群馬県桐生市の小学校6年生の女の子がいじめを苦に自殺した問題で、やっと学校側がいじめがあった事実を認めました。しかし残念なことに、いじめと自殺の因果関係は認められないとの立場は崩していません。なぜ校長は始めからいじめの実態を認めようとせず、いじめがなかったかのような会見を開いたのか、まったく理解できません。かりに記者会見時に校長が把握していなかったとしても、学校の責任者として、”なかった”では済まされません。”あった”可能性を視野に入れた対応を取るべきで、”なかった”発言は許すことはできません。少なくても自分が管理している学校の児童が自殺しているのですから、それはありえません。しかも、やっと認めたと思ったら、今度は因果関係が認められないなどと、あくまでも責任逃れに終始している姿は、教育者として見るに耐えません。今回のことに限らずこの種の問題が発生した際の学校側の対応はなぜか同じで、”なかった”とか、”認識していなかった”との会見から始まります。そして今回の問題で一番残念なことは、担任が好きな子同士で給食を食べることを許し、一人はじかれてしまった子どもの気持ちが理解できなかったことです。それよりも好きな子同士を許す感覚自体が分かりません。このような悲しい話を聞くたびに、どうして守ってやることができなかったのか、胸が締め付けられる思いがします。

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