poliahuの旅日記

これまでに世界42ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ウズベキスタン篇 その5

2024年05月22日 | アジア
旅の最後は、以下の地図の➍・➊での模様をお送りします(ヒヴァとウルゲンチは近接しているため、➍に統合しています)。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


4・1 ヒヴァ ⇒ウルゲンチ ⇒タシケント (2023年8月27日)

この日、8時20分発の飛行機でタシケントへ飛ぶことになっていた。5時半に起床、6時20分のピックアップに余裕をもってフロントへ。前日にチェックインした時と同じく、柔道体型な俳優顔フロントマンだった。きっと夜~朝担当の人なんだな。
冷蔵庫の支払いなど無いので、ただ鍵を返すだけ。"朝食はいらないの?” “タクシーを呼ぶ?” と聞かれたが、勿論いらない。
チェックインの時に日本語で挨拶してくれたよな~なんて思い出しながら、ウズベキスタン語で"さよなら” と伝えて歩き出す。
宿のエントランスを出て西を見ると、こんな感じだった。左が我が宿、中央が西門、右がクフナアルク。

身を翻すと、東にはカルタミノル。

時間を持て余して少々南へ足を向けると、パフラヴァン・マフムド廟とイスラーム・ホジャ・ミナレットのシルエットが浮かんでいた。

前日タクシーを降ろされた場所で待っていると、きっかり6時20分にタクシーがやって来た。やっぱり前日とは別のドライバーで、伊吹〇郎のようなイカツイおっちゃん。道すがら、ハンドル片手にナッツらしきものをひたすら口に運んでいた。時間が時間なだけに、朝食もとらずに迎えに来てくれたのかもなぁ・・・

35㎞北東のウルゲンチへは45分で到着。

ウズベキ〇タン航空の公式サイトから購入した航空券は問題なく有効だった、ホッ
小さな空港で、チェックイン・カウンターのすぐ左手がX線手荷物検査場、そしてそのすぐ奥が待合室、とコンパクトだった。
トイレを済ませた後、喫茶コーナーでblack teaを購入。5,000スム(≒60円)也。
到着は3時間後。食事が出るかが微妙で、食べ物を買うか迷ってやめておいた(結局、ドリンクが2杯出たきりだったが)。

機体に乗り込む。

3時間といってもブハラまで45分、そこからタシケントまで45分のフライト。残りの1時間半はブハラで機内待ち。降機しなくてよかったのは面倒なくてよかった。例によって、ハガキを書いたりして過ごす。

タシケント空港からホテルまでのタクシーは自力で探す必要があった。記事「その3」で既述の通り、ヤ〇デックスを使えないことが判明している自分。声をかけてくるドライバーと直接交渉するしかなかった。最初に15万スムと言われたのを10万スムまで下げるのが関の山だった。翌日ホテルのフロントを通じて頼んだタクシーは4万スムだったので、6万スム(≒720円)上乗せされたことになる。旅行エージェントを通じて送迎を手配する(25ドル)よりは安いと心を慰めるしかない

空港を出てわりとすぐに渋滞につかまり、10分以上動かず。明らかにイライラし始めたドライバーは途中でUターンして一旦空港付近まで戻り、別の道を進んだ。大規模な橋の工事をしているのが原因のようだった。なお、このドライバーも結構いいかげんで、交渉の最初にホテル名を告げたら さも知っているかのように振る舞っていたのに、乗車したらホテルの住所を見せろと言い出す。これって、サマルカンド駅から乗ったタクシーのおっちゃんと同じパターンだわ・・・他のドライバーに客を横取りされないための処世術なのかなぁ。ま、無事に送り届けてくれたからいいけど

45分かかり、ホテルに着いたのは12時半過ぎ。さすがにお腹がすいたので、サマルカンドの朝食ビュッフェで取っておいたパッケージ入りのパンケーキを食す。部屋のポット及び紅茶・コーヒーなどの粉モノが充実していたので、ホクホクしつつ
2022年に開業したばかりとのことで、新しく機能的な部屋だった。

そして、この旅最後の洗濯にいそしむ。これまでの感じからして、干して出かければ翌朝までには明らかに乾くはずだった。

14時過ぎ、観光に出かける。最寄りの地下鉄駅まで迷わずにたどり着いたが、その500m弱の道のりは夜になったら寂しそうでヤバイと思われた。暗くなる前に戻らねば・・・
プリペイドカードを買うのはギリギリ損になると計算し、切符を都度買うことに。券売機はなく、有人窓口(KASSA)にて現金でやり取り。
最寄り駅の構内。

青ライン(ウズベキスタン線)に乗り1駅、赤ライン(チランザル線)に乗り換え1駅で下車。
途中の駅で思わずパシャリ どの駅も意匠が異なっていて、素敵な地下空間が広がっていた

地上に出て一瞬方角を見失ったものの、目ざとく標識(青看板)を発見。南南西に500m歩くと、ガイドブックにて外観知ったるウズベキスタン歴史博物館が見えてきた。

入場券売り場にて “~階は工事中でclosedである” などと言われ、それでも入るかと確認されたが、ここまで来て入場しない選択肢はない。
こちらがエントランス。両サイドに古き柱が展示されていた。

ヒヴァから運ばれた16世紀の柱。場所の詳細は記されていなかったので、ジュマ・モスクだろうかと妄想がふくらんで面白かった

土器や剣など、フロアには紀元前からの発掘品が並べられているのだが、お目当てのコーナーめざして自然と足は先を急ぐ。てか、なぜに兵馬俑風な彫刻

これもその類の彫像なのだろうか。が、この記事を書くにあたり調べたところ、クシャーナ朝の高官と判明。謎が深まった
【クシャーナ朝; 1~3世紀、アムダリア川流域~ガンジス川流域を支配したイラン系民族の国。ローマ帝国と後漢を結ぶシルクロード貿易に携わり繁栄】

自分の関心はただひとつ、テルメズ周辺の仏教遺跡関連だった【テルメズ; 首都タシケントから南南西に500㎞、アムダリア川をはさんで対岸はアフガニスタンというウズベキスタン最南部に位置する。ガンダーラ美術の影響を受けながら、1~3世紀にクシャーナ朝のもとで仏教文化が栄えた。カラテパ(8haを誇る岩窟僧院跡で、中央アジア最大級の仏教遺跡)、ファヤズテパ(カラテパの北1㎞にある。寺院・修道院・食堂を擁する)、ズルマラ(2世紀築、中央アジアに残る最大の仏塔。日干しレンガ製、高さ13m)はその古代仏教遺跡である。なお、7世紀に入るとアラブが侵入しイスラーム化が進んだというが、7世紀前半にこの地から川を渡ってインドへ向かった玄奘は『大唐西域記』に「伽藍が十余箇所、僧徒は千余人」と記した。廃れつつありながらそれほどならば、古の繁栄は想像を絶するものであろう】。

いよいよ件のコーナーである。カラテパからの出土品、3~4世紀制作。しっかりとヘレニズムなお顔だちだぁ
【ヘレニズム; アレクサンドロス大王の東征を機に、オリエント文明と融合して超民族的・普遍的な性格をもつようになったギリシャ文明。B.C.4世紀後半~B.C.30年(プトレマイオス朝の滅亡)までの約300年間栄えた。元来は偶像崇拝をしなかった仏教にヘレニズムが大きな影響を与え、ガンダーラ(インダス川上流域。クシャーナ朝の都周辺)で仏像が制作されるようになったという】

彫像のかけらが残る。


漆喰の構造物。ファヤズテパで発掘、1~3世紀の作。

ドーム部には蓮の花などが描かれている。

足を組む仏像はカラテパから出土、2~4世紀制作。

こちらもテルメズ関連のコーナー。

お気づきでしょうか、上の画像中央のガラスケースは空。そこには、こんな注意書きが貼り出されていた。

そう、この博物館の白眉であり、ガンダーラ様式の傑作と名高い仏像が他所へ出張中なのだった
前日にここを訪れたCちゃんからその旨知らされていたので、気持ちに整理はついていたものの、残念としか言いようがない
発見当時の写真がパネルになっていたので、代わりにそちらを掲載する。僧侶を両脇に従え、菩提樹の下に座す釈迦如来像である【1968年、ファヤズテパから出土。高さ72cm・幅63cm・奥行き28cm、石灰岩製。脇侍の両手が失われている以外はほぼ完全な形で出土。制作の時期は1~2世紀あるいは3~4世紀など諸説ある】。


1~3世紀のファヤズテパの想像復元図。手前の仏塔入口に、インドはサーンチーのような門(トラナ)があるな・・・
【サーンチー; デリーの南方580㎞にある仏教遺跡で、世界遺産に登録されている。B.C.3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王がつくらせたという第1ストゥーパは高さ16m・基壇の直径36mのドーム状。その周囲の東西南北に備わる塔門(トラナ)には精緻な彫刻がほどこされている】

壁画も展示されていた【ファヤズテパにて、壁から剥がれ落ちて堆積した状態で発見された断片を復元したという】。

顔だちがはっきりとわかる。

仏陀の顔の部分をズームアップ。

3枚上の画像右上に見切れている、帯状の壁面装飾。

彩色が一部残っている。

向かい側の壁にも同様の帯状装飾。ファヤズテパから出土、1~3世紀制作。


ファヤズテパから出土した菩薩像(1~3世紀制作)。

手のひらに線描あり。

左脇からのショット。

目当ての仏像には会えなかったが、今やムスリムが席巻しているこの地に かつて仏教が伝わり、栄えて通り過ぎていった痕跡を確かに感じ取ることができた。
満足したところでテルメズ・コーナーを脱し、他の地域の特集へ。
こちらはブハラからの出土品、6~7世紀制作。



ブハラのカラーン・ミナレット&モスクの模型もあった。

衣装もたくさんあったが、これまでの記事で扱ってきたので割愛。
こちらはカラカルパクスタン共和国の民族衣装(19~20世紀)。これまで見てきたのと違うなという直感だった。この記事を書くにあたり調べたところ、なるほどと思わされるものがあった。
【カラカルパクスタン共和国; ウズベキスタン北西部にある自治共和国で、この国の面積の37%を占める。独自の国旗・国歌・国章・憲法を有する。首都はヌクス。紀元前から栄えた古代ホレズム王国の領域にあたり、アムダリア川の流れが変わるたびに造り替えたという都城跡(カラ)が点在する。1925年、ヒヴァ・ハン国の一部と旧ロシア帝国の一部が合体して現領域が確立。紆余曲折を経て1936年、ソ連に属するウズベク共和国内の自治共和国となる。1991年にウズベキスタンがソ連から独立すると、翌年に改組され今日に至る。人口の3割がチュルク系カラカルパク人だがウズベキスタン人も多く、カラカルパク語とウズベキスタン語が通る。北部に広がるアラル海は隣国カザフスタンにもまたがり世界4位の広さを誇っていたが、ソ連時代に綿花づくりの用水として過剰な灌漑が行なわれた結果 アムダリア川が細り、半世紀で5分の1に縮小。かつて盛んだった漁業は振るわず、米やメロンづくりに転換している】


最後、エントランスの脇に「返還された文化財」というミニコーナーがあるのを発見。

19~20世紀に制作されたものという。



博物館を出て、300mと離れていないナヴォイ劇場へ向かう途中、ふと筋肉痛を感じる。あ、イスラーム・ホジャ・ミナレットにのぼったからか。翌日にくるとは、まだ若いかも・・・浮かれながらのし歩く
噴水越しに望むナヴォイ劇場【ロシア革命30周年記念事業の一環として1947年11月の完成を目指し着工したが、第二次世界大戦の影響で工事が遅れた。1945年、ソ連軍に捕らえられた日本人捕虜のうち457名がその建設に携わり、予定期日までに完成。1966年4月の直下型地震では市内の多くの建物が倒壊するなか、ほぼ無傷であった。地上3階・地下1階建て、1400名を収容するバレエとオペラの劇場。なお、ナヴォイは15世紀(ティムール朝)の詩人】。

正面入口前と北壁付近にスクールの子どもたち・教員と思われる集団がいて、踊っていた。

公演チケットを買わなければ中に入ることはできないらしい。正面入口付近を撮影して、そそくさと退散。

北壁のレリーフ。第二次世界大戦末期に強制連行された日本人数百名がこの劇場建設に携わった、と刻まれている。


劇場を後にして、ティムール広場を目指して北上。通りを越える。

広場へつながる道に子ども向けのアトラクションあり。

両側には屋台が並んでいる。この辺りが繁華街のはずで、土産物屋を期待していたが、それらしきものは見当たらない

面白い形のゴミ箱。

広場に到着。周囲のベンチで人々がくつろぐばかりで、売店などない。

土産物探しは翌日に延期して、中央郵便局を下見することに。
Wi-Fiを入手したおかげで、ガイドブックに記載のない情報はスマホでどんどん検索していたのだが、空港のポストはあてにせずタシケント市内でハガキを投函したほうが安全そうだった。で、タシケントを紹介する個人の記事とそこに載っていた地図を頼りに探したのだが、示された位置にたどり着いても廃墟しかなかった。
結論から言えば、地図上のマークが間違っていて通り1つ分南になっていたのだった。そう気づいたのは後になっての話であって、当時の自分は焦りつつナヴォイ大通りを越えてアミール・ティムール通りを北進。アブドゥラ・コディリ駅まで到達してキョロキョロ 勿論なくて、あきらめて来た道を引き返す途次、もしやと思ってナヴォイ大通りを東へ進んだら、あったのだった はぁ~ 簡単にあきらめなくてよかった

残すは夕食のみ。先ほど通り過ぎたお店へ向かう。わりと広いお店で、先客2組から離れた場所に腰を下ろした。最後の夜なのでボトルを頼みたいのはヤマヤマだったが、この日チェックインしたばかりのホテルまで戻ることを思うと さすがに手が出ず、グラスにとどめておいた。

サラダはこれまでチョイスしなかった組み合わせで、セロリときのこのにした。一口食べると不思議な、でもホッとする味わいだった。メニューを読み返すと、醤油が使われているようだった。コリアンダーやオリーブオイルも入っていて不思議な味わいなのだが、どこか懐かしい感じがするのは醤油に馴れ親しんだ身ゆえか。
【なお、ウズベクで醤油を使用するサラダは一般的なのか疑問に思い今回調べたところ、ヤポンスキー(日本)サラダなるものが存在することが判明。牛肉・トマト・きゅうり・コリアンダーにレモンや胡麻、醤油だれで味つけているらしい。自分が口にしたのは、それを洋風にアレンジしたメニューだったのかも・・・】

この日のメインは、食べてみたいと思っていたマスタバ。トマトベースの野菜スープwith米を期待していたので、個人的にはコマ切れ牛肉の香りが引っかかったが、好みの問題だろう【調べたところ、肉が入るのはマストのようだ。小さく切った肉を炒めてニンジン・ジャガイモ・玉ねぎとともに煮込んだ、米入りのトマトベースのスープ=マスタバの定義。なお、米は少量である】。

この赤ワインが超絶美味だった たぶんピノノワール。

サマルカンドでも見かけた類のお人形たちがお店の出口で見送ってくれた。


往きと逆の経路で地下鉄の最寄り駅を降りたはいいが、異なる出口から地上に出たようで、どの方向へ進めばよいのか分からなくなってしまった。
改札へつながる階段はホームの両端にあるのだが、往きにはオープンしていたはずの片方が下の画像のように閉鎖されていたので、否応なく誘導された模様(画像は翌日撮影)。

幸い周囲はにぎわっていて危なさは感じないが、なにせ往きに見かけていない景色。ワイン2杯飲んでるしな、自分に自信もない
藁にもすがる思いでヤン〇ックス・マップスを見たところ、ちゃんとホテルの位置を覚えてくれていた。チェックイン後しばらくとどまっていたので、宿を認識してくれたのだろうか。ともあれ、大通りをはさんで反対側にいるとあっさり判明。文明の利器ってやっぱ侮れないわ(ちなみにタクシー配車とは別のアプリで、これもCちゃんに薦められてダウンロードしておいたのだった)

かくして19時半、無事にホテルへ帰着。
フロント脇のbarコーナーでビールをtake out、風呂あがりの晩酌にもありつけた。銘柄はブハラでも飲んだSARBASTだったと記憶しているが、画像を撮っていない
ハガキ書きに忙しく、日記を書く暇が一切ないまま夜は更けていった。

1 タシケント ⇒出国 (2023年8月28日)

22時離陸の便なので、最終日ながらのんびりできるスケジュール
汁ありラグマンを食したいと希望しつつも、時間が押せば食事は割愛になる可能性大だったので、朝食ビュッフェはしっかりと取った。
下の画像中央、茶色いのは馬肉ソーセージ。セージを効かせて臭みなく仕上げてある。これまでに馬刺しを口にしたことはあったが、勿論ソーセージは初めて。何肉か知らずに口に入れたら、馬とは思いもよらないだろうな・・・何にせよ、食べる機会を得られてよかった【中央アジアの国々では馬肉をよく食すが、ウズベキスタンは例外的に全土では見られず、タシケント周辺のみという】

おかわりしたお皿。画像左半分を占めるのは、ピロシキの具をクレープで包んだようなお料理。

そして、店先やビュッフェで目にしては心魅かれつつ ある種断腸の思いでパスし続けてきたメロンを遂に食す。
雪のように白い果肉を口に含むと、日本のとは全然異なる芳香 気品あふれる高貴な香りが鼻孔いっぱいに広がる。あぁ・・・シーズンの夏に訪れながら これを食べずして帰国の途につけようか、否である。

本当はもっとたくさん食したかったが・・・ハライタが怖いのでやめておいた。惜しいくらいで丁度よい
実は、メロンを食べて水を飲むと腹痛を起こしやすい、と列車の手配等をお願いした旅行エージェントからアドバイスを受けていた。暑さの中そう何時間も水を飲まないではいられないので、恐れをなしてここまで先送りしてきた。もはや最終日、後は野となれ山となれとトライ
とはいえ、しばらくは水を飲まないつもりだった。その代わりに、部屋に戻ってポットに湯を沸かし、チェックアウトまでに熱いteaを2杯飲んだ。

パッキングした荷物をチェックアウト時にフロントに預け、10時過ぎにホテルを出た。
地下鉄青ライン(ウズベキスタン線)で1駅、アリシェール・ナヴォイ駅の装飾は涼やかな水色。

さらに赤ライン(チランザル線)に乗り換えて4駅。前日とは逆方向へ。パフタコール駅の壁面装飾は綿花がモチーフという【パフタ=綿の意】。

ミルザ・ウルグベク駅から地上に出ると、立派なスタジアムがど~んと鎮座していた。この国でサッカーはポピュラーなスポーツなんだろうか・・・

【この記事を書くにあたり調べたところ、このミリー・スタジアムはウズベキスタンのFCブニョドコルの本拠地。チーム自体が2005年創設と若く、スタジアムは2012年築、3万4千人収容。なお、ウズベキスタンでサッカーは圧倒的に人気のスポーツらしい。1991年に独立という歴史の短さもあり、過去にワールドカップ本大会に出場したことはないが、ワールドカップ2026アジア2次予選ではE組の2位につけている。FIFAランキング64位、アジアで8位(2024年4月時点)。ちなみに1枚上の画像、パフタコール駅の近くにもスタジアムがあり、2009年6月6日にここで日本代表がウズベキスタン代表に勝利してワールドカップ南アフリカ大会出場を決めた(1-0、前半9分 岡崎慎司)。なお、ここを拠点とするFCパフタコール・タシケントは、ウズベク国内リーグで何度も優勝している強豪チームという】

ここから目指すはヤッカサロイ墓地。チャパナータ通り沿いに南東へ2㎞、さらに500mほど南下すればたどり着くはずだった。ホテルでタクシーを呼んでもらい、帰路だけ歩くのもテだったが、心もとなくなってきたスムの現金を温存したかったので、往復とも徒歩にチャレンジ
かなりの大通りをひたすら歩く。途中、メロン&スイカ売りに遭遇した。

サマルカンド以来、久々に酒屋を見かけた。お土産に買いたいが、重くなるのでひとまず先を急ぐ。

ヤンデッ〇ス・イーツの配達員と行き交う。タクシー配車以外にも手広く事業展開中、ホントすごいな~


南下のため大通りから右折するポイントは間違わなかった。が、ヤッカサロイという地名表示に安心した直後、ほんの数十m手前で東へ進んでしまい、住宅街のような袋小路に入り込んでしまった
これはやむを得ない・・・前夜の速攻解決を思い出し、ヤ〇デックス・マップスを開いてみる。表示された画面に導かれるまま戻ると、墓地の通用口にたどり着いた。小さな間口だったので、アプリでなければ通り過ぎてしまっただろう。つくづく文明の利器は偉大 (下の画像は帰路に撮影。右奥が通用口)

墓地内を当てずっぽうに歩くうち、存外敷地が広大なことに気づく。案内板などないし、たどり着けるのか 心配の的が変わっていく。

なおもガツガツ参道を歩いていると、清掃員の方々3名に出くわした。その中の年配男性が、日本人か?と声をかけてくれたので "はい” と返すと、日本人墓地はあっちだよ、と教えてくれた。英語ではなくウズベク語かロシア語だったが、場面の状況からそう言ってくれていると理解した。お礼を言って奥へ進む。

50mも進まないうちに、それまでの林立する墓地とは明らかに異なる一区画に行き着いた。碑に日本語らしきものが書かれている。
あぁ、たどり着いたんだ・・・そう思った瞬間、万感胸に迫るものがあった。
長い距離歩くとなると行き着けない可能性もあると予想していたし、実際に小路に迷い込んだ時はダメかもと思った。時間に余裕がなかったら、あきらめていたかもしれない。が、ついに探り当てることができた。不安から一気に安堵したのと、断念しなくてよかった・目的を果たせたという達成感、この旅のフィナーレの高揚感・・・

折り鶴が捧げられている。

日本でも時折見かける、「世界人類が平和でありますように」と記された標柱。

タシケントで亡くなった方々のお墓。

上の画像の中央奥にご注目あれ。大写ししたのがこちら。ウズベキスタン全土で亡くなった日本人を共同で慰霊するモニュメントがある。
【第二次世界大戦末期、ソ連軍に捕らえられた日本人捕虜は57万5千人という。そのうち2万5千人がウズベキスタンに移送されて強制労働に従事し、死亡した800名余の方々はウズベキスタンの13ヶ所に葬られている】

その周囲の壁には、各地での死没者数が刻まれている。

歴史学を専攻した自分が大学時代に読んだ本の一節が印象に残っている(残念ながらタイトルも著者も思い出せず、確証に乏しいのだが)。
人は望むと望まざるとにかかわらず、過去からの恩恵に浴し、一方で負の遺産を背負わされる。自国の先達たちから正のバトンと負のバトンを受け取って生き、また次の世代へとバトンを受け渡していくのだ、と。
十五年戦争以降、どれほどの人命が失われただろう。様々な感情を抱きながら自らの命を賭してくれた人々が存在したから、ボロボロに敗れても日本は残った。それがなければ、戦後の復興はあり得ない。
先人たちのおかげで 自分は戦後日本でのほほんと生きてくることができた。本当にありがとうございました・・・慰霊碑に手を合わせる。
一方で、自分は日本の後輩たちに一体何を残せるのだろう。日ごろは頭をよぎりもしないくせに・・・いつになく感傷的になっている自分を嗤う。

ひとしきり過ぎた頃合いに、スーツ姿の日本人男性がやって来た。日本語を操るウズベク人と思しき人を伴っている。色々と説明を受けた後、タシケントだけでなく各地に戦没者が眠っているとは、お参りに行かなければ、と喋っているのが聞こえてきた。外務省または日本・ウクライナの親善に関わっている方なのだろうか。

日本人墓地を離れてなおもウロウロしていると、正規の入口にたどり着いた。通用口と違って、堂々としてるわぁ~

喉の渇きをおぼえて時計を見ると、朝食から5時間経っていた。そろそろいいかなぁ・・・ペットボトルの水をゴクゴク。途端に腸がグルグルッと動く。幸いそれ以上のことはなかったが、ギョッとした。これはメロン食べてすぐに水飲んだらダメだと思う、体感として
同じ道をたどって地下鉄駅へ戻りながら、この後の動きを考える。お土産探しは気になっているが、目当てのお店はこれまた地下鉄駅から歩かねばならず、迷ったならどれほど時間がかかるやら未知数・・・先に郵便局へ行くことにする。赤ライン(チランザル線)で6駅、緑ライン(ユーヌサバッド線)に乗り換えて1駅、アブドゥラ・コディリ駅で下車。こちらは駅構内の乗り換え表示。

最後に1枚残ったハガキを書くため、目についた食堂に入る。あまりお腹が空いておらず、メニューがモダンで魅かれるtraditional dishがなかったのと、スムの残金が気になったので、コーヒーだけにした。しかもウズベク語のメニューを指してテキトーに注文したら、トルココーヒーが来る始末 少量かつドロリとしているので長居には向かない飲み物だったが、30分以上粘り、ちゃっかりトイレも利用。感謝至極


前日に探し出した郵便局へ向かう。

館内は天井が高く、広くて静か~な空間だった。

窓口がたくさんあり、近づいて表示を見てもウズベク語なので何が何やら 
窓口とは別に何がしかを売るブースがあった。そこにいたおじいちゃんにハガキを見せてジェスチャーで “どこ?” と聞くと、10番を指差された。

が、1人待って窓口の女性係員にハガキを見せると、ポストに入れろとジェスチャーされる。気づいていなかったが、11番窓口の脇に青い箱があった。ポストの投函口はひとつなので、国内便と国際便を一緒くたに集めた後仕分けしてくれるようだ。切手貼りまで済んでると楽ちんだな~


せっかくだからと、前日は踏み込まなかったオロイ・バザールに足を運んでみる。
【付近に高級ホテルが建ち並ぶことから、質が高く値段も高めな品ぞろえらしい。なお、タシケントで最も有名なチョルスー・バザールは質も値段も中庸らしい。チョルスーに近いホテルに泊まりながら、訪れたい場所&時間の関係で縁がなかった

入ってすぐは時計や電気製品などのアーケード。

そこを通り抜けて屋外に出ると、食品を扱っている。

時間帯のせいかもしれないが、人でごった返すでもなく、小綺麗な感じ。




緑鮮やかな香草たち・・・シュヴィト・オシュを思い出す。

脇に大手スーパーマーケット・チェーンもあった。これまでmini marketで用を済ませてきたので、興味津々。が、先を急がねばならず・・・後ろ髪引かれつつ去る。


地下鉄の緑ライン(ユーヌサバッド線)で2駅、オイベックで下車。東京でいう表参道のようなオシャレなエリアを1㎞ほどずんずん歩いて土産物屋を目指す。
最後の詰めは またしてもヤン〇ックス・マップスに頼り、無事に到着。
卸がメインなのだろう、店内は商品が雑然と並んでいた。お店の方が自分についてまわるので、ゆっくり選べる感じじゃなかったのが残念だったが、スザニのような刺繍がほどこされたポーチを6つ購入。スムは残金わずかなため、ドルの現金で支払った。この国ではドル払いにも好意的なお店が多かった。両替すると得なのかなぁ・・・

来た道を戻りながら、往きに発見したリカー・ショップに意を決して入った。地上はディスプレイのみ、お店は地下にあった。


前夜飲んだ赤が美味だったので、狙いを定めてお店のお姉さんにオススメをたずねた。3本紹介してもらったが、エチケットに記されたウズベク語が読めるはずもなく・・・勘でフルボトルを1本選ぶ。175,000スム(≒2,100円)也(帰国後に撮影)。

オイベック駅の300m向こうに気になるレストランがあった。通し営業なので開いているはず。が、注文から品出しまでどのくらいかかるか全然よめない。頭の中で計算してみると、サイアク空港までギリギリの時間になる可能性もあった。夕方は道路が混むだろうし。
結局、ホテルへ戻ることにした。幻の汁ラグマン・・・いや、行ったところでお店に用意があるか知らんけど

地下鉄の青ライン(ウズベキスタン線)で4駅、17時過ぎにホテルへ到着。
最寄地下鉄駅のそばで遭遇した猫。

フロントがヤ〇デックスで呼んでくれたタクシーで空港へ向かう道中、たしかに車は多かったけど前日のように混むことなくスムースに到着。
ときに18時前、離陸4時間以上前につきチェックインの手続きが始まっていなかった。一度バッグを開けてパッキングを最終的に確認し、19時前にカウンターへ行ったら1時間前とはうってかわって長蛇の列ができていた。何がしかの団体が搭乗する模様で、ものすごい人数に膨れあがっていた。体格も大きいし荷物も多かったから、スポーツ選手の対外試合はたまた合宿だろうか?? 
結局1時間近くかかってチェックインが完了。20時~20時半に指定場所で返却することになっていたWi-Fiルーターも無事に返すことができた。

出国審査を終え、残る時間を現地通貨の消費を兼ねたお土産の最終調整に充てた。そもそも4万スム(≒480円)弱しか手元に残っていなかったのもあり、空港値段の前に大したものは買えず、2,200スム(≒26円)は持ち帰りとなった。
売店で見かけて即買いしたのは、ブハラはラビハウズほとりのレストランで開栓直後に持ち去られた銘柄のビール。叙情的なイラストがお気に入り。


仁川への便は30分遅れで22時半に離陸。案の定到着も遅れ、なんと乗継便の出発時刻に着陸するありさま
それでも同じアシ〇ナ航空のtransferだから置いていかれることはなく、係員に "急いで” とせかされながら空港内を爆走した。自分はかなり先頭についていき、ドカドカ走れて私ったら元気じゃんと能天気に思ったが、普段はかないランニングシューズのおかげと後ではたと気づいた なお、乗り継ぎ客の多くは航空会社のオペレーションが原因なのに走らせるのか?って感じで腰が重そうだった。
こうして40分以上delayして仁川を離陸。成田到着もやはり遅れた。この航空会社の便で帰国するなら、前後の予定に余裕をもたせないとマズイだろうな・・・

★ 終わりに ★

記事の中にたびたび登場したヤン〇ックス。配車アプリは確実に安くタクシーをつかまえることができるし、地図アプリの現在地情報には何度も助けられた。ヤン〇ックスに限らずとも、翻訳アプリでタクシー運転手との関係を持ち直したりもした(記事「その2」)。これからは海外放浪旅もデジタル化が進んでいくのかもしれない。はたして自分はついていけるのだろうか

ヒヴァの雨と寒さ、タシケントの涼しさに季節の移ろいを感じて面白かった。自分の5日前にヒヴァを訪れたCちゃんからは好天で暑いと聞いていたが、この旅で初めて傘をさし半袖では肌寒いような気温だった。ヤッカサロイ墓地への往路2.5㎞を水1滴も飲まず、また土産物屋への往復2㎞を難なく歩き通せたのは湿度が低く快適な気候のおかげだったと思う。ブハラで経験した39℃を考えあわせると全体を通して大きなギャップがあり、同じく旅の最中に夏から秋へ変わっていったトルコを懐かしく思い出した。

旅を計画しはじめた当初、テルメズまたはヒヴァのどちらを訪れるか悩んだ(旅程の都合上、両方は無理)。テルメズの観光向け整備があまり進んでいないようなのと、テルメズで発掘された仏像の傑作がタシケントのウズベキスタン博物館にあるのが決め手となり、ヒヴァを選んだ。そして休館日の月曜(8月28日)を避けて博物館を訪れるため、ヒヴァの滞在を最短にとどめてタシケントに戻るスケジュールとした。が、既報の通り肝心の仏像には出合えずじまいであった・・・。1日早く博物館に足を運んだCちゃんからドイツへ出張の旨を聞いた時はさすがにガッカリしたが、思いのほかヒヴァを気にいってしまったので、テルメズに足を運べなかったのはどうでもよくなっていた。なんてゲンキンな私
対してCちゃんはよほど悔しかったとみえて、2024年1月初めにベルリンに飛び、出張先で件の仏像にまみえたのだった。自分にはその発想は全然なかった・・・つくづく性格の違いが浮き彫りになるエピソードである。
 おしまい 







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ウズベキスタン篇 その4

2024年04月19日 | アジア
旅の第4弾は引き続きヒヴァ(下の地図の➍)からお届けします。地図中の①~③は旅の前半に訪れた場所です。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


4 ヒヴァ (2023年8月26日)

うたた寝から目を覚ましたのは、部屋の電話が鳴ったから。
例によって英語の一部しか聞き取れなかったが、Wi-Fiが届いたらしい。急いでフロントへ駆けつけると、チェックイン時の人より若い男女の担当者に交代していた。
あなたが頼んだのかと尋ねられたので首肯すると、男性のフロントマンに連れられてホテルの外はおろか西門の外まで出た。それほど距離はないのだが、まだ雨は降り続いていたため びしょ濡れでWi-Fiを受け取った私。何はともあれ、ホッ

正午、観光に出かける。まず西門で共通入場券を購入。15万スム(≒1,800円)也。
西門から東を望む。中央にそびえるは、記事その3で紹介したカルタミノル。

手描き風の城壁内地図【上下(東西)が約500m、左右(南北)が約800m】。ちなみに、中央下部の黒い印が西門(現在地)。


カルタミノルを右目に左折し、クフナアルクへ向かう。下の画像、右の壁はクフナアルクの。

ヒヴァの街のそこかしこにお茶目なブロンズ像があった。見た感じ近年整備されたものなんだろうけど、観光の合間に目を楽しませてくれた。
ここのは、メロンを手に少年が談笑している。

クフナアルクに入場【ヒヴァ・ハン国の歴代ハン(王)の居城として17世紀後半に建立。執務室・謁見室・モスク・最高裁判所・造幣局など種々の施設が建ち並ぶエリアだった。この記事の後半で訪れるタシュハウリ宮殿と対比し、「古い宮殿」と呼ばれる】。
考古学発掘現場さながらの宮殿遺構。

建物の中は博物館になっていて、ここヒヴァを含むホレズムの歴史を学べるようになっていた。
下の地図の中央上部にカスピ海があり、その右のアラル海の下にXORAZM(ホレズム)と書かれている。

復元されたホレズムの人々の風貌【科学者・人類学者の研究によると、ホレズムの人々は広い肩幅を持ち背が高く、青い瞳・黄色い髪・広い額・鷲鼻で、肌の色はヨーロッパの人種と同様だったという】。

B.C.5世紀~B.C.3世紀頃の住居(復元)。

復元された神殿。

1~2世紀には城壁を築いて生活している。

座る人をモチーフにした骨壺(B.C.1世紀~A.D.1世紀制作)。こちらの方が早いんだけど、日本の埴輪に雰囲気が似てるなぁ・・・

7~8世紀に制作された骨壺の一部。死を悼む人々が描かれている。

13世紀、モンゴル軍による侵攻を受けた際の武具。


謁見室のアイヴァン(イスラーム建築のテラス)【オリジナルは18世紀のイラン軍侵入時に破壊され、19世紀初めに再建された】。
青系タイルの壁面は言わずもがな、木柱とその土台石の彫刻、赤が印象的な天井の木彫、全てが麗しい。

構内の建造物の隙間を縫うように歩く。

藁を固めた壁も。

モスクのアイヴァン【19世紀前半築】。

美しき階段。

壁面と天井の接合部。

モスクに隣接する旧造幣局の中は、貨幣博物館になっていた。
ウズベキスタンで現在使用されている紙幣&硬貨。画像中央手前の10万スム札には、このヒヴァの街が描かれている。

画像手前、200スム札の意匠は我が愛しの人面太陽&獅子(記事その1で紹介した、サマルカンドはシェルドル・メドレセの)。

かつて使用されていた紙幣。

短命だったホレズム共和国(1920~1923年)の紙幣。縦10cmはあろうかという大きめサイズ。


他の建物に移ると、かつて最高裁判所があった縁で いにしえの刑罰を描いた絵もあった。
塔の上から突き落とされる刑。

生き埋めにされる刑。

裁判の様子を再現した蝋人形まで・・・


クフナアルクを出ると、広場をはさんで向かい側の大きな建造物が目に入った。

ムハンマド・ラヒム・ハン・メドレセのファサード。

門前に並ぶ土産物の中で、圧倒的な存在感を示す書見台。

ジュマ・モスクをめざして東南東へ進むと、西門と東門を結ぶメインストリートに出た。
毛の帽子を売るお店。さっきの蝋人形たちがかぶってたヤツだ。にしても、まだ夏なんだけどな。たしかにこの日は半袖だとうすら寒い気温だったが、違和感が若干・・・

ブハラにひき続き、この中央大路でも結婚式の人々に遭遇した。参列者が多くて、画像中央に新郎新婦が埋もれてしまっている
酔っ払っているのだろう、踊りまくる新郎友人と思われる人々を横目に通り抜ける。新婦がメッチャ美しいよなぁ ブラウンの髪と瞳・・・ペネロペ・ク〇スだっけ、あんな感じの美人さん(彼女はスペイン人だけども、今回あらためて画像を確認してみてもやっぱり あんなイメージなんだってばぁ)。

メインストリート沿いの建物。チラ見でも絵になるぅ

カフェの店先の木に瓢箪が吊るされていた。ザクロが描かれていて、可愛すぎる

例の帽子をかぶり、皇帝とその家来(?)に仮装して撮影する人々。


ジュマ・モスクの扉を振り返る。
【ジュマ・モスク; ジュマ=金曜、イスラム教では金曜の礼拝が最も重要とされる。10世紀に最初のモスクが建てられた後、現在の形に整ったのは18世紀。約3m間隔で立つ212本の木柱の多くは18世紀のものだが、うち21本は10~12世紀の古いものという】

時間帯をやや外して訪れた甲斐あって、人影はまばらだった。
列柱の奥、光射し込む場所がある。明るい所に集まる虫の如く、吸い寄せられる私。

周囲にロープスタンドを巡らせてある柱が古いものなのだろう(←ガイドなし観光の習性から推測)。


柱の上部にズームアップ。

柱の下部。画像上部にご注目あれ。文字が刻まれているようだ。

絨毯が敷かれ、祈りを捧げる空間がつくられていた。

数百年の間に何度も手が加えられただけあって、柱の様式はまちまちである。大きな礎石を持つもの(画像右端・画像右奥)、礎石がないタイプ(画像中央手前)、かそけき礎石を持つもの(画像左端・画像左奥)などなど。それにしても、仏教寺院の回廊みたいな印象だなぁ・・・

そう思っていたら、奥にミフラーブが登場。俄然モスク感が高まった。

この記事を書くにあたり調べたところ、ここは天井が平坦でドームを持たず、古代のアラビアに作例がある古式のモスクと判明。自分が抱くモスクのイメージと異なっているのが何となくの違和感の正体だったのか、なるほど・・・

バシャバシャ撮影していたら、デジカメの充電切れが迫っていた。あぁ~失敗 前夜は車中だからどうしようもないとして、午前中に充電しておくべきだった・・・
ともあれ、宿へ戻ることにする。ときに13時50分。2時間足らずで引き揚げねばならぬとは・・・トホホ
いつのまにやら雨は上がっていて、青空がのぞきはじめていた。

朝干したのがほぼ乾いていたのに味をしめ、2回目の洗濯 ベッドに横たわったら、いつのまにやら眠りに落ちていて・・・16時過ぎ、充電の状況を確認して再び外出。
カルタミノルの横にもブロンズ像があり、老人がお茶を飲みつつ爆笑中(記念撮影中の小さな旅人にモザイクをかけた)。


壁に囲まれたこの都市を上から眺めたい というわけで、イスラーム・ホジャ・ミナレットへ向かう。300m歩けば到着。
自らの不注意で無駄にホテルへ出入りする羽目になったが、内城の宿にしていたのがもっけの幸い
てか、手前の建設現場・・・木の幹で鉄骨を押さえている。場合によっては、はしごの代わりかも。面白いなぁ

ミナレットの左手にはメドレセ【20世紀初め、ヒヴァ・ハン国最後の王の時に大臣だったイスラーム・ホジャが建設。メドレセのフジュラは42でヒヴァ最小だが、ミナレットはヒヴァで最も高い45m】。
その前の広場には、例によって皇帝気分になれる撮影スポットや、笛吹きのブロンズ像が(画像右手前)。

マーケットも開かれていて、ちょっぴり賑わっているのだった(イスラーム・ホジャ・ミナレットの側から撮影。右奥のはジュマ・モスクのミナレット、ややこしい)。

メドレセの中庭はひっそりとしている。

花壇のお花たち。

メドレセの中は博物館になっていた。
寒色の植物文が美しい。椅子なのか小さいテーブルなのか分からなかったが、後に訪れたタシュハウリ宮殿で同種のものを見かけ、椅子と判明。

19世紀の女性の衣装、絹製。


柱の礎石(20世紀制作)。

排水溝の蓋(20世紀制作)。

ここのミナレットを織り込んだ絨緞(20世紀制作)。

古そうなタイル。手描きが温かい

風車みたいな形のタイル。


馬などに使用する鞭。

手前は女性の長靴、奥右は油用の壷。奥左は紅茶を煮出す袋。手袋のように見えたが、sack for teaと表記されていた。大量の茶葉を用いて大人数分の紅茶を淹れたのだろうか。

鞘だけでなく、刀身にも線刻をほどこした包丁。


いざ塔へ。見上げると、かなり高い。

頂上へ導くらせん階段は急峻かつ、すれ違うのがやっとなほどの狭さ。


ツアー客が行き交う混雑時にはここで待たされるのだろう。暇つぶしに書かれたと思われる落書きが散見された。

途中、小窓で切り取られた景色に てっぺんへの期待がふくらむ

息を切らして118段をのぼりきると、先客のウズベク人のおばさまたちがいた。日本人かと聞かれてうなずくと、例によって満面の笑みで歓迎してくれたのだった【ウズベキスタン人が親日的な理由については、記事その2をご参照ください】。
ウズベク語で怒涛のように話しかけられたが、チンプンカンプン 会話は成立しなかったが、おばさまの1人がカメラマンとなり、取り囲まれて記念撮影 いっぽう私は自分を入れず、おばさまたちをパシャリ。相当ハイテンションな彼女たちと ささやかな国際交流と相成った。お互いに友好的な気持ちがあれば、言葉がなくても心は通う。
語学が不得手な人間の言い訳っぽいけど

おばさまたちを笑顔で見送り、静寂の中ひとり 塔の上から都市を見下ろす。360度ぐるりと視界が開けていた。
西北西の眺め。大きな緑のドームはパフラヴァン・マフムド廟【13世紀後半~14世紀前半、詩人・哲学者・格闘家(後述するクラッシュ)・実業家として活躍したパフラヴァン・マフムドが葬られている。聖者のそばで永眠すると来世は幸福になれるとの言い伝えから、その墓の周囲が後世に共同墓地として発展。現存する廟は19世紀初頭の再建】。

わが宿にズームアップ【旧ムハンマド・アミン・ハン・メドレセ; 19世紀半ば築。125のフジュラを有し、260名の生徒を受容したかつての神学校】。ホテルへの改装にあたって塗り直したのであろう白壁が目立つ。その規模ゆえ中にいると実感しにくいが、ここからは全貌がはっきり見てとれる。

西の内壁にラインを引いてみた【8世紀には街が存在したというここヒヴァは、1592年からヒヴァ・ハン国の首都として繁栄。19世紀、外敵から守るために全長6㎞の外壁と、さらにその中に内壁を築く。かつて内壁の内側(=イチャンカラ。内城とも)には王族の他に高級官僚・聖職者・裕福な商人が、内壁と外壁の間(=ディシャンカラ)にはその他の人々が暮らした。1990年、内城が保存されている稀有な例としてイチャンカラはこの国初の世界遺産に登録され、今なお賑わう】。

北の方角。中央の長方形の建物がジュマ・モスク。


ミナレットを下り、パフラヴァン・マフムド廟へ向かう。

狭い道の両側に建物が並ぶ。ふと右に目をやると、その奥行きにビックリ

伝統衣装に身を包み、そぞろ歩く人々も。京都みたいに貸し出しサービスやってるのかな

廟の門前では土産物屋が商品を広げていた。
ウズベク人の子ども向けかな・・・おもちゃ主体、お祭り屋台のような品ぞろえ。

こちらはティケッチ(ナンに型押しするスタンプ)。

廟に入ろうとしたが、共通入場券では入れず別料金といわれたので あっさりあきらめ、無料で立ち入れる共同墓地をフラついた。

思うに、イスラーム・ホジャ・ミナレットから西へのびるこの通りが一番雰囲気あったと思う。道幅が広くなくて起伏もあって、ひと昔前の名残をとどめているような気がした。もちろん修復の手は入っているのだろうけど。

古めかしい建物はそのままに、土産物屋も軒を連ねる。

キャメルウールの室内履き。ガイドブック情報でヒヴァの名産と心得ていたが、他に目当てのお店があったのでここはスルー(後で悔やむことになるのだが)。

民族衣装をまとった人形たち。


この日の朝、駅から宿へ向かう途中に目にした城壁が印象的だったので、西門の外へ出てみようと思いたつ。その道中、またもブロンズ像に遭遇。
音楽を奏でる3人。

この国に相撲を伝えたのはモンゴルかなぁ
【この記事を書くにあたり調べてみると、この国にはクラッシュという格闘技があるらしい。一説によると、その源流は紀元前にさかのぼるという。う~ん、知らないことがいっぱいあるなぁ

折りしも西門の外ではイベントが行われる模様で、警備員と思われる人々がうろついていて、写真を撮りにくい雰囲気だったのは不運だった
下の画像、左に見切れているのが西門【オリジナルは1920年に破壊され、1970年代に再建】。中央に写るカルタミノルの右はわが宿。

上の画像で右に見切れている隊商のブロンズ像をズームアップ。なお、この画像右端に城壁が写っている。

西門の北にのびる内壁【高さ7~8m、全長は2,200mにも及ぶという】。
こうして、ヒヴァ特有の青というより緑の色調が強いタイルが隠れるアングルで城壁を見上げていると、ここはどこの国だろうと思ってしまう。中央アジアだと言われてみればそうだなと思うけど、アフリカと言われたとしてもさほど疑問を持たないような・・・無国籍な感じの内陸の風景なのだった。


タシュハウリ宮殿めざして、再び西門から入場。カルタミノルまでの右手に並ぶお店でハガキを買う。2軒ならんでハガキを売っていたので何となくお店を選び、奥にいたおっちゃんに声をかけたら日本語が返ってきた。ややっ これまでまわってきた都市のように商品売るために日本語で話しかけてくるんじゃなくて、なんというか、商売っ気なくてのんびりしてるんだよなぁ・・・この感じ好きだわ そしてハガキ1枚5,000スム(≒60円)、サマルカンドやブハラの半額だった(ちなみに、この町の他所ではハガキを見かけなかった。ジュマ・モスクと東門の間で発見したスケルトン構造の郵便ブースは閉まっていた)。

ジュマ・モスクの北の小路に入った。壁の上部がとりどりのタイルで装飾されているのを発見し、手の込み具合に感心していたら、それがタシュハウリ宮殿だった。
下の画像、右上部をご覧あれ。

さらにズームアップ。

共通入場券で入り、係員に英語は分かるかと聞かれたのでうなずく。“ここはハレムよ”と告げられた。
【タシュハウリ宮殿; 19世紀前半、クフナアルクに取って代わるヒヴァの政治的中心として建設され、「新しい宮殿」と呼ばれる。北部にハン(王)の執務室とハレム(婦人部屋/後宮とも)、東南部に応接室、西南部に法廷を持つ】
なお 説明の都合上、実際の撮影順序と違えて以下に画像を掲載する。
ハレムの南東方向を望む【画像右側がハンと正妻(4人)の部屋、左側がその他の夫人や使用人たちの部屋】。

上の画像右側には、1本柱のアイヴァンが並ぶ【それぞれが正妻の部屋で、ヒヴァの建築技術・芸術の粋を集めたという】。

上の画像のとは別のアイヴァン。柱・礎石・タイルはもちろんのこと、天井の装飾も全て異なっている。1枚上の赤系に対し、こちらは寒色系。

更に他のアイヴァン。

天井と柱頭にズームアップ。

土産物が広がっているアイヴァンもあった。

所狭しと並ぶ陶器。

背後の壁の本物のタイルが紛れてしまいそう

 ていうか、よ~く見ると縦リボン型のタイルにもバリエーションがある・・・

アイヴァンから内部に入ると、これまた別世界。


さて、10枚上の画像左側、2階の天井を下から仰ぎ見る。

これもまた ひとつひとつ模様が異なっている。

1階部分は博物館になっていた(念のため、中央奥の3体は蝋人形)。

色鮮やかな衣装。男性用もあったのだが、なんだか女性のばかり撮ってしまった


木製の糸紡ぎ器。

もっこもこの靴。

ブーツ。てか、この地方の冬は厳寒なんだろうなぁ・・・

当時の人々の写真も飾ってあった。男女のペア。

こちらは女性群。

壁画が鮮やかな小部屋も保存されていた。

唐辛子のような植物も・・・

こちらの部屋はライトアップされていて明るい。


クフナアルクよりもこちらが精緻だなぁ・・・大満足して退出(記事を書くに先立ち調べたところ、クフナアルクが古いといっても アイヴァンに関しては19世紀前半築でほぼ同時代と判明。あとは好みの問題だろう)。
こちらは宮殿の東壁。

あっ、アースカラーの縦リボン型タイルを発見 珍しいんじゃあないだろうか・・・少なくとも、自分がまわったこの国の他の場所では見かけなかった。

斜向かい(東)はアラクリ・ハン・メドレセ(19世紀前半築)。その隣が当てにしていた土産物屋だったのだが、どうやらつぶれたようで、ショック大 
時間も遅いし、タシケントでお土産購入に方針変更を余儀なくされる。

実は、タシュハウリ宮殿は2つのゾーンに分かれていて、それぞれの入口から入場する必要があった。ガイドブック斜め読みの横着がたたり、そうとは知らず1ゾーンだけ見て通過したことに後々気づく。今思えば、先ほどの係員は隣接する別棟としてハレムと紹介してくれたんだろうなぁ・・・覆水盆に返らず、やむなし

東門近くで見かけた床屋さん(電話番号と思われる部分にモザイクをかけた)。

奥にズームイン。

再び、お気に入りの壁へ向かう。しつこくてスミマセン

やっぱ、いいわぁ~

さらに北の小路をブラつく。工房のようで、一所懸命作業していた。遠すぎて何をつくっているかは分からずじまい。
なお、撮った直後のタイミングで青年たちに気づかれ、照れ笑いで見送られることに

テキトーな所で左折し、西を目指す。メインストリートからほんの少し脇に逸れただけで、地元民の生活圏なかんじ。

クフナアルクに突き当たった。ひときわ高い所は見張り台。ここからの夕景も良いらしく、観光客が詰めかけている。

ブロンズ像シリーズは、伴奏に合わせて踊る女性。


夕食はホレズム地方の郷土料理、シュヴィト・オシュと決めていた。第1候補にしていたイスラーム・ホジャ・メドレセ脇のレストランへ行ってみると、テラス席の卓上セッティングに忙しそうだった。ダメそうな雰囲気ありありだけど、尋ねないでは引き下がれない。中でも上役っぽい人をつかまえて話しかけると、にべもなく"No!”と。ツアー客でも入るのかな、あきらめるしかない。
お店の外に出した焼き網で、まだ小学生と思しき男児が串刺し肉をひっくり返していた。準備している席数からして30人くらい来るのだろう。大忙しだわね。サマルカンドでも感じたが、この国では子どもが本当によく働いている。

第2候補のお店は外から見た感じ薄暗く、一抹の不安はあったが勇気を出して扉を開くと、案内してもらえた。一番乗りだったが、自分が退出する頃には6組くらい入っていた。
何種類ものサラダのメニューからキャベツのをチョイス。お供のビールはバルティカ【ロシアが本社だが、この国でもポピュラー】。

シュヴィト・オシュ、画像で知っていたとはいえやはり色鮮やかな麵がインパクト大 
ディルとコリアンダー、そう知って口にすると確かにそうなのだが、知らずに食したら「何かハーブ」どまりの自信(?)はある。香草の清涼感と煮込み肉の脂がコントラストをなす味わいだった。画像右のヨーグルトソースを混ぜてみたりもした。
なお、本来は夏季限定の料理だが、年中サーブするお店も増えているらしい。季節外れに訪れても、ぜひ試してみてほしい。

今夜の部屋にはポットがないので、最後にgreen teaを注文。入国して6日、幸いまだお腹は正常だったが、気を抜いてはいかん
列車などの手配を依頼したエージェントの方曰く、日本人にはなじみのない油で胃腸に不調をきたすことがあるので、食後は熱いお茶で油を流すべしと。素直に実践するのみ。
【お茶は19世紀に中国から伝わった。喉の渇きをおさえる効用があるといい、冬に限らず年中熱いのを飲むという。緑茶が一番人気だが、タシケント周辺では紅茶が好まれる】


20時前にレストランを出ると まだほの明るかったので、街をブラついてみた。
遠くにのぞくミナレットのすぐ左には月(下の画像中央)。

中央がジュマ・モスクのミナレット、左奥がイスラーム・ホジャ・ミナレット【前者は後者より低いのだが、遠近法の不思議】。

三たび、お気に入りの壁へ足を運ぶ(画像右)。

その左手(西)の建物はライトアップされ、素敵なかんじ

宿へ戻るべく、メインストリートに出る。

カルタミノルの奥は西の方角ゆえ、まだ空が明るい。

逆にカルタミノルから東を振り返ると、とっぷり暮れていた。

たどり着きし我が宿。

そのファサード。

フロントはチェックイン時の男性にまた交代していて、私の顔を見るなりパスポートを返してくれた。
実はこの日の朝、一旦部屋に入った後すぐに引き返してパスポートを請求したのだった。すると、"心配しなくても後で返すから。こうやって、宿泊者の分を集めて登録しているのさ。作業に時間かかるんだよ” とパスポートの束を見せながら釈明された。こちとら翌早朝出発なので、寝ぼけ頭で忘れては一大事と警戒アラームをmaxにしていたので、戻りしなも顔に出ていたのだろう。ともかく、無事手元に戻ってきてよかった 海外では、これなくしては裸も同然なのである。

★ 中締め ★

旅の最後は、タシケントに戻って1泊の模様をお伝えします。
記事を書き始めた時は「その4」で終わると思っていたのですが、予想以上にヒヴァが気に入ってしまい画像撮りまくりでした
それでは、また
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ウズベキスタン篇 その3

2024年03月17日 | アジア
旅の第3弾は引き続きブハラからスタートし、途中ヒヴァへ移動します。
下の地図の➌➍をまわりました(①②は旅の前半で訪れた場所です)。なお、後の下線部の数字とも対応しています。


3 ブハラ (2023年8月25日)

Cちゃんは朝が強い。この日も朝活で、朝食前に散歩した。
なお、この宿には猫が棲みついているらしく、エントランスで数匹がくつろいでいた。前日のチェックイン時、フロントにグレーの縞猫もいたしな~

住宅街の小路を数百m歩いて行くと、朝日に輝く4本の塔が出現。19世紀初頭建築のチョルミナルである。

その向かい側には土産物屋。8時過ぎにもうオープンしてるのかぁ、勤勉だな~

この敷地にも猫がいて、Cちゃんの足元でかなりの時間じゃれついていた。

朝だから開いてないな、外観のみかぁと思っていたら、女性がやって来て中に入ることができた。ラッキー
1階はお土産物屋。階上は有料(5,000スム≒60円)だったが、せっかくだからと上ることに。

2階は思ったよりも広々としている。

さらに上へ向かう。

2階から見下ろすとこんな感じ。

屋上に出る。

4本のミナレットのうち、1本にはコウノトリのレプリカが置かれていた。かつては実際に営巣していたらしい。前日、チャシマ・アイユブでも同じようなのを見かけたな~


9時前、ホテルへ戻る。神学校時代の扉だろうか、無造作に置かれている。

欧米人たちは椅子でくつろいでいる。

チャイハナ風小上がりは私たちの貸切状態だった。ん~ 低い場所に座す習慣がないんだろうな・・・

左のお皿、時計でいう6の位置(目玉焼きの下)にあるのがトゥフンバラク【卵液を包んだ水餃子。ホレズム地方(ウズベキスタン北西部)の郷土料理】。
なお、テーブルに敷かれている布はアトラス【手機で織られるウズベキスタンの絣布、シルク100%。ウズベキスタン最東部のフェルガナ地方マルギランで生産される】。


お腹をずっと下していて体調がすぐれないCちゃんは午前中ホテルで休んでいるというので、10時に一人で外出。カラーン・ミナレットを目指す。前夜に市街地図が脳内で仕上がっていたので、迷うことはなかった。
合歓みたいな花だなぁ、素敵

前日も通ったタキ・テルパクフルシャンをくぐる(2枚下の画像は帰路に撮影)。古今にぎわう交差点。入口はラクダに乗って通れる高さなのだという、なるほど・・・


北へ伸びるハキカット通りは200mほど。突き当たり(画像左奥)にはタキ・ザルガロン。

タキ・ザルガロンの西で曲がり、振り返る。小ドームがボコボコ重なる姿、面白いなぁ

100m進むと、左手にカラーン・ミナレットがそびえていた。その横にはカラーン・モスク。

ミナレットの表面は、前日見たイスマイール・サーマーニー廟に似ている。それもそのはず、これも元の攻撃(13世紀)をやり過ごした古き建造物なのだった【高さ46m、下部の直径9m、上部の直径6m。1127年、カラハン朝の王が建てた。この町に侵攻し破壊の限りを尽くしたチンギス・ハンはこの塔の前で帽子を落とし、自分に頭を下げさせたと賛美して手にかけなかったという逸話が残っている。塔の中にはらせん階段があり上ることができる構造になっているが、現在は立ち入り禁止】。
いにしえはカラフルな色タイルを使わず、土色レンガの積み方ひとつで装飾に工夫を凝らしていたんだ・・・乾燥した内陸の地の息吹を感じる。好きだなぁ、私

カラーン・モスクに入る【1万人が礼拝できるというだけあり、だだっ広い。サマルカンドのビビハニム・モスクよりも大きいらしい。そもそも、カラーン=大きい(タジク語)なんだそうだ。16世紀前半築】。

いまでは特別な時しか使用されないとのことで、モスクの中はひっそりとしていた。

横方向に伸びる回廊が美しい。ミフラーブ文様の絨緞もいい。

モスクから中庭を振り返る。勝手ながら、この時間帯・このモスクのベスト撮影スポットはここだと確信

木があてがわれ、構内は目下工事中だった。


タイル装飾をズームアップ。

去ろうとして何気なく横を向くと、エントランスの側廊が凜とたたずんでいた。

最後にモスクを振り返る。


カラーン・モスクの目の前(東)にはミル・アラブ・メドレセがある【カラーン・モスクとほぼ同時期、16世紀前半築。これを建てた王は、イエメンからやって来たイスラム教指導者ミル・アラブに捧げたという】。

大々的に観光客に開放しているわけではないようだが、少しだけ覗くことができた。今も現役の神学校ゆえ、下足箱には靴が並び、何がしかを朗詠する学生たちの声が聞こえてきた。

白い花の装飾が可愛い

てか、天井の装飾が秀逸 地味な色合いにもかかわらず、しみじみと美しい。



帰り際、タキ・ザルガロンの南東にあるアブドゥルアジス・ハン・メドレセに立ち寄った【17世紀半ば、これを建てたアシタルハニー朝の王の名を冠する。二層のフジュラ(学生の部屋)とモスクから成る伝統的な構造の神学校】。

ファサードを彩るタイル。

珍しく暖色系が使われているムカルナス。

土産物(装飾した鉛筆など)を売りに来た少年たちをかわしつつ、宿へ引き返す。正午にチェックアウトしなければならず、若干あわただしかった。

チェックアウト後、目と鼻の先の宿へ移る。この日、0時半過ぎの夜行列車でブハラを発つことになっていたが、時間待ち&シャワーを浴びたいとのことで、急きょ予約したのだった。メドレセを改装した宿に連泊するのは高くて断念 こちらがお部屋。

洗濯を済ませて14時半、Cちゃんと観光に出かけた。まずはラビハウズへ足を運ぶ【17世紀前半、大臣のナディール・ディヴァンベギが造らせた人工貯水池。42m×36m、深さは5m】。この周囲に3つの建造物があり、町の中心となっている。前夜・その日の午前と横を通り過ぎながら、初めて足を踏み入れた。

池の東にあるナディール・ディヴァンベギ・メドレセ【上記のラビハウズよりも先に大臣ナディール・ディヴァンベギが隊商宿として建設したが、スーフィー派(イスラーム神秘主義)の指導者に神の栄光あれと褒めたたえられたため、メドレセに変更したという】。

ファサードには1対の鳳凰が躍動する。足で白鹿をつかみ、人面太陽に向かって飛んでいる。これを眺めることのできるベンチに陣取り、前日ボロハウズ・モスクへ向かう途中でたまらず買ったコーラの残りを飲み干す。世界遺産を眼前に休憩・・・なんとも贅沢な時間である。
浅葱色の鳳凰は綺麗だけど、サマルカンドはシェルドル・メドレセの人面太陽と獅子のほうが好きかもなぁ・・・建物の圧倒的なスケールの差は否めない。それとも、鳳凰=金色の平等院刷り込みが入ってるのかなぁ いずれにせよ、個人的な好みの問題か

なお、このメドレセの前で新郎・新婦に遭遇した。

メドレセの中はこれまでの例に漏れず、ショップが並んでいた。ポストカードを売っていたので、目ざとくゲット。結局、この後自分が寄ったブハラのお店では見かけなかったので、迷わず買っておいて正解


池の西にあるナディール・ディヴァンベギ・ハナカ【既出のナディール・ディヴァンベギ・メドレセよりやや早く、大臣ナディール・ディヴァンベギがスーフィー派の滞在所として建設。現在、中は博物館になっている】。

神の彫刻(3~4世紀制作)。

水玉模様が先鋭的な動物像。中には多頭のものも。たしか、こんな感じのを土産物屋でアンティークとして売ってた気がする・・・サマルカンドだっけなぁ。

色鮮やかな壁画もあった。いずこかから剥がしてきたと思われる。


黄緑と朱色が目立つ壁装飾。珍しい色合いだな~


池の北東、通りをはさんでクカリダシュ・メドレセ【16世紀築】。

色タイルにズームアップ。こちらは定番(?)の寒色系。

ここも中は全てショップになっていた。スザニ屋の女性が、自分の母は刺繍を教えていて日本にも販売しに行ったことがある、と日本語で話しかけてきた。

上の画像、中央やや右上にご注目あれ。ムカルナスの装飾がわずかに残っていた(ピンボケでごめんなさい)。

背の低い自分でも頭ぶつけるのではと思うような鴨居の高さ。

急な階段で2階へのぼれるようになっていた。

刃物屋さんも営業していた。入口の奥で作業をしていらっしゃったが、さすがに撮るのは憚られた。
ブハラ名物というコウノトリのハサミに魅かれた。値引きするよ、友達価格と言われたが、すんでのところで踏みとどまった

中庭は観光色が一切なかった【二層のフジュラは160を超え、ブハラで最も大きいメドレセのひとつという】。


前夜、Cちゃんがロックオンしていたラクダのぬいぐるみが気になっていたので、タキ・テルパクフルシャンを通過して向かった。これで3度目。
件のぬいぐるみ屋さんはこちら(他のモノも売っているが)。

ぬいぐるみ売りは前夜いた少年の兄に換わっていて(そばに弟もいたが)、酸いも甘いも噛み分けてきたと思われる10代後半の彼は、弟が前夜口走った値の倍ほどを告げた。昨夜は4,000スムって聞いたよ、と言うことなくCちゃんはあっさり諦め、同様に前夜値段を尋ねた数m先のお店へ向かった。弟の言い値を伝えることで兄弟喧嘩になるのを嫌ったらしい。そして、弟の付け値よりは高いが兄よりは安い値段でラクダを購入
なお、この店は日本語の看板も出していて、女性店員は日本語コンテストで賞を獲得したという。似てるけど違うかも、と思ったら前夜対応してくれたのは妹だったことも判明。お店の主力商品であるスザニの説明をさせてほしいと言われ話を聞いたが、私たちは買わずじまい。過去にインドやペルー等で刺繍物を買ったことがあるが、現地では気に入っても自室のインテリアにはしっくりこず、短期間で結局タンスの中にしまい込んでいる。この世に生み出された品なら使い込まれてナンボだと思うので・・・同じ轍を踏みたくなかった

次はカラーン・ミナレットへ向かう。
光線の加減で、朝とはまた違う表情を見せてくれた。う~ん、好きなものは何度見てもやっぱりイイなぁ

上の画像左下にご注目をば。記事その2で既報のアルク城と同様に、ここも皇帝気分で撮影できるスポットになっていた。

来た道を戻り、タキ・ザルガロンでウィンドウショッピング(窓はないけど)。
迫力ある店構えのスパイス屋。

グリーンペッパーやレッドペッパー。ちなみに、麻袋の手前に置いてあるのはティケッチ(ナンに型押しするスタンプ)。

グリーンカルダモンや八角(スターアニス)。

タキを出て振り返る。左奥にはカラーン・ミナレットと、ミル・アラブ・メドレセの水色のドームが見晴らせる。


再びアブドゥルアジス・ハン・メドレセの前に出たが、土産物売りの少年たちはもういなかった。場所を変えて働いているのだろうか・・・
道をはさんで向かい側のウルグベク・メドレセに入場【サマルカンドのレギスタン広場にも同名の建造物があるが、別モノである。ティムール朝4代君主のウルグベクが15世紀前半に建築。正面ファサードは16世紀末に改装】。(撮影は午前中)

5,000スム払ったが、なんのこっちゃない、ここも内部はショップになり果てていた。

タイルをパシャリ

Cちゃんが値段交渉をしている間、なんとなく商品を眺めていて、埃をかぶった陶器が気になった。が、サマルカンドで既に買っちゃったからなぁ・・・アンティークかもしれなかったが、尋ねようものならその先の展開が目に見えたので、深追いはしなかった

結局3時間ほど街をブラついて、18時前にホテルへ戻った。
そしてCちゃんは夕食を食べられないという。腹痛をかかえながら列車で一晩過ごすと考えたら、賢明な判断だよね・・・
19時前、ひとりレストランへ向かう。前夜から今日にかけて何度も通りかかり、にぎわいを見せていたラビハウズ脇のお店に決めていた。
脇にあるナディール・ディヴァンベギ・メドレセをちらと見たら、夕映えでファサードがやや赤っぽくなっていた。太陽に向かっていく感じが出てる

さて、この国で初めておひとりさま入店。内心ドキドキしていたが、あっさり席に案内された。
メニューが豊富で何ページもあった。魚(たしか鱒)もあったが、値段は肉の軽く倍だった 内陸国で魚介はあきらめよう、郷に入れば郷に従うのだ。
まずはビール。できるだけまだ飲んでいない銘柄を、とマイナーそうなのを選ぶと"ない”と言われる。で、テキトーに指したのがこれ。ハイ〇ケンに似てるラベルだな~

サラダ。無類のトマト好きなもので

ブハラのプロフ【羊肉と赤いニンジンを使うのがポイントらしい】。注文後ものすごい速さで提供されたが、冷めきっていた。人気メニューなので大量に作り置きしておくのだろう。温かかったならもっと美味しく感じただろうに・・・ちょっと残念

途中、ラビハウズの噴水がランダムに飛び出してワクワクした。奥に写るはナディール・ディヴァンベギ・ハナカ。

実はもう1杯ビールを飲んだのだが、おぼんに缶とグラスを乗せて運んできてグラスに注いでくれた直後、缶は持ち去られてしまった・・・撮影できず残念

レストランを辞した後、目と鼻の先にあるクカリダシュ・メドレセへ。昼間迷っていたコウノトリのハサミを購入。ここを去った後、買うんだったと悔やむのはイヤだった。
【ブハラは水の都といわれ、水路や池が多くかつてはコウノトリが繁殖していたという。豊作・幸運をもたらすシンボルとして愛好されている】
自分が買ったのは、メタリックな雄の。頭部が尖っているのが特徴で、メスはそれがなく丸い。もちろんシンプルな色の刀身のもあったが、虹色に魅かれた。
紺色のケースはおまけで付いてきたが、刃先が当たる部分に穴が開いていることに帰国後気づいた。それほどに鋭く尖っている(この記事を書くにあたり撮影)。

昼には「友達価格」で12万スムと言っていたが、15万スムと告げられ1万スム値切るのが関の山だった(≒1680円)。売り子さんが交代していたのもあるが、フラッと寄った感じではなく 買おうと決めて足を運んだ雰囲気を悟られたのだろう。つくづく交渉下手な私

1時間ほどで宿へ戻ると、私の留守中にCちゃんはお風呂を済ませてくれていたので、早速シャワーを浴びる。荷物もパッキングし、準備完了。
別れの盃というわけにはいかないので、ポットでお湯を沸かして紅茶で乾杯した

ブハラ駅は旧市街から遠く、隣り町のカガンにある。何が起こるかも分からないので、2時間くらい前には駅に着くよう逆算し、ホテルを22時過ぎに出ることにする。
朝食を食べられない代わりに詰めてもらった食事boxを受け取り、チェックアウト。
タクシーを呼ぶにあたり、これまではCちゃんに任せきりだった私がヤン〇ックスを利用して呼んでみることに。が、30秒以内に長めのワンタイム・パスワードを入力するよう要求され、結局使うことができなかった。理由はよく分からない。海外のアプリなど普段使用することがないから、セキュリティーが警戒しているのか
Cちゃんに勧められてアプリをダウンロードしたものの使いこなせる感じが全然せず、Cちゃんと別れたあとヤン〇ックスに頼れないだろうことは薄々予想していた。アナクロで頑張るしかない
仕切り直してCちゃんが呼んでくれたタクシーに乗り、22時半過ぎにブハラ駅に到着。ところが単刀直入に言うと、このドライバーが大ハズレだった。
まず、表示されている金額より多く取ろうとする(ヤ〇デックスの趣旨わかってないんじゃないのか)。Cちゃんが いや、この金額でしょと確認しつつ額面の大きいお札を出すと、お釣りがないとキレる始末。結局、2人が持つ小額紙幣をかき集めてなんとか支払いを済ませた、ふぅ
これまでにこのアプリを使って何度も乗車し、わりと良いドライバーさんたちに当たってきただけに、最後の最後は運が悪かったとしか言いようがない。

真っ暗な中にそびえる白い駅舎。

例によって入線ホームを見極めるのが肝だった。せいぜい30分前だろうと思っていたら、夜行だからか随分早かった。Cちゃんが乗るタシケント行きが1番ホーム、ヒヴァへ向かう自分のが2番ホームと判明。

3・4 ブハラ ⇒ヒヴァ (2023年8月26日)

今さらの説明になるが、仕事の都合でCちゃんと自分の出国日・帰国日を合わせることができず、Cちゃんが先に入国してヒヴァをまわり、私が2日遅れてタシケントに到着しサマルカンドで合流、ブハラで別れてCちゃんは先に帰国、自分はヒヴァに向かうという旅程になったのだった。
かくして0時37分と40分、ほぼ同時刻に私たちは逆方向へ出発した ここからまた独り旅である。


自分が乗る号車の入口で乗務員にバウチャーを見せたら、回収されてしまった。昼間の列車はしないのになぁ。
告げられた数字を記憶し、コンパートメントを探す。私の前を歩いていた女性3人家族の右隣りの部屋だった。
始発駅から乗ってきた人々は眠っているであろう真夜中。静か~に扉を引き、廊下からもれる明かりで確かめると二段ベッド×2のうち右下だけが空いていた。どうやら同室の3人は全て男性の模様。自分のベッドの真上と隣りの人は眠っていたが、斜め上の人は暗闇の中でノートPC画面を凝視していた。
おずおずと入室、よく見えなかったがベッド下の空いているスペースにソフトバッグ(もちろん南京錠でロック済み)を置き、スニーカーを脱いでベッドに上がる。枕元の壁側にショルダーバッグを置き(ファスナーの取っ手は壁側)、備え付けのシーツ・枕カバーをセット。枕元の窓に帳を下ろす。これが錆びついていて結構重かったが、真っ暗じゃないと眠れない派の自分、非力なりに力を出して目的達成 そして薄~い毛布をかぶり横たわる。
なんと、真隣りと思われる部屋からは浮かれ騒ぐ男性たちの声が響いてくる。車内での飲酒は禁じられているはずだが、乗車前にしこたま浴びて気持ちよくなっているのか、禁を破っているのか・・・車掌さんが注意しに来るでもない
実は、4人部屋(2等寝台、クーペ)にするか2人部屋(1等寝台、リュクス)にするか迷ったすえの決断だった。男女混合になるという情報は得ていたが、2人部屋で相手がもしもヘンな人だったらと思うと、4人部屋のほうがマシな気がした。Cちゃんのように2人部屋を2人分買い占めるという方法もあったが、せっかくの機会だから現地の人々に混じって旅したいという欲が出たのは確かである。
寝台に揺られながら、様々な思いが頭の中を去来する。うるさい部屋にあたらなくてよかったぁ・・・。でも手前の部屋だったら、女性だけだったかもなぁ。いやいや、イビキをかく人がいるわけでなし、たとえ男性だらけでもこの部屋でよかったと思うしかない。それにしても、この騒がしさの中で果たして眠れるのだろうか・・・。ショルダーバッグ大丈夫かな・・・いくら眠っていても、さすがに頭の付近に手が伸びてきたら目覚めるよね?!
ふと気づくと、いつのまにか眠りに落ちていたようだった。それでも2時間くらいしか経っていない。さすがに隣室は静かになっていた。
と、突然扉が開いて誰かが覗き込んできた。金目のものを物色しているのか、それとも・・・ 
こんなこともあろうかと、頭から毛布をかぶっていた。私の体格的に女性と気づかれただろうけど、息をひそめながら強烈に念を送った、私オバサンだから~ 早く立ち去って! 
奏功したのかどうか、ともかくそれ以上のことはなく、扉は閉じられた。貧しい持ち物で、フェロモン皆無の人間でよかった、つくづく胸をなでおろしたひとときだった。
が、これだけでは終わらない。その後も2回ほど目を覚ました。列車は途中いくつかの駅に停まっていたようで、ブレーキの振動で起こされたのもある。が、自分の真上のベッドの人がギシギシと階段を降りてきて、たぶんトイレへ行って戻って来た時、先ほどの誰かと同じように廊下から室内を眺めていた時間があったのは緊張した。たぶん1分もなかったと思うが、相当長く感じられた。もちろん何もなかったが

6時半になったので起きることにしたが、上の段の2人は既にいなくなっていた。先に起きていたお隣りさんは、20代後半くらいのウズベク人と思われた。
帳を上げると、車窓は雨だった。

終点のヒヴァ駅に着くまで30分以上あったが、清掃員たちは仕事を始めていて、我々のコンパートメントの扉もガラリと開けられた。どうやらシーツと枕カバーを集めているらしい。慌てて外しキレイにたたもうとすると、お隣りさんがジェスチャーで "やらなくていいよ” と。そのままにしてベッドの隅に置いておいたら、しばらくして回収された。上段の2人はよく分からずじまいだったけど(特に真上の人は顔すらも)、少なくともお隣りさんは良さそうな人でよかったなぁ
コンパートメントの寝台から撮る

トイレに行った帰り、廊下を撮影。

開いていた扉から、他のコンパートメント内部をパシャリ。記録として残したかったが、自分の部屋にはお隣りさんがいて撮れないため、背に腹は代えられず

7時10分、ヒヴァ駅に到着。降りてまず、寒っ 止んでることをうっすら期待していたけど、ガッツリ雨やんけ~

ヒヴァ駅の前から旧市街まで、西へ1kmほど道が伸びている。手前のピッカピカなホテルといい、近年整えた感じだなぁ・・・世界遺産の整備補助金使ったのかな。

ヒヴァ駅舎。


駅構内を出たところで、出迎えのドライバーに会えた。旧市街までそれほど距離はないが、朝の様子が不明だったので送迎を頼んでおいた。たいして眠れていない状況だったので、歩くのも避けたかったし、(いたのかどうかも知らないが)タクシーがいたとして値段交渉の鬱陶しさに耐えられなかっただろう。結果的に正解だった
雰囲気のある城壁をくぐり、タクシーは宿の脇に到着。「明日は朝6時20分にピックアップだよね、ここで待ち合わせ?」とつたない英語でドライバーに尋ねると、「ん~ たぶんね」と頼りない。会社が調整しているから大丈夫、と言い残して去った。違う人が来るのはよくあること。タシケントの送迎とホテル、タシケント~サマルカンドの列車、ブハラ~ヒヴァの列車、アレンジを依頼した旅行エージェントの手配はここまでノープロブレムだったから、たぶん大丈夫・・・と思うしかない

さて、次は宿のフロント。予約していますと言うと、パスポートを請求された。どこかで見たような顔だち(はっきり思い出せないけど、欧米の俳優)&柔道体型のフロントマンは営業がしたたか。チェックインは正午だから荷物を預けて出かけることもできるし、1泊の半額支払うなら今すぐ部屋に入れるし朝食も付いてるよ、と。
夜行列車はこの上なく面白かったけど、肉体的にはボロボロになっていた私には渡りに船だった。ゆったり休息できるのは嬉しすぎる 提案に飛びつき、パスポート預けたままなのは若干引っ掛かりつつ、部屋へ向かう。
ここはヒヴァのメドレセを改装した宿ではたぶん一番有名な場所。宿泊しなくても、中庭は見学できるようになっている。Cちゃんも検討しながら、見学客が騒がしい・見学客に部屋を覗き込まれた、という口コミを見て断念したという。私にあてがわれた部屋は2階だったので、幸いそういった実害はゼロだった。
部屋の扉の前から中庭を見下ろす。

自分が見かけた口コミには部屋が狭すぎるとあったが、それほどでもなかった(1.5泊分支払った効果かもしれないが)。
ブハラの宿に比べるとメドレセ感は薄めだったが、そんなのどうでもいい。コンパートメントからやって来た身としては、1人の空間が保障されているだけで安心できる

湿気の多いバスルームに木製扉は多少違和感あったが、水まわりは快適だった。

朝食会場は宿泊する建物の隣りにある別棟。手が加えられているだろうけど、雰囲気がある(鏡に映った自分にモザイクをかけた)。

ビュッフェ形式の朝食。

時計でいう10~12の位置に鎮座するのがヒヴァのナン【ウズベキスタンの他の地域のとは全く異なり、平べったいのが特徴。ローマ風ピザのように薄い】。

朝食会場の入口から望むカルタミノル【「低いミナレット」の意。19世紀半ば、100m超えの中央アジア最大のミナレットを目指して着工したが、建設を命じたムハンマド・アミン・ハンの死により高さ26mで中断。直径は14.2m】。なお、カルタミノルの左の建物が宿泊棟。


ときに8時前。あいにくの雨だし、すぐに観光へ出かけるつもりはなかった。Cちゃんが手配してくれたWi-Fiの件もあるし、しばらく部屋で待機しようと思った(色々あってWi-Fiの手配をせずに入国した私はCちゃんと一緒にいる時は彼女のを間借りしていたが、別れるにあたりCちゃん経由で申し込んだのだった。チェックイン時にフロントマンに確認すると知らなかったので、少なくとも届いていないようだった。朝早いから、この後届く可能性が高かった)。
そして今しかない、と前夜もらった食事boxに手をつける。菓子パンと果物をムシャムシャ
ここに滞在するのは1泊、しかも明朝の出発は早かったが、これまでの感じからして今干せばチェックアウトまでに乾くのではと思い、洗濯を実行。それを終えると、お腹が膨れたこともあり一気に睡魔に襲われた。昨夜の惨状からすれば、無理からぬこと

★ 中締め ★

はなはだ中途半端なのですが、この後のヒヴァ観光を載せると文字数がオーバーしてしまうので、ここで切り上げます。
次回は「屋外博物館都市」と称されるヒヴァの模様をお届けします。お楽しみに


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ウズベキスタン篇 その2

2024年02月10日 | アジア
ひき続きサマルカンドからスタート。
旅の第2弾では、下の地図の➋・➌をまわりました(①は第1弾で訪問)。また、後の下線部の数字とも対応しています。


2 サマルカンド (2023年8月23日)

5時50分に起床、宿の屋上テラスから日の出を待った。
ティラカリ・メドレセのドームの横から明けていく。

前夜Cちゃんと話し合い、朝活することに。本日もヤン〇ックス・ゴー(配車アプリ)でタクシーを呼び、6時半頃ホテルを出発。
20分足らずで1.5㎞北東のシャーヒズィンダ廟群に到着【11~15世紀に建立された霊廟群が集合する地。クサム・イブン・アッバース(ムハンマドの従兄弟)に関する伝説が残る。7世紀、クサムはサマルカンドで異教徒に襲われ瀕死となりながら地下に潜り永遠の命を得たといわれ、シャーヒズィンダとは「生ける王」を意味する。10~11世紀、彼がイスラームの聖人及びサマルカンドの守護者として認められると、この地に廟が建てられるようになる。更に後世、ティムール朝ゆかりの人々(君主の親族や家臣)が葬られた】。
7時オープンなのだが、既に係員がいてフライングで入場させてくれた。最初の門をくぐると「天国の階段」が待っている。

階段の途中から振り返る。ドーム下の幾何学模様が目立つ。ちなみに、木の向こう(画像左奥)にあるのが最初の門。

西の方角に目を転じると、巨大な建造物群。その時はレギスタン広場と思っていたが、後で調べたらビビハニム・モスクだった・・・どでかい建物多し

階段をのぼりきると、両側に廟が並んでいる。

漫然と廟に出入りし、美しい造りだなと思うと、君主絡みだった。権力者はお金があり、お金をかければ精緻に仕上がる・・・現実はほろ苦いわ
シャーディムルク・アカ廟【14世紀後半築。帝国を築いたアミール・ティムールの姉と姪が眠る】。

入口上部のムカルナス【幾何学図形を3次元に応用、11世紀頃からイランや中央アジアで見られる。蜂の巣や鍾乳石に似ているとされる】。

個人的に最も青が美しい空間だと思った。

入口側を振り返る。

通路をはさんで向かい側、シリンベク・アカ廟【アミール・ティムールの妹を葬る】。

こちらは白と青のコントラストが美しい。

壁面装飾の一部。小川や植物、鳥などが素朴かつ細やかに描かれている。タイルによらない、こんな表現もいいなぁ




被葬者不明の廟もあった。

来し方を振り返る。下の画像左端が2~6枚上で紹介したシリンベク・アカ廟。1枚上のはその右、タイルがほどこされていないレンガむき出しの廟の。

先へと目を転じる。下の画像左端が1枚上の画像の右端の廟。画像右奥がこの霊廟群の最深部となる。

この廟群の最も奥へ入場。まずはクサム・イブン・アッバース廟。11世紀築、この廟群中で最も古いというが、新しい印象を受ける・・・丁寧に手入れされているのだろう。

植物文様が美しい。

古そうな遺構が露出していた。

最北部への入口(手前を右に進むと、クサム・イブン・アッバース廟)。奥に垣間見えるのはホジャ・アフマド廟。

ホジャ・アフマド廟の入口のタイル。青い花が手描きされている、しかもそれぞれ異なるデザイン

その左手はトゥマン・アカ廟【アミール・ティムールの妃の一人が眠る】。


ひととおり見終えて、来た道を戻る。

最初の門を出てタクシーを待ちながら・・・この花なんだろう

つぶらな瞳が可愛い。足が悪そうなのが不憫だった


8時15分、ホテルに帰着して朝食をとる。野菜の種類が豊富なビュッフェ、最高
手前右はイチジク、その左は白ブドウ。粒が細長くて面白い。


10時半、ホテルを出て観光第2弾へ。例によってタクシーを呼び、町の北東 アフラシャブの丘方面へ向かう。約3㎞也。
まずはウルグベク天文台跡。手前が巨大な六分儀跡(半径40m)、左奥が博物館。

六分儀跡の入口。

覗くと、地下にこんな世界が広がっている【ウルグベクはこれで恒星を観測して1年=365日6時間10分8秒、と算出したという。600年前、現代と1.6秒差に迫るってすごい

なお、かつてはこんなだったと推定されている(後日、ウズベキスタン歴史博物館にて復元模型を撮影)。

博物館に飾られていた、ウルグベクの肖像画。4代君主でありながら天文学者としても優れてるって・・・天は二物を与えちゃうんだねぇ

敷地内にモサモサ生えていた木の実。何だろう


次の目的地、アフラシャブ博物館へは道路沿いに1㎞。歩けなくもなかったが、日射しの強さにひるんでタクシーを呼んでしまった
入口はこんな感じ。

【この博物館を含むアフラシャブの丘はかつてサマルカンドの中心街で、B.C.8~7世紀には200ha規模の都が築かれたという。B.C.4世紀、アレクサンダー大王が侵攻したソグド国の都マラカンダもここだったとされる。4~8世紀、シルクロードを通じた交易が盛んになってサマルカンドは繫栄したが、13世紀にチンギス・ハンの遠征によって徹底的に破壊された。その後 現在の場所(アフラシャブの丘の南西)に町の中心は移ったが今も発掘作業が続けられており、古い時代の出土品が博物館に展示されている】
ガイドブックを見てフレスコ画に魅かれ、ここを訪れた【7世紀、ソグド人の宮殿壁画】。

上の画像右端の人物の部分をズームアップ。背景の青・・・魂を吸われるのではと思うほど美しい。

たくさんの人物が整然と描かれ、この地が通商で栄えた時代を彷彿とさせる。

内陸の国で舟が描かれているのが面白い。


続いて、他の展示品コーナー。頭蓋骨の下の小さな棺、十字架が刻まれているように見えるのは気のせいか

土鈴??

動物や人間の表情がユーモラス


サイコロは何に使ったのか・・・やっぱり賭け事


次は市場へ。向かう途中、朝訪れたシャーヒズィンダ廟の前を通過したら、行列しているのが遠目にもはっきりと分かった。朝イチで攻めたのは正解
さて、ショブバザールである。廟への道すがら目に留まり、気になっていた。


上の画像、左に見切れているエリアはこんな感じ。奥に下がっている赤いのは腸詰類。

2枚上の画像、中央奥の白い階段の上も市場。色とりどりの野菜が陳列されていた。

民芸品も扱っていた。見るともなしに眺めていたはずが、陶器に魅せられてしまう。何軒かのぞいた後、丼を2枚購入(直径15cm・高さ7.5cm)。
旅の3日目に早すぎるのではと思いつつ・・・売られていた陶器のほとんどは外側が無文だったが、両面に模様がほどこされているのが気に入って 
以下、この記事を書くにあたり撮影。赤いザクロが印象的なお皿【種が多いザクロは子孫繁栄・豊穣・富を象徴し、好まれる意匠】。

その外側。

ペイズリー柄【1800年代にインドからイギリスへ伝わり、スコットランドの都市ペイズリーにてこの模様のショールが量産されたことから名付けられたが、起源はペルシャという。糸杉・ナツメヤシ・松ぼっくり・原生動物(ミドリムシなど)・植物の種子・ゾロアスターの炎を模したなど諸説あり、生命力・霊魂の象徴とされる】。

その外側。


ちなみに、市場の南にはビビハニム・モスクがある。

ウズベキスタンでは各地に特色あるナンがある【ウズベク語で「パン」。インドのナンとは別物、要注意!】。
「王様」といわれるサマルカンドのを食べてみたくて、ズラリと並ぶナン売り屋の中から買う。Cちゃんが「撮影していい?」と聞くと、ナンを手に取りにっこり微笑むおばあちゃま。頼んだわけではないけど、女優だね


ホテルまで1㎞、再びタクシーを呼んで乗車。13時半にホテル帰着。
Cちゃんと交互に洗濯をしながら、1泊目の部屋に付いていたティーバッグとコーヒーの粉でナンを食し、お昼ごはんとする。ツヤツヤのナンはボリューム満点で、2人がかりでも食べきれない。幸い日もちしそうだったので、翌日のおやつにまわす。
前日に合流した時点で既にお腹を下していたCちゃん。自分もいつどうなるやら不安なので、胃腸を慮って1日2食とすることに。

16時半過ぎ、再びホテルを出て観光第3弾へ。ビビハニム・モスクへもタクシーを使ったら、車が入れないため正面口ではない場所で降ろされた。
下の画像右に写る横口から入場。すると、チケットを買え、とすかさず声がかかる。先に中を見学して、最後に出て表の門構えを眺めるというヘンテコな順序になった

モスクの正面に、大理石製の巨大な書見台がある【4代君主ウルグベクが寄贈。現存最古のコーランを置いたと伝わる】。

こちらがモスク。中に入れないように入口を塞いである。
【ビビハニム・モスク; 15世紀初頭、アミール・ティムールの命令で最大規模のモスク建築に着手。たった5年で完成させるにあたり、その妃ビビハニムが建築家にキスを迫られたという逸話が残っている。完成後、礼拝中に天井からレンガが崩落する事故が多発し、次第に廃墟となった。工事を急いだのが原因といわれる】

隙間から内部を撮影。手つかずな感じ。上から落ちてくるかもとなれば、観光客を入れるのはもちろんのこと、おちおち修復していられないのだろう。

側面をパシャリ 適度に崩れてて、ナチュラルな風情がいいな~

高さ35mの表門。ファサードの上部はゴッソリ剥げてるけど、これから修復するのかなぁ・・・

道をはさんで向かい側にはビビハニム廟。大きなものばかり目にしてきたので、小ぢんまりとかわいらしく感じる。

これから目指すハズラティヒズル・モスクを遠望する(ビビハニム廟前から)。
【かつてゾロアスター教寺院があったが、8世紀初めに壊してモスクに改めた。ウズベキスタン初代大統領イスラム・カリモフの墓もある】

道路上に架かる陸橋を通り、モスクのたもとに到着。

現在の姿になったのは19世紀半ばとのことで、新しい感じ。

ビビハニム・モスク方面を望む。画像中央手前、屋根の部分が陸橋。


再び陸橋を渡り、ショブバザールとビビハニム・モスクの脇を通ってイスラム・カリモフ通りを進む。両側に飲食店や土産物屋が並んでいるが いかにもピカピカで、古い街並みを壊して新しく造成した感じ。世界遺産化で得た補助金をガッツリ当てて整備したんだろーな・・・
ウィンドウショッピングを楽しみながらボテボテ歩く。ナンを抱えた陶器人形が可愛い


一旦ホテルへ戻り、夕食の時間を待って外出。Cちゃんがチュチュヴァラ【中央アジアでポピュラーなマンティ(ゆで餃子)を小型にしたもの。ロシアではペリメニという】を食べたいということで検索したお店は、レギスタン広場の南エリア(前日に水を購入したmini marketの付近)にあった。店名からしてロシア系の方が経営していると思われるお店は、ウズベク人ファミリーもやって来るローカルな食堂。
私たちは小上がりに腰を下ろした。天井の上に2階席がある。

半露天構造でクーラーはないが、暑さをしのげるようミストが降る仕掛けをしてあった。下の画像中央よりやや上部、何条かのミストにお気づきいただけると嬉しい。
左の客は黄色い袋入りのナンを卓上に積み上げている。売りに来て残ったのを持ち帰るところなのか、大量購入して帰宅するところなのか・・・

前菜8種類から好きなものを選べるので、2皿チョイス。左はナスとズッキーニのサラダ。右がオリヴィエサラダ【1860年代、モスクワのレストランのシェフであるオリヴィエが考案。さいの目状に切ったジャガイモ・人参などの野菜、ピクルス、肉(ハム・牛肉・鶏肉など)をマヨネーズと香草(ディルなど)であえる】。
1997年、サンクトペテルブルクでζちゃん(高校・大学時代の友人)と一緒に彼女の知り合いの老夫婦の家に泊めていただいた時、おじいさまが作ってくださったオリビエサラダを懐かしく思い出した。

餃子にはビールよね、ということで中ジョッキ。これが容器ごとよく冷えてて、1万スム(≒120円)。

メインのチュチュヴァラ。画像中央奥のヨーグルトソースをつけて食した。

スープには牛テールと思われる肉が入っていた。コンソメのような味わいは自分好みだったが、Cちゃんの検索情報では浮いている白い脂は飲まないようにすべしとのこと 
酔いも手伝って次第によけるのが面倒になり、アク取り網ほしいな~と思ってしまった

2人でしめて10万5千スム(≒1,260円)、とにかく安あがり。前夜のような小綺麗なお店と両方楽しめて大満足

19時40分、宿に戻って各々が洗濯(第2弾)・入浴を済ませた後、屋上テラスに上がった。ライトアップ・ショーを90度西から眺めつつ、前夜の残りのペットボトルビールをすすった。本当に絶好のロケーション・・・探し出して予約してくれたCちゃんに感謝


2・3 サマルカンド ⇒ブハラ (2023年8月24日)

この地を発ち、ブハラへ発つ日。やはり朝は日の出観賞からスタート。この日ははっきりと太陽が見えた。

太陽が姿を現すまでは気を揉むほど長く感じるのに、ひとたび昇ると瞬く間にググッと高度が上がる。
前日は一人で静かに鑑賞していた日本人らしき女性、この日は中学生くらいの息子と夫も登場。Cちゃんが女性と言葉を交わすと、夫が取材しているところへ来たと言っていた。現地に暮らしているのではなく、夏休みを利用して単身赴任先へやって来たようだった。

6時半、散歩に出かける。まずは宿から5分足らずのレギスタン広場view spotへ。
早朝・午前・夕方・夜、それぞれの時間帯で異なる顔を見せてくれる。滞在中は何度も足を運びたい場所だ。

花壇越しに、ウルグベク・メドレセ。

シェルドル・メドレセの東の通りに出ると、カートが停まっていた。ビビハニム・モスク~レギスタン広場横までを結んでいる模様で、前日から気になっていた。乗ろうとしたら5,000スムと言われ・・・3,000スムと掲げられているのを前日見ていたので、なんとなくやめた。

イスラム・カリモフ通りを前日とは逆方向に進む。両脇のお店は閉まっていて、街路を掃除する人のみ。閑散としている。
歩くこと数百m、ビビハニム・モスク前に到着。


隣接するショブバザールは5時から開いているらしく、買い物袋を提げたおばちゃんとすれ違った。その材料でこれから料理するのだろうか。
こちらはバザールの南側入口(撮影は前日)。

市場に足を踏み入れ、前日はまわらなかった場所へ。独立した平屋建てとなっているのは精肉売り場だった。
豪快に吊るされているのは・・・サイズからして羊 (他の判断基準を持たない私


前日にタクシーで降ろされたビビハニム・モスク裏の小路から なんとなく南へ向かい、緑地にぶつかったところで道なりに西へ進むと、前々日ディナーしたレストランが見えてきた。壁の向こうはレギスタン広場。

7時20分、ホテルに戻って朝食。
念のため、左上に見切れているのはワインじゃないですよ~ 水です ビュッフェ会場に水の小型ペットボトルが置いてあったので、ワイングラス状の器に注いだ。
野菜てんこ盛りにしちゃった、ぐふふ 時計でいう10の位置にあるウィンナーは、皮がないのかと思うくらいソフトで臭みゼロ、美味だった。

ダイニングルームに飾ってあった陶器の装飾。ここでもザクロ。ハッピーシンボルとして重宝されているらしい。老夫婦の人形は日本でいう「高砂」


ブハラ行きの列車は11時15分発。1時間少々前にサマルカンド駅へ着くように逆算して、10時に宿をチェックアウト。
宿の方は鷹揚でとても感じが良かった。日本人が訪れるようになったのはわりと最近だけど、礼儀正しい人が多いね と言っていたのが印象に残った。
配車アプリ(ヤンデッ〇ス・ゴー)で呼んだタクシーは駅まで1万8千スム(≒216円)。往きは交渉したうえ4万スム(≒480円)だったんだよな・・・現地人と同じ価格っていいなぁ。労力いらないし、オトクで合理的
20分ほどで駅に到着。もはや荷物のX線検査に驚きはしない。

2日前の到着時はホームから直接構外へ出るよう促され駅舎に入れなかったので、初めて入場。

窓の高い所、ステンドグラス風の装飾が気になった。独断と偏見で棟方志功っぽい・・・。羽が生えてるってことは天使なのか?? 



相変わらず、モニターに発車ホームは表示されていない。椅子に掛けてボーッとしていると、同じ列車に乗るであろう観光客らしき人々が次々とやって来る。
そして発車20分前くらいに、駅員が何がしか喋ると人々は一斉に移動しはじめた。2番線らしく、地下通路へみんな潜っていく。一応心配だったので、2番ホームにいた駅員にチケットを見せると、ここでよいと。そうこうするうち、列車が入場。

指定の号車の扉から無事乗り込んだ。
タシケントからサマルカンドまで乗った時はお菓子&飲み物のサービスがあったが、今回はなかった。座席クラスが違うのか、乗車時間が30分短いからか、始発から乗った客限定なのか、理由は定かではない。

車窓から見た感じ、どこまでもどこまでも草原だったタシケント~サマルカンド間よりも開発が進んでいるようで、人口も多そうだった。
220㎞西のブハラへ1時間40分で到着。例によって駅構内を通らずに出口へ向かうように促されたが、Cちゃんはトイレに行きたいと駅員に訴えて駅舎に入れてもらった(オマケの私も)。
ブハラ駅構内には両替所があった。隣国トルクメニスタンからの列車が通るから?と思ったが、後で見返したらサマルカンド駅構内の両替所が画像に写っていた。大きな駅にはマストで存在するのだろう。
待合所に座っているウズベク人女性たちのスカーフ(ヒジャブ)が目に入った。下の画像右上のベージュの方のように正式な巻き方をしている人もいるが、この国では簡略化したスタイルも見受けられる。手前左のような三角巾状や、その右のようなヘアバンド状。

右のようなナイトキャップ状も。暑い気候風土に合わせて、耳やアゴを出すのが許されているのかなぁ・・・


駅舎を出て通りへ向かう途上で白タクの客引きに何度か声をかけられたが、「〇ンデックス」と口にすると途端に退いていく。魔法の言葉だなぁ、すごい威力
アプリで呼んだタクシーのドライバーは、ウズベクは初めてか?と世間話から始まり、今日は39℃だってよ、めっちゃ暑いよ~ と喋りかけてくる。Cちゃん曰く、ここブハラはタシケントやサマルカンドに遅れて、ヤ〇デックスが導入されたのは最近らしい。目的地へ運ぶことに徹しどこか割り切った感のあったサマルカンドのドライバーたちよりも、まだ前代の交渉タクシーの名残りがあるというか、フレンドリーな印象。

13時50分、狭い路地で降ろされた。Cちゃんが選んでくれた宿はかつてメドレセ(神学校)だった。小路の奥にひっそりと入口がある。

フロント。

私たちの部屋の入口。

入ると両脇にベッド、奥にソファーのあるスペース。

天井には彫刻の彩色が残っていた。鮮やかなラピスラズリ色は紺碧の空を彷彿とさせる。よく眠れそう、な~んて

歴史的に古い建物でも、水まわりはしっかりしている。シャワー&トイレ。

ソファーのある空間に自前のロープを張り、洗濯した衣類を干す。さらに暑さが収まるのを待ちがてら、ガイドブックをめくりつつ部屋でゴロゴロ

16時過ぎ、ホテルを出て件の配車アプリを利用。ところが、呼んだはずのタクシーがなかなか見つからなくて、ずいぶん待たせてしまった。たぶん10分くらい・・・
【運転手が停まりやすい場所にいることが多く、自分たちが立っているドンピシャの場所に停車してくれることは稀(何度も利用した中で、反対側の車線に停車していたケースもあった)。利用者が画面上で位置を確認しながら、車のナンバーと照らし合わせつつタクシーを探すことになっている。日本と違ってナンバーの桁数が多いのも難易度に拍車をかける】 今になって思えば、交通量が少なくない通りだったので、邪魔にならないような場所に停車していたのだが、それゆえ目立たなくなっていた
やっと乗車した時にはドライバーはかなり機嫌が悪くて、ブツクサ言っていた。車内の空気の険悪さに、Cちゃんが翻訳アプリを立ち上げてドライバーに音声で喋ってもらうと、相当待った、と怒っていた。これはマズイとCちゃんが話しかけると、誠心誠意謝っているのが通じたらしい。気を取り直したドライバーはBGMのスイッチを入れ、かかったのはNHK「おしん」の主題歌。???な自分に対し、事前予習済みのCちゃんがガッツリ反応して話題を盛り上げるとドライバーはみるみるご機嫌になり・・・目的地に着いても尚3分は「おしん」について熱く語っていた。いや、気まずいまま終わらなくてよかったぁ この国では「おしん」が再放送されていたらしく、中高年層に絶大な人気を誇っているらしい。運転手は20代後半~30代前半くらいだったけど【おしん; 1983年4月から約1年放送されたNHK朝の連続テレビ小説。1901年、山形の貧しい農家に生まれた主人公が明治~昭和を生き抜く一代記。年間平均視聴率52.6%。1984年秋のシンガポールに始まり、現在まで世界60以上の国・地域で放送、ウズベキスタンでは2000年代に放送された】

この日は中心街から外れた場所から巡ることにした。
まずイスマイール・サーマーニー廟【9世紀末~10世紀前半、サーマーン朝2代目君主イスマイールが建てた。中央アジアに現存する最古のイスラム建築。1220年のチンギス・ハン侵攻時、砂に埋もれていて破壊を免れた。側面の4つのアーチ(柱状)・四隅の副ドームはササン朝ペルシャのゾロアスター教神殿の様式を踏襲】。
一辺9mほどの小ぶりなサイズだが、外壁はこの国で見てきたどの建物とも違っていた【日干しレンガを複雑に組み、凹凸で陰影をつける】。

天井の様子。

ここの入場料を管理しつつ本やハガキを売るおじいちゃんはとても綺麗な英語を話す。迷ったが、日本語の本を買った(12万スム≒1,440円)。サマルカンドで見かけたのは汚れているなけなしの1冊だったりサマルカンドのみの特集だったりしたが、ウズベク全体を包括する内容だったのが気に入った。しかし、本ってどの国でも高額よね。

ざっくり東へ歩いていると、チャシマ・アイユブに遭遇【チャシマ=泉。水不足の折、旧約聖書などに出てくる預言者ヨブが杖で地面をたたくと泉が湧き出たという伝説があり、今なお水が出ている。眼病に効くという。現存の建造物は、14世紀に捕虜となりアミール・ティムールの命令により移住させられたホレズム(アラル海南東部のアムダリア川下流域。中心都市はウルゲンチ)の職人たちが建てたという。その後19世紀まで建て増しを繰り返したため、アンバランスな外観となっている】。

屋根の上にはコウノトリの像があるようだった。てか、急斜面で羽を休める鳩たち・・・ワザ持ってるなぁ。

泉は水道状になっていた。

敷地内で気持ちよさそうに眠る犬。犬派の私、この横パタンにめっぽう弱い。キュンキュンする

数百m東のボロハウズ・モスクへ向かう途中、あまりの暑さで呼吸するのが苦しいほど。我慢しないで、冷たいものを飲みに目の前のお店へ入った。夕食にはいまひとつ早い時間帯、開店休業中のところを電気つけてもらって(笑) 惜しみなく1.5リットルのペットボトルを買う。アルコール以外冷たいものをほとんど口にしない自分が陥落するとは・・・モロッコはマラケシュもこんなだったわ~ 体温超えの気温はハンパない

ボロハウズ・モスク【かつてこの地を治めたブハラ・ハン王国の歴代王の専用モスクとして18世紀前半に建立】。

20本のクルミ材の柱頭には鍾乳石状の彫刻がほどこされている。木目の天井も美しい。

いまだ現役のモスクはちょうど礼拝の時間にあたり、中に入れなかった。ムスリムたちが続々と自転車に乗ってやって来ては中へ吸い込まれていった。

ボロハウズ・モスクのすぐ前にはブハラタワー【高さ40m。ウラジーミル・シューホフ(ロシア・ソ連のエンジニア)が創出した、鉄線を格子状に組む双曲面構造をもつ給水塔。20世紀前半に完成、半世紀も経ずして火災に遭う。修復後、観光スポットとなる】。レストランも営業しておらず、すっかり荒廃していた。コロナ禍の影響か??  


横断歩道の向こうにはアルク城【紀元前4世紀にはここに城があったという。13世紀のチンギス・ハン侵攻時に破壊された後も再建を繰り返す。1920年、ソ連によりブハラ・ハン王国は滅亡。その際の爆撃で木造の多くが燃え、18世紀の石造の部分が現存】。

広場ではラクダに乗るアトラクションも展開。

入場してすぐの通路にはかつて囚人の部屋があった。蝋人形で様子を再現。

民族衣装の展示コーナーもあり。

木製の屋根と柱が堂々とそびえる。

順路に沿って進む。

謁見の間はかなりの広さ。

玉座には「小皇帝」が鎮座。この国では歴史的スポットにて衣装を貸し出し撮影するのが流行っているようで、そこかしこで見かけた。

その一角に、ロマネスクも真っ青の獅子像がポツンとあった。なんでこれだけここに

こちらは鋭意修復中。


宿へは戻らず、そのままディナーへ行くことに。旧市街のレストランまで数百mだったが、ここでもタクシーを呼んだ。ところが全然たどり着けず、ドライバーは降りて周囲の人に聞き、少し運転してまた降りて聞いて、を繰り返した。Cちゃんが翻訳アプリを差し出し喋ってもらうと、「どこへ行くの?」と表示される(爆)
どうやら、同名を冠するホテルやらレストランやら複数あってややこしいのと、結果論になるが車で乗り付けられない場所なのだった、タキ【屋根でおおわれた大通りの交差点。昔も今もバザールがある。3ヶ所現存】の中にあって。
結局、タキ・テルパクフルションの前で尋ねたおっちゃんが、そのレストランはこの奥だよ、って言ってくれたのでタクシーを降りた。たった8,000スムで、ドライバーにはちょっと気の毒なrideだった気がする

ワインを出すとガイドブックに載っていたため、私がリクエストしたお店。
ギリシャ・サラダ。

この国で初めて飲んだ白ワインはシャルドネな気がした(Cちゃんが撮ってくれた自分にモザイクをかけた)。

お店のウリというカザン・ケバブ【骨付きラム肉とジャガイモの蒸し焼き】。

濃厚で複雑な味わい・・・カベルネ・ソ―ヴィニヨンを思わせる赤。

汁なしラグマン【小麦粉をこねて手打ちした麺料理。うどんに似ている。トマトベースのスープに入った汁ありも一般的】。かなり赤味がかっているが、辛くはない。

グラスで注文し注がれて運ばれてきたのでボトルを見る機会はなかったが、レベル高いな、ヴィティス・ヴィニフェラか??【ワイン用欧州系葡萄品種。原産地コーカサス地方から交易の拡大に伴い広がった。仏伊など伝統的なワイン産地で使用される歴史ある品種】 とはいえ気のせいかと思わなくもなかったが、出国時に空港でそれらの品種のワインボトル群を見かけたので、ブラインドの感触はあながち間違いではなかったかも

宿へはゆうに1㎞あった。酔いざましがてら歩きながら 途中で水を買い、通り沿いのレストランで晩酌用のビールもゲット。
Cちゃんの地図アプリ(ヤン〇ックスはmapも展開している)に従って何も考えず進んでいたのだが、つい数時間前にタクシーを探してワタワタしていた場所へ戻って来たと気づいたら、一挙に自分の頭の中でブハラ市街地図がつながった スペクタクルな瞬間だった。
洗濯第2弾&入浴の後 Cちゃんは早々に床についたが、自分はソファーのあるスペースでビールをあおった。
【一番ポピュラーというSARBASTはデンマークのCarlsbergと提携。赤の他にも青・緑などラベルが数種類ある】

ここのソファーがまた居心地良く、ゆったりくつろぐことができた。頭上にはためく洗濯物を仰ぎ見ながら、明日の今頃は駅に向かっているんだなぁ、Cちゃんともお別れだわ、4日間ってあっという間だな・・・とめどなく思いが去来するのだった。

★ 中締め ★

次回はブハラ観光の後、Cちゃんと別れて夜行列車でヒヴァへ向かいます。
お楽しみに
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ウズベキスタン篇 その1

2024年01月20日 | アジア
コロナ禍が明けたら、今まで行ったことのない国へ足を伸ばそうと思っていた。ひと足先、ゴールデンウィークにヨーロッパを旅してきたCちゃんとお酒を飲みながら、頭の中にある訪れてみたいリストを思い返し、記念すべき40ヵ国目にウズベキスタンを選んだのだった。
現地8日間の旅を何回かに分けてお届けします。まず旅の序盤では、以下の地図の➊➋を訪れました。また、後の下線部の数字にも対応しています。


1 (仁川経由)⇒ タシケント (2023年8月21日)

3年7ヶ月ぶりの国外旅行がついに始まった。海外に行く以外で飛行機に乗ることはほぼないので、エンジンがかかっていよいよ離陸という時にはなんだか胸が高ぶった。
経由地の仁川までは2時間余り。フライトの軌跡を眺めていると、がっつり竹島の上空を飛んでいくみたいだけど、勘繰るのはやめておこう。
トイレは広くて使いやすいし、13時20分発という中途半端な時間帯かつ2時間余りの短距離にもかかわらず食事も出たのにはビックリ

仁川での乗り継ぎ45分という設定が気になっていたのだが、結果的には問題なかった。4人並びの真ん中席に甘んじるのと引き換えに前方の列にいたおかげで、手荷物検査は10人目につけた。それでも窓口が1つしかなくてハラハラしていたのだが、2つ目がオープンして一番乗り、ラッキー 搭乗口には40分前に到着の余裕ぶり。
タシケント便は横8席×40列くらいのサイズで、たぶん満席に近かった。着席している乗客の顔ぶれを観察しながら自席へ向かう。ウズベク人と思われる人々もチラホラ。
中国からのフライトが遅れているためdelayだと放送が入り、離陸が20分遅れた。日本だけじゃなくて他国からの便も乗り継ぎがギリギリなスケジュールなのかな・・・帰国便もこの航空会社なんだけど、最後まで気が抜けないなぁ 【ウズベキスタンへの直行便は週2便(当時)しかなく、他は全て経由便となる。自分の旅程に最も好都合なのがこのフライトだった】

夕食は牛肉チャプチェorチキンカツの2択。仁川便で牛肉だったので、チキンをチョイス。ワインは赤(テンプラニーリョ)にした。白の方が好みだけど、このさい料理とのマリアージュを優先。

仁川を飛びたった飛行機は黄海を横切り、山東半島は威海衛の南をかすめて天津上空を通り、北京の北から一路西へ。
食後、ガイドブックを眺めていたが眠気に負けて2時間ほどウトウト 目覚めて、お尻が痛いと思ってしまった。どうした、私 こんな短時間で弱音吐いてると、南米はおろかヨーロッパも怪しいんじゃぁ
搭乗機は中国とモンゴルの国境沿い(中国側)を西へ向かい、キルギスをまたいでタシケントへ入る模様。

出発が遅れたぶん、きっちり遅れて20時45分に着陸。
入国審査では、パスポートの写真と今の面影が違って見えるらしく(写真は前髪を伸ばしていた頃で額を出してるから)・・・眼鏡を外しても納得してもらえず、審査官にサインを書けと言われる始末。漢字を照合して、やっと許可がおりた。それにしても、パスポートの最後のページの右上に入国スタンプを押すあたり・・・ロシアを思い出すわぁ。かつて同じ国だった名残りかも・・・

預け荷物が全然出てこず、その間に両替できないかとキョロキョロ
ガイドブック情報どおり、ターンテーブルの一角にあった【出国審査を出て背中側の左端、レートを示す電光掲示板が目印。自分が終わった頃に行列ができ始めたので、早めに見つけて替えることをオススメしたい。なお、ウズベキスタンには公定レートがあり空港も市中も同じなので、まとまった額を両替するのもテである】。

夜到着だったので、あらかじめ迎えを頼んでおいた。空港の建物を出てすぐ外、制限エリアの内側で私の苗字の先頭にMr.と記した札を掲げている人がいた。たぶん私のことだろーなと思い、近づいて彼の苗字を口にしてみるとビンゴ。性別の誤りは時々あるらしく、業者とのLINEのやり取り画面を見せてくれた。合流できたから、全然ノープロブレム
ドライバーさんはたぶん20代。東アジアの血は一切入ってないであろう、西アジアに典型的な風貌。耳の下に伸びるあご髭がたくましい。とてもきれいな英語を話す。

空港を出たのが21時45分頃、ホテルに到着したのは22時くらいだった。
途中、銀座と見紛う目抜き通りを通過。さすが一国の首都、めっちゃ都会だなぁ。ζちゃん(高校・大学時代の友人)が訪れた1995年はどうだったんだろう・・・
チェックイン時、朝食は7時からで食べる時間がないからboxに詰めてもらうか?とドライバー君が提案してくれた。うなずいたらフロントの人と交渉してくれたけど、曰くシェフがその用意をしていないから無理、と。ま、仕方ないか~

それよりも自分の目を引いたのは、フロント脇のバー。カウンターでビールジョッキをあおる女性を発見。
機内のワイン1杯では口淋しかったので、部屋に荷物を置いた後、早々にロビーへ。ワインボトルを見かけてテンション上がるも、グラス売りがなくて断念
生ビールも売り切れといわれ、この国でシェアが多いというTUBORGにした【1873年にデンマークで創業。約100年後に同国のCarlsbergと提携。20世紀末からは中国の工場で製造を開始し、アジア各国への輸出を伸ばしている】。

代金3万7千スム(≒444円)なのに、ケタを間違えて40万スム出した私。バーテンさんは多すぎるよ、って10万スム札3枚を返して更に6万スムお釣りをくれた。後から来たカシューナッツのお皿が3千スムなのだろう。お通し代なのか、少額札がない代わりなのか。いや、しかし、通貨のケタが多いから気を付けないと。慣れるのに時間かかったルーブルを思い出すな~ ほんと、ロシアと共通点多し【自分が訪れた1997年はデノミ(通貨切り下げ)前だったため、1ルーブル=0.021円。50万ルーブル札に戸惑った】。
遅い時間だというのに、バーには自分の他に3組いて賑わっていた。
尚、このホテルのエレベーターはルームキーをかざさないと動かない。不審者をフロアに上げないセキュリティーがすごい

1・2 タシケント ⇒サマルカンド (2023年8月22日)

水まわりが良いのとタオルが潤沢だったのとで、前夜遅い時刻だったにもかかわらず洗濯を決行。賭けに勝ち、6時に起きたら乾いていた。乾きやすそうなユ〇クロのエア〇ズムなんだけど、にしてもテクノロジー尊いなぁ 
参考までに、泊まった部屋の画像を載せる。なお、まるでスーツケースのように見えるのはお洒落なデザインの冷蔵庫。


パッキングにもたついていると、6時57分に電話がかかってきた。7時出発なのに姿を見せない私をドライバー君が心配してくれたのだった。
急いでフロントまで下りると、やっぱり朝食の分をboxに詰めてもらってロビーで食べるか?とドライバー君。昨夜断わられたにもかかわらず、ここで私がうんと言えば粘り強く交渉してくれるつもりなのだろう。でも、待たれながら急いでかき込むのは苦手 心意気だけ受け取って、いらないと答える。駅で何かをgetしようと肚を決めていた。

立地で選んだホテルなだけあって、タシケント駅へは10分もかからずに到着。
駅入り口からかなり離れた場所に路上駐車したドライバー君は遠くを指しながら、あそこが入口だよと説明してくれる。うん、うんと頷く私だったが、その返答ぶりに不安を抱いたのかもしれない。よりはっきりと入口が見える場所まで進み、右の入口でチェックを受けて、左の大きな入口から入るんだよと付け加えてくれた。そして、じゃあね、と軽く会釈。陽の下で見るドライバー君は前夜の見立て通り若い。私の反応を見ながら対応してくれるあたり、将来有望かも
駅へは自由に出入りできず1人ずつチェックされ、さらにX線の手荷物検査も 飛行機に近い扱いに若干ビビる。下の画像中央が、ドライバー君のいう「大きな入口」。

何番ホームから乗ればよいのか、構内の表示モニターを見てもそれらしき数字はない。ホーム入口に立っている駅員に後で確認することにして、まず朝食を買うことにする。小さな売店が3つあり、スナックの自動販売機もあった。言葉が不安で自販機に吸い寄せられたが、ロシア語の説明文に撃沈。かくなる上は人よ、と3店舗を観察。焼きたてを売っているお店にロックオン、他の客の様子をしばし眺める。だって、値札出てないし、相場も分かんないし 
心を決めて踏み出し、ソーセージ入りのパンを指すとビニール袋に入れてくれた。5千スム札を出すと、首を振られる。お札そのものを見せてくれてやっと理解できた、1万スム(≒120円)だった。店のお兄ちゃん(ロシア系の風貌)はホッとしたような笑顔。直感で嘲りじゃないと分かる。どんくさい客に誠実に対応してくれて、ありがとう


駅員にチケットを見せると、ホームの左を指差された。右の列車のほうが人でにぎわっていたが、30分前に発車する1本前の列車だった。
それが出た後、いよいよ乗車開始。各号車の入口に係員が立ち、客のチケットを確認していく。あぁ、ロシアの夜行列車と同じだ・・・今日もデジャヴ

観光客が多く訪れるサマルカンドやブハラへ向かうとあって、新しくて小綺麗な車両だった。

着席してパンにありつく。既に前日の機内食から肉料理、今後も続きそうなのにどうだろうと一瞬頭をよぎったが、このパンを選んで正解 やや赤みがかったソーセージは香辛料で少しだけピリリ。バンズ自体は甘い。辛党ゆえ、店頭に並んでいたクリームとかダイスさつまいもとかの甘い系パンには食指が動かず

発車10分くらい前、団体客がやって来て賑やかになった。どうやら朝鮮人(北朝鮮あるいは韓国の人々。正確な表現ではないと思いながら使用する)のようだった。私の横の座席に座るのは避けたかったらしく、オジサマ・オバサマたちが押し付け合いの大騒ぎのすえ、ツアーガイド(40~50代の男性)が収まった。やれやれ
【ウズベキスタン行きの航空便を検索していた時、韓国経由で飛んでいることを不思議に思っていた。この記事を書くにあたり調べて、自分の知らぬことが多いのに愕然とした。
1860年代、帝政ロシアは人口の少ない極東の沿海州地域を入植地として開放。19世紀後半~20世紀初頭の朝鮮半島情勢(朝鮮をめぐる清・日本・ロシアの対立→日本による植民地化)下にあって、朝鮮半島北部の農民で移住する者が多かったという。1930年代後半に日本とソ連の外交関係が悪化するなか、沿海州地域の朝鮮人が日本のスパイと化す可能性を恐れたスターリンは、この地域の人々(17万人)を中央アジアへ強制的に移住させた。突然 列車に乗せられてシベリアを横断、現在のウズベキスタンやカザフスタンの辺りで降ろされ、集団農場での労働に従事させられた。もともと米作や漁業に携わっていた人々は、乾燥した気候での農業への適応に苦しんだという。戦後は北朝鮮と交流していたが、ソ連崩壊後は韓国との関係が深まりつつあるらしい。ソ連崩壊後に沿海州方面へ移住する者は少なく、今なお18万人(2017年時点)がウズベキスタンに暮らす。なお、彼らは朝鮮半島北東部の方言とロシア語が混交した高麗語を話すため、朝鮮人というより高麗人と呼ばれる】
観光列車に乗っていることから、私と同道したのは高麗人ではないと思われる。過去の経緯からウズベキスタンに関心を抱いて訪れた朝鮮人であろう。

定刻の8時にアフラシャブ号は出発。窓から2番線ホームをパシャリ

しばらくすると、車内サービスがあった。スナック類が入った紙袋が配られ、紙コップにドリンクサービスも。新幹線よりサービスいいじゃん
隣席のガイドさんはお湯を頼んで、袋に入っていたネ〇カフェの粉末を溶かしていた。なるほどね~ 朝のコーヒーは胃が荒れる自分は紅茶をオーダー。

車窓は、手入れされた草原に所どころ家々があり、送電線が伸びている。
かくして2時間、200㎞南西のサマルカンドへ向かった。

10時過ぎ、サマルカンド駅に到着。駅の敷地を一歩出ると、タクシーの客引きがわんさか待ち構えていた。中心街は南東へ4㎞ほどあり、乗らざるをえない。
声をかけてきたおじいちゃんドライバーと交渉。5万スムといわれたが、3万と返してみる。話にならないという感じで首を振られたので、仕方なく4万スムと言ったら4万5千と返ってきた。じゃあいいや、と離れようとすると慌てて4万でO.Kとなった。
車に乗り込みしばらくすると、ドライバーが行き先はどこだっけ?と聞いてくる。いやいや、最初にガイドブックの地図ページを見せたら、うなずいてたじゃん (後から思うに、たぶんこの人はキリル文字しか読めず、ガイドブックのアルファベットは理解できなかったのだろうと思われる) ともあれ、ホテルの電話番号を教えろと言われたので、ホテルの予約画面を表示したスマホを渡す。ハンドル片手だし手元が狂わないか心配だったので、正しい番号をプッシュしているか、右後方からドライバーのスマホを凝視。うん、合ってる。ところが、何度呼び出してもつながらない。一旦切って、またかけ直しても同様。このドライバー、ホテルの位置が全く分からない感じだよねぇ・・・このまま電話に出てくれなかったら、果たしてたどり着けるんだろうか 不安になり始めたころ、ようやくつながって道順を教えてもらえた(後で判明したのだが、ホテルスタッフは他の客の対応に忙しかったのだった)。胸をなでおろしたのも束の間、ドライバーはなおも不安らしく、車窓を見て宿を探せと言ってきた(言葉を解したわけではないが、状況からしてそう喋ったと推察)。
そうこうするうち、左手にホテルの看板が現れた。しかし、外観が地味・・・1泊1万数千円する宿なのかと疑問が頭をもたげる。が、看板に記されている電話番号は先ほど目視したのと寸分違わない。ココだ そそくさと支払いを済ませて下車。

宿の木製扉がこれまた開いているやら閉まっているやら判別が難しめで・・・いちかばちか、えいやと押したら入れた。
自分が認識するより早く、フロント前に腰掛けていたCちゃんが私の名を呼び、笑顔で手を振る(たとえ日本であっても、Cちゃんが出会い頭にそうしない日はないのだが)。前夜も今朝も大丈夫だと思っていたはずなのに、Cちゃんと合流できてホッとした。
部屋は清掃中で正午を過ぎないと入室できないと言われたので、ひとまず荷物を預かってもらって観光に出かけることにした。
道路をはさんでホテルの目の前に広がる壁はレギスタン広場のそれで、世界遺産の目の前のロケーションなのだった。
こちらがレギスタン広場の全景(後刻、ビュースポットから撮影)【左がウルグベク・メドレセ、正面がティラカリ・メドレセ、右がシェルドル・メドレセ】。

チケットを購入し、ウルグベク・メドレセの南から入場する。道なりに進んで行くと、左斜め前方にシェルドル・メドレセが視界に入ってくる。
で、でかい 率直な第一印象はそれ。これまでに自分が訪れたイスラム教国といえばトルコ、モロッコ、ヨルダン等だが・・・そのどれと比べても群を抜いて圧倒的なサイズ。後に他の都市で目にしたメドレセはそこまで大きくはなかったので、サマルカンドの建築物が格別なのだと振り返ってみて思う。

自分の視線は鹿をつかむ虎と人面太陽に集まる。サマルカンドでこれを見たかった・・・あどけないタッチが自分好みのど真ん中。
未踏の世界遺産として長らく焦がれていた画像の中の世界が、目の前に広がっている。この3年余り、外国へ出かけることなどままならぬ日々だったことも相まって、まるで現実感がなく夢の中にいるように感じられた。


3つのメドレセのうち、もっともすいているように見えたティラカリ・メドレセへ。こちらのファサードは黄緑色の植物文が目立つ。
【1660年、メドレセ(神学校)を兼ねた大聖堂モスクとして完成。メドレセの内部には豪華絢爛な金箔がほどこされた。ティラ=金箔の意】

中庭には土産物屋が並んでいてビックリ。が、ここだけでなく、この国では現役の宗教施設ではない(観光地と化している)建物は皆そんな様子なのだと後で知ることになる。

彫刻がほどこされた石は退色したのだろうか、それとも終始こんな感じなのか??

一歩入って、ミフラーブの装飾が華やかで息をのんだ。きらびやかに見せようとライトを当てているのを差し引いても、余りある美しさ。

天井はこんな感じ。

ミフラーブの左右の空間はこれまた土産物屋になっていた。観光初日ゆえ、目に映るものすべてが物珍しい。が、買うにはまだ早すぎるわな~ 足早に立ち去る。
外に出ると、学校行事(?)でお出かけしてきた子供たちがいた。おそろいの制服も可愛い。


次はウルグベク・メドレセへ。このファサードは3つのうちで青いタイルが最も少ない。ベージュで星模様が表されている。
【1420年にウルグベク(大帝国を築いたティムールの孫で、第4代君主)が完成させた、この広場で最古の建物。ファサードの高さは15m。当時100名以上が寄宿する神学校で、イスラーム神学のほか天文学や哲学も教えた】

その一角に、切手の看板があった。やったぁ~ ガイドブックの地図に郵便局が記されていなくて、探さねばと思っていた。渡りに船 

郵便局というには語弊があって、絵はがき売り場で切手も売っているという空間だったけど、それで十分だった。サマルカンドはもちろんのこと 他の都市の観光名所も含めて、美しい絵ハガキがそろっていた【自分が訪れたこの国の観光地で最も充実していたハガキ売り場だった。これからウズベクへ旅立ちハガキを求めたい方には此処で買うことをオススメしたい】。日本への切手代は6,800スム(≒82円)。縦1.8cm×横2.6cmの小型で一色刷りの切手はクラシカルで、ロシアのそれを思い起こさせた(記事を書くにあたり、とある事情で1組余った切手を撮影)。


メドレセに入場。年季の入った木の扉がいい

蝋人形による再現。


最後に、シェルドル・メドレセへ。下の画像は、ウルグベク・メドレセの入口から撮影。
【1636年に完成した神学校。ファサードに描かれた動物や人面はイスラーム建築には珍しい。20世紀半ばまでには消えていたが、修復された】

ファサードの中央から中庭を覗く。

3つのうちで最も土産物屋が多かった。

服の袷が着物っぽいのもあるんだね~

顔出し看板もあった。


3つのメドレセをひととおりまわったら部屋に入れる時間になっていたので、ホテルへ戻った。案内されたのは、メドレセviewの部屋。これにこだわって、やや奮発してCちゃんがこの宿を予約してくれたのだった。隣家のトタン屋根越しに、人面太陽と虎のファサード(画像中央)を飽きることなく眺めた。これこそが私をこの国へ導いてくれた・・・何時間でもそうしていられそうだった。

ちなみに、奥上テラスからの眺めはもっと素敵


午後の観光にはタクシーで出かけた。歩けなくもない距離だったが、暑さの中で無理しないほうがよさそうだった。
【異国でのタクシー乗車はハードル高めだが、旅の前にCちゃんが入念に調べてくれていて、この国のいくつかの都市ではヤンデックス・ゴー(タクシー配車アプリ)が発達しているとのこと。クレジットカードを登録する必要はなく、英語表記なのも利用しやすい。自分の立ち位置がピンで表され、目的地を入力すると近くにいるタクシーが表示されて車の車種やナンバーを選ぶと、迎えに来てくれる。料金はウズベク人と同じで、煩わしい交渉は一切不要。これのおかげで、とても快適に移動することができた
宿から南西に700mほどのグリ・アミール(アミール・ティムール廟)へ。遠景がこちら。
【グリ=墓で、大帝国を築いたティムールが孫(王位継承者だったが若くして戦死)のために1404年築いた。しかし、彼も翌年に急死。本人は生まれ故郷のシャフリサーブス(サマルカンドの南80㎞)に埋葬されることを望んだが、積雪の中2,000mの峠越えが難しく、ここに葬られた。その後もティムールの子孫たちが追葬された】

廟の前から振り返って、門をパシャリ

強大かつ巨大なティムール帝国を築きあげた主のお墓だけあって、内装の金ピカ具合はさすが

ティムールが遠征を繰り返し、いかに帝国を拡大していったかが図示されていた。
【14世紀前半にモンゴル帝国の解体が進むなか、モンゴル系部族出身のティムールはトルコ系遊牧民とオアシス民の統合を進め、1370年にサマルカンドを都にトルコ=モンゴル系のイスラーム教国家を建てる。旧モンゴル帝国を次々と併合し、中央アジアから西アジアにまたがる大帝国を一代で築いた。その死後、既述のウルグベク(第4代君主)を輩出するなどしたが第7代君主アブー=サイードの死後に衰退し、ウズベク人に征服されて1507年に滅亡】


再びタクシーを呼び、2㎞東南東へ向かう。
Cちゃんがリクエストしたイシュラトハナ廟。まさに修復中で、世界遺産化の影響で綺麗すぎるほど手が入っている他の建築物群とは明らかに異なる素朴な様相だった。
【15世紀築、ティムール朝の女性・子供たちのお墓が地下にあるという。イシュラトハナ=天国生活の永遠の家、の意。】

工事関係者とすれ違った。大規模にやっている感じではなく、作業員は2人。私たち以外に見学者はいない。
内部は閉じられていて入れず、ぐるり一周すると 所々にタイルの名残りをみとめた。

2枚上の画像の裏側に、塞ぎきれていない箇所を発見。

下から覗くと、むき出しの天井に赤いタイルが目を引いた。


やはり暑くなってきたので一旦ホテルへ引き揚げることにし、タクシーを呼ぶ。レギスタン広場の南東2㎞、観光の中心スポットから離れた場所にも難なく来てくれるから、本当にありがたい
部屋で休憩する傍ら、Cちゃんと交替で洗濯にいそしんだ。今回もスーツケースではなくソフトバッグで旅立った自分、スペースをつくるため衣類は3セットにとどめた。この日に限らず中休みで日中必ず部屋へ戻るのと、乾燥した空気ゆえ1日2回洗っても全て乾いたので、超楽ちんだった

暑さも和らいだ17時過ぎ、スーパーへ向かう。水と晩酌用アルコールを求めて。
レギスタン広場の南東のエリアにあるとの検索情報をあてにしたのだが、結論から言うとつぶれていた。そうとは知らず素通りし、探し求めるうちに偶然にも酒屋を発見。転んでもタダでは起きない私たち
店内の冷蔵ケースにズラリとビールが冷えるなか、お店の方が強く推す銘柄を購入。ペットボトル入りのビール飲むの初めてではなかろうか・・・(撮影は後刻)

会計してくれた青年(サッカー選手の久〇建英にしか見えないという私に対し、Cちゃんは否定的だった)が「何人なの?」と聞いてきたので答えると、次がまたストレートに「何才なの?」。I don't know.と笑ってごまかす。ヘタするとこの子の母親くらいの年なんでは、と心の中で思いつつ。

見まわした感じ大きなスーパーは無さそうだったので、宿への道すがらmini marketで水を買った。翌日もサマルカンド泊なので、思いきって5ℓ。持ち帰るのも重いし、さすがに余るんじゃないかとCちゃんは心配していたが、翌々朝にはスッカラカン(笑) 旅先だからというわけではなく普段から水飲み魔の私。水買わなきゃ、のプレッシャーがなくなって気楽だった。
店先にて。西瓜の手前はメロン。白い楕円形のも、黄色く丸いのも。訳あって最終日まで口にしなかったのだが、美味だった


夕食時にワインを飲みたいと自分がリクエスト、Cちゃんが検索してくれたお店は宿から徒歩2分だった。屋上のテラス席からレギスタン広場が見えるのがウリのようで、後続の客たちはほぼほぼ階上へ行ったが、涼しいほうがいいよねと私たちは1階席(室内)に陣取った。下の画像右奥、小さな「橋」を渡って入店となるのだが、ここで過ごした約2時間のあいだ、まるで光に吸い寄せられるように次々と客がやって来るのが面白かった。なお、接客や給仕の従業員は白シャツに黒ズボンで流暢に英語を操る。が、そのほとんどが高校生くらいの風貌だった。全員が家業の手伝いとは考えにくく、この国では若くして働くのが一般的なのだろうか・・・
お店はヴーヴ・クリコを置くなど品ぞろえが光っていたが、我々はグラスでウズベキスタンのワインを注文。

トマトとキュウリのサラダ。よく冷えたスパークリングワインによく合った

プロフ【オシュとも。いわゆるピラフで、その起源はトルコとかペルシャとか諸説あるが、アレクサンダー大王がマラカンダ(現サマルカンド)を制圧した時にふるまわれたと伝わり、少なくともB.C.329年にはこの地で食されていた。ポピュラーな料理だが、具は各地で異なる。サマルカンドのは牛肉を使用】。米党の自分的にはテンション

2杯目はロゼ。実は赤を注文したのだが、品切れといわれて変更。運ばれてきたグラスを見て赤ではと思ったほどの濃色だったが、味わいは決して赤ワインではなかった。かといって、一般的なロゼのそれとも異なる不思議な感じ。土着品種のなせる業か

参考までに、ワインリストを載せる。4枚上の画像が一番上のBrut、1枚上の画像のロゼが下から2番目の。
【シルクロードを通じてローマ帝国から葡萄が伝わったため、この地におけるワイン造りは歴史が古い。1860年代には商業化が進んだものの、ゴルバチョフ時代の反アルコール政策で頓挫。2006年以降、再興されつつあるという。日照時間の長いサマルカンドは名産地らしい】

メインはシャシリク【羊の肉片を串に刺して火であぶった料理。これまた起源には諸説あり、クリミア半島の北とかコーカサスとか。ウズベキスタンだけでなく中央アジアでポピュラーな料理】。飽きさせないように、ソースや付け合わせが工夫されていた。


食事を終え、昼間に足を運んだレギスタン広場view spotで夜景を見たい、ということで向かう。すると、階段に多くの人々が座っている。時刻は21時ちょい前。もしやショーが始まるのではと待ってみると、ビンゴ 30分間、音楽とライトの催しで楽しませてくれた。では、5連発でお楽しみください。





観客はそれなりに間隔をあけて座っているが、「密」といえばそうだろう。こんな状況が許されるとは・・・世界中を恐怖と不安に陥れたコロナ禍は本当に収束しつつあるんだな。必ずや後世に語り継がれるであろう惨事だったから、収まったとて「元に戻った」と表現するのには違和感がある。ここに至って世界はまた次の段階へ移りつつあるのだろう、と言うにとどめたい。

★ 中締め ★

今回の記事、ボリュームが少なくて申し訳ありません m(_ _)m
年末に海外を旅していたため、充分に時間がとれませんでした

第2弾ではひきつづきサマルカンド、その後ブハラへ移動します。お楽しみに

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