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「日本近代美術史論」を読む 3 高橋由一「花魁」は凄い  タンザニアの作家

2024-04-13 21:19:54 | 日記
A.由一「花魁」をみた!
 いま、上野の東京芸術大学大学美術館で「大吉原展」が開催中(5/19まで)で、ぼくも先日そこへ行って展示中の高橋由一の「花魁」1972(明治5)年の現物を見てきた。吉原を描いた浮世絵などの展示が中心なので、その中にほぼ唯一の油絵で描かれた「花魁」はたしかに別格の異彩を放っていた。鼈甲の簪と笄を頭にたくさんさして斜め横向きの顔を見せ、豪華な衣装を着た花魁の迫力は凄い。これは浮世絵や伝統日本画とは明らかに違う絵だが、いわゆる西洋の油絵の絵具で描かれているものの、「洋画」といえるだろうか?
 高階秀爾『日本近代美術史論』の冒頭、欧州での留学を終えて日本に戻った高階氏が、鎌倉の近代美術館でこの絵に出合った時の衝撃と違和感について語った文章を読んだところだったので、なるほど、これは日本人が描いた「洋画」のはじまりという見方もできるが、洋画の技法で描いた「日本画」ともいえるのかもしれないと思った。写実の迫真力でもあるが、陰影や奥行きはほぼない。由一は、いわゆる西洋のルネサンス以後の名作といわれる絵画の現物を見ていないし、海外とくに欧州に一度も行っていない。そのことがどういう意味を持っているか、由一が西洋画を学びたいと思ったきっかけが、「洋製石版画」を見たことになって、それがいつのことだったか(嘉永年間か文久年間か)について、えんえん討究した後で、この「花魁」と「鮭」連作が特別な意味を持っていることを、高階氏は論証した。その結果、今回の展示でも「花魁」は明治五年の作品だと書かれていた。

「由一は明治十年以前においてもかなりの数の風景画を残しているが、「鮭」「豆腐」図等において写実主義の極致に達した後、晩年十数年間の作品は、ほとんどすべて風景画ばかりである。そしてこれら晩年の風景画は、有名な「不忍池」にしても「浅草遠望」にしても、さらには土方定一氏が「ルソーを思わせる」と称讃する「宮城県庁門前之図」でさえ、巧みな画面構成で破綻なく画面を纏め上げてはいるものの、「花魁」や「鮭」連作に見られるあの厳しい造形力はもはやそこには見られない。五十の坂を超えてから、由一は急速に文字通りの「アカデミズム画家」に変質して行ったように見える。目の前のものに対するかつてのあの恐ろしいまでの執念や、その表現における激しい気魄は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。
 端的にいって、私は、由一のこの変化こそ、「西洋画」との接触が彼にもたらした唯一の明白な結果であると思う。
 もちろん、私は、好んで奇異の論を説こうとするのではない。また、画学局に入る前に由一が体験したあの「洋製石版画」との出会いを忘れたわけでもない。たしかに「花魁」や「鮭」の作者の修行時代には、オランダ渡りの石版画との出会いがあり、それが彼の生涯に決定的な重みを持ったように見える。しかし、その石版画は、土方氏も指摘する通り、オランダ渡りとはいってもレンブラントの版画のようなものではなく、いずれ通俗的な三流作品であったに違いない。そのような安物の版画が、なぜ由一にとってあれほどまで重要な意味を持ったのだろうか。もちろん由一がその石版画に接する以前から、あるいは自ら意識はしなかったにせよ、そのような現実描写の世界を求めていたからである。芳賀徹氏が先に触れた論文の中で喝破しているように、「由一は日ごろこの迫真の美」を「わが画境のうちに実現したいと願っていた」からこそ、通俗的なオランダ渡りの石版画にも雀躍したのである。
 この間の事情は、ちょうど同じ頃、日本の「通俗的」浮世絵版画がフランスの印象派に影響を与えたのと似ている。由一が安物の「洋製石版画」に驚喜したというエピソードは、ヴァン・ゴッホが安物の浮世絵版画に感激したというあのエピソードを思い出させる。ゴッホも由一と同じように、通俗的な日本版画について熱狂的に語り、おそらくは「忽チ習学ノ念ヲ起シ」て実際に浮世絵の模写を試みたりしている。しかし、それにもかかわらっず――というよりも当然のことながら――ゴッホの生み出したものは浮世絵の世界ではなく、西洋絵画の歴史のなかにこそその場所を持つべきゴッホ自身の世界であった。動揺に由一も、「洋製石版画」の世界を追い求めながら、実は自分自身の世界を作り上げていたのである。少なくとも「花魁」や「鮭」まではそうであった。「花魁」の画面を支えているおよそ非西欧的な感受性の存在が、はっきりとそのことを物語っている。
 印象派のグループの中心人物であったカミーユ・ピサロは、息子リュシアンに宛てた手紙のなかで、日本の浮世絵版画は、印象主義時代に自分たちが求めていたものを「確認」させてくれたと述べている。つまり浮世絵の影響は、すでに彼らが自分たちだけで求めていたものの裏付けを与えてくれたというのである。事実そうでもなければ、浮世絵版画があれほど短い期間に、あれほど大きな影響を与えることはできなかったであろう。
 由一と「洋製石版画」との関係も、ほぼ似たようなものと言ってよい。オランダ渡りの石版画は、そうでなくても由一の内部において次第に明確なかたちを取りつつあったものを、いっきょに結晶させる刺戟となった。あるいは、すでにほとんどいっぱいになっていた容器を溢れさせる最後の一滴のやくわりをはたしたとも言える。というのは、目の前の現実を正確に観察し、そして観察したものを精密に表現するということは、すでに十八世紀以来、わが国の絵画が、少なくとも一部の先覚者たちにおいて、一貫して求め続けて来たものだったからである。
 明治二十六年、すなわち由一の死の一年前、彼は天絵学舎の旧門人一同とともに、東京築地において「油絵沿革展覧会」を催したが、その際彼は、自分の若い時からの作品とともに、油絵表現における先覚者として、司馬江漢、亜欧堂田善、北斎、文晁、杏所、川上冬崖、ワーグマン、フォンタネージ、国沢新九郎、横山松三郎等の作品をもあわせて陳列されたという。当時の新聞の伝えるところによると、なかでも「場の正面に肖像を掲げ清酒を供えて祀れる者三、司馬江漢、川上冬崖、及びホンタ子ヂー」であったという。(芳賀徹氏前掲論文参照)
 由一晩年のこのエピソードは、江戸末期から明治にかけての洋風画の発展の歴史のなかで、由一自身自分の役割をどのように考えていたかをはっきりと示していて興味深い。特に、同時代人であった冬崖、フォンタネージは別として、由一自身が生まれるより十年も前に世を去っている司馬江漢に対し、「正面に肖像を掲げ清酒を供えて祀」ったということは、彼が自分自身を、十八世紀後半以来何人かの先覚者たちのうちに目覚めはじめていた近代的実証主義の精神の後継者と認めていたことを物語っている。かつて江漢においてそうであったように、由一においても、洋画の修業は、現実世界のいわば「解体新書」にほかならなかったのである。
 良く知られているように、由一は自分のこのよううな精神的祖先ともいうべき司馬江漢の肖像を残している。といっても、もちろん江漢と面識のあるはずはないので、岐阜の司馬家に伝えられていた江漢自身の自画像に依拠してこれを描いたのであるが、それほどまでしてこの先人にオマージュを捧げようとする由一の熱意は、彼の江漢に対する尊敬の念と江漢への負債に対する自覚とを明瞭に示している。事実、由一が画学局に入学後まもなく(慶応元年冬)「画局ノ隆盛ヲ計ラント欲シ」て画学局の壁に掲げた有名な次の「的言」のなかには、江漢の思想の明白な反映が見てとれる。

「泰西諸州ノ画法ハ元来写真ヲ貴ヘリ眼前の森羅万象既ニ皆造化主ノ図画ナレハ写照スル所ノ像ハ則人功中筆端ノ小造物ナリ夫図画ハ文字ト用ヲ同フスト雖モ文字ハ只事ヲ誌スノミ其形状ノ細微ニ至テハ画ニ非サレバ之ヲ弁シ難シ‥‥‥(中略)‥‥‥和漢ノ画法ハ筆意ニ起リテ物意ニ終リ西洋画法ハ物意ニ起リテ筆意ニ終ル筆意ハ物ヲ害シ物意ハ筆意ヲ扶ク筆意ハ輪郭ノ経ニ起リ物意ハ濃淡ノ陰ニ発ス是ニヨリテ洋画ノ奇巧ヲ述ルトキハ宇宙の瞑々暗々タルモ日月ノ光輝ヲ受ルニ当レハ直ニ凸凹遠近深浅ノ形状瞭然タリ是ニ着目シテ人為ノ画法ヲ悟明セリ故ニ画ニ三面ノ法アリ又之ヲ望観スルニ大図小図ニ依リテ遠近距離ノ別アリ然ル所以ノ者ハ固ヨリ理ヲ究メ致スコトナレハ真ニ逼リ妙ニ至リ活潑生動セント欲スルハ是レ写真ノ貴キ所タリ‥‥‥(後略)」

 すでにしばしば指摘された通り、この由一の「的言」のなかには、江漢の『西洋画談』の思想が――時にはその文章までが――ほとんどそのまま生き続けている。ここで由一の言いたかったことはひとつには絵画とは決して単なる遊びではなくて「治術ノ一助」となる実用的なものだということであり、もうひとつは、そのためには明暗や遠近を的確に表現することのできる「洋画の奇巧」を学ばねばならぬということである。このような実用主義的、功利主義的絵画観は、江戸末期から明治初年にかけての画家たちに共通のもので、そのことはそのまま、当時の西欧文明輸入の一般的傾向の反映でもあった。そして江漢以来受け継がれてきたこの思想は、明治初期の日本洋画に少なくともひとつの際立った特色を与えた。それは「洋画」の導入が、必ずしも従来の伝統的画法を維持することを妨げなかったということである。おそらくそこに、由一の「花魁」や「鮭」の緊密な画面の生まれてくる基礎があり、同時にまた、晩年の彼の変質謎を解き明かしてくれるひとつの鍵があるのである。
 明治初期の洋画の輸入について語る時、われわれはまず由一の先輩の川上冬崖から始めるのが普通である。事実冬崖は、安政四年、蕃書調所のなかに絵図調方が置かれた時その絵図調所出役となり、次いで文久元年、画学局が設置された時、画学局出役となっている。由一が文久二年に画学局に入学した時、彼の指導にあたったのがこの川上冬崖である。
 しかしながら、冬崖は厳密な意味では「洋画家」ではなかった。むろん、蕃書調所にはいったということは、正式に西洋絵画の研究と指導の役割を与えられたことであり、事実冬崖は、油絵具の材料もないような時代に、西欧の絵画入門書を頼りに苦心惨憺しながら少しずつその技術を開拓して行くのであるが、しかし、彼の弟子であった松岡寿が後年、「一体川上先生は文人画では有名な人であったが、洋画は蘭書を見て教えるので実地の技法はあまり達者ではなかった」と回想しているように、もともとは洋画家というよりは南画家であった。彼は大西椿年、小田蒲川等について南画を学び、蕃書調所にはいってからも、ずっと南画を描き続けた。多くの苦労を重ねた洋画の研究は、彼の南画にはほとんど何の影響も及ぼしていないように見える。冬崖においては、純粋に実用的な技術としての洋画と、自己の趣味としての南画とが見事に截然と区別されていたのである。
 事実、冬崖は、徳川慶喜大政奉還後、暫くのあいだ沼津兵学校に招かれ、また明治五年には陸軍省兵学寮、明治九年には陸軍省参謀局、同十一年には参謀本部地図課という具合に、陸軍関係の仕事を転々としているが、彼のこの経歴は「洋画研究」なるものが当時どのような目的に支えられていたかを端的に物語っている。
 由一の歴史的意義は、河北倫明氏が「近代洋画の展望」(『近代の洋画人』中央公論美術出版 昭和34年刊に所収)のなかで正当に指摘しているように、冬崖においては「まだよくこなれあわぬ二すじ道の出来事であった」美術と技術とをひとつのものとして受けとめたところにあった。しかしその由一にしても、美術と技術とがひとつになっている西欧のオーソドックスな油彩画を正面から受けとめたわけではなく、通俗的な三流石版画やあるいは西欧の絵画入門書を通じて学んだ洋画の表現技法を、伝統的な感受性によって受けとめたのである。その伝統的な感受性というのは、ひとつには狩野派に代表されるような綿密な現実観察であり、ひとつには浮世絵版画に見られるような「平坦な色面」であり、そしてさらに、平賀源内や司馬江漢から受け継いだ実証的精神、いわば実学の伝統であった。洋画の技法を技法として受け入れる前に、これだけの基礎があったからこそ、由一の洋画は「花魁」や「鮭」において、西欧本来の油絵表現からややはずれたところで――まさにその「破格」の表現の故に――驚くべき高さにまで達することができたのである。
 したがって私は、「花魁」はもちろんのこと「鮭」や「豆腐」においてさえ、その「迫真的」な写実表現を支えたものは、西欧絵画の持っている写実主義の伝統ではなく、幕末から維新にかけての多くの知識人のなかにその同類を見出すことのできる実学の精神――合理的で実証的な思考法、先入主に捉われない即物的な認識態度――であったと考える。その意味でこれらの傑作は、まさに同時代の福沢諭吉の『文明論の概略』(明治八年)や、田口卯吉の『日本開化小史』(明治十年)や、久米邦武の『米欧回覧実記』(明治十一年)のなかにこそその精神的共鳴を見出すという芳賀氏の指摘は、きわめて適切なものであると私には思われる。
 江戸時代以来受け継がれてきた実学の伝統の上に西洋画の技法にもとづく写実表現を打ち建てるということは、その技法がまさに純粋の技法として――すなわち感受性の伝統から切り離されたものとして――受け入れられた時にはじめて可能となる。とすれば、由一が文久年間に始めて接したという西洋画が、三流の通俗的版画であってレンブラントではなかったということは、むしろ由一にとって幸運であったかもしれない。
 由一のように鋭い感受性に恵まれた作家にとって、レンブラントを見てそれを純粋に技法の世界だけのものとして受けとめることは困難であったに相違ないからである。もしそうであったとすれば、黒田清輝のように西欧の感受性そのものを移植しようと試みるか、あるいは劉生のように、西洋の感受性と日本の感受性との相克に悩むか、いずれかの道しかなかったであろう。その点由一が、(慶応三年の短期間の上海外旅行は別として)一度も海外に渡ったことがなく、実際に西欧の油絵の作例に接することがほとんどなかったということは注目すべきことのように思われる。あれほどまで洋画の技法を完全に自己のものにしたように見える由一が実際に見ることのできた西洋画と言えば、オランダの通俗的な石版画か、せいぜいのところワーグマンのような素人画家の作品に過ぎなかったのである。そしておそらくは、その事実こそが「花魁」や「鮭」の迫真的な表現を可能ならしめたのである。
 この間の事情を解明してくれるひとつの興味深いエピソードがある。木村毅氏の「ラグーザ玉伝」のなかに語られているお玉さんの言葉によると、由一があの「鮭」図を洋画の常識から言うと型破りの縦に細長い変形の画面に描いたのは、「油絵が横では、床の間に掛けるわけにも参りません、そこで柱に掛けるように、あの頃は、よく細長い板に描いたものです」という理由からだという(佐々木静一「高橋由一の鮭図について」早稲田大学美術史学会『美術史研究』第三号所収による)。おそらく黒田清輝なら、このような考え方はしなかったであろう。清輝にとっては、柱にかけるために細長い油絵を描くということは、油絵というものに対する冒瀆のように思われたに相違ない。それだけ由一は西欧の伝統に対して自由であり、清輝は西欧の伝統にとらわれていたということになる。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980.pp.27-35.

 由一が幕末にオランダの三流石版画を見て、自分の絵画観の方向性に大きなヒントを得たように、ゴッホや印象派の画家たちが日本の浮世絵版画を見て、その絵画観に影響を受けたことがちょうど鏡の裏返しのようにみることができる、という高階流の考察もなかなか鋭い。


B.タンザニアってどこ?
 アフリカ大陸には、いろいろな国があるが、タンザニアってどこにあるのかぼくらはよく知らない。真ん中のあたりにサハラ砂漠があって、地図を見るとその下を赤道が通っていて、東側のインド洋岸にケニアのナイロビという首都がだいたい赤道直下。タンザニアはそのケニアの南にキリマンジャロ山(5895m)とヴィクトリア湖で国境を接する大きな国(日本の面積の約2.5倍)だ。旧英国植民地でイギリス連邦加盟国なので、スワヒリ語と英語が公用語。首都は、1996年に議会が新首都ドドマに移されたが、実質的な首都はまだもとのダルエスサラームで、ザンジバルという港もある。しかし、これだけではどんな国なのか想像も湧かない。そこからノーベル賞作家グルナさんが出たということも、ぼくは知らなかった。作品は英語で書かれていて、日本では初めてその翻訳が出るという。
 スワヒリ世界、という言い方は、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語のスワヒリ語を使う地帯を意味する。ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダでは公用語となっている。スワヒリ語は東アフリカ沿岸地域の多くの民族の母語となっているバントゥー諸語の一つで、数世紀にわたるアラブ系商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語にアラビア語の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約50%はアラビア語に由来する。

「少年の受難と成長 スワヒリ世界を映す :ノーベル賞作家グルナさん「楽園」初邦訳
 2021年にノーベル賞を受賞したタンザニア出身の作家、アブドゥルラザク・グルナさんの代表作「楽園」(白水社)が邦訳された。グルナさんの作品が日本語に訳されるのは本作が初めて。訳者で法政大教授(アフリカ文学)の粟飯原文子さんに、作家と作品の魅力を聞いた。
  訳者にきく 
 グルナさんは1948年に英保護領だった東アフリカのザンジバル(現タンザニア)で生まれ、革命の混乱を受けて、67年にイギリスへ渡った。大学で文学を教えながら英語で執筆を続け、植民地化がもたらした影響と、自国を離れて生きることをテーマに多くの小説を手が空けてきた。
 「楽園」は、94年に発表された長編小説。20世紀初頭の東アフリカ沿岸地域を舞台に、父親の借金の形として大商人に引き渡される主人公、少年ユスフの受難と成長を描く。日本で紹介する1作目に本作を選んだ理由について、粟飯原さんは「彼の作品には、いわゆるスワヒリ世界の文化や社会、歴史が濃厚に映し出されている。『楽園』は、それが凝縮されたかたちで表された作品だ」と話す。
 また、欧米やロシアの文学を中心に親しんできた日本の読者にとっては「遠い世界」という印象を持たれるアフリカ文学にあって、「シンプルな文体で、なじみやすく、しかも、背景を知らなくても少年の成長物語や冒険物語としても読める」と太鼓判。 「分化や社会はまったく見知らぬものであっても、人物の心情や経験を身近に感じ取れる。そういう読書のすばらしさを本当によく伝えてくれる作品だと思います」
 一方で、深く読もうとすればするほど「テクストの向こう側に広がる豊饒な世界が垣間見られる」作品でもある。「スワヒリ世界はインド洋を介して、アラブやペルシャ、マレーシア、中国までつながる非常に長い歴史と人々の往来によって形成されてきた」。その上で、「いまタンザニアと呼ばれている地域がいかに複雑で、多言語で、いろんな文化が混ざり合っているかが非常によくわかる作品ではないか」と語った。
 『楽園』は「グルナ・コレクション」の一冊として刊行され、今後も続刊が予定されているという。 (山崎聡)」朝日新聞2024年4月10日夕刊2面。
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「日本近代美術史論」を読む 2 高橋由一(続)  オッペンハイマー!

2024-04-10 22:41:49 | 日記
A.弓剣二道の師と画技 
 日本における洋画、つまり西洋の絵画技法であるキャンバスに油絵の具で描く絵画を最初に本格的に取り組んで作品を残した画家は誰か、といえば1828年つまり文政11年という江戸時代の後半に生まれた高橋由一というのが、まあ通説として語られる。高橋由一は下野佐野藩堀田家の家臣高橋源五郎という武士の孫として育てられた人で、堀田家は一万石ほどの小藩だが、立派な武士の跡継ぎだった。しかもその祖父は武道の師範として弟子たちに弓剣を教えていたという。由一もその武道の後継者たるべく育てられるが、途中で絵の才能を認められ(また剣を極めるには体力に欠けると見られ)、明治維新になる前の江戸幕府の番所調所で洋画を学ぶ道に進んだという。彼が伝統的日本画ではなく西洋画を志した事情について、彼が晩年に息子に筆記させた『高橋由一履歴』という文書以外には、確かな文献資料がないことから、そこに書かれた彼が若いころに見た「洋製石版画」に出発点を求める説が定着した。しかし、それがいつのことであったか、『履歴』では嘉永年間と書かれているのだが、これは疑問があると高階秀爾氏は指摘し、もっと後の文久年間ではなかったかという自説を展開している。

「遠い昔の記憶については、自ら思い違いをしているところもあるであろう。それよりも明治十一年、由一がまだ五十歳の働き盛りに正風に語ったことの方が、いっそう真実に近いと考えて差し支えあるまい。すなわち、『由一履歴』に見られる嘉永年間の「洋製石版画体験」は、文久年間のことと修正する必要があるわけである。
 西欧の表現法と決定的な触れ合いが嘉永年間ではなくて文久年間に行われたということは、由一の作品を理解する上でどのような意味をもつだろうか。私見によれば、この十年ほどのずれは、かなり重要なものである。嘉永年間は由一が二十歳から二十六歳までの時期であり、文久年間は三十三歳から三十五歳の時である。自分がその中で育てられてきたひとつの文化的伝統とまったく異質の世界に二十代の前半に触れるのと、三十を超えてから接するのでは、かなり決定的な差異があるように思われる。そしてそのことに触れる前に、われわれは一応由一の歩んだ生涯の跡を辿ってみなければならない。

 高橋由一は、文政十一年(1828年)二月五日に生まれた。『高橋由一履歴』の冒頭には、
  下野国旧佐野城主堀田摂津守正衡家士
  高橋源五郎嫡孫承祖
  幼名猪之助後抬之介又由一と改む
 と書かれている。つまり維新時代に活躍した多くの若いインテリゲンチャと同じように、彼も地方の下級藩士の出身だったのである。そして「高橋源五郎嫡孫」と書かれていることからも明らかなように、彼は父よりもむしろ祖父の強い影響を受けた。父親は源十郎という名で、養子として源五郎の家に来たが、由一が三歳にもならないうちに離縁して家を出てしまった。したがって由一は、もっぱら実母と祖父母の手によって育てられることとなるのである。
 この祖父は、由一の語るところによると優れた武芸の達人で、多くの弟子を指導した人だという。

「‥‥‥祖父源五郎ハ弓剣二術ノ達ニシテ主命ヲ奉シ汎ク門下ヲ教導セシ人ナル故由一ニモ家業を継カシメントテ頻ニ此二道ヲ強イラレシカハ百事ヲ抛ツテ他ヲ省ミサリシカ生質多病ニシテ動モスレハ休業スルコトアルヨリ或日祖父厳ニ由一に向ヒ武術者ト成ランモノ身体健全ナラサレハ貫徹スヘカラス汝尫弱ニシテ武術者タランコト望ミ難キモノゝ如クナレハ今日ヨリ性質好ム所ノ画学ニ換フヘシ弓剣二術ノ相続者ハ他の門生中ニ求ムヘシト宣ヒシカハ夫ヨリ絵画ニ従事セント決断セリ‥‥‥」

 芳賀徹氏は、高橋由一を論じたきわめて優れた評論『幕末のある洋画家』(『自由』昭和38年12月号所収)において、由一のこの武芸から絵画への転向を重視し、
「‥‥‥由一は、日本画から洋画に転ずるよりさらに前に、武芸への道へのいわば挫折を経験し、弓剣に代うるに彩管をとる『決断』を強いられたのである。これはのちのちまでかれの画道に対する態度を決めた重要な事件であったと私は思う」
 と述べている。そして芳賀氏は、例えば「鮭」図に見られる「気魄」のようなものも、単に武士上りの画家というよりも、「意志的に剣を捨てて、画筆を構えた人」のものであると指摘している。
 芳賀氏のこの論文は、おそらくこれまで由一について書かれたもののなかで最も優れたもののひとつであり、由一の画業のなかにかつて「弓剣二術」を学んだことの反映が見られるというその指摘は重要な意味をもっているが、しかし、由一の場合、絵筆を手にすることは、必ずしも武道を捨てることではなかった。少くとも彼が弓剣から彩管への「転向」――もしそれが「転向」と呼ぶにふさわしいものであるなら――を決意した時、そこには一般に「転向」に伴う後ろめたさや、芳賀氏の言うような「挫折」感などは、およそなかったに相違ない。由一が晩年の病床においてその生涯を懐古しながら、「余武芸ト絵画トノ外学フ所無シ」と述懐したのも、逆に言えば「武芸ト絵画」に対しては、生涯ひそかな自負を失わなかったことを示しているのではないだろうか。むしろ由一においては、画学局の壁に掲げたというあの有名な「西洋画法のすすめ」のなかで「固ヨリ画ト字国用ヲ為シテ須臾モ離ルヘカラサル最大ノ技芸ナリ官開成所中ニ設ケタルハ其意ニシテ画学局ハ功要急務ノ関係スル所各官勉励セスンハアルヘカラス」と述べていたり、あるいは後年(明治十八年)に元老院議長に宛てて提出した「展画閣ヲ造築センコトヲ希望スル」上書のなかでやはり同様の主旨を披瀝していることからも明らかなように、「彩管の道」は「武芸の道」と同じように国家に尽す道であり、武士の武芸同様に誇るに足るべきものであった。彼が画学局に在学中、上官から、「君ハ始終理屈ニ富メリ其思想好カラサルニアラス然シナカラ理屈ヲ吐ク寸隙ニモ写法ヲ研究スルカ特益ナラン」と意見された時、昂然として、「絵事ハ精神ノ業ナリ理屈ヲ以テ精神ノ汚濁ヲ除却シ始テ真正ノ画学ヲ勉ムベシ」とやり返したというエピソードも、画業を単に小手先の職人芸とは見ずに、男子一生の事業として全身全霊を挙げてそれに打ちこもうとする彼の意気をよく物語っている。彼は武芸の道の落伍者になったから止むを得ず絵画の道で満足したのではない。絵画も武芸に劣らず価値のある事業であったからこそ、あえて生涯を絵画に捧げようとしたのである。
 同様のことは、由一の日本画から洋画への転向――これも「転向」と呼び得るのならばの話だが――についても指摘することができるだろう。もともと由一は、生まれつき優れた画才に恵まれていたらしい。『高橋由一履歴』には、
  「生レテ二歳筆ヲ把ツテ人面ヲ描ク母之ヲ奇トシ後来望アリト称ス…‥」
 というエピソードが伝えららているし、上に触れた明治十八年の上書のなかにも、
  「‥‥‥臣年甫メテ二歳偶然筆ヲ弄シテ人面ヲ描ク過ツテ世人の奇トスル所トナレリ…」
 と述べられている。もちろん、いかに天才でも、生まれて二年足らずの幼児が描いた「人面」がそれほど巧みなものであったとも思われないし、第一そのようなエピソードがあったとしても、果してほんとうに二歳の時のことであったかどうか何ら確証はないが、しかし、由一が母から聞いたというこの挿話を自分では信じこんで、好んで人に語ったということは事実である(友人信夫粲の贈文のなかにも、やはりこの話が語られている)。つまり由一は早くから自己の天分に目覚めさせられていた。そして母のみならずあの祖父までも、彼の画才を早くから認めていたようである。『履歴』によれば、彼は十二、三歳の頃から狩野洞庭という画家について運筆法を学び、次いで狩野探玉斎の門に入って絵を学んでいる。さらに、正式に絵画に志すようになってからは、田安家の画家吉沢雪葢にも教えを受けている。
 これら青年時代に彼が教えを受けた人々の影響が、後年の由一の画業にどのようなかたちで反映されているかということは、きわめて微妙な問題である。これまでの研究者は、ほとんどすべてそこにあ江戸末期の狩野派アカデミズムの形式主義しかなく、それなればこそ由一は、そのようなアカデミズムに飽き足らず、西洋画法の写実主義に惹かれたのだと説いている。つまり、由一が最初に学んだ日本画は、西洋画の新技法の前に否定さるべきものとしてのみ存在したというわけである。
 私自身も、原則的にはこのような見方に賛成である。狩野洞庭や狩野探索玉斎がどのような画家であったか、詳しいことを私は知らないが、しかしいずれにしても美術史上に名を残すほどの大家でなかったことはたしかであろう。彼らの教えが、狩野派アカデミズムの型にはまった形式主義的なものであったことは想像に難くない。由一自身もその『履歴』のなかで、これらの師たちは彼を満足させなかったと述べている。
 しかしながら、それにもかかわらず、若い時に狩野派の門に学んだということは、単にその「運筆法」を習得したというd家ではなく、それによって従来の日本画の伝統に触れ、その伝統を支える感受性のなかにはいりこむ少なくともひとつの道に踏み出したということである。それは、たとえ相手が形骸化したアカデミズムであっても、である。いや形式的なものとなったアカデミズムであればなおのこと、例えばものの見方とか対象の捉え方――ヴェルフリンのいわゆる「見る形式」――等においては、一層はっきりと伝統的な特色を示すと言い得るであろう。もちろん、それを単に小手先の技術としてのみ受け取る者も少なくないに違いないが、しかし、「絵画ハ精神ノ業」であると確信していた由一のような画家にとっては、青年時代におけるこのような伝統との接触は、その感受性の襞の上に何らかの痕跡を残さずにはおかなかったはずである。そしてそのことは、当然「洋製石版画」に接した時、それを受けとめる受けとめ方に微妙な陰影を投げかけたであろう。ここにおいて、由一の「洋製石版画体験」が二十代の前半ではなく、三十代になってからのことであったという事実は、かなり決定的な重みを持って来る。「花魁」に見られる非西欧的特色は、すでに完結したひとつの感受性の体系を暗示しているからである。
 もちろん、三十歳までの由一の感受性を養ったものは、狩野派の末流の教えだけではない。狩野派アカデミズムの筆法は、対象の明確な形態再現を通して、細部に対する鋭い観察力を養成したに違いないが、その狩野派と並んで、おそらく狩野派よりはるかに大きな程度において、江戸末期の通俗的浮世絵版画をも含めた日本特有の色彩感覚もやはり由一のなかに生き続けていた。「花魁」の平板で装飾的な色彩配合は、ルーベンスのものでもなければドラクロワのものでもなく、むしろ浮世絵の色――あえて言えば、ほとんど国芳や国貞のそれに近いもの――である。むろん、この連想は主題から来るものではない。「花魁」の鮮やかな色彩がそれぞれお互いのヴァルールの関係によって支配されない色、つまり端的に言えば空気の存在を知らない色だからである。西欧の油絵が空気の発見とともに登場して来たことを思えば、「花魁」の表現が「破格」であるのも当然のことと言えよう。
 そう言えば、「花魁」にかぎらず、有名な「鮭」図連作にしても、「豆腐と油揚」図や「読本と草紙」にしても、つまり明治十年から十一年頃までの由一の静物画は、その「迫真的」な描写にもかかわらず、奇妙なほど空気の存在を感じさせない。というよりも、空気の存在を感じさせない故にいっそう「迫真的」であると言うべきであろう。われわれは、対象とわれわれとのあいだに本来あるべきはずの空気の媒介なしに。文字通りじかに対象と直面させられる。そこには、ある種の目まいにも似た距離感の喪失がある。われわれとものとのあいだの正常なバランスが失われ、あらゆる細部が同じような力でわれわれに迫って来る。「花魁」の色彩表現に私の感じたあの奇妙に杯盤な感じ、「迫真的」であるにもかかわらず平面的であるその印象は、この距離感の喪失によるものであるに違いない。それは迫真的であるが故に平面的なのである。
 似たようなことは、「花魁」のみならず「鮭」その他の静物画に見られるほとんど超現実的といってもよい表現効果についても指摘できるであろう。事実これらの作品は、きわめて日常的な題材をきわめて写実的に描き出したものでありながら、日常のものたちがわれわれに与えてくれる親しみ深い暖かさに欠けている。それらの作品の不気味なほどの「迫真力」については、これまでにもしばしば語られて来たが、その不気味さも、対象のあらゆる細部が同じような力でわれわれに迫って来るところから生ずる日常的なバランスの喪失によるものであろう。ここでも由一は、写実的であろうとしていつか写実を越えてしまっているのである。

「花魁」の図は、これまで多くの研究者によって、「鮭」連作と相前後する明治十年ごろの作品と考えられて来た。しかし、隈元謙次郎氏の「高橋由一の生涯と作品」(『近代日本美術の研究』所収)によれば、それよりもやや早く明治五年(1872年)直後の作品とされている。作品の表現の展開の上から見て、この年代は私を十分納得させてくれる。「花魁」の画面に見られるあの奇妙な違和感は、「鮭」連作や「豆腐と油揚」図においてはずっと弱められているからである。それと同時に、細部の描写は時とともにいよいよ明確に、いよいよ「迫真的」になって行く。その発展は、対象の存在にいよいよ間近に迫って行こうとする由一の追及のきわめて論理的な帰結であるように思われる。しかし、それにしては由一芸術のその後の発展は、明治十一、二年ごろを境として急にせきとめられたように見える。由一自身は、まだその後十数年のあいだ、絵筆を握り続けているにもかかわらず、である。ここに由一の芸術のひとつの謎がある。
 事実、由一芸術の頂点が「花魁」から「鮭」図連作を経て「豆腐と油揚」図等の日常の事物の表現に至る静物画群にあると見ることは、おそらく誰しも依存のないところであろう。ということは、年代にすれば明治五年から明治十年頃、せいぜい下って明治十二年頃までの六、七年間のことである。「生レテ二歳」から筆を把って生涯絵画に身を捧げた由一としては、意外に短い期間と言わねばならない。特に、晩年十数年間は、作品が残っていないわけではないのに、「花魁」や「鮭」に匹敵するほどの厳しい緊張感に満ちた表現にまで達しているものはついに見あたらない。この事実はいったい何を意味するものであろうか。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980.pp.17-27.

 まるで推理小説の謎解きのように、高橋由一の西洋画体験から「花魁」を経て「鮭」図連作や「豆腐と油揚」という頂点に達し、それが失速してゆく生涯の輪郭を描く高階氏の追及は周到である。


B.映画「オッペンハイマー」をめぐって
 米アカデミー賞で作品賞など7冠を取った映画「オッペンハイマー」の日本公開が世界から約8カ月遅れて始まった。原爆開発を担った科学者の物語。日本でどう受け止められるのか。不安視する向きもあったが、封切3日間の興行収入が3.7億円というヒットスタートになった。異なる視点の識者3人が読み解く。
3人とは、映画監督 黒崎博さん、物理学者 野村泰紀さん、在米ライター 武田ダニエルさん。武田さんの話が興味をひかれたのでここに引用させていただく。

「少ない反発 愛国への懐疑心  在米ライター 武田ダニエルさん
 今に続く世界の不安や、「科学の発達」を名目に米国が行なってきた、傲慢で人権を無視する兵器開発への絶望感が強く漂う作品。「原爆が戦争を早く終わらせた」という米国人の意識は否定しないが、「決して正義感だけで作られたわけではない」という疑念は米国の観客にも抱かせうる。米国の歴史に批判的な作品だが、反発が大きくなることなく多くの人が冷静に受け止められたのは、米国への視線の変化の表れだと思う。
 今の米国は積極的に愛国心を持つ人がかつてほど多くない。米国が世界で無責任な行動を取り続け、トランプ氏の支持者が「アメリカファースト」を掲げる一方、それが差別や排除にも基づいている、とネガティブな印象を持つ人も増えた。Z世代は景気が良かった「素晴らしい米国」を経験せず、9.11テロ直後のナショナリズムの高まりも記憶になく、コロナかも経て米国というシステムに懐疑心を持ち、「悪い敵国は攻撃して当然」と戦争を讃美するような映画も受け入れられづらい。
 徹底的にオッペンハイマーの視点で彼自身の物語を描いたことで、結果的にさまざまな物語が排除された点は話題となった。日本では被爆地の場面がないとの指摘があるが、米国では実験時の先住民の追放や被爆が描かれなかった点が問題視された。(構成・藤えりか)」朝日新聞2024年4月8日朝刊23面、文化欄。

 ぼくも映画館に行って「オッペンハイマー」を見てきた。IMAXレーザー画面の上映だったので、原爆実験の場面をはじめ幾度か大音響の画面に座席がビリビリ振るえるような振動まで感じた。これは映像体験だけではなくまさに体感する映画かもしれない。
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「日本近代美術史論」を読む 1 高橋由一  海外への留学生が減っている?

2024-04-07 17:39:33 | 日記
A.近代洋画の黎明
 明治の西洋をモデルと見た近代化は、さまざまな分野で急速に浸透していったが、それが可能となったのは、すでに19世紀半ばの幕末期に、西洋の文物・技術・書物などが入っていて、とくに横浜と神戸開港によって一気に輸入文化の学習が進んでいった。経済や科学技術はいうに及ばず、法律や芸術についても、欧米から教師を読んで学ぶと同時に留学生を送り出し、西洋列強に追いつけ追い越せの熱が高まった。しかし、短期間で学習できる技術ならともかく、西洋近代の文化的基盤とはまったく異なる日本で、たとえば美術のようなものがどのような受容と展開をしていったのか、はその後の日本の近代化を見る上で、重要な問題を提起する。それは端的に、伝統的技法で描く「日本画の再構築」と西洋油絵や銅版画などの技法を摂取して描く「洋画の創造」が並行していたという事実を見ていく必要がある。
 そこで、この問題を具体的に画家に即して分析し論じたものが、高階秀爾の力作評論『日本近代美術史論』1980年、講談社文庫であるが、この原著が出たのはさらに前の1972年1月であり、そのあとがきによれば、1967年から69年の期間に執筆されたものだという。その初めの部分が高橋由一論であり、講談社の『季刊藝術』に掲載されたものである。『季刊藝術』は、遠山一行、江藤淳、古山高麗雄と高階秀爾の四人を同人として発行されていたもので、音楽、美術、文学を中心に当時新進から中堅の実力派の論者の論考を載せていたので、ぼくはまだ学生だったが、毎号買って読んでいた。高階氏はいうまでもなく、五年間のパリを中心とする欧州留学から帰って、精力的に欧州近代美術を中心とする評論を発表することで注目されていた。今、改めてこれを読もうと思ったのは、ぼくたちが美術といった時、オーソドックスな知識はまず印象派から始まってピカソやマチスの20世紀西欧絵画を常識的に考える。そしてそれ以降の現代美術へと見ていくわけだが、日本では「洋画」と一括される油絵や彫刻と「日本画」と呼ばれる絵画が併存するのが当たり前のように思われている。美大で洋画科、日本画科があるように、その違いは主に使う絵具や素材の違いが頭にある。でもこれは、明治以降にいくつかの契機でできあがってきたものと考えられる。
 そのへんを改めて、考えるにはこの『日本近代美術史論』ほど、多面的に教えてくれる本はないと思う。まずは冒頭の高橋由一論から読んでみる。

 「私が高橋由一の「花魁」(東京芸術大学所蔵)を初めてじかに見ることができたのは、五年間にわたる欧州滞在から日本に戻って何年か経った後のことであった。むろんそれまでにも、日本近代洋画史の冒頭に登場するこの作品のことを知らなかったわけではないし、上出来とは言えないまでも色刷りの複製で自分なりに作品の概念を形作ってもいた。しかし、鎌倉の近代美術館の展示室で現実に作品に接したとき、私は自分のそれまで持っていたどこか漠然とした作品のイメージが、急に透明なものとなって音もなく崩壊していくのをはっきりと感じた。私の前にあったのは、まったく見も知らぬ他人のように冷たく強烈で、不気味でさえもある別のものであった。それは、ほとんど驚愕に近い新鮮な衝撃であったといってよい。そして、むろんその衝撃は私にとって不快なものではなかった。私はいつかこの作品の前で快い昂奮にひたっている自分を幸福に感じていた。
 もちろん、現実に作品に接してみてそれまで自分がひそかに作り上げていたそのイメージがすっかり別のものになってしまうという体験は、私にとってかくべつ珍しいものではなかった。それどころか、ヨーロッパ滞在中は、そのような体験の連続であったとさえ言える。しかし日本に帰ってから、それも明治以降の洋画についてそのような体験を味わうのは、きわめて稀であった。しかも、由一の「花魁」の前で感じた新鮮な感動のなかには、例えばロマネスクの教会堂やルネッサンス期の名作に接したときに受ける感動とは、どこか微妙な点で食い違うものがあるように思われた。少なくともヨーロッパにおいては、「花魁」を前にして私が覚えたような苛立たしさに似た感じ、一種の異和館ともいうべきものをほとんど感じたことはなかった。
その違和感というのは、単に自分にとって馴染みが薄いという感じとは違うものである。西欧の芸術作品のなかにも、自分にとってきわめて身近なものという共感を与えてくれるものもあれば、どうしても自分には馴染みのないという縁遠い存在もある。しかしいずれの場合にせよ、作品に強い印象を受けた時、その印象がいかに思いがけないものであっても、私はほとんどつねに納得させられた。ヴェズレーの教会堂においても、システィナの礼拝堂においても、私があらかじめ自分のなかに作り上げていたイメージは見事に崩壊させられてしまったが、しかし私は、その驚きを自分で受け入れることができた。だが由一の「花魁」の場合はそうではなかった。私は納得させられなかったのである。ヴェズレーやローマにおいて私の感じた感動が、「なるほど、そうだったのか」という驚きをともなっていたとすれば、「花魁」から受けた感動のなかには「いや、そんなはずはない」という違和感が、拭い去り難くつきまとっていたのである。
 そのような違和感は、もしかしたら、私が無意識のうちに、「花魁」の作者のなかにさえ、ナルキッソスに憧れながら自分の言葉では語ることのできなかったあの神話の世界のニンフのように、西欧流の絵画表現に憧れながらただそのこだまだけを空しく繰り返していた多くの日本近代画家たちと同じ運命を予期していたことに由来するものであるかもしれない。わが国の近代洋画史が、西欧絵画の技法と様式をたえず追いかけ続けながらそれを何とかしてとり入れようとした模倣と移植の歴史であったということは、今やほとんど常識となったかのように見える。もしそうであるとするなら、由一の場合にしても、西欧の油絵の持つ写実的表現を輸入しようとして、かなりの程度までそれに成功した画家というもっぱら技術的な次元に問題は還元されてしまうであろう。事実、これまでの由一に対する見方は、その「成功」の度合いをどの程度まで評価するかによって意見は分かれるとしても、問題の所在を写実的技法の次元で捉えようとするものが多かったことは否めない。例えば、土方定一氏は、かつて『日本近代洋画史』(昭森社 昭和十六年刊)のなかで、高橋由一も含めて明治初期の日本の洋画の課題は、写真のような写実性を追求した技術的問題であり、「美意識以下の問題」だと規定したし、最近では匠秀夫氏が『近代日本洋画の展開』(昭森社 昭和三十九年刊)において、由一の意義を、「素朴な写真主義による写実主義の基礎づけ」という点にあると断定している。(ただし、土方氏は、近著『日本の近代美術』においては、由一に対してかなり違った評価を与えている。この点については、後に触れることになるであろう)
 もちろん、私が「花魁」を前にした時、西欧絵画の歴史のなかで作られてきた油絵というものの概念をどこか頭の片隅に置いていて、それとの対比において由一の作品を眺めたということは、大いにあり得ることである。しかし、その結果そこに「美意識以下」の技法の問題だけしか見なかったとしたら――つまり「花魁」の画面は西欧の油絵の技法をかなりうまく消化してはいるが、まだ至らぬ点もあるというように感じたものとすれば――私はこの作品にある程度の不満、あるいは逆に(といっても結局は同じことであるが)ある程度の満足を覚えたとしても、あのような違和感は感じなかったであろう。私がこの画面の前で「いや、そんなはずはない」と感じたというのは、単に西欧の油絵の技法一般とのずれを感じたからだけではなく、西欧の油絵という技法の奥にある感受性とは明らかに異質の感受性がそこにあり、しかもその異質の感受性が、本来それにふさわしい乗物ではない油絵という技法に乗って見る者に伝えられて来るというそのことに由来するように思われる。つまり、由一の作品が、少なくとも「花魁」が、われわれに投げかける問題は、決して単に技法の習得の程度の問題ではなく、異質の感受性のぶつかりあいの問題なのである。
 例えばこの「花魁」の豪奢な衣装の表現を見てみるがよい。毛皮のついた裲襠(うちかけ)の紫がかった黒と赤、それに胸許の白い襟や茶褐色の毛皮などの鮮やかな色の対比、または漆黒の髪に無残なほど差し込まれた鼈甲の櫛と多数の笄、簪、そして兵庫下髪と呼ばれるこの髷を結ぶ白い水玉模様のはいった青い手がら等々に見られる色彩配合は、ルネッサンス期から現代までの西欧のどのような感受性ともおよそ無縁のもののように見える。まして、毛皮の部分の表現などに、かなり筆跡の濃い厚塗りの部分があるにもかかわらず、この画面が全体としていちじるしく平板な――ほとんそ不自然なほど平板な――印象を与えるのも絵画特有の「迫真的な写実性」を追求したはずの明治期の洋画家というイメージにそぐわない何かを感じさせる。
 四かも重要なことは、「花魁」の画面の持つそのような「平板さ」や、西欧的なヴァルールの調和を無視したような色彩の並列が、決してただ油絵技法の習得の未熟さによるものではなく、逆に油絵本来の感受性とは異質の感受性によって強く支えられていることである。それというのも、「おいらん」のはいごにあるその異質な感受性の存在を、私自身、自分のなかにはっきりと認めるからである。さもなければ、私は「花魁」の画面にあれほどまで強烈な衝撃を受けることなど、あり得なかったに相違ない。それは単純に下手な油絵か、せいぜいのところエキゾティックな興味をかき立てるほどのものでしかなかったはずである。だが、西欧的な意味からすれば「破格な」その画面に、私は紛れもない自分自身の感受性に呼びかける何かを感じ取った。私が「花魁」の前で味わった新鮮な感動は、「迫真的な写実性」以上に、私の内部に眠っていた「歴史」に対するその呼びかけの強烈さに由来するものであった。明らかに私は、「花魁」のなかに自分の同胞を見出していた。いや自分自身のなかに「花魁」の世界の存在を感じ取っていたのである。
 もちろん、「花魁」の画面にそのような強い共感を覚えるということは、その画面の持つ「破格な」表現が解消されてしまったということにはならない。それどころか、「花魁」の持つ「破格な」特性は、そのまま増幅されて私自身のなかに再生させられた。もはや明治初年のある絵画作品のなかにではなく、私自身の内部において、歴史が大きな裂け目を見せはじめていたのである。私が「花魁」の画面に感じた違和感の正体は、おそらく自分の内部の歴史のその亀裂の深さであったに相違ない。
 したがって、私は「花魁」の画面に感動して、それにもかかわらず違和感を覚えたのではない。私の感動そのものが、違和感によって支えられていたのである。似たような体験は、例えば岸田劉生の「麗子像」のある種のものに対しても私は味わった。より少ない程度においてではあるが、小出楢重の裸婦のあるものが私に与えてくれた感動も。それに近い。もしかしたら、そのような違和感は、多かれ少なかれ近代日本のかいがしにつねにつきまとっているものかもしれない。だが差し当たり今のところはその問題は問わない。この小論の主題は高橋由一である。そして、私の由一との出会いは、「花魁」の画面に感じたあの違和感にはじまるのである。
 高橋由一が、川上冬崖と並んで日本における近代洋画の開拓者であることは、あらためて言うまでもない。そして冬崖も由一も、西欧の油絵の持つ「迫真的」な表現力に惹かれて、洋画の研究に志したということも、多くの研究者の指摘する通りであろう。事実、由一自身、晩年になって息子の源吉に筆記させた『高橋由一履歴』(明治二十五年刊)のなかで、「嘉永年間或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観セシニ悉皆真ニ逼リタルカ上ニ一ノ趣味アルコトヲ発見シ忽チ習学ノ念ヲ起シ」たと、自から洋画の映像世界にはじめて触れた時の驚きを懐古している。この『高橋由一履歴』は、最初は刊行の意図なく、ただ家族のためにのみ語られたもので、由一自身、「我家ノ子孫コレニヨリテ予カ一生ノ梗概ヲ知ルヲ得ハ足レリ必ス此ノ稿ヲ門外ニ出シテ我愧ヲ重フスルコト勿レ」といましめているくらいで、いわば身内のメモのようなものに過ぎないが、しかしそれだけに、由一が何の飾りも衒いもなく自分の生活を淡々と述べたものとして、貴重な文献である。まして由一の経歴については、全体でわずか三十頁ほどのこの小冊子以外拠るべきものはほとんどないということになれば、なおのことそうであろう。したがって、明治初期洋画について語る研究者たちが、ほとんど申し合わせたようにこの「嘉永年間云々」の一節を引用しているのも、あえて異とするにはあたらない。ただ、この有名な一節を引用する者は、いずれもその内容を文字通り事実として受け取っているが、しかし私には、その内容は、歴史的にいささか修正を要するもののように思われる。この一節から彼が蕃所調所の画学局にはいるまでの経過を述べた部分は、次のようなものである。
 「嘉永年間或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観セシニ悉皆真ニ逼リタルカ上ニ一ノ趣味アルコトヲ発見シ忽チ習学ノ念ヲ起シタレドモ其伝習ノ道ヲ得ルコト難キニヨリ日夜苦心焦慮シケル中官ニ請フテ海外人ニ随フノ外アルヘカラストノ考ヘツキシカ其手続を得事能ハサレハ空シク日ヲ送リシニ又其前創設ノ蕃所調所ニハ万一用画法ヲ見聞スルノ一端ヲ得ルコトモアルヘシト思ヒ当リヌヨリテ種々他人ニ要路ヲ試問セシモ便利ヲ得サリシカ幸ヒニ甲州産ノ道具屋利兵衛トイフ者麹町ニ居リ入魂ナリシカハ同人ニ尋問セシニ同人ノ曰ク親戚ナル同国人真下専之丞氏目下蕃所調所ノ組頭ヲ奉職セリ速ニ同人ニ委託セハ良結果アルヘシト由一コレヲ聞キ雀躍ノ余リ厚ク紹介ヲ委託セシニ日ヲ置キテ真下氏ノ答ニ本人ノ志願嘉スヘシ調所内ニハ夙ニ画図局アリ先輩ノ教官アリテ学生ヲ教導セリ早ク入学願書ヲ出スヘシトアリシ由通セラレシカハ天ニモ昇ル心持シテ文久二年九月五日免許ヲ得入学ヲ終ワリ画局教官川上万之丞ノ指示ヲ受ケ通学勉学セリ…」
 
 この一文を読んで私が疑問に思うところというのは、由一が「或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観」したのが「嘉永年間」だというのは、いささか年代的に早過ぎるのではないか、それは実は嘉永年間ではなくて、もう十年ほど後の文久年間ではなかったろうかということである。
 といって私は、嘉永年間に「洋製石版画」があったはずはないなどと言っているのではない。土方氏が『日本の近代美術』(岩波新書 昭和四十一年刊)において指摘しているように、ここで由一の言う「洋製石版画」とは、「オランダわたりの通俗的な風景、風俗画であって、現在ならば、好事家の興味をひく程度の版画」とみて誤りないであろう。その程度のものなら、銅版画も含めれば、嘉永年間はおろか十八世紀以前においても、長崎を通じてかなりわが国に招来されている。むろん、「通俗的」なものと言っても、透視画法や明暗法を駆使したその表現は、充分に由一を驚かずに足るだけのものを持っていたに相違ない。
 私が由一の「洋製石版画体験」を嘉永年間から文久年間まで引き下げようというのは、先に引いた文章自体、そうでなければ解釈のつかぬものを持っているからである。事実彼自身語るところによれば、洋製石版画を見て「忽チ習学ノ念ヲ起シ」てから蕃所調所に入るまで、かなり短時日のあいだに事が運んだように思われる。由一にしてみれば、何とかして洋画を学びたいと「日夜苦心焦慮」して八方手を尽くしたであろうから、習学を決心してから画学局入学まで、早ければ数か月、どんなに長くかかったとしてもせいぜい一年か二年の期間だったと考えるのが妥当であろう。ところで、もし由一の「洋製石版画体験」がほんとうに嘉永年間、すなわち1848年から1854年までのあいだに起ったものとすれば、その時から画学局に入学する文久二年(1962年)まで、最も短くて八年、長ければ十数年という歳月が経過している計算になる。これが文久二年だったということははっきりしているのであるから、「洋製石版画体験」もその直前、すなわち文久元年か二年のことであったと考えるのが適当であろう。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980.pp.8-15.

 この日本洋画の出発点ともいうべき高橋由一の、「洋製石版画体験」がいつのことだったか、をめぐってまるでミステリーの謎解きのような論考が続くことになる。高階美術評論の神髄のような箇所である。

B.留学生の未来
 世界には文明の中心として知識と情報が集積して栄えている場所があり、そこへ行けば、最新の知識と技術を学ぶことができる、と信じて遥かかなたの辺境から苦労してやってきた留学生たちによって、文明は伝播するということは、歴史上いくらでもあるが、日本にとってはその中心は永らく中国の王朝のある場所だった。文字も宗教も技術も、中華文化圏からの輸入で発展してきた東アジアの島国が、方向を変えて西欧近代文明のほうに中心があると信じ、いっせいに欧米に学ぶべく留学生を送り出したのは19世紀後半だった。その結果、日本はいちおう近代化を達成したと思ったけれど、もう欧米に学ぶことはない、「近代の超克」は日本から始まる、と一瞬考えたりしたのだが、どうもそうはいかなかった。今の日本はいろいろな面で行き詰っている。それを打開するには、若者を留学させて新進の知識や技術を学ばせる必要があると考えて、政府は留学生倍増計画を作ったのだろうが、これが成功するとはとてもいえない。

「海を越えて学ぶ意義:週の初めに考える
 「日本」の国号を公式に使い始めたばかりの717年、吉備真備や阿倍仲麻呂ら557人が4隻の帆船で、難波の港(現・大阪市)から旅立ちました。その半数は舟の漕ぎ手。目指すは最大の国際都市、長安(中国西安)でした。
 玄宗皇帝が治めた唐の都はシルクロード交易で繁栄。中央アジアのソグド人、ペルシャ人、ムスリム商人のほか、日本、朝鮮半島、ベトナムなどアジア各地から多様な人々が集まっていました。
 ほぼ20年に一度、海を渡った留学生の目的は最新の学問と技術、語学を学び、仏教や儒教の経典などを手に入れることでした。
 真備は入唐から18年後、儒教全般にわたる典籍や史書を日本に持ち帰ります。さらに天文暦書、楽器、武器などを伝え、朝廷で異例の出世を果たしました。
 一方、仲麻呂は勉学に励んで科挙の最難関の進士に合格し、皇帝側近として位階を上ります。盛唐の詩人、李白や王維とも親しく交流しました。しかし、帰国船が難破し、奈良の「御蓋の山」を再び見ることなく、半世紀余りを過ごした唐で亡くなりました。
 804年には空海と最澄がともに留学僧として唐に入り、帰国後それぞれ真言宗、天台宗の開祖となったのはご存じの通りです。
 国を挙げての留学ブームは日本の歴史上3度あったとされます。遣隋使・遣唐使の後は、江戸の幕末から明治期にかけて欧米に使節・留学生が盛んに派遣されます。第2次大戦後はフルブライト交流をはじめ米国留学が主流になり、日本の復興と科学技術の発展に有為の人材を多数輩出しました。
 いずれも日本社会の大きな変革期に当たり、新たな政治・社会制度や先端技術を学ぶ必要に迫られてのことでした。
  4度目の留学熱なるか
 政府は今、4度目の留学熱を盛り上げようと躍起です。2033年までに年間50万人の留学生を送り出す目標を掲げました。新型コロナ禍前の19年の実績が22万2千人ですから、それを倍増させる野心的な計画といえます。
 内訳は学位取得などを目的とする大学生・大学院生らの長期留学が15万人(コロナ禍前は6万2千人)、中・短期の留学23万人(同11万3千人)、高校生の留学・研修12万人(同4万⑦選任)。
 しかし、大きな壁が立ちはだかっています。まずは経済的な問題です。1ドルが152円に迫る34年ぶりの円安は、海外での勉学と生活には大打撃です。奨学金制度の拡充が急務になります。
 大学に進学した若者が留学を志そうとするのは3~4年次が中心ですが日本ではインターンシップ(就業体験)や就職活動の時期に当たります。留学生を増やすには企業が採用制度を抜本的に見直す必要があるのかもしれません。
 人類は至急温暖化や、エネルギーと食糧・水資源の不足など共通の危機に直面しています。こういう激動の時代だからこそ海外で学ぶ意義があるのではないか。
 さまざまな人々と文化、多様な社会、価値観に触れることで相互理解が深まれば、単独では不可能でも、国際社会の協調により解決できる問題があることも気付くでしょう。平和の尊さを再認識する機会にもなります。
  絶えぬ紛争防ぐために
 コロナ禍は想像以上に海外との往来を妨げました。日本学生支援機構の最新の調査によると、22年度の大学生らの留学は、18年度のピーク時(約11万5千人)の半数余りにとどまります。
 米中対立など国際情勢の緊張も暗い影を落としています。
 北京大の賈慶国教授は3月、米国からの留学生が、10年前の訳1万5千人から昨年は約350人に激減したと明らかにしました。中国の「反スパイ法」も一因です。日本から中国への留学も18年度は8千人に迫りましたが、22年度は200人余りとみられます。
 米中対立の余波で日中関係も改善が進まない中、北京の日本大使館で3月、日本人留学生と中国人大学生の「合同成人式」が開かれました。14回目の式典には約150人が参加し、振袖や漢服姿で談笑しました。
 ウクライナやパレスチナ自治区ガザなど世界各地で紛争が絶えませんが、主義主張が違うからこそ留学などを通じてお互いの立場を知り、存在を認め合うことが重要です。相互理解こそが無益な衝突を防ぐのです。
 日本は居心地がよく、外に目が向かないかもしれません。でも未知の世界に飛び込む選択肢があることも忘れないでください」東京新聞2024年4月7日朝刊、5面社説。
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「能」を知る・補遺   加藤周一の指摘   言葉のズレ?

2024-04-04 17:35:40 | 日記
A.あった!これか。
 観世清和・内田樹『能ってこんなに面白い』を手掛かりに、能をお勉強してみたのだが、なるほど奥が深くて、なによりもっと能舞台を見なければ何も言えない気もするが、この本の中に出てきた世阿弥の時代の能は、江戸以降の武家の式楽ではなくて、もっと身分も階級も超えた芸能だったということを加藤周一が早く指摘していたという文章を読んで、それはどこに出てくるのか気になったので、加藤の『日本文学史序説』ではないかと思って書棚を探したら、『序説』の下巻はあったのだが、室町時代の能狂言に触れているであろう上巻が見つからない。それで、区立図書館で検索したら『日本文学史序説』本体ではなく、「『日本文学史序説』補講」(ちくま学芸文庫2012年)だけがあった。この補講は、世界7カ国語に翻訳され、高い評価を得た『日本文学史序説』について、著者みずからが2003年夏に、白沙会という読書グループが五日間の合宿で、著者加藤氏に質問と回答、そして議論をした記録という形で公刊されたものだ。これを借り出して読んだら、こういう記述があった。

「歌舞伎に大衆は登場しない。大衆に対する演説もしない。シェイクスピアにはよく出てきます。『ジュリアス・シーザー』もそうだし、歴史物の『ヘンリー五世』もそう。一対一ではなくて、兵士を集めて、「一緒に来るやつは来い、帰りたいやつは帰れ」と演説するでしょう。そうして兵士をもういっぺん説得して、積極的に一緒に闘うという者だけを連れていく。そういうことが根本的な問題。大衆が出てこないと、惹きつけるものは、感情的な一対一の人間関係と、劇上の衣装や装置になるでしょう。
――歌舞伎を支えた町人相手では、哲学的なものよりも娯楽第一でいかざるをえなかったのでは。また、シェイクスピアを支えた英国の人々は貴族的階級で、支持層が違うのではないか。
 シェイクスピアはかなり日本の能に似ているかもしれない。階層的に上から下まで観に来ていました。グローブ座というのは貴族も来ていたけれども大衆も来ていて、貴族だけが支持していたわけじゃない。お弁当食べたりお酒を飲むものもいて、ずいぶんうるさかったらしい。シェイクスピアの事情はそういうことです。
 歌舞伎が発達した一つの理由として、能と狂言は室町時代にはかなり大衆的だった。ことに京都の河原能というのは、ほとんど貧乏な農民よりもっと下の農奴に近い階層の人たちも観に来ている。もちろん坊さんも貴族も来て、極端な場合、将軍も来ている。将軍から乞食までいたのが京都の〈勧進能〉です。それが室町時代の話。ところが、徳川時代に能と狂言を貴族と支配的な武士階級が奪った。支配層だけに限定して庶民を中に入れない。それと劇団をお抱えにしてしまう、役者はそこから月給をもらえるわけで、大衆から切り離されてしまった。だから、大衆は歌舞伎をつくって対抗したというところがあると思います。
 むつかしい哲学はないとはいいきれないところもあって、狂言にはかなり哲学があります。本来、材料も観ていた人も大衆的なもので、能のなかにも狂言的要素がもっと入ってきてもいいと思います。狂言のなかの哲学は、歌舞伎よりもむしろ多いくらいかもしれない。かなりするどいことをいっています。歌舞伎のなかでは生活態度としての経済問題にはあまりふれませんが、狂言ではいろいろふれているところがありますね。
 それから男女の関係も狂言のほうが自由だ。男女の差別を強くしていくのは、歌舞伎は町人の芸能だけれども、人気の歌舞伎役者は比較的、武士社会の価値体系や倫理観をそのまま保存している場合が多いのです。そうすると男女差別も当然ふくむから、やはり歌舞伎には男女差別がある。狂言の方はそうじゃない。たいていは太郎冠者が大名をとっちめる。その逆は少ない。〈女物〉になると、女が出てくればたいてい男がとっちめられるので、男が女をとっちめる狂言は少ない。『鈍太郎』にしても『塗師』にしても、みんな女のほうが頭が良くて、能力があって、男をやっつける。そういうことは歌舞伎ではほとんどない。
 これは非常な違いです。庶民生活の描写のなかで、徳川以後の歌舞伎には出てきません。どうしてかといえば、男女差別にしても権力的な階層性の差別にしても、江戸時代というのは要するに差別的社会でしょう。室町のほうが開放的で、まだ差別はそれほど固定していない。だから、頭のいいやつが少しとんまな目上のやつをいじめる展開になる。建て前としては男が偉くて女は仕えるということになっているけれど、実際問題としては女のほうが頭が良くて、男はぼんくらだとなる。男のほうがからかわれたり、助けてくれなんていっている。そういう〈笑い〉が歌舞伎からなくなってしまったのは、幕藩体制なるものの階層的構造の反映だからです。室町時代はそうではなかった。一度はそうではない時代があったのです。
 もうひとつ付け加えると、江戸時代でも農村では男女差別はわりあい強くなかった。ところが、歌舞伎というのは農村ではやられることが少ないので、町人芝居です。町人社会は武士階級の階層性を輸入している。そしてかなり儒教的です。
 ――ジャン・コクトーが歌舞伎を観て、それを『美女と野獣』に取り入れたという。フランス人に歌舞伎はどう映ったのか。
 コクトーは、まあ想像がつきますが、ジャン=ルイ・バローでさえ歌舞伎に興味をもったし、テアトル・ド・ソレイユも歌舞伎を取り入れた舞台をつくっています。それはさっきいった舞台装置とか衣装の色彩を取り入れたのであって、芝居の内容とはぜんぜん関係ない。彼らは日本語がわからないし、観ているだけでは何もわからないでしょう。花道なんかは面白いし、それはちょっとギリシャ劇に通じるところもある。ギリシャ劇は額縁舞台ではなくて、周囲ぐるりに観客がいて真ん中に舞台があるという点では、花道も半分同じ。客のすぐそばでやっているわけですから。近代劇のように、行儀よく額縁舞台の中に収まっていないという共通点があります。そういうことにも興味をもったのでしょう。
 それと、仮面劇の伝統はヨーロッパでも強いのです。ヴェルディのオペラにもありますが、劇上の外でも仮面舞踏会があり、カルバヴァーレのときには街中に仮面の男女があふれていました。化粧は本来、マスクの模倣だと思います。隈取などは、中国の芝居で盛んに使用するお面の代わりに、じかに塗った。現在では回り舞台にはそれほど感心しないでしょうけれど、花道などの舞台空間やマスク、衣装の色には興味をもつはずです。
 それから、様式化されたしゃべりかたが面白いのでしょうね。テアトル・ド・ソレイユで、ムヌシュキンという女の人が使った歌舞伎だと、花道を通して両側に観客がいて、隈取をして出てくる。われわれもサムライが出てきたような感じがします。あまり正確な模倣じゃないけれど、何となくサムライ的な役者が出てきて科白をいうと、科白はフランス語でも日本語でもない、イントネーションだけ。“うわー、うううわぁー”なんていう(笑)、何となく歌舞伎の調子、発声法に似てなくもない。ギリシャ劇とも違う。そういうのをやっていました。ヴァンサンヌの森の中の昔の兵器庫を改造した劇場です。
 ポール・クローデルは歌舞伎については書かなかったが、能については書きました。それだけでなく、能の影響の強い『繻子の靴』という芝居を書いています。前ジテは勇敢なルネッサンスの冒険家で、後ジテは没落した死の迫っている男です。二人の人物のたたかいではなくて、同じ一人の人物が変わっていく芝居です。
 人物が一人ということが根本的、卒塔婆小町なら卒塔婆小町が問題なんで、あとの人物は付録みたいなものでしょう。二人の人物が争っているというのではない。西洋式の、ことに近代劇だと、二人の人物が基本で、そのあいだになにかがおこる。二人の人物がが出てくるだけではつまらないので、たとえば喧嘩するとか抱き合うとかなるわけだ。だから、ヨーロッパ的な劇とは「何かがおこるものだ」というのです。
 ところが能は違う。いくら待っていても何もおこらない(笑)。何しろゆっくりだから、まぁそれもあるのだろうけれど、とにかく能の登場人物は一人で、一人では何もおこりようがない。おこらないのだけれど、人物が面白い。小町というような個性的な人物が到着する。Arriverというフランス語は〈到着する〉という意味。「芝居では何か事件がおこるけれども、能では何かが現れる、到着する」とクローデルはいいました。
 『繻子の靴』は、クローデルの代表作で、最後の作品です。渡辺守章さんの詳細な註を含む見事な日本語訳(岩波文庫)があります。クローデルにとっての能は、単なる冗談や思いつきではありません。能は彼を深くとらえたのだと思います。〈生〉と〈死〉の劇、人間の意志と運命の必然、夢幻能の構造はほとんどそのままギリシャ悲劇のそれと呼応するのです。
 ――「大衆の涙と笑い」(定448頁)と「笑いの文学」(下135頁)で町人の川柳とか諧謔を含んだ小咄が出てくるが、「しかし農民は笑わなかった」(下137頁)とも書かれている。〈笑い〉どころではなかったのか。西洋の農民の〈笑い〉はどうか。
 その記述は、それどころじゃなかった、ということに重点があった。農民の文学に〈笑い〉はなかったですよ。町民文学の中では〈笑い〉はだんだん増えてくるのだけれど、天明の頃は一揆をしていたので、農民はかなり苦しかった。彼らの上に町人文化と武士の文化があって、酒井抱一なんかでもそうですが、ぜいたくな支配層です。
 ヨーロッパでは、農民といえるかどうかという問題はありますが、支配層でない民衆の中には〈笑い〉の文学がありました。〈笑い〉の文学を書き大規模な仕事をしたのは、十六世紀フランスのラブレーです。『ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語』、これは哄笑です。ラブレーのひとつの柱は生命力みたいなものですが、大酒を飲んでゲラゲラ笑うというもので、その笑いは、無害なものではない。政府や貴族や学者、それから教会の坊さんに対する強い〈笑い〉、しばしば攻撃的です。
 中世からルネッサンスにかけてのフランスの農民を含めた民衆の中の〈笑い〉は大いにあったと思います。
 ――しゃれのめすというのは町人の文化ですね。関西でそれに対応するような〈笑い〉の文化は?
 そう。江戸時代の、ことに十八世紀から十九世紀にかけての町人文化です。関西に文化の重点があったのは、だいたい十八世紀の中頃まで、その頃から文化の新しい創造力は江戸に移ります。「おつ」だとか、「町奴」だとか、「男意気」といった言葉がそうです。「侠客」という言葉は元来中国語だけで、江戸時代にも使われた。「助六」みたいなもの。だけど《助六由縁江戸桜》ですから「助六」は江戸です。江戸前の巻き舌の啖呵。フランス語は南部に行くとrを巻くんだけど、日本では江戸のべらんめえ言葉。
 私はおそらく「べらんめえ」言葉を子どものときに聞いた最後の世代でしょう。父親はそうじゃなかったけど、父親の知人の中には本当の江戸弁の人がいました。「ひ」と「し」の区別ができない本当の江戸の方言です。もう少したって、歌舞伎座に行って舞台の歌舞伎役者の科白を聞きましたが、最後の「べらんめえ」は五年くらい年長の人までかな。小倉朗さんという作曲家は日常会話に少し、軽く巻き舌の調子が残っていましたが、もう完全に滅び去ったでしょう。まぁ、あんまり知的じゃない(笑)。」加藤周一「『日本文学史序説』補講」ちくま学芸文庫2012年。pp.194-202.

能より狂言のほうがリベラルで、男性優位ではない!そうか、これは狂言についてももっと見なきゃな。


B.英霊は「英国の幽霊」? 新婚「むんむん」
 だいぶ前だが、大学である学生に君が好きな音楽は?ときいた年配の先生が、「ぼくはほとんど邦楽ですね」という答えを聞いて、「ほう、君はなかなか渋いね」と答えたのを見ていて、「邦楽」の中身が先生と学生ではぜんぜん違うことに双方気がついていないので、可笑しかった記憶がある。そうしたことはいつでもどこでも起るのだろうが、以下の歌人の指摘はなかなか具体的で面白くて、考えさせられるものがある。

「言葉季評:ズレへの驚き 根底にあるのは   歌人 穂村 弘 
 こんな短歌を見たことがある。

 英霊を英国の幽霊と問ふ若者の顔まじまじと見つ     吉田樽石

 若者の問いにショックを受けたのだろう。英霊とは戦死者の霊を敬っていう表現。だが、その言葉を知らない世代が現れた。あの戦争からそんなにも時間が経ったのか、と。
 ある言葉を知らなければ、その文字から意味を想像するしかない。英霊は「英国の幽霊」かな、と若者は考えた。その時、頭の中には、米霊、独霊、仏霊、露霊などの言葉も浮かんでいたのかもしれない。我々の知る世界像からはズレた別世界のイメージだ。
 こんな歌もあった。

 定年まで勤めて退職することを「寿退社」と思う若者    臼井慶子

 寿退社とは結婚を機に退職すること。だが、そのような慣習が薄れた時代の若者は、この歌のように思うのかもしれない。「寿」がめでたさを指すことはちゃんと理解しているのだ。

 近頃の学生たちは新婚をほやほやでなくむんむんと言う     小林浦波

 思わず、くすっとなる。そうか、今は「むんむん」なのか。知らなかった。新婚の濃度もずいぶんと高まったものだ。英霊や寿退社の場合とは違って、新婚は「ほやほや」が正解と決まっているわけでもなさそうだ。
*     * 
 このような言葉のズレを生み出す要因としては世代や年齢差が大きいと思うが、それだけではない。例えば、インターネット上で「びっくり水はどこのお店で売っていますか」と尋ねている人を見かけたことがある。びっくり水とは、麺などを茹でるとき、沸騰した湯に入れる差し水のこと。だが、質問者はそのことを知らなかったのだろう。そういう水がお店に売っていると思ったのだ。これは世代の違いというよりも、過去の体験や料理をするしないといった生活習慣の問題だろう。
 これらの例からわかるのは、ある人や世代にとっての常識が他の人や世代にとってもそうであるとは限らない、ということだ。ただ、頭でそう理解はしていても、自分がそれまで当然と信じてきた言葉が伝わらないと、やはりショックを受ける。英霊を知らないなんて、びっくり水を知らないなんて、と怒ったり呆れたりするかもしれない。
 そのような反応の根底にあるものは怖れの感情ではないか。これは単に一つの言葉が死語になるという問題ではないからだ。本人にとっては、自分がそれまで拠って生きてきた世界像の一部が消え去ることを意味している。
 我々の一人一人が、生まれてから現在までの間に形作られた世界像の中で生きている。それは蜘蛛にとっての蜘蛛の巣のようなもので、ひとつずつ形も大きさも異なっている。まったく同じものは二つとない。そんな蜘蛛にとって、自分の巣の一部を失うことは世界を壊されるような衝撃だろう。
 だが、一人一人の裡なる世界像は、現実の蜘蛛の巣と同様に目に見えにくい。だから、何かの拍子にその違いが可視化されると驚いてしまうのだ。 
*      * 
 その実例として、以前も書いたことのあるエピソードだが、二つほど紹介してみたい。一つ目は、生前の父とのこんな会話である。
 「お父さん、昔、猫飼ってたの」
 「うん、飼ってたよ、子どもの頃な」
 「ごはんは何をあげてたの」
 「ん?餌をやったら、猫を飼う意味がないだろう」
 一瞬、父の言葉が理解できなかった。でも、気がついた。「餌をやったら、鼠を獲らなくなるだろう」という意味なのだ。昭和一桁生まれの父の「子どもの頃」とは戦前。令和の現在とは猫の位置づけがまったく違う。同じ新婚でも「ほやほや」と「むんむん」のズレがあったが、同じ猫でも父と私の間にはそれ以上のイメージのズレがあった。
 世界像の違いが可視化されるきっかけは言葉のズレだけではない。それが行動のズレのこともある。エピソードの二つ目は、父が海外旅行に行った時の話である。適当な鞄がないというので、我が家のスーツケースを貸したことがあった。そこには飛行機やホテルのステッカーがたくさん貼られていた。事件は帰国後に起こった。父がお土産をつめた鞄を返しにきた時、妻が悲鳴をあげたのだ。
  「スーツケースが!」
  「おお、なんかべたべた貼ってあったから全部きれいにしといたよ」
 父はにこにこと言った。スーツケースにびっしり貼られたステッカーをゴミだと思ったのだろう。全部剥がしてぴかぴかにしてしまったのだ。もちろん、良かれと思ってのこと。でも、それは妻にとっては大切な思い出の証しだった。堪えきれずに泣き出してしまった。父はおろおろ。う~ん、そうきたか、と私も天を仰いだ。全員にとって予想外の悲劇。その原因は世代差とも言い切れない感覚の違いだった。昭和一桁生まれでも、妻のように考える人はいるだろう。でも、無骨な父はそういうタイプではなかったのだ。」朝日新聞2024年4月4日朝刊13面オピニオン欄。
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「能」を知る 9  能楽師の生活  大嘘?

2024-04-01 17:26:03 | 日記
A.家元と弟子
 江戸時代は能狂言は大名や旗本家の式楽で、お城の御殿にある能舞台で決められた日に上演されていたから、能役者たちは武士の身分で抱えられて、大身とはいかなくても生活は安定していたと思われる。それが明治維新で武士がなくなり、能役者もパトロンから援助を貰わないと厳しい生活を余儀なくされた。それでも現在まで能が昔の形態を維持して続いていたのは、なぜだろう?ひとつは家元制度が各流派でしっかり継承され、富裕層の嗜みや趣味として謡や仕舞を含め多くの弟子をとっていたことがあるだろう。さらに、歌舞伎や浄瑠璃は常打ちの劇場を持ち、舞台を維持する衣装道具と裏方を含め、そのつど大きな費用がかかるので、国からの公的支援なしでは成り立たないが、能は能舞台一つあれば(あるいは野外でも可)演目はほぼ決まっているし、面や衣装も代々伝わるものでできるので、新たな投資はあまり要らない。つまりコスト的には、歌舞伎に比べてコスパがよいと思われる。でも、浄瑠璃のように公的支援でかろうじて維持されている伝統芸能の文化財保存的あり方に比べて、能狂言の人たちは親代々継承された芸の人が多く、演能の入場料収入は乏しくても、なんとか自前で家元制度を維持しているようだ。

 「―お家元は、昔の式楽と違って、この現代の中でお能をやっていらっしゃることをどういうふうにお考えなのか教えて頂きたいです。
観世 織田信長とか豊臣秀吉とか、徳川家康だって、みんなこぞって競い合うようにお能を舞っていたのです。どうしてだかわかりますか?お能は観るものじゃない、お能はやるものなのです。お能はやってこそ、その深さがわかってくるのです。お稽古をしつつ、お能をご覧になると、もっと世界が広がってきますよ。
 能は、徳川の三百年間、武家の公式な芸能である式楽で、それ以前は、室町幕府の庇護のもとにありました。明治維新以降、いまはそうした権力者のパトロンがいるわけではないのですから、現実問題、大変なことは山ほどあります。文化というのは、お金がかかるものなのです。これはお能に限らず、どの世界だってそうで、そこに投資をして下さる方々というのは、本当に一握りです。
 たとえば、東京の観世会の定期能公演も運営をしてゆくためには、文化庁や日本芸術文化振興会の助成金の申請を出すなど、いろいろと手段を駆使して、より良い舞台を作るための努力をしております。歌舞伎の場合は大きな後ろだてがあるけれど、私たちにはない。それぞれの流儀に所属しているプロの人たちが力を結集して、興業をする、稽古もする、弟子の稽古もつける。非常に難しい時代になってきていることは事実です。
 お客様に切符を買っていただいて、おこしいただくには、やはり良い舞台をお客様にご提供申し上げるというのが、僕ら役者の責務だと思います。それにはまず稽古。己の稽古も、弟子の稽古も、さきほど「魂を削って」なんていささか大袈裟な言い方もしましたが、本当にそれぐらいの意気込みで私どもはやっているのです。
内田 能の一番良いところは市場原理と無縁だということです。他のエンターテインメントだったら、興行収入がいくらあったか、客がどれくらい入ったかを基準にして演目の良否が判定される。でも、能の場合、客がよそよりたくさん入ったからと言って「買った」と喜ぶ能楽師なんかいません。舞台で演じられているものの質だけが純粋に問われている。市場原理の干渉からしっかりと守られていることが、能楽の最大の強みではないかと思います。」観世清和・内田樹『能はこんなに面白い!』小学館、2013年。pp.191-192.

 名鑑などによれば歌舞伎役者の場合、入門して10年で名題試験に合格して正式に歌舞伎役者として認められた人はおよそ400人ほどいるが、能楽者として認められているプロは、狂言も含め各流派合わせて113人ほどであるから、やはり圧倒的に数は少ない。

「観世 『松風』の「汐汲」の型で、シテが常座に立って、型は少ないのです。謡だけで表現をしてゆく。そういうところにその役者の人となりとか、芸の暗いみたいなものがお客さまのほうに漂ってゆかないとダメだということを、よく先代が申しておりました。
 実際、先代が若かりしころ、『松風』は高貴で、浄化した曲というとらえ方をしていた時代がありまして、とくに中之舞も、今現在のお囃子の速度よりももっとゆったりしていて、「鬘者(かずらもの)」(シテが女性で優美な舞いが中心の曲)志向というのでしょうか、「狂い物」という意識よりも、位を重んじる、そういう演奏だったようです。それが解釈のいろいろな時代の流れのなかで、狂乱というものにもっとテーマを置いてゆくという世界になったようです。
「汐汲」の型については、芸の位が如実に出るところなのです。稽古を積んだからといって出るようなものではないと思うのです。
 じゃあ美しさというのはどこから出るのか。やはり芯の強い部分からほとばしる美しさというのでしょうか。とくに『松風』は現行曲の中でも、傑作だと思います。
内田 ほんとに名曲ですね。もしかするとこれが能楽現行二百曲の中で上演回数もいちばん多い曲なんじゃないですか。
観世 いちばん多いと思います。春秋の催し物の多いときには必ずと言っていいほど『松風』は出ていると思います。
松岡 「熊野松風(ゆやまつかぜ)は米の飯」という言葉がありますけれども、これについてはどういうふうにお考えですか。
観世 『熊野』『松風』は、味わえば味うほどお米と同じようにおいしいのだ、という説もありますが、長唄の『熊野』と『松風』さえ教えておけば、町のお師匠さんが食いっぱぐれることはないよ、という説もあるようですね。
松岡 金春禅竹が「歌舞髄脳記」という書物の中で『熊野』と『松風』を並べているんですね。それで「幽幻の能」だというふうに言ってまして。ですから『熊野』と『松風』を並べる意識というのは、少なくとも禅竹のあたりからは、もうすでにあった。
 禅竹はたぶん春の能として『熊野』(平宗盛に寵愛される娘・熊野が清水寺に向かう花見車に同乗し、宴席で病床の老母を想う歌を詠み、帰郷を許される)を書いていると思うんですね。秋の能である『松風』の作者は世阿弥でしょうけれども、それを並べて春と秋の名曲で、幽玄ののうなんだというふうに、並べるような意識が出てきた。それで、江戸時代になって長唄のお師匠さんがそんな形で教えるように(笑)。
観世 禅竹の書物には、松岡先生、「米の飯」のことは出てこないのですか(笑)。
松岡 出てこないですね、たしかに。
 ですから禅竹のように、世阿弥より一世代ぐらい下になると、あの二つを並べて、やっぱり最高の曲だという認識が出てくるんだと思うんです。ほんとに私も能を見始めたころは、『松風』って長いだけで、なんかもう疲れちゃうみたいに思ってたんですけれども、少し分かってくるとやっぱりこれはいい曲だし、わかってくればくるほど「ほんとにいい曲だ、最高の曲だな」と最近思うようになりました。
松岡 細川満元という足利義持を管領として支えた副将軍みたいな人がいまして、世阿弥のパトロンでもあるんですけれども、『松風』の節について「夜寒何と過ごさん」というところを「下音(げおん)から出ろ」と指示していると、「申楽談義」に書かれているんですね。細川満元という人は宴曲つまり早歌の名手でもあって、音曲的なことにも秀でているような、しかも禅に非常に深く入っている人なんですけれども、そういう人が世阿弥に注意を与えているということで。ですからそういう意味で、細川とのやり取りの中でできてきた曲かもしれません。
そうしてみると、もう一つ『松風』で考えてみたいことがあるんです。細川満元という人は聴松軒という塔頭を自分の家にこしらえて、そこで座禅なんかしてるんですけれども、「松籟」とは松風の音のことで、これは茶釜がたぎる音のこともいうので、お茶の世界にも流れていきますね。こういった禅の精神風土のなかで、松風の音を聴くということが非常に持てはやされた時期というのが足利義持の頃にあったわけです。それをバックに世阿弥が『松風村雨』を、松風と村雨を自分で創造して、最後は『松風ばかりや残るらん』というので、人間が残るんじゃなくて松風の音だけが残るんだよというふうな形のこしらえ方をしたという可能性もある。
この説が正しいのかどうかはわかりませんけれども、『松風村雨』という曲はいろんなところで、そういうトップの武将、とくに禅に関係する武将らがバックアップして作っていった曲だったのかもしれません。
観世 実際に「夜寒何と」と、今も下から謡います。
松岡 じゃあ、それは直っている。
観世 ええ。実際、私どももご注意をそのまま守って、もう何百年も前からですよ。
内田 なんで松風というか、「松籟」に対して、そういう霊的な重要性を与えていったんでしょうね。
松岡 不思議ですね。中国でも松風の音っていうのはそれなりにあるんだと思うんですけど、やっぱり日本でだと思うんですね。
内田 ほかにもいくつも木はあると思うんですけども、なぜ松なのか。
 荘子に「天籟」という言葉が出てきますね。古来解釈の難しい言葉とされているんですけれど、天から到来してくる風の音のことなんです。これが聴く人によってまったく違う音に聴こえて、違う意味に聴こえている。聴こえてくる風の音の中に、一人ひとりが違う世界を読み込んでいく。これは一種の瞑想というか、あるいは一種の行として、長い伝統を持つ身体技法なんです。能では諸国一見の僧という、ある程度宗教的な訓練を積んだ人が霊を見るわけですけれど、おぼろげなものを視覚像として見る場合もあるし、音を聴く場合もあるし、匂いを嗅ぐ場合もあるし、温度や湿度の変化を感じる場合もある。松籟というのも、聴く人間ひとりひとりの感受性の違いに従って、それぞれに聴き取る音が違う。そういう経験なんじゃないでしょうか。海岸の松の風の音の向こう側に、その人の霊的成熟度によって、それぞれに違うものが幽玄として立ち現れてくる。ある時、見所で拝見していた時に、ほんとに松風が聴こえてきたような、須磨の朝風に頬がなぶられるようなそういう体験をしたことがあるんです。『松風』がとくに見所の共感を得られるのは、海岸の松の間を拭き渡ってくる潮風というのが、日本人にとっては非常に親しみのある、耳慣れた音でもあるからでしょうね。
松岡 北九州に蒙古が攻めてきた鎌倉時代のころは、筥崎宮(福岡市東区)があるあたりはすごい松原あの箱崎の松原を通して吹いてくる風の音が仏教的な浄土だと、これは私の音楽だというとらえ方があります。能の『箱崎』(世阿弥が神功皇后の伝説をもとに創作)という曲では、〈箱崎の 松吹く風も、波の音も たぐへて聴けば 四徳波羅蜜〉という歌がありまして、それがメインに据えられているわけなんです。だから松風の音は極楽の音楽であり、仏教の音楽なんだというとらえ方ですね。そこには日本的な自然観のエッセンスみたいなものがあると思うんですけれどね。
内田 チベット密教の行法に「倍音声明」ってあるんです。ぼくたちも武道の稽古の中で行うんですけれど、何十人かで輪を作って母音を繰り返し発声していると、だんだん倍音が聴こえてくる。倍音は上から降ってくるんです。最初はチャリチャリというガラスと触れ合うみたいな音なんですけども、だんだん音が低く、厚みのあるものに変わってくる。面白いことに、ヨーロッパ人が聴くと倍音は教会の鐘の音やグレゴリオ聖歌に聴こえ、日本人が聴くとお寺の鐘の音やお経が聴こえてくる。「天籟」というのは、どうも自分が最も聴きたい音が聞こえてくるというものらしいんです。」観世清和・内田樹『能はこんなに面白い!』小学館、2013年。pp.191-231.

 『松風』は若い姉妹が主役の能で、どんな老齢のシテでも白い若い女の面をつけ衣装をまとえば、そこに美しくなまめかしい美女が現れる。まことに能面とはすごいものだと思う。

 
B.日本列島から米軍撤退?
 本日はエープリルフールです。ということで、ありえないことが起きると考えるのは、ずいぶんと愉快ではないか。

「米軍、日本撤退へ  大矢 英代 (おおや・はなよ)
 歴史的な瞬間だった。3月28日、米国が日本国内から米軍を撤退させる方針を発表した。バイデン大統領は「軍隊は軍需産業ばかりを繁栄させる一方で、軍事的緊張を高め、攻撃対象となる可能性が高く、周辺住民への危険も想定される」と強調。今後、世界各地の800もの米軍基地を順次撤去し、最終的に、米国内限定の「国境警備軍」の新設を目指す。従来の米国の世界戦略を根底から覆す方針転換だ。
 米メディアの調査によれば、米国人の8割が「そもそも日本に米軍基地があるなんて知らなかったので、撤退しても問題ない」と答えていることから、国民の支持は容易に得られるだろう。基地跡地は、米側の経費負担で汚染処理を行ったのち、日本側へ返還される。長年、基地負担軽減を訴えてきた沖縄県民にとって吉報だ。
 困ったのは日本政府だ。一報を受け、政府首脳は大急ぎで渡米。バイデン大統領に方針転換を求めて泣きついた。さらに年2千億円以上の「思いやり予算」に年3千億円を上乗せすることを報告。日本側は「おもてなしです」と満面の笑みで、残留を要請したという。しかし、もしこの条件で米軍がとどまれば、今後、「おもてなし課税」導入は避けられず、物価高騰で爪に火を灯しながら生活する国民への負担は必須…だなんて、悲しいかなあり得そうな話。(カリフォルニア州立大助教授)」東京新聞2024年4月1日朝刊19面「本音のコラム」。
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