旅の中盤は以下の地図の➑~➓、すなわちブルガリア中部を巡りました。また、後の下線部の数字にも対応しています。

8・9・8・10 カザンラク ⇔スタラ・ザゴラ ⇒ヒサリャ (2024年8月23日)
この日は前夜に到着したカザンラクを観光後、温泉地のヒサリャに移動して泊まることになっていた。
7時に起床。予約してくれたCちゃんがこの旅イチのホテルと言うだけあって、朝食ビュッフェは品数多く見目麗しく並べられていて相当豪華




温かいものを提供しようという心意気が嬉しい。

肉団子入りのシチューが美味だった

9時にホテルを出発。トラキア人の墳墓へ向かう道すがら、セヴトポリス広場を通過【毎年5~6月に開催されるバラ祭りでは、開会式・閉会式の会場となる】。
薔薇の植え込みに囲まれるようにしてそそり立つモニュメント。前夜は薄暗かったためスルーしてしまっていた・・・

広場周辺のカフェで朝食を楽しむ人々を横目にイスクラ通りに入り、さらに北東へ数百m進む。墳墓のある公園へは階段をのぼって行く。

猫を発見。何かを狙っているらしい。

1944年、防空壕を掘っていた兵士により偶然 トラキア人の墳墓が発見された。当時はこんな感じだったという(説明パネルを撮影)。
【B.C.4~3世紀に遡ると推定され、ユネスコの世界遺産に登録されている】

こちらが現在の様子。保存のため建物で覆われ、内部に入ることはできない。

が、その素晴らしさを後世に伝えるため、オリジナルの墳墓から1分もかからない場所にそっくりのレプリカが作成され、見学できるようになっている。

墳墓の全体像【前室・羨道・玄室で構成される。長方形になっている羨道は1.96m×1.12m、高さは2.25m。玄室は直径2.65m・高さ3.25mで蜂の巣あるいは釣鐘のような形をしている。羨道からは粘土製器具と生贄になったと思われる馬の骨が、玄室からは2体の遺骨に加えて 金をほどこした冠やアンフォラ(2つの取っ手付きの壺)などが発掘された】。

前室を通って奥へ進んで行く。4枚上の画像と見比べてくださいね~

来た方角を振り返る。ちなみに画像中央奥はレプリカ施設の入口である。

この羨道の天井は急峻な三角形であり、首が痛くなりそうな角度に戦闘場面が描かれている。てか、壁の亀裂や汚れまでオリジナルそっくりに再現しているのには舌を巻く。
【兵士たちはトラキアとマケドニアの服装をまとっているという。被葬者ロイゴスの父とも祖父とも曽祖父ともいわれるセヴトス3世の頃からマケドニアとは緊張状態にあったらしいので、現実を反映しているのだろう】


最深部、玄室の天井には360度にわたる壁画あり。
そのやわらかな描線や抑えめの色彩が私の心を捉え、この国へ導いた。記事その2で紹介したスヴェシュタリはトラキア王の墓のカリアティードの彫刻と同様に。

この絵は、亡くなったトラキアの王ロイゴス(下の画像右から2人目)が葬送される場面を描く。ディテールはもちろん違うが、スヴェシュタリのトラキア王の墓の壁画とテーマは同じ。
【画像右端の王の妻は夫の死にあたり殉死し、この玄室から見つかった遺骨は王夫妻と推定されている】

ん
縁に描かれている牛頭のモチーフ・・・スヴェシュタリでも見かけたぞ。あっちは石の彫刻だったけど【この記事を書くにあたり調べたところ、埋葬者の権力を示すらしい】。

なお、この施設の売店にはハガキがたんまり用意されていた。ここまで肩すかしをくらわされてきた反動もあり、ホクホクしながら入手
次は500m西のバラ博物館を目指す。階段を降りて公園を出た後、橋を渡るまではもと来た道である。
ふと、道沿いにギャラリーを発見。先ほど目にした玄室の壁画をベースにしているっぽい。

その入口には犬が横たわっていた。精悍な顔つき、ライトブルーの瞳の色が昔飼っていた愛犬を彷彿とさせた(犬種は違うけど)。

入口の全体像(後刻、付近へ戻って来た時に撮影)。トラキア人の壁画の他に ダ・ヴィンチ、ピカソ、ゴッホなどの著名な作品をアレンジしているようだ。

スタラタ川に架かる橋の欄干も玄室壁画がモチーフになっている。5枚上の画像上部、半円の内側左にご注目ください。
【葬儀の際に戦車競技を開催するしきたりがあったことから、玄室の天井に描かれたらしい】

民家が並ぶ裏通りを西へ進みながら、丹精込めて手入れされた庭先の植物たちに癒される。



大通りに行き当たり、左折するとバラ公園だった。その一角にあるバラ博物館は移転して数年の新しい建物で、一歩中に入るとガラス張りで明るい。
中庭では、子ども連れの団体が説明を聞いていた。
【カザンラク; 北をバルカン山脈、南をスレドナ・ゴラ山脈にはさまれたブルガリア中部は薔薇の谷と呼ばれ、ダマスクローズ及びそれを原料とするローズオイルやローズウォーターの世界的産地である。その中心であるカザンラクは、ローズから精油を抽出する蒸留窯=カザンを地名に冠する。5月中旬から6月にかけて行われる薔薇の収穫を祝うバラ祭りは100年以上の歴史を有し、民族衣装に身を包んだ人々が薔薇を摘み、伝統的な音楽に乗って民族舞踊を披露する】

料金を支払って入場すれば、ローズオイルの製造工程を学んだり用具を目にしたりできるが、先を急ぐ私たちは手前の売店だけ物色することに。
薔薇の写真にあふれたハガキと、ローズオイルを購入。シンプルなガラス容器だが、ブルガリアの薔薇とちゃんと書いてあり2mlで1レフ(≒84円)。この後いくつものお店で見かけたが、ここが最安値だった。香りは好みもあって難しいが、バラマキ用のお土産にもいい

次はクラタ民俗博物館へ。実は墳墓の近くにあるので、行ったり来たりに時間を割いた。計画性に少々欠けたかもしれない
ここでも薔薇が出迎えてくれた。

中は2つのパートで構成されているのだが、まずは村の家屋へ。下の画像奥がそれ。

納屋には唐箕などの農具があった。

テラスには糸紡ぎなどの道具。

リビング。その中央には木製のゆりかご。

キッチン。

敷地内でくつろぐ猫。

第二のパート、都市の家屋は2階建て【ローズオイルで財を成した人物が19世紀に建てた家】。

2階の廊下。

寝室。こちらのゆりかご(画像左)は金属製か。

台所。さっきの村の家屋でも思ったが、日当たりがあまり良くない。食料の保存とか、何か意味があったのか

リビング。壁沿いに座るような配置は村のそれと共通している。

都市の家屋の1階部分が博物館のオフィスになっていて、最後に薔薇のジャムとリキュールをふるまってくれた。

辛党につき、薔薇のリキュールを購入。200mlで10レヴァ(≒841円)。
いつかこの旅を思い出しながら味わいたいと思いつつ、いまだ開けていない
(この記事を書くにあたり撮影)

街の中心部へ向かいながら、目につく土産物屋に何軒か入った。友人たちへのお土産はバラ関連にしようと決めていたので、ここぞとばかりに
こちらのお店では、バラの香りのリップクリームを購入(1つ3レヴァ≒252円)。

再びセヴトポリス広場に戻った。音楽モチーフの街灯が可愛い

なお、今回私たちがまわったのは下の画像のピンク色の丸で囲んだ部分である。
カザンラクの西、下の画像中央でひときわ目立っているのはかつてのセヴトポリス【B.C.4世紀末、トラキアの王セヴトス3世が築いた王宮と神殿。B.C.3世紀初めまで栄えたが、ケルト人に襲撃されたのち放棄された。第二次世界大戦後、コプリンカダムの建設に伴いその底に沈んだ。なお、セヴトス3世は先ほど訪れたトラキア人の墳墓に埋葬されたロイゴスの父または祖父または曾祖父】。
そしてカザンラクの北方はトラキア王の谷とよばれ、墳墓が無数に存在するという。日本で流通しているガイドブックではあまり言及しておらず、自分たちも含めて訪れる日本人は少なそうだが・・・古代トラキア人の繁栄ぶりは想像に余りある。

12時半、聖キリル・メトディー通りでタクシーをつかまえる。目指すは30㎞南東にあるスタラ・ザゴラ。ここを訪問することになったのは偶然の導きによる。
実はこの日の宿ヒサリャまでの公共交通機関が不便なため、泊まらずに日帰りツアーで行けないものかと現地発着ツアーを検索していたところ、パーソナライズド機能によりPC画面に表示されるようになったスタラ・ザゴラのモザイクに見惚れてしまった。Cちゃんに相談し、モザイク好きの私たちは訪問を即決。カザンラクの観光を午前中で済ませて向かうことにした。
【スタラ・ザゴラ; 新石器時代には人が住んでいたという。B.C.6世紀にはトラキア人が都市を築いた。1世紀にローマ帝国に征服された後、2世紀初めにトラヤヌス帝がここをアウグスタ・トラヤナと命名、交通の要衝として発展した。9世紀には第一次ブルガリア帝国の支配下に入るが、14世紀にオスマン帝国が侵略。露土戦争の後、19世紀にブルガリアに復帰した】
40分かかって町に入ったところで降ろしてもらい、お目当てのローマの家(Late antique mosaic from a Roman private house)を目指す。あっけなく見つかったのだが、閉まっていた(下の画像中央が入口)。

休館日とは不運だなぁと嘆きつつ、ほど近くの地域歴史博物館(Regional museum of history)へ向かう。入館料を払おうとして、共通券の存在にはたと気づく。
窓口の係員に確認したところ、先ほどのローマの家は学芸員による案内で見学するシステムになっているという。自分が読んだガイドブックにはスタラ・ザゴラ自体が載っていないので事前情報に乏しかったのだが、どうにかなった・・・ホッ
なによりも、愛しのモザイクに正対できるのがうれしい。
窓口の方の連絡によりほどなくしてやって来た学芸員とともに博物館を出て、3分ほど歩いてとんぼ返り。
鍵を開けてもらい、階段で地下へ降りていく。事前に釘を刺されたので覚悟していたが、とてつもなく湿度が高い空間だった。画像右上が学芸員。涼を取ろうと扇を手にしている。
そう遠くないとはいえ、わざわざ博物館まで行って申し込まないと見学できないなんて・・・と頭をかすめていたが、中に入って納得。常駐するには過酷すぎる環境だわ

画像中央には漁をする人と魚、その下は動物たち。八角形のは井戸だろうか。

ここにも魚がたくさん。

そして・・・この鹿に会いたくてこの町へやって来た。可愛すぎる
背景のブドウの木に、緑の色使いが効いてるな~

再び歴史博物館へ足を運び、見学を開始。エントランスのある階で目についた、土偶のような物体。

ゴールドでつくられた装飾品。

古代のブルガリア人をイメージしたと思われるマネキン。隣りに座って撮影どうぞのあつらえなのだが、勇気が出ないなぁ

階下に降りるとローマ時代の石畳が広がり、当時を彷彿とさせる。
【この場所を狙って博物館を建設したのではなく、その工事中に偶然にもローマ帝国時代に町の南門と北門を結んでいたメインストリートを発見したのだというから驚くばかり
】

大通りの脇、家屋があったと思われる場所の床にはモザイクが。

あっ、スヴェシュタリの墳墓で見かけた牛頭の彫刻がここにも

グラディエーターの墓石、3世紀制作【グラディエーター; 古代ローマ期、見世物として観客の前で戦った剣闘士】。

オルフェウスの彫刻、3世紀制作【オルフェウス; ギリシャ神話の英雄で、詩と竪琴の名手。父はアポロンともトラキア王のオイアグロスとも。ミューズ(学芸の女神)である母カリオペの影響を受け、その竪琴は鳥獣草木を魅了したという。妻エウリュディケを亡くすと冥界にくだり、竪琴で冥王ハデスを篭絡し妻を連れ帰る許可を得るが、振り向いてはならぬという交換条件を守れず果たせなかった。ひとり現世に戻ったオルフェウスは妻を思うあまり女性に興味を一切示さず、トラキアの女性たちの怒りを買い八つ裂きにされ川に捨てられた】。
この記事を書くにあたり調べて知ったのだが、トラキアに縁の深い神だったのね・・・

ディオニュソスの彫刻、2~3世紀制作【ディオニュソス; ギリシャ神話における豊穣と酒の神。ゼウスの子で、長じて葡萄の木を発見しその栽培法とワインの製法を普及させたという。ギリシャより北方に位置するトラキアの陶酔的な豊穣神信仰を背景に成立したとされ、オリンポスの神々とは異なる性格を有する】。
この神もトラキアがバックグラウンドなのねぇ、知らなんだわ

トラキア人の騎乗者、2~3世紀制作。

かなりサイズの大きいモザイク。

あでやかな色彩で立体感がすごい。

何フロアもあるこの博物館、真剣に見たら何時間もかかりそうだった。が、ほどほどで切り上げて去ることに。
博物館の目の前にもローマ時代の遺跡が広がっていた。

ときに15時前、さすがに空腹をおぼえて自販機でジュースを購入。こーいう時の炭酸ったら・・・のど越し最高

さて、この町の地図も持っていないので 目に見える範囲でタクシーを探す。大通りは交通量が多く停まってくれそうにないので、脇道に入ってみる。路上駐車しているタクシーを見つけてダメもとで声をかけたら乗せてくれた、ラッキー
帰路は30分で到着。ホテルに預けた荷物を取りに戻ったついでに、両替所はないかとフロントの女性に尋ねる。手持ちが心細くなっていたが、この日泊まるヒサリャは小さそうな町で見当たらない可能性があるし、翌日はソフィア到着が夜のため、ここで補充しておきたかった。
言われたとおりに歩いて行くと、ホテルのほど近くの大通り沿いに間口の狭い両替屋さんを発見。ん~ これは教えてもらわないとダメだわ、自力では見つけられないな。
窓口にいた老夫婦にどこから来たのと聞かれ日本と答えたら、ニコニコしてくれてとても感じが良かった
懐が暖かくなったところで、ヒサリャへ向かうためホテルのフロントにタクシーを呼んでもらう(事前に調べてはみたものの、結局はタクシーで移動することにしたのだった)。
スタラ・ザゴラ往き帰りのタクシーがわりと簡単につかまったので軽く考えていたのだが、フロントの方は眉根を寄せた。どうやら長距離の片道というのがネックらしい。清掃スタッフの女性と何やら会話すると、今度はその女性が電話をかけ始めた。バックヤードに姿を消し、数分後に出てきた彼女は制服から私服に着替えていた。
フロントの方曰く、清掃スタッフの夫がタクシー運転手なんだそうだ。ただしこの日は非番のため自家用車での移動になるが、ヒサリャまで運転してくれるという。なんてありがたい
かくして助手席に清掃スタッフの女性、後部座席に私たちが座り4人で出発した。女性は夫の手を握り、ひっきりなしに話しかけている。ブルガリア語の会話はもちろん分からなかったが様子から察するに、休日に渋々呼び出された夫の労をねぎらっているらしかった。
結局ヒサリャには17時に到着。カザンラクを出たのが16時5分前だったので、1時間強といったところ。料金は2人で90レヴァ(≒7,569円)。カザンラクとスタラ・ザゴラの往復(計1時間10分)で支払ったのが2人分91.8レヴァ(≒7,720円)なので、妥当な額だろう。
ホテルにチェック・イン後、まずは温泉へ。バスローブで館内を歩いてもよいとのことだったので、部屋で着替えて向かう。
温泉の一角にあるロッカーに荷物を預けて鍵をかけるのは日本と同じだが、しきたりの違いから水着着用でないとダメで、スパ施設といった雰囲気。

こちらは泳げそうな広さ。水温が低めで、長時間 肩まで浸かるのは難しかった。

画像右、モザイクをかけたCちゃんが入っている浴槽は温かくて気に入った

サウナも備えられていた。

30分近く滞在したが、すれ違ったのは3人のみ。翌朝の朝食会場の埋まり具合からしてそれなりに宿泊者がいたはずなのだが、利用した時間帯ゆえか閑散としていたのが意外だった。
なお、このヒサリャのホテルだけは自分がリクエストした。ブルガリア旅行について検索していた時に、現地取材したライターの紹介記事に偶然ヒット。もともと温泉好きなのもあり、ガイドブックに掲載されていないヒサリャに興味を持ったのが始まり。宿泊サイトで他のホテルも調べてみたが、屋外に浴槽を配置するのが主流なようで、いかにもプール然としていて自分好みではなかった。記事のホテルに泊まりたいと思ったものの、入国以後の移動手段などを確保して8月23日宿泊が確定した頃には予約が埋まっており、やむなく他のホテルを予約した。すっかりあきらめていた自分だったが、Cちゃんは粘り強くサイトをチェックしてくれていて、キャンセルが出たタイミングで即おさえてくれたのだった。わ~い
翌日はバスでプロヴディフに移動することになっていた。フロントの男性に尋ねると、時刻表の用意はないからバス・ステーションで確認が必要と告げられ、場所を教えてもらう。
18時半にホテルを出てバス・ステーションへ向かう。歩いて5分とかからない、ラッキー
時刻表を見ると、最も早いのが11時50分発だった・・・日本でネット検索した時には、もっと早い時間帯の便もあった気がするのだが
念のため係員に確かめようにも、ガラス張りのステーションの建物には鍵がかかっていて無人。書かれている通りの時刻を目指して来るしかないね、が我々の結論。
頭を切り替えて、まだ陽が落ちていない街をそぞろ歩くことにする。ホテル到着の直前、車窓から見えた遺跡を間近に仰ぐ。

野生らしき葡萄を発見。ヨーロッパで、ワインは造られるべくしてつくられてきたんだろうな・・・

旧市街の中心部にて。ダチョウのプランターにキュン

ぬるめの温泉が湧き出す蛇口があった【2世紀末~3世紀に在位した皇帝が訪れたともいわれ、ローマ帝国時代にはすでに知られていた名湯ヒサリャ。泉源は20を超えるという】。

脇道に入り南下していくと、いにしえの遺跡が出現。

ローマ時代の浴場跡。ずいぶん修復の手が入ってるな・・・


さらに南下した場所にも温泉が流出するスポットがあり、これも程々の温度。Lady’s Raindropというのだそうだ。

さらに南下したあと東へ進むと、Camel Gateに到着。アーチの上の角状のを2つのコブにたとえて、ラクダなのだろうか・・・
ちなみに、翌日訪れた考古学博物館の売店で この門を描いたハガキを売っていた。この町のシンボルのひとつなのだろう。

来たのとは違う道を北上し、レストランを目指す。ホテルのほど近くにあるステキな感じのお店は満席で振られたので、別の場所へ。
このお店は新しそうで、テラス席は客でかなりにぎわっていた。室内にも席はあるのだが、こぞってテラス。ヨーロッパあるあるだよなぁ
画像右中央、木々の向こうに今や遺跡となっている要塞壁がチラ見え。このレストランは旧市街のわずかばかり外に位置しているのだった。

ガストロノミー・サラダ。

仔牛ほほ肉のグリル、セロリのソース添え。

ブルガリア料理というよりは、欧風モダンにアレンジされていた。ワインは安くなかったので、ビール(Tuborg/500ml)だけ飲んだ。
22時過ぎ、ホテルに帰着して交互にシャワーを浴び、晩酌タイム。実はヒサリャの街歩きの途中で抜け目なくお店を見つけ、アルコールをゲット
山脈のイラストに魅かれたビール、500mlで2レヴァ(≒168円)。

飲む前に撮り忘れ、翌朝撮影したカベルネ・ソ―ヴィニヨンは375mlで4.2レヴァ(≒353円)。

★ 中締め ★
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、goo blogのサービスが11月に終了することになりました。寝耳に水で、率直に言って驚いています
別のサービスサイトに「引越し」するつもりですが、現時点では時期が未確定です。詳細が決まったらお知らせしますね。
しばらくは新規投稿できるそうなので、ひとまず来月(2025年5月)はこちらのgoo blogに新しい記事をアップする予定です。
というわけで、次回はプロヴディフを経由して首都ソフィアに向かいます。またお会いしましょう

8・9・8・10 カザンラク ⇔スタラ・ザゴラ ⇒ヒサリャ (2024年8月23日)
この日は前夜に到着したカザンラクを観光後、温泉地のヒサリャに移動して泊まることになっていた。
7時に起床。予約してくれたCちゃんがこの旅イチのホテルと言うだけあって、朝食ビュッフェは品数多く見目麗しく並べられていて相当豪華





温かいものを提供しようという心意気が嬉しい。

肉団子入りのシチューが美味だった


9時にホテルを出発。トラキア人の墳墓へ向かう道すがら、セヴトポリス広場を通過【毎年5~6月に開催されるバラ祭りでは、開会式・閉会式の会場となる】。
薔薇の植え込みに囲まれるようにしてそそり立つモニュメント。前夜は薄暗かったためスルーしてしまっていた・・・

広場周辺のカフェで朝食を楽しむ人々を横目にイスクラ通りに入り、さらに北東へ数百m進む。墳墓のある公園へは階段をのぼって行く。

猫を発見。何かを狙っているらしい。

1944年、防空壕を掘っていた兵士により偶然 トラキア人の墳墓が発見された。当時はこんな感じだったという(説明パネルを撮影)。
【B.C.4~3世紀に遡ると推定され、ユネスコの世界遺産に登録されている】

こちらが現在の様子。保存のため建物で覆われ、内部に入ることはできない。

が、その素晴らしさを後世に伝えるため、オリジナルの墳墓から1分もかからない場所にそっくりのレプリカが作成され、見学できるようになっている。

墳墓の全体像【前室・羨道・玄室で構成される。長方形になっている羨道は1.96m×1.12m、高さは2.25m。玄室は直径2.65m・高さ3.25mで蜂の巣あるいは釣鐘のような形をしている。羨道からは粘土製器具と生贄になったと思われる馬の骨が、玄室からは2体の遺骨に加えて 金をほどこした冠やアンフォラ(2つの取っ手付きの壺)などが発掘された】。

前室を通って奥へ進んで行く。4枚上の画像と見比べてくださいね~

来た方角を振り返る。ちなみに画像中央奥はレプリカ施設の入口である。

この羨道の天井は急峻な三角形であり、首が痛くなりそうな角度に戦闘場面が描かれている。てか、壁の亀裂や汚れまでオリジナルそっくりに再現しているのには舌を巻く。
【兵士たちはトラキアとマケドニアの服装をまとっているという。被葬者ロイゴスの父とも祖父とも曽祖父ともいわれるセヴトス3世の頃からマケドニアとは緊張状態にあったらしいので、現実を反映しているのだろう】


最深部、玄室の天井には360度にわたる壁画あり。
そのやわらかな描線や抑えめの色彩が私の心を捉え、この国へ導いた。記事その2で紹介したスヴェシュタリはトラキア王の墓のカリアティードの彫刻と同様に。

この絵は、亡くなったトラキアの王ロイゴス(下の画像右から2人目)が葬送される場面を描く。ディテールはもちろん違うが、スヴェシュタリのトラキア王の墓の壁画とテーマは同じ。
【画像右端の王の妻は夫の死にあたり殉死し、この玄室から見つかった遺骨は王夫妻と推定されている】

ん


なお、この施設の売店にはハガキがたんまり用意されていた。ここまで肩すかしをくらわされてきた反動もあり、ホクホクしながら入手

次は500m西のバラ博物館を目指す。階段を降りて公園を出た後、橋を渡るまではもと来た道である。
ふと、道沿いにギャラリーを発見。先ほど目にした玄室の壁画をベースにしているっぽい。

その入口には犬が横たわっていた。精悍な顔つき、ライトブルーの瞳の色が昔飼っていた愛犬を彷彿とさせた(犬種は違うけど)。

入口の全体像(後刻、付近へ戻って来た時に撮影)。トラキア人の壁画の他に ダ・ヴィンチ、ピカソ、ゴッホなどの著名な作品をアレンジしているようだ。

スタラタ川に架かる橋の欄干も玄室壁画がモチーフになっている。5枚上の画像上部、半円の内側左にご注目ください。
【葬儀の際に戦車競技を開催するしきたりがあったことから、玄室の天井に描かれたらしい】

民家が並ぶ裏通りを西へ進みながら、丹精込めて手入れされた庭先の植物たちに癒される。



大通りに行き当たり、左折するとバラ公園だった。その一角にあるバラ博物館は移転して数年の新しい建物で、一歩中に入るとガラス張りで明るい。
中庭では、子ども連れの団体が説明を聞いていた。
【カザンラク; 北をバルカン山脈、南をスレドナ・ゴラ山脈にはさまれたブルガリア中部は薔薇の谷と呼ばれ、ダマスクローズ及びそれを原料とするローズオイルやローズウォーターの世界的産地である。その中心であるカザンラクは、ローズから精油を抽出する蒸留窯=カザンを地名に冠する。5月中旬から6月にかけて行われる薔薇の収穫を祝うバラ祭りは100年以上の歴史を有し、民族衣装に身を包んだ人々が薔薇を摘み、伝統的な音楽に乗って民族舞踊を披露する】

料金を支払って入場すれば、ローズオイルの製造工程を学んだり用具を目にしたりできるが、先を急ぐ私たちは手前の売店だけ物色することに。
薔薇の写真にあふれたハガキと、ローズオイルを購入。シンプルなガラス容器だが、ブルガリアの薔薇とちゃんと書いてあり2mlで1レフ(≒84円)。この後いくつものお店で見かけたが、ここが最安値だった。香りは好みもあって難しいが、バラマキ用のお土産にもいい


次はクラタ民俗博物館へ。実は墳墓の近くにあるので、行ったり来たりに時間を割いた。計画性に少々欠けたかもしれない

ここでも薔薇が出迎えてくれた。

中は2つのパートで構成されているのだが、まずは村の家屋へ。下の画像奥がそれ。

納屋には唐箕などの農具があった。

テラスには糸紡ぎなどの道具。

リビング。その中央には木製のゆりかご。

キッチン。

敷地内でくつろぐ猫。

第二のパート、都市の家屋は2階建て【ローズオイルで財を成した人物が19世紀に建てた家】。

2階の廊下。

寝室。こちらのゆりかご(画像左)は金属製か。

台所。さっきの村の家屋でも思ったが、日当たりがあまり良くない。食料の保存とか、何か意味があったのか


リビング。壁沿いに座るような配置は村のそれと共通している。

都市の家屋の1階部分が博物館のオフィスになっていて、最後に薔薇のジャムとリキュールをふるまってくれた。

辛党につき、薔薇のリキュールを購入。200mlで10レヴァ(≒841円)。
いつかこの旅を思い出しながら味わいたいと思いつつ、いまだ開けていない


街の中心部へ向かいながら、目につく土産物屋に何軒か入った。友人たちへのお土産はバラ関連にしようと決めていたので、ここぞとばかりに

こちらのお店では、バラの香りのリップクリームを購入(1つ3レヴァ≒252円)。

再びセヴトポリス広場に戻った。音楽モチーフの街灯が可愛い


なお、今回私たちがまわったのは下の画像のピンク色の丸で囲んだ部分である。
カザンラクの西、下の画像中央でひときわ目立っているのはかつてのセヴトポリス【B.C.4世紀末、トラキアの王セヴトス3世が築いた王宮と神殿。B.C.3世紀初めまで栄えたが、ケルト人に襲撃されたのち放棄された。第二次世界大戦後、コプリンカダムの建設に伴いその底に沈んだ。なお、セヴトス3世は先ほど訪れたトラキア人の墳墓に埋葬されたロイゴスの父または祖父または曾祖父】。
そしてカザンラクの北方はトラキア王の谷とよばれ、墳墓が無数に存在するという。日本で流通しているガイドブックではあまり言及しておらず、自分たちも含めて訪れる日本人は少なそうだが・・・古代トラキア人の繁栄ぶりは想像に余りある。

12時半、聖キリル・メトディー通りでタクシーをつかまえる。目指すは30㎞南東にあるスタラ・ザゴラ。ここを訪問することになったのは偶然の導きによる。
実はこの日の宿ヒサリャまでの公共交通機関が不便なため、泊まらずに日帰りツアーで行けないものかと現地発着ツアーを検索していたところ、パーソナライズド機能によりPC画面に表示されるようになったスタラ・ザゴラのモザイクに見惚れてしまった。Cちゃんに相談し、モザイク好きの私たちは訪問を即決。カザンラクの観光を午前中で済ませて向かうことにした。
【スタラ・ザゴラ; 新石器時代には人が住んでいたという。B.C.6世紀にはトラキア人が都市を築いた。1世紀にローマ帝国に征服された後、2世紀初めにトラヤヌス帝がここをアウグスタ・トラヤナと命名、交通の要衝として発展した。9世紀には第一次ブルガリア帝国の支配下に入るが、14世紀にオスマン帝国が侵略。露土戦争の後、19世紀にブルガリアに復帰した】
40分かかって町に入ったところで降ろしてもらい、お目当てのローマの家(Late antique mosaic from a Roman private house)を目指す。あっけなく見つかったのだが、閉まっていた(下の画像中央が入口)。

休館日とは不運だなぁと嘆きつつ、ほど近くの地域歴史博物館(Regional museum of history)へ向かう。入館料を払おうとして、共通券の存在にはたと気づく。
窓口の係員に確認したところ、先ほどのローマの家は学芸員による案内で見学するシステムになっているという。自分が読んだガイドブックにはスタラ・ザゴラ自体が載っていないので事前情報に乏しかったのだが、どうにかなった・・・ホッ

窓口の方の連絡によりほどなくしてやって来た学芸員とともに博物館を出て、3分ほど歩いてとんぼ返り。
鍵を開けてもらい、階段で地下へ降りていく。事前に釘を刺されたので覚悟していたが、とてつもなく湿度が高い空間だった。画像右上が学芸員。涼を取ろうと扇を手にしている。
そう遠くないとはいえ、わざわざ博物館まで行って申し込まないと見学できないなんて・・・と頭をかすめていたが、中に入って納得。常駐するには過酷すぎる環境だわ


画像中央には漁をする人と魚、その下は動物たち。八角形のは井戸だろうか。

ここにも魚がたくさん。

そして・・・この鹿に会いたくてこの町へやって来た。可愛すぎる

背景のブドウの木に、緑の色使いが効いてるな~

再び歴史博物館へ足を運び、見学を開始。エントランスのある階で目についた、土偶のような物体。

ゴールドでつくられた装飾品。

古代のブルガリア人をイメージしたと思われるマネキン。隣りに座って撮影どうぞのあつらえなのだが、勇気が出ないなぁ


階下に降りるとローマ時代の石畳が広がり、当時を彷彿とさせる。
【この場所を狙って博物館を建設したのではなく、その工事中に偶然にもローマ帝国時代に町の南門と北門を結んでいたメインストリートを発見したのだというから驚くばかり


大通りの脇、家屋があったと思われる場所の床にはモザイクが。

あっ、スヴェシュタリの墳墓で見かけた牛頭の彫刻がここにも


グラディエーターの墓石、3世紀制作【グラディエーター; 古代ローマ期、見世物として観客の前で戦った剣闘士】。

オルフェウスの彫刻、3世紀制作【オルフェウス; ギリシャ神話の英雄で、詩と竪琴の名手。父はアポロンともトラキア王のオイアグロスとも。ミューズ(学芸の女神)である母カリオペの影響を受け、その竪琴は鳥獣草木を魅了したという。妻エウリュディケを亡くすと冥界にくだり、竪琴で冥王ハデスを篭絡し妻を連れ帰る許可を得るが、振り向いてはならぬという交換条件を守れず果たせなかった。ひとり現世に戻ったオルフェウスは妻を思うあまり女性に興味を一切示さず、トラキアの女性たちの怒りを買い八つ裂きにされ川に捨てられた】。
この記事を書くにあたり調べて知ったのだが、トラキアに縁の深い神だったのね・・・

ディオニュソスの彫刻、2~3世紀制作【ディオニュソス; ギリシャ神話における豊穣と酒の神。ゼウスの子で、長じて葡萄の木を発見しその栽培法とワインの製法を普及させたという。ギリシャより北方に位置するトラキアの陶酔的な豊穣神信仰を背景に成立したとされ、オリンポスの神々とは異なる性格を有する】。
この神もトラキアがバックグラウンドなのねぇ、知らなんだわ


トラキア人の騎乗者、2~3世紀制作。

かなりサイズの大きいモザイク。

あでやかな色彩で立体感がすごい。

何フロアもあるこの博物館、真剣に見たら何時間もかかりそうだった。が、ほどほどで切り上げて去ることに。
博物館の目の前にもローマ時代の遺跡が広がっていた。

ときに15時前、さすがに空腹をおぼえて自販機でジュースを購入。こーいう時の炭酸ったら・・・のど越し最高


さて、この町の地図も持っていないので 目に見える範囲でタクシーを探す。大通りは交通量が多く停まってくれそうにないので、脇道に入ってみる。路上駐車しているタクシーを見つけてダメもとで声をかけたら乗せてくれた、ラッキー

帰路は30分で到着。ホテルに預けた荷物を取りに戻ったついでに、両替所はないかとフロントの女性に尋ねる。手持ちが心細くなっていたが、この日泊まるヒサリャは小さそうな町で見当たらない可能性があるし、翌日はソフィア到着が夜のため、ここで補充しておきたかった。
言われたとおりに歩いて行くと、ホテルのほど近くの大通り沿いに間口の狭い両替屋さんを発見。ん~ これは教えてもらわないとダメだわ、自力では見つけられないな。
窓口にいた老夫婦にどこから来たのと聞かれ日本と答えたら、ニコニコしてくれてとても感じが良かった

懐が暖かくなったところで、ヒサリャへ向かうためホテルのフロントにタクシーを呼んでもらう(事前に調べてはみたものの、結局はタクシーで移動することにしたのだった)。
スタラ・ザゴラ往き帰りのタクシーがわりと簡単につかまったので軽く考えていたのだが、フロントの方は眉根を寄せた。どうやら長距離の片道というのがネックらしい。清掃スタッフの女性と何やら会話すると、今度はその女性が電話をかけ始めた。バックヤードに姿を消し、数分後に出てきた彼女は制服から私服に着替えていた。
フロントの方曰く、清掃スタッフの夫がタクシー運転手なんだそうだ。ただしこの日は非番のため自家用車での移動になるが、ヒサリャまで運転してくれるという。なんてありがたい

かくして助手席に清掃スタッフの女性、後部座席に私たちが座り4人で出発した。女性は夫の手を握り、ひっきりなしに話しかけている。ブルガリア語の会話はもちろん分からなかったが様子から察するに、休日に渋々呼び出された夫の労をねぎらっているらしかった。
結局ヒサリャには17時に到着。カザンラクを出たのが16時5分前だったので、1時間強といったところ。料金は2人で90レヴァ(≒7,569円)。カザンラクとスタラ・ザゴラの往復(計1時間10分)で支払ったのが2人分91.8レヴァ(≒7,720円)なので、妥当な額だろう。
ホテルにチェック・イン後、まずは温泉へ。バスローブで館内を歩いてもよいとのことだったので、部屋で着替えて向かう。
温泉の一角にあるロッカーに荷物を預けて鍵をかけるのは日本と同じだが、しきたりの違いから水着着用でないとダメで、スパ施設といった雰囲気。

こちらは泳げそうな広さ。水温が低めで、長時間 肩まで浸かるのは難しかった。

画像右、モザイクをかけたCちゃんが入っている浴槽は温かくて気に入った


サウナも備えられていた。

30分近く滞在したが、すれ違ったのは3人のみ。翌朝の朝食会場の埋まり具合からしてそれなりに宿泊者がいたはずなのだが、利用した時間帯ゆえか閑散としていたのが意外だった。
なお、このヒサリャのホテルだけは自分がリクエストした。ブルガリア旅行について検索していた時に、現地取材したライターの紹介記事に偶然ヒット。もともと温泉好きなのもあり、ガイドブックに掲載されていないヒサリャに興味を持ったのが始まり。宿泊サイトで他のホテルも調べてみたが、屋外に浴槽を配置するのが主流なようで、いかにもプール然としていて自分好みではなかった。記事のホテルに泊まりたいと思ったものの、入国以後の移動手段などを確保して8月23日宿泊が確定した頃には予約が埋まっており、やむなく他のホテルを予約した。すっかりあきらめていた自分だったが、Cちゃんは粘り強くサイトをチェックしてくれていて、キャンセルが出たタイミングで即おさえてくれたのだった。わ~い

翌日はバスでプロヴディフに移動することになっていた。フロントの男性に尋ねると、時刻表の用意はないからバス・ステーションで確認が必要と告げられ、場所を教えてもらう。
18時半にホテルを出てバス・ステーションへ向かう。歩いて5分とかからない、ラッキー

時刻表を見ると、最も早いのが11時50分発だった・・・日本でネット検索した時には、もっと早い時間帯の便もあった気がするのだが

頭を切り替えて、まだ陽が落ちていない街をそぞろ歩くことにする。ホテル到着の直前、車窓から見えた遺跡を間近に仰ぐ。

野生らしき葡萄を発見。ヨーロッパで、ワインは造られるべくしてつくられてきたんだろうな・・・

旧市街の中心部にて。ダチョウのプランターにキュン


ぬるめの温泉が湧き出す蛇口があった【2世紀末~3世紀に在位した皇帝が訪れたともいわれ、ローマ帝国時代にはすでに知られていた名湯ヒサリャ。泉源は20を超えるという】。

脇道に入り南下していくと、いにしえの遺跡が出現。

ローマ時代の浴場跡。ずいぶん修復の手が入ってるな・・・


さらに南下した場所にも温泉が流出するスポットがあり、これも程々の温度。Lady’s Raindropというのだそうだ。

さらに南下したあと東へ進むと、Camel Gateに到着。アーチの上の角状のを2つのコブにたとえて、ラクダなのだろうか・・・
ちなみに、翌日訪れた考古学博物館の売店で この門を描いたハガキを売っていた。この町のシンボルのひとつなのだろう。

来たのとは違う道を北上し、レストランを目指す。ホテルのほど近くにあるステキな感じのお店は満席で振られたので、別の場所へ。
このお店は新しそうで、テラス席は客でかなりにぎわっていた。室内にも席はあるのだが、こぞってテラス。ヨーロッパあるあるだよなぁ

画像右中央、木々の向こうに今や遺跡となっている要塞壁がチラ見え。このレストランは旧市街のわずかばかり外に位置しているのだった。

ガストロノミー・サラダ。

仔牛ほほ肉のグリル、セロリのソース添え。

ブルガリア料理というよりは、欧風モダンにアレンジされていた。ワインは安くなかったので、ビール(Tuborg/500ml)だけ飲んだ。
22時過ぎ、ホテルに帰着して交互にシャワーを浴び、晩酌タイム。実はヒサリャの街歩きの途中で抜け目なくお店を見つけ、アルコールをゲット

山脈のイラストに魅かれたビール、500mlで2レヴァ(≒168円)。

飲む前に撮り忘れ、翌朝撮影したカベルネ・ソ―ヴィニヨンは375mlで4.2レヴァ(≒353円)。

★ 中締め ★
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、goo blogのサービスが11月に終了することになりました。寝耳に水で、率直に言って驚いています

別のサービスサイトに「引越し」するつもりですが、現時点では時期が未確定です。詳細が決まったらお知らせしますね。
しばらくは新規投稿できるそうなので、ひとまず来月(2025年5月)はこちらのgoo blogに新しい記事をアップする予定です。
というわけで、次回はプロヴディフを経由して首都ソフィアに向かいます。またお会いしましょう
