いだ五郎憲房の存在は顕定が越後への介入を強めていたことを推測させる。その契機は、親しい存在であった庶兄定昌の越後家における政争による死ではなかったか。しかし、以前の記事(古志上条上杉氏の系譜 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)で推測したように古志上杉氏への介入が上杉定実の離反を招いた可能性があり、越後国内では関東勢力と越後勢力の権力闘争が生じていたことが考えられる。当時の越後家と山内家は政治的に一体でありながらも内部に矛盾を孕んでいたと類推されるのである。

これらは憲房と越後を考える上での一説として提示しておきたい。


*1)『上杉系図』、『上杉系図浅羽本』(『続群書類従』第六輯下)、黒田氏は(*2)で当系図を参考にして死去日を「大永5年3月26日」としているが、系図を確認すると「4月16日」とある。
*2)黒田基樹氏「上杉憲房と長尾景春」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*3) 「戦国期山内上杉氏文書集」30号(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*4)同上、参考21号
*5)同上、参考20号
*6)黒田基樹氏 「戦国期山内上杉氏の発給文書」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*7)黒田基樹氏 「永正の乱における足利政氏の動向」(『足利成氏・政氏』戒光祥出版)
*8)黒田基樹氏「山内上杉氏と永正の乱」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*9)森田真一氏『上杉顕定-古河公方との対立と関東の大乱-』(戒光祥出版)

上杉定昌の政治的立場

2024-02-12 15:28:51 | 越後上杉氏
上杉定昌(五郎、左馬助、民部大輔)は越後守護上杉房定の息子の一人であり、その生年は『実隆公記』にある享年から逆算して享徳2年であり、3人の兄弟の中で最も早い。定昌は左馬助、民部大輔と父の名乗りを受け継いだことから房定の嫡子とされ、弟顕定とも同腹と推測されてきた(*1)。

しかし、森田真一氏(*2)は顕定母(青蔭庵月山妙皓)の七回忌に関する史料である『玉隠和尚語録』に「月山第一子藤家棟梁顕定公」とあり、山内上杉顕定はその母の第一子であったことが指摘されている。また、顕定は享徳3年の誕生であることが明らかであり(*3)、定昌とは年子の関係になる。朝倉直美氏(*4)は福田千鶴氏の研究などを踏まえて戦国期の女性が年子で出産する可能性が高くないと推測した上で「母体の回復のために戦国大名家正妻が年子で出産することはないとみた方が良い」と結論づけており、この指摘は年子である定昌と顕定が別腹であるとする論説を補強するものとなる。つまり、定昌と顕定が異母兄弟であったことは確実であるといえよう。

これは定昌の動向と、兄弟関係を考える上で画期となる事実であり、これを踏まえた上でその関係性を見直してみたい。ちなみに、定昌の初名は「定方」(読みは同じサダマサ)であり、文明5年4月から翌年4月までの間に「定昌」に改名しているが、煩雑なため定昌で統一する。

1>定昌と顕定はどちらが嫡出か
最も大きな問題はそれぞれのどちらが嫡出かという点である。定昌と顕定が異母兄弟である以上、どちらかが正妻の子=嫡出、妾の子=庶出ということになる。そして、そのヒントが顕定の幼名にある。

応仁2年に発給された2通の感状(*5)の署名より顕定の幼名「龍若」が明らかである。森田真一氏(*2)は龍若の名は越後での出生時よりものとした上で、歴代の越後守護、山内上杉家の人物と同様に「龍」を冠しており、「越後守護家にふさわしい幼名を名付けられる環境にあったことがうかがえる」とする。嫡男の後に生まれた庶出の次男にそのような立場が与えられるはずもないから、顕定は嫡出であったと考えるべきである。顕定は生まれながらにして越後守護家を継承すべくその幼名がつけられたということになる。そして、定昌は妾より出生した庶兄であったと推定され、当初において家督相続などは想定されていない存在であったと考えられる。

そして、越後上杉氏から山内上杉氏へ顕定が入嗣した点も、房定が庶子を送り込んだという見方ではなく、家督継承予定者であった嫡男顕定が山内上杉氏を継承し庶兄定昌がそれに代わって越後上杉氏の後継に位置付けられたと考えるべきであろう。顕定が山内上杉氏を継いだのは元服前13歳の文正元年であり、この時庶兄定昌は14歳である。これ以降、越後上杉氏にふさわしい左馬助・民部大輔の名乗りが定昌へ与えられていったと推測できる。

ちなみに、定昌と顕定の関係は良好であったと思われる。両者の関係悪化や何らかのトラブルを伝える史料もなく、文明6年には太田道灌が家宰職と武蔵守護代についての意見を定昌を介して顕定へと伝えようとするなど周囲からもその関係性が認められていた。また、五十子陣においてが「山内(=顕定)・典厩(=定昌)・河越(=扇谷上杉定正)」(*6)が三大将と並び称されている。定昌、顕定に関して、山内上杉氏・越後上杉氏間での家督変更は、その後において大きな齟齬なく機能していたといえる。

2>定昌の活動
越後上杉氏として定昌の活動が所見され始めるのは、享徳の乱の対応のための関東出兵である。文明5年4月には関東に在陣し文書を発給しているが、その具体的な場所は森田真一氏(*7)により武蔵五十子陣であったと比定されている。こういった所見から、この頃より関東での軍事行動は定昌へ任せられたと山田邦明氏(*8)は推測している。そしてその後も関東在陣を続けた定昌であったが、転機となったのが文明8年6月の長尾景春の反乱である。文明9年1月に景春の攻撃を受け、五十子陣が崩壊、定昌はその拠点を上野白井城へと移したと推測される。

その後、古河公方足利成氏と抗争も包含し混戦となった関東情勢であったが、結局上杉房定の仲介もあって文明14年に将軍足利義政と成氏の和睦=都鄙合体が実現、結果から見ると一時的なものだったが関東へ和平が訪れることになった。このような中で、房定は文明18年に従四位下相模守に任官し、肩書の上では鎌倉期の執権と同等の地位という破格の待遇を得た。この年の9月には定昌が上野白井城に在城しつつ民部大輔の名乗りで所見されている(*9)。片桐昭彦氏(*1)はさらに翌長享元年10月までに房定が出家し常泰を名乗ることから、この頃に房定から定昌への家督移譲が行われたとする。定昌の家督相続を明確に示す文書はないが、上述の推測に加え、越後上杉氏家臣団に定昌の偏諱である「昌」を冠した人物が多数所見されること、後世の系図(*10)においても房定と房能の間に定昌が家督を相続していたとする認識があったことなどからも、定昌が家督を継承していた蓋然性は高いと考えられる。また一方で、定昌は越後守護ではなかったとされる(*2)。房定も越後府中において健在であり、その権力は依然として房定が掌握していた部分は大きかったと考えるべきであろう。

そして、定昌は家督相続後まもなく長享2年3月24日に上野白井において自殺を遂げる。『蔭涼軒日録』では「上杉民部大輔殿三月廿四日自害」したという一報が4月6日に届いたとあり、『実隆公記』には「上杉相模入道子息民部大輔生年卅六歳、於関東去月廿四日頓死云々、若切腹歟云々」とあり、定昌の自殺は確かである。

3>自殺の原因
自殺の原因について、確実なことは記録になく不明である。

片桐昭彦氏(*1)は、文明18年7月太田道灌暗殺に端を発する長享の乱における山内上杉氏・越後上杉氏と扇谷上杉氏の抗争に関連した、扇谷上杉氏方による謀殺であったとする。ただ、具体的な根拠に乏しく、個人的には懐疑的である。同氏はさらに、「定昌」の実名も扇谷上杉氏一族朝昌の一字拝領の可能性を提起し、失敗に終ったものの朝昌との関係を深め定昌が扇谷上杉氏を継承する計画があったとする。しかし、定昌へ改名した文明5~6 年頃には越後上杉氏を継承可能な人物は定昌のみであり、そのような中で扇谷上杉氏への養子計画などは不自然であろう。

山田邦明氏(*8)は、定昌が自殺後半年で房能が元服している点に注目し、兄弟間での家督争いがあり、房能を擁立する一派により自殺に追い込まれたと推測する。そして、その一派の中心人物は、元服に際して房能へ「能」を与えた長尾能景であった可能性を指摘している。森田氏(*2)も定昌自殺の原因は越後守護家の家督継承問題にあったのではないか、としている。房能は文明6年に誕生し、長禄2年15歳で元服する。兄たちとは約20歳離れた弟であった。結果的に、明応3年房定の死をもって房能が越後上杉氏の家督と越後守護を継承することになる。

私も山田氏らの主張するように、定昌の死は越後上杉氏の内部問題に起因すると考える。房定、定昌、房能の個人的な感情や思惑もあっただろうが、最も大きな問題は家臣団の権力争いではなかったか。定昌は長期間にわたり関東に在陣していたため、後述のようにその権力基盤も上野北部から越後魚沼にかけて形成された。すると定昌が房定から越後上杉氏権力を継承したのちに、権力中枢にはそういった地域出身のものが少なからず入ってくることになる。この事態は従来の権力中枢を構成する越後諸将にとって望ましくないことだったのではないか。越後府中を中心とした房定政権から上野白井を中心とした定昌権力への転換により、従来の重臣層は自らの地位の低下を危惧し、定昌が越後へその支配を強める前に弟房能を擁立し抵抗を見せたのではないか。その結果が、定昌の自殺、房能の元服と後継者化であったと考えられよう。

さらに、定昌が庶出であったことも不利に働いたのではないか。正嫡であればその支配の正統性に疑いはないが、庶子である定昌はやや弱い立場であった可能性がある。房能の母は詳細不明であり、定昌、顕定との年齢差からは両者の母らとも別人であると思われるから房能が嫡出を理由に家督奪取を目指したとも考えづらいが、こういった血縁的な要因は反定昌派の付け込む隙となったことは十分に推測できるであろう。

4>定昌と白井
定昌について考えるべきはその活動拠点が一貫して関東にある点である。特に上野国白井は定昌の本拠地として確立されていた。これは定昌の死について発智景儀が言及する際に、定昌を「白井之殿様」と表現していることからもわかる。

森田真一氏(*2)は文明15年夏には連歌師宗祇が「上杉典厩(=定昌)の亭」で和歌を詠み、文明18年9月には歌僧尭恵が白井に宿泊し定昌主宰の歌会に参加していることを踏まえ、定昌が白井において恒常的に活動していたことを指摘する。さらに、その家臣団に発智氏など越後魚沼郡を拠点とする者がいることから、影響力は魚沼郡にまで及んでいたと推測する。その期間は少なくとも文明5年から長享2年までの15年間にわたるとされ、定昌が白井を中心に上野国北部から越後魚沼郡にかけて政治的基盤を築いていたことが理解される。

この権力圏は定昌死後、山内上杉憲房が継承している。憲房は定昌と同じく仮名五郎を名乗っており、定昌権力の後継者と位置付けられている。憲房については次回に検討する。


以上、上杉定昌について検討した。その出生から関東における動向と越後上杉氏における位置づけ、そして自殺に至るまで検討すべき課題は多い。次回は、定昌権力の後継とされる山内上杉憲房を検討していきたい。


*1) 片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*2) 森田真一氏『上杉顕定-古河公方の対立と関東の大乱-』(戒光祥出版)
*3)「上杉房定一門・被官交名」(『正智院文書集一』82)
*4) 「北条氏規と家臣」『小田原北条氏一門と家臣』
*5) 『戦国期山内上杉氏文書集』18、19号(黒田基樹氏『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*6) 『松陰私語』
*7) 森田真一氏「上杉定昌と飯沼次郎左衛門尉」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*8)山田邦明氏 「上杉房定」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*9)『上越市史』資料編3、388
*10)『上杉系図』(『続群書類従』第六輯下、87頁)、房能を定昌弟と注釈を付けながら房定-定昌-房能とする系譜を作成している。

青海川氏の系譜

2024-01-27 18:24:45 | 青海川氏
青海川氏は戦国期越後において所見される一族である。その名字から現柏崎市青海川周辺を拠点とする一族であったと考えられる。後述する御館の乱では、文書上、青海川氏の動向が青海川近隣の鯨波の情勢と共に詳述されており、戦国期を通じて青海川を拠点としていたと思われる。

[史料1]『越佐史料』三巻、791頁
今度之忠節無比類次第候、剰父子共に於当日討死、前代未聞之忠切候、就之和田分之儀宛下者也、仍如件
    永正
      三月廿日
     青海川図書助殿

[史料2]『越佐史料』三巻、791頁
於山下、図書助討死、無比類候、然而彼息名代之儀、相違有間敷者也、仍如件
    天文二年八月廿一日
     青海川梅寿殿

[史料1]より、永正期において青海川氏一族が長尾為景に従い戦死したことがわかる。受給者の図書助は生存しているだろうから、図書助父とその子、つまり図書助の兄弟が戦死したと考えられる。江戸期前期に成立した『先祖由緒帳』に載る「青海川彦右衛門由緒」は戦死した「父子」を図書助の父と祖父としているが、受給者を中心に読めば不自然であり、米沢藩において[史料1]を独自に解釈した結果と考える。[史料1]は一族が複数戦死するほどの活躍を見せた青海川氏に新地「和田分」を宛がった文書である。数代にわたって長尾為景に従い合戦に参加し、戦死に至ったことが判明している。為景の軍事基盤として青海川氏のような在地勢力が存在したことが示唆されよう。

[史料2]は青海川図書助が山下の戦いで戦死し跡を息子梅寿が継いだことを示す文書である。山下の戦いについては詳細不明であるが、その時期からは上条定兼(定憲)との抗争に関連したものであった可能性があるのではないか。戦死した図書助は[史料1]に見える人物と同一人物だろう。

「青海川彦右衛門由緒」によれば、梅寿(同由緒では梅千代とある)はその後図書を名乗り、上杉謙信の代に病死したという。永禄9年6月25日上杉輝虎感状(*1)の宛名に見える青海川図書助はこの梅寿の後身であろう。同由緒では信濃より村上義清が亡命した際にその子国清が山浦氏を継承し青海川氏と多功氏がその配下につけられたという。『文禄三年定納員数目録』において「青海川図書」(梅寿の次代)、「多功豊後」らが「山浦同心」として所見されるから確かな話であろう。

天正3年8月15日本庄宗緩判物(*2)・同日本庄宗緩書状(*3)において青海川右馬丞が「窪方」が退転したためその屋敷を「先代之節目」により受け取ることが記されている。「先代」が図書助(梅寿)であり、右馬丞はその次代と思われる。

[史料3]『越佐史料』五巻、653頁
令般可令忠信之由簡要候、時宜於入眼者、堀川分并尾崎分異儀有間布者也、仍如件
    二月十九日   朱印(上杉景勝)
       青海川図書助とのへ

御館の乱における動向は天正7年2月14日上杉景勝書状(*4)に「青海川引付之由、依之彼誓詞書状指越、何も令披見候」とあり、はじめ上杉景虎方に味方したものの周辺情勢の変化に伴い上杉景勝方へ帰属した様子が明らかである。[史料3]は帰属に際して上杉景勝から発給された朱印状である。ここで右馬丞と図書助の関係が難しいが、「青海川彦右衛門由緒」は図書助(梅寿)の子が「図書」に改めその跡を継承したとする。同由緒も全面的に信用できるわけではないが、活動時期も近いことを踏まえると、同由緒の記載を参考に同一人物と考えたい。

同時期、青海川図書助は天文7年3月1日上条政繁書状(*5)、同年3月26日山崎秀仙書状(*6)にも所見される。『文禄三年定納員数目録』には「青海川図書助」が「山浦同心」として記載されている。『慶長五年直江山城守支配長井郡知行高』にも図書助の記載があり、この頃までの生存が確認される。「青海川彦右衛門由緒」によると図書助の跡を長助が継承し、米沢藩士として存続したことが記される。

ちなみに年不詳8月2日青海川図書助宛山浦国清書状(*7)を『上越市史』などは天正7年8月に比定しているが、山浦国清は天正7年5月に「景」字を与えられ山浦景国を名乗るため、それ以前の文書と考えられる。さらに、上記で見たように天正7年2月まで青海川氏は上杉景虎方についており、その間景勝方の国清との接点は考えにくい。内容は本庄雨順斎全長(繁長)の詫言が遅れていることなどに触れており、永禄後期の本庄氏の乱に関連した文書であることが推測され、乱の推移などから推定すれば永禄12年8月の文書ではないか。宛名の図書助は時期からみて、御館の乱以降に見える図書助ではなく、天文~永禄期に見える図書助(梅寿)となる。

ここまで、青海川氏について検討した。青海川氏の系譜として次のような関係が想定される。

某-図書助-梅寿/図書助-右馬丞/図書助-長助


また、参考に「青海川彦右衛門由緒」を掲げておく。

[史料4] 『先祖由緒帳』「青海川彦右衛門由緒」
一、先祖青海川図書、越後普代ニ御座候、彼者 為景様御代ニ父子討死候付而、孫ニ名跡無相違被下置候、永正年中、従 為景様被下置候御判行所持仕候、右之孫図書も山下と申所ニ而討死仕、其子梅千代ニ被下候、 為景様御判形持合仕候、右之梅千代、後ニ図書ニ罷成、 謙信様御代迄御奉公仕、病死仕候、其子図書ニ名を御改一跡無相違被下置候、 謙信様御判形于今所持仕候、
一、謙信様御代ニ、信州より村上殿御出候已後、山浦名字之義村上国清ニ被 仰付候、其節国清越後之様子御存知有間敷由ニ而、青海川図書を御付被成候、此時より山浦之家ニ相勤候、然共御直衆同前ニ万端被 仰付、 景勝様御代迄、御三代御書御感状共ニ拝領仕候、
一、御館陣之時、御忠信仕ニ付而、 景勝様御朱印之通、尾崎村、堀川村加増仕候、其時之御朱印共于今所持候、
一、越中御陣之御先より新発田為押、多功豊後、青海川図書、同名彦太郎三人、笹岡之城江被 仰付、右之刻新発田相働候、守返シ追討仕、乱橋と申所迄敵討捕候首数披露仕候処、御褒美ニ候景勝様より御感状被下置、于今所持仕候、従越後会津江御国替之節、仙道塩之松之城山浦ニ御預ケ被成候、其節多功、青海川同前ニ相勤罷在候、然所ニ於京都山浦被致死去、名絶ニ付而、多功、青海川義は百五十石ツゝ被下置、直江山城守ニ御預被成、多功桧原ニ被差置、足軽五拾人差引仕相勤候、青海川図書は綱木之将を被 仰付候、証文等于今所持仕候、無程会津米沢江御移ニ付而、両人共ニ御知行被召上、五人扶持ニ被成、米沢江移申候、図書子長助、山城守所ニ小姓奉公ニ而罷在候、其御扶持ニ移行多功豊後庭坂江被遣候時、長助事豊後ニ首尾御座候付而、同前ニ罷越、其已後豊後高畠江移り申付而、同前ニ参候而、于今罷在候、図書惣領私若輩成時相果ニ付、拙者事幼少より図書養育を以跡式某ニ相渡、二拾ヶ年ニおよびひ御奉公申上候、已上


*1)『上越市史』別編1、518号
*2)『越佐史料』五巻、322頁
*3) 同上、322頁
*4)『新潟県史』資料編5、3554号
*5)『越佐史料』五巻、653頁
*6) 同上、653頁
*7) 同上、654頁