1603年にエリザベス1世が死去。
子がいなかったのでスコットランドからステュアート家のジェームズ1世を迎えステュアート朝となった。
これによってイングランドとスコットランドは同君連合という形式になったが、実態はイングランドの優勢が明白であり、スコットランドの従属性が続いた。
イギリスはエリザベス時代にイギリス国教会という教会制度と、東インド会社に代表される重商主義経済体制とを両輪とした絶対王政の態勢を確立させ、ヨーロッパの有力な主権国家としてスペイン・ポルトガルに代わって台頭した。
海外進出ではオランダ・フランスと覇を競い、ヨーロッパの国際政治では宗教の違いからカトリック教国フランスと対立するという図式が出来上がった。
16世紀後半のエリザベス1世の時期にイギリス国教会体制が完成すると純粋なプロテスタントの信仰を求めるピューリタンは、「中道」的でカトリック的儀式や主教制をとる国教会に対する不満を強めていった。
さらに、17世紀に入り、イギリスのステュアート朝の国王ジェームズ1世は「主教なくして国王なし」と称して国教会の主教制度を柱として王権を強化し、それに従わない聖職者を追放した。
それに対して一部のピューリタンは信仰の自由を求め、アメリカ新大陸にわたった。
国内に残ったピューリタンも、絶対王政の下での国教会の強制に強い不満を募らせていった。
次のチャールズ1世は 1628年の議会の権利の請願を無視して議会を解散、その間、カンタベリー大主教ロードなどを側近として専制政治を行った。
大主教ロードは国教会の立場ながらカトリックに近い儀式などを強要し、反発するピューリタンや長老派を厳しく弾圧した。
しかし、国王の専制政治は財政困難から行き詰まり、ジェントリ(地主)に新たな課税を課してさらに反発を強めた。
国王と議会の対立は、ついに1642年に武力衝突に発展、国王軍と議会軍の内戦となった。
このとき議会を構成したジェントリの多くがピューリタンであり、特に1649年、チャールズ1世を処刑し、イギリスに共和制を樹立したクロムウェルが熱心なピューリタンであったことから、この革命をピューリタン革命といっている。
革命を主導したクロムウェルが独裁政治を行って民心から離れ、王政復古となってチャールズ2世が即位し、カトリックに復帰する動きを示したため議会は1673年に審査法を制定して、カトリック教徒と並んで非国教徒もイギリスの公職に就けないと定めた。
次のジェームズ2世もカトリックの復興にこだわったため対立は続き、議会内に国王と妥協的なトーリ党と、国王権力の制限を図ろうとするホィッグ党という党派が生まれ、後の政党政治へとつながることとなる。
ジェームズ2世のカトリック復興の姿勢に危機感を持った議会は、トーリーとホイッグが一致して国教会体制の維持を図るため、1688年に、国王を追放してジェームズ2世の娘のメアリとその夫オランダ総督ウィレムを迎えて、二人は議会の示した権利の宣言を承認して権利の章典として公布し、名誉革命が行われた。
名誉革命が行われたことによって、イギリスは立憲君主政となった。共和政は否定され、立憲君主政という妥協的な体制となったが、まもなく「国王は君臨すれども統治せず」という原則とともに議会制度のルールが成立することとなる。
(つづく)
子がいなかったのでスコットランドからステュアート家のジェームズ1世を迎えステュアート朝となった。
これによってイングランドとスコットランドは同君連合という形式になったが、実態はイングランドの優勢が明白であり、スコットランドの従属性が続いた。
イギリスはエリザベス時代にイギリス国教会という教会制度と、東インド会社に代表される重商主義経済体制とを両輪とした絶対王政の態勢を確立させ、ヨーロッパの有力な主権国家としてスペイン・ポルトガルに代わって台頭した。
海外進出ではオランダ・フランスと覇を競い、ヨーロッパの国際政治では宗教の違いからカトリック教国フランスと対立するという図式が出来上がった。
16世紀後半のエリザベス1世の時期にイギリス国教会体制が完成すると純粋なプロテスタントの信仰を求めるピューリタンは、「中道」的でカトリック的儀式や主教制をとる国教会に対する不満を強めていった。
さらに、17世紀に入り、イギリスのステュアート朝の国王ジェームズ1世は「主教なくして国王なし」と称して国教会の主教制度を柱として王権を強化し、それに従わない聖職者を追放した。
それに対して一部のピューリタンは信仰の自由を求め、アメリカ新大陸にわたった。
国内に残ったピューリタンも、絶対王政の下での国教会の強制に強い不満を募らせていった。
次のチャールズ1世は 1628年の議会の権利の請願を無視して議会を解散、その間、カンタベリー大主教ロードなどを側近として専制政治を行った。
大主教ロードは国教会の立場ながらカトリックに近い儀式などを強要し、反発するピューリタンや長老派を厳しく弾圧した。
しかし、国王の専制政治は財政困難から行き詰まり、ジェントリ(地主)に新たな課税を課してさらに反発を強めた。
国王と議会の対立は、ついに1642年に武力衝突に発展、国王軍と議会軍の内戦となった。
このとき議会を構成したジェントリの多くがピューリタンであり、特に1649年、チャールズ1世を処刑し、イギリスに共和制を樹立したクロムウェルが熱心なピューリタンであったことから、この革命をピューリタン革命といっている。
革命を主導したクロムウェルが独裁政治を行って民心から離れ、王政復古となってチャールズ2世が即位し、カトリックに復帰する動きを示したため議会は1673年に審査法を制定して、カトリック教徒と並んで非国教徒もイギリスの公職に就けないと定めた。
次のジェームズ2世もカトリックの復興にこだわったため対立は続き、議会内に国王と妥協的なトーリ党と、国王権力の制限を図ろうとするホィッグ党という党派が生まれ、後の政党政治へとつながることとなる。
ジェームズ2世のカトリック復興の姿勢に危機感を持った議会は、トーリーとホイッグが一致して国教会体制の維持を図るため、1688年に、国王を追放してジェームズ2世の娘のメアリとその夫オランダ総督ウィレムを迎えて、二人は議会の示した権利の宣言を承認して権利の章典として公布し、名誉革命が行われた。
名誉革命が行われたことによって、イギリスは立憲君主政となった。共和政は否定され、立憲君主政という妥協的な体制となったが、まもなく「国王は君臨すれども統治せず」という原則とともに議会制度のルールが成立することとなる。
(つづく)