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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

理性の運命 9 サルトル以後  妻妾公認だった時代があった

2023-05-16 11:59:46 | 日記
A.舞台はフランスへ
 19世紀にフランス、とくに首都パリは、西洋文化の中心地だった。フランス大革命とナポレオンのやった大戦争で、ヨーロッパ中を混乱と破壊殺戮に巻き込んだにもかかわらず、というかそれゆえに、近代文明の最先端を走るのは、フランスの文化と学問藝術だと少なくともフランス人は信じていたし、ヴェルサイユのブルボン王朝以来、ドイツや東欧ロシアなど辺境の田舎で、貴族たちはみなフランス語を話して土着民の使うドイツ語やロシア語など卑しい言葉として使わなかった。その19世紀の半ばに西洋文明に接触してこれはかなわんと、とりあえずパリに行って最先端の知識や技能を学ばねばならん、と若い留学生を送り込んだのが崩れかかった徳川幕府だった。フランスでも産業革命と科学技術が本格的に動き始めたのは、ナポレオン戦争のあとだから、タイミング的に近代文明の学習にとって日本の開国・明治維新は間に合うチャンスだったわけだ。
 しかし、20世紀になるとそのフランスの輝かしい先進文明は陰りを見せ、第1次大戦で決定的に没落してしまった。哲学思想という領域でも、ドイツやイギリス、そしてアメリカに遅れをとってくる。しかし、ベル・エポックに浸った旧世代は、もう20世紀の現代思想の新思潮についていく意欲も気力もないまま、第2次世界大戦で再びパリはナチスドイツに占領され、戦後のフランスには少数の若きインテリ、エコール・ノルマルの俊英がドイツの現象学に目を向けて、やがて実存主義から構造主義という哲学思想を生み出すことになる。そして、彼らとは別の道で独創的な思想を生み出す青年がウィーンからロンドンに渡る。  

「木田 20年代にドイツで育まれた哲学、ことにフッサールからハイデガーを経由する現象学が、30年代になって、やっとフランスに移植されることになるんです。フランスというのは昔から中華思想の強いところで、ドイツなどは後進国だというのでほとんど問題にしない。ドイツ哲学などもそれまでは、ほとんど勉強していない。それが30年代になるとヘーゲルもマルクスも精神分析も現象学も、まとめて移植しはじめる。実際にそれをやったのは、当時まだ20代の後半だったサルトルやレイモン・アロンやメルロ=ポンティといった人たちなんですね。フランスは第一次大戦の戦勝国なんで、ドイツほどには大きなショックはうけなかったものだから、それこそ古き良き時代をよみがえらせようとして、実際上はすでに形骸化していた既成の価値体系なり社会秩序なりを微温的に保持しつづけていたわけです。そうした沈滞した雰囲気が30年代にはいるころには知的な領域でも露骨に出てきて、まったく不毛の状態に陥っていた。ベルクソンはもう歳をとってだめだし、大学の講壇ではブランシュヴィック流の退屈な観念論が飽きることなく講じられるといったような。
 ドイツのナチス政権の成立も、まったく無抵抗に見逃してしまうというフランスの政治的な無力感も手伝って、フランスのインテリたちは、それこそ「失われた時を求めて」みたり、「アミエルの日記」のように「内面的生活(ヴィー・アンテリユール)」に閉じこもって自分自身とのはてしない対話にふける、なにかそういったひどい無気力に襲われていた時期なんですね。ヒューズのいう「ふさがれた道」に入りこんでいたわけです。若い世代はそれにはとうていがまんができない。そこで、それまで見向きもしなかったドイツ哲学に、猛然とくいついていく。1933年には、サルトルが現象学の勉強をしにベルリンへ出かけてゆく。メルロ=ポンティも、自分なりのやり方でフッサールやハイデガーを読む。アレグザンドル・コジェヴがパリに亡命してきて、ヘーゲルの『精神現象学』の講義を始めるのも、そのころ、たしか38年からだし、しかも、一方で現象学を勉強しているメルロ=ポンティたちがその講義を聴講してヘーゲルを勉強し、そのコジェヴ流のヘーゲルから出発してマルクスを読むといったように、フッサールもハイデガーもヘーゲルもマルクスもフロイトも、もういっしょくたに読んで消化しはじめるわけですね。
生松 なるほどね。
木田 その成果がやがて、サルトルの『存在と無』や、メルロ=ポンティの『行動の構造』『知覚の現象学』となって結実してくることになる。サルトルはその前、30年代に想像力や情動(エモーション)についての一連の現象学的研究を発表しています。その時期には、フッサールの『イデーン』第一巻を足場にしていたんですが、『存在と無』になると、ハイデガーの『存在と時間』やヘーゲルの『精神現象学』の影響がずっと目立ってきますね。
 一方、メルロ=ポンティの方は、ゲシュタルト学説の勉強をかなりやっている。ゲシュタルト心理学や神経生理学の領域でのゲシュタルト理論、前に話に出たゴールトシュタインの全体論的立場、それに亡命したゲシュタルト心理学者たちに刺激を受けて展開されたアメリカの新行動主義の心理学ですね。それとあわせてフッサールを読み、ヘーゲルを読んでいるんです。なかでも、フッサールの後期の思想をかなり的確に受けとめて、それを展開していくかっこうで、この二冊の本を書いている。現象学の展開ということで考えると、メルロ=ポンティがいちばん正統のような気がしますね。そうした戦前戦中の仕事が基礎になって、第二次大戦後、この二人を中心にフランス実存主義の運動が花開くことになるわけです。
生松 33年以降になれば、ドイツの文学者たちもずいぶんパリに亡命することになるし、パリからさらに南フランスの方にも亡命していくわけですね。
木田 33年以降は、ドイツは知的にはまったく沈黙状態にはいるようなものでしょう。ナチスの御用学者たちは別でしょうが。フランクフルト学派の連中にしても……。
生松 いわゆるフランクフルト学派というのは、1931年にホルクハイマーが所長になって以後の社会研究所のスタッフなんですね。研究所そのものは、1924年にできている。所長はその時はグリュンベルク。この人もみずからマルクス主義者をもって任じていたから、ドイツではアカデミーの世界にマルクス主義者がここではじめて入りこむことになったわけです。
木田 しかしすぐスイスに亡命してしまう……。
生松 そう。33年にはナチスが政権をとるから、その年にはジュネーヴに亡命、さらにパリ、ニューヨークと研究所そのものが亡命してしまう。ホルクハイマー、マルクーゼ、アドルノ、ポロックといった有力なスタッフのほとんどがユダヤ人ですからね。ユダヤ人といえば、ウィーン学団というのはどういうことになるかな。
木田 論理実証主義というのは、文字通り近代主義の貫徹でしょうね。このウィーン学団というのは、ウィーン大学のシュリック(1882~1936)を中心に、だいたいは個別科学の専門家たちが集まってできたグループなんですが、ベルリンにいたライヘンバッハ(1891~1953)なども加わり、哲学を徹底的に科学的な方法でやってゆこうという考え方をした。公式には1929年に新しい哲学運動として名乗りを挙げている。そしてこのウィーン学団の聖典とされたのが、ヴィトゲンシュタイン(1889~1951)の『論理哲学論考』なんです。ヴィトゲンシュタイン自身はこの学団そのものと直接の関係はないんですが。
生松 ヴィトゲンシュタインというのは、マーコムやラッセルの書いた伝記・追想、邦訳では『放浪』という題でしたかね。あれを読んでみても、じつに面白いですね。本当の天才という感じがする。彼もウィーンのユダヤ系の家系の出ですね。
木田 大実業家の息子で、はじめベルリンや、イギリスのマンチェスターで、航空工学の勉強をしたんですが、数学基礎論に関心をもつようになって、フレーゲに相談して、ケンブリッジのラッセルのもとに移って勉強するんです。1911年ごろですね。第一次大戦がはじまると、志願してオーストリア軍に入るのですが、その塹壕のなかや捕虜生活中に、背嚢のなかに入れて歩いた『論理哲学論考』を完成しているんですね。骨組みは戦前にできていたんでしょうが。これがラッセルに送られて、1922年に公刊されたわけです。
 これをほとんど聖典のようにして、ウィーン学団の連中が新しい実証主義の運動を起こすことになる。
生松 だいたい、ウィーンというところは、実証主義の伝統の強いところですよね。マッハ(1838~1916)以来。おそらくその伝統の一つの革新という意味があるんでしょう。
木田 記号論理学の発達を背景に、概念や命題の意味を論理的に分析し、そこに混入している経験的に検証不可能な非経験的形而上学的要素を除去しようという、徹底した経験主義、実証主義の立場に立つわけですが、古い経験論のように感覚与件だけを唯一の実在と考えるのではなく、経験と、それを表現する道具としての記号系との二元論に立つかっこうになる。その論理分析の思想にヴィトゲンシュタインやラッセルが強い影響を与えたわけですね。
生松 広い意味での分析的思考の徹底という意味では、近代主義の貫徹ですね。
木田 ただね、ウィーン学団に決定的な影響を与えたヴィトゲンシュタインの方は、『論考』を書き上げてしまうと、哲学を放棄してオーストリアの僻村の小学校の教師になったり、修道院の庭師見習いになったり、ウィーンで姉の家を建築したり、彫刻をしたり、それこそ放浪の生活を送り、1929年にようやくケンブリッジにもどってふたたび哲学の研究をはじめるのですが、この時期には、はっきり『論考』の立場を捨ててしまうんです。このあたりの転回は、フッサールの施策の展開とじつによく似ているところがある。
生松 というと……。
木田 いや、もともと、フッサールもヴィトゲンシュタインもオーストリアのユダヤ系の家系の出だし、数学基礎論の研究から哲学に入っている。しかも、二人ともその重要な段階でフレーゲから示唆を得ているんです。フッサールは、1890年代に、おそらくだれよりも先駆けて、ということは、フレーゲの意図を継いで『数学原理』で数学的論理学を実際に構築してみせたラッセルやホワイトヘッドよりも先に、フレーゲの論文を詳細に検討している。そして、そこから示唆を得て『論理学研究』の第一巻「純粋論理学のためのプロレゴーメナ」を書いているんです。一方ヴィトゲンシュタインも、その約十年後フレーゲに勧められてラッセルのもとで研究をはじめる。そして、『論考』を書いているわけですね。
 おまけに、フッサールの「純粋論理学のためのプロレゴーメナ」もヴィトゲンシュタインの『論考』も、そのねらいは「純粋論理学的文法」を構築することに向けられている。これはつまり、すべての言語を整序しうるような合理的な「普遍文法」を樹立しようということなんで、言語を徹底的に論理化し、言語の意味を論理的真理に従属させようとする試みなんです。そういう意味では、近代合理主義の極度の徹底にほかならない。
生松 デカルトやライプニッツ以来の理想の実現ですね。
木田 ところが、二人ともやがて、そうした立場を捨ててしまう。ヴィトゲンシュタインの場合は『哲学的探究』に代表されるいわゆる後期になると、意味を真理に従属させるような検証主義の立場を清算して、語の意味を、言語の内部でのその語の用法にのみ認め、思惟やその論理からの言語の自律性を主張するようになるし、フッサールも、20年代以降のいわゆる後期には、言語を思惟の外皮と見るのではなく、言語によって肉体化されることによってはじめて思惟も可能になるというように考えるようになる。『形式論理学と超越論的論理学』や、遺構として残された『幾何学の起源』なんかじゃ、そういう考え方をしている。二人とも、後期には、言語を論理から解放しようとするんですね。
生松 なるほど、それぞれに近代合理主義を、そのはてまで歩きぬいて、その上でその克服をはかる。といっても非合理主義への逆転ではなく、論理的・分析的理性をもっと幅広いものにしようということなんでしょうが、そうした一種の転回をはたすわけね、面白いね。しかし、それは偶然そうなったということでしょうか。
木田 僕もそう思ってたんです。偶然この二人の天才的な哲学者の思索の展開が平行したんだとね。ところが、最近『経験と言語』という本を出された黒田亘さんの緻密な研究によると、『論考』のうちにフッサールの『論理学研究』との関連が認められるそうだし、「ヴィトゲンシュタインの後期思想の基盤は、まさしく『論理学研究』のフッサールとの対決を通じて築かれた」んだそうで、言われてみれば、これくらい当然なこともないんですね。ほとんど同じ関心から出発したヴィトゲンシュタインがフッサールを読んでいないわけはない。しかし、現象学とヴィトゲンシュタインはまるで違った系譜に属するように考えてきたんで、言われるまではまったくその可能性を考えなかった。まさしく「コロンブスの卵」ですね。
生松 ヴィトゲンシュタインは、日本でも翻訳の全集が出はじめたけど、大きな意味をもった哲学者ですね。
木田 いままでのところ、20世紀を代表する哲学者を二人あげろと言われたら、ハイデガーとヴィトゲンシュタインじゃないかと思います。」生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 理性の運命』講談社学術文庫、1996年。pp.218-226. 

 『論理哲学論考』というとんでもない本を、世に出したのはラッセルのおかげでもあるが、そのあとヴィトゲンシュタインは、田舎の小学校教師になったり庭師になったり、莫大な財産を相続してもそんなのいらない、とあげちゃう。そしてまた、『論考』をすべて覆すような本を書く。天才というのはこういう人だ。


B.一夫一婦制の裏歴史
 徳川将軍家の歩みを見れば典型的だが、殿様は家を存続させるために立派な「世継ぎ」を作ることが最重要課題で、政治やその他のことは、家老や家臣に任せて子作りに励むのがよい殿様だった。しかし、元気な男の子が生まれるのはなかなか大変で、奥方(正室)が身分は高くても健康安産する人でないと子宝は恵まれない。それでお世継ぎがないとお家断絶してしまうので、側室というのを用意した。これは将軍以下、武家のどこでも重大事なので、妻に男子が生れない場合は、第2夫人を用意し、それでもだめなら養子を取った。このような形が続いたので、武士がいなくなった明治以後のしかるべき家では、正妻以外に妾という女性が存在した。明治天皇自身、複数の側室がいたとされ、それは慣習として自然なものだと考えられた。しかし、西洋近代の一夫一婦制が持ち込まれ、定着していく中で、妾は裏の存在となり、戦後は世間を憚る妻帯者の男が他に性関係っを持つ「愛人」と呼ばれるようになったという研究が、新聞の書評欄にあった。

「家族の理念と世紀半を問い直す 書評:石島亜由美著「妾と愛人のフェミニズム 近・現代の一夫一婦の裏面史 青弓社 3080円
 「妾」や「愛人」は、もはや死語のようにも思える。だが本書によれば、週刊誌上で「愛人」が多く登場したのは、意外にも2000年代だそうだ。明治以降、妾・愛人は常に社会に必要とされてきた。本書はこの二つの言葉の歴史を丁寧にひもとき、問題系を読み解く。
 明治初年の新律綱領では、妾にも法的地位が定められ、妻と同等の2等親に位置づけられていた。跡継ぎを産むために必要な存在とみなされたからだ。だが近代化政策の一環として一夫一婦制の確立が目指されると、妾制度は廃止された。それでも、戦前を通じて妾囲いの慣習は残り続けた。商人・華族・聖職者・会社重役などの富裕者が妾を持った。男性にとって、みずからの成功を確認する行為であったという。
 愛人の語も近代をとおして変化する。明治半ば、情緒的な絆を基軸とする近代家族の理念が日本に登場するにともない、恋愛結婚を是とする考え方も現れた。愛人の語は当初、恋愛を実践する愛の遂行者という意味で使われていた。やがて婚姻外の恋愛対象にも用いられ、妾の語を包摂するようになった。
 戦後になると、愛人はもっぱら既婚者の婚姻外の恋愛対象を指す語となる。高度成長期、専業主婦が急増する一方、女性の社会進出が進んだ。これにより、夫の職場で働く女性が愛人となることが、妻にとって脅威となった。生産労働に従事する夫を支えていたのは、家事労働を担う妻だけでなく、性愛関係を結ぶ職場の愛人でもあった。
 近代日本の一夫一婦制は、「表舞台」に立つ妻と「暗部」を担う愛人の両方を必要としてきた。夫には性の放縦さを認め、妻には貞淑を求めるというダブルスタンダードを維持したまま、恋愛結婚のイデオロギーが広まった帰結だと著者はいう。本書は、読者の多くが自明視する一夫一婦制や性規範を、ラディカルに問い直す。 評・藤野 裕子 早稲田退学教授・日本近代史」朝日新聞2023年5月13日朝刊21面読書欄。
 著者の石島亜由美氏は城西国際大学大学院博士課程単位取得満期退学。鍼灸師。共著『韓流サブカルチュアと女性』など
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理性の運命 8 1920年代のシン・哲学  国の借金1200兆円‼

2023-05-13 11:49:35 | 日記
A.フッサールからハイデガーへ 
 第1次大戦は、ヨーロッパの社会と思想哲学の流れを大きく変えることになったが、とくにフッサールの弟子であったハイデガーは、現象学をそのまま継承したわけではない。というより、戦前世代のフッサールと戦後世代のハイデガーは、年齢的に30歳離れており、そのフライブルクでの出会いは60歳の老教授と30歳間近の若い講師として大戦の敗北のなかだった。
マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889年9月 - 1976年5月)について、ざっと略歴を見ると、彼は南ドイツ、バーデン大公国の小村メスキルヒの教会堂守の子として生まれた。フライブルク大学入学当初はキリスト教神学を研究し、フランツ・ブレンターノや現象学のフッサールの他、ライプニッツ、カント、そしてヘーゲルなどのドイツ観念論やキェルケゴールやニーチェらの実存主義に強い影響を受け、アリストテレスやヘラクレイトスなどの古代ギリシア哲学の解釈などを通じて独自の存在論哲学を展開した。1927年の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事にその努力が向けられた。ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られる。20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。その多岐に渡る成果は、ヨーロッパだけでなく、日本やラテンアメリカなど広範囲にわたって影響力を及ぼした。1930年代にナチスへ加担したこともたびたび論争を起こしている(以上はWikipediaの要約)。
ハイデガーは第1次大戦にドイツ軍兵士として従軍し、この頃結婚した妻がルター派プロテスタントだったこともあり、カソリックから抜けている。1919年の戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブルク大学の教壇に立つ。一般的にこの時期は初期フライブルク期と呼ばれる。この時期の主要な著述・講義としては、ドイツ留学中の田辺元も聴講した1923年夏学期講義『存在論 ― 事実性の解釈学』や、マールブルク大学のナトルプに提出した1922年の論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報告)などがある。1923年から28年の間、フッサールやゲオルク・ミッシュの推薦でマールブルク大学哲学部外教授として教壇に立った。ハンナ・アーレントもこの時の学生。1927年2月、フッサール編集の「現象学年報」8号に「存在と時間」前半部を掲載し世界的な名声を手に入れ、マールブルク大学正教授となった。928年2月25日、ハイデッガーはフッサールの後任としてフライブルク大学の教授に招聘された。

「木田 20年代というと、どうしてももう一人、ルカーチが問題になりますね。僕は、20年代の哲学的業績を代表するのは、カッシーラーの『シンボル形式の哲学』とハイデガーの『存在と時間』、ルカーチの『歴史と階級意識』、それにヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』じゃないかと思うんです。
生松 ルカーチやコルシュ(1886~1961)の新しい「西欧マルクス主義」というのは、これはもう明らかに、第二インターのドイツ社会民主党のマルクス主義への批判なんですね。ドイツの社会民主党は、かなり大きな議会勢力をもっていて、戦前には戦争絶対反対という決議をはじめからやっていながら、戦争がはじまるとたわいもなく鞍がえして戦争に賛成してしまう。そして、戦争末期の混乱状況のなかでついにドイツ革命を実現しえなかったばかりでなく、戦争責任だけを旧支配勢力から引き継がされるようなかっこうで、ラディカルな左派を切りすてて、ワイマール共和制を発足させることになったわけだから、そういう革命性を失ったマルクス主義というものに対する批判ですよね。
 その革命性・実践性の喪失ということは、マルクス主義も十九世紀後半の科学主義にすっぽり組み込まれてしまったということでもあるので、経済一元論で社会変革の歴史的必然論になってしまう。だから、コルシュなどが『マルクス主義と哲学』で、弁証法を回復せよと言うのは、科学主義的な機械論的唯物論に堕したマルクス主義を、本来の哲学的な全体的世界観としてのマルクス主義としてよみがえらせようとしているわけでしょう。もちろん、ルカーチの『歴史と階級意識』にしてもそうなんですが。
木田 「西欧マルクス主義」という言い方は、メルロ=ポンティが『弁証法の冒険』のなかで、「ロシア・マルクス主義」に対してもち出してきたものなんですが、僕はこれも、一連の反実証主義の運動のなかに組み入れて考えることができると思うんです。エンゲルス(1820~1895)にしてもレーニンにしても、一種の実証主義に陥っているところはあるわけですからね。レーニンの場合は、かなり戦略的な意図から、プロレタリアートに革命のための単純なイデオロギーを提供しようというところがあったんでしょうが。西欧マルクス主義はそれに対する弁証法の回復の試みですね。
 そして、ルカーチが『歴史と階級意識』を書いたときにはまだ発見されていなかった、少なくとも活字にはなっていなかったマルクスの初期の『経済学=哲学手稿』が発見されてみると、どうもルカーチのマルクス主義解釈は、当たっているという裏付けがマルクス自身によってなされるようなかっこうになったわけですね。
 もう一つ、リュシアン・ゴルトマン(1913~1970)が、死ぬ前に書きのこしていたことなんだけれども、ルカーチの『歴史と階級意識』と、ハイデガーの『存在と時間』の間にも、大きな影響関係があるということね、これは当たっていると思うんです。
生松 われわれも前からそれは話し合っていたことで、見当はついていましたね。ただゴルトマンは文献的に跡づけてくれた……。
木田 「物象化(フエアディングリッフング)」という言葉が『存在と時間』のなかに三か所出てくるというんですね。たしかに、ハイデガーの「世界内存在」という概念には、ルカーチが『歴史と階級意識』のなかで説いている物象化理論の影響がはっきりあると思う。道具連関を手がかりに世界分析をはじめるあたりにね。
『存在と時間』というのは、やはり第一次大戦後のドイツ哲学のなかではもちろんのこと、二十世紀前半の哲学の領域での最大の成果なんだろうと思うんですが、あれも文字面にはそれほど出てこないんだけれども、同時代のじつにさまざまな知的冒険の成果というものを、かなり多様にとり入れて作りあげられた本ではあるんですね。「世界内存在」という概念一つとりあげてみても、まずさっきも話に出たユクスキュルの環境世界理論の影響がある。これは環境世界という概念の『存在と時間』のなかでの使い方を検討すれば、はっきりさせられると思うんですけれどもね。もっともユクスキュルの名前は出てこない。フォン・ベーア(1792~1876)以来の生物学思想云々という言い方で、生物学の生態学的な傾向の評価はしているんですが。それに、カッシーラーの「シンボル形式」に示唆を得ているところもある。これには言及していますね。この前後、カッシーラーとはダヴォスで一緒に講演や対話をしたりしているんですね。
生松 そうですね。その前にもハンブルクで、ハイデガーが講演したとき、カッシーラーは何か質問しているというしね……。
木田 ハイデガーの『カントと形而上学の問題』の新版に付けられたダヴォスでの討論なんか見ても、あまり話はかみ合っていないようだけれども。しかし、ハイデガーの「世界」概念への「シンボル形式」という発想の影響ははっきりあると思います。それから、いまも話に出たルカーチの『歴史と階級意識』。もちろん、『存在と時間』の世界概念が後期フッサールの「生活世界」という概念のとらえ直しであることは明らかだけど。こうしてみると、同時代のそうしたいろいろな新しい知的動向にじつに敏感に反応しながら書かれた本だということは、たしかなような気がします。
生松 たしかにハイデガーの『存在と時間』は、20年代のドイツ哲学の代表作ですね。
木田 そう。それはもう本当にシンボリカルに二十世紀前半を代表する本だと思います。
木田 日本ではいままでは、ハイデガーの『存在と時間』が実存哲学の系譜のなかだけで読まれすぎたような気がします。たしかに字面だけ読めば、『存在と時間』のなかの基本的な概念というのは、ほとんどキルケゴールから借りてきたものだから、キルケゴール的な系譜のなかで読もうとしたのもむりはないんだけれど、よく読んでみると、あれは本当に字面だけなんでね、その言葉のもとに考えられている概念内容はキルケゴール的なものとはかぎらない。一つには、やはり後期のフッサールの思想の批判的継承という面がはっきりある。この面は最近日本でも注目されてきて、『存在と時間』を現象学の展開の一エピックとして読もうとする傾向が出てきている。が、もう一つ同時代の、しかもかなり思いがけない他の領域からの影響もあると思うんです。
 もっとも『存在と時間』のようなじつに緊密な構成をもった著作を、そうした異なった由来をもつ諸契機にばらしてとらえようなんてことは、それこそ悪しき要素主義というべきなんでしょうが。
生松 そこのところは非常に難しい問題だと思いますね。つまり、全部を状況や影響関係に還元はできないわけでね。全部を状況に還元して、それじゃ状況がわからなければこの本は読んでもしようがないかというと、そんなことはないわけでしょう。しかし、その状況がわかってそのなかに据え置いて読めば、その時、ハイデガーが実際に何を考えていたのかということがよくわかる。また、そういうやり方を一方でしないと、ただ論理を追いかけていくだけでは、なぜその哲学者がそれを問題にしたのか理解できないと思うんです。
木田 ハイデガーに話を返しますが、『存在と時間』という本は、かなり短期間に書きあげたものらしいんです。ですが、その短い期間の極度の精神的な集中のなかで、ずいぶんいろいろな契機を混然と融合させて書かれた本だ、という感じがするんです。たとえば、この前後ハイデガーがマールブルク大学でやったいくつかの講義のプリントが流布しているんですが――こうした講義も今度新しく出る全集には入るようです――、それを読んでみると、『存在と時間』のある部分に組み込まれているのとそっくり同じ話が出てくる。ところが、その話の出てくる文脈は、『存在と時間』のなかでその話がおかれている文脈とずいぶん違っているんです。だからといって、『存在と時間』の価値がなくなるわけではむろんないんで、そうした継ぎ合わせなどを少しも感じさせないような、見事に一貫した緊密な構成をもっています。ただ注意深く読んでみると、そこにずいぶんいろいろな契機が含まれていることがわかるんですね。だからこそ、『存在と時間』はいろいろな読み方をされるんだと思うんです。おまけに上巻だけで打ち切られてしまい、未完におわったということもあるし。
 たとえば、一時期『存在と時間』は、ヤスパースの『哲学』とならべて、「実存哲学」に道を開くものだという読み方がされました。そして、そういう実存哲学の系譜がつくられて、キルケゴールに源を発するということになった。たしかに『存在と時間』の中心的概念の相当数がキルケゴールから借りてこられているんですね。
生松 そうですね。「実存」とか「関心」「不安」「良心」とか、「時間性」「瞬間」などなどいくらも挙げることができる。
木田 茅野良男さんの『初期ハイデガーの哲学形成』は、ハイデガーの思想形成についてのじつに丹念な研究なんですが、それによると、ハイデガーは神学生の時代からキルケゴールを読んでいたそうだし、神学的な関心は20年代の初期にもまだ強く残っていたというんですね。ところが、ハイデガー自身は、その実存哲学というレッテルを終始拒否して、『存在と時間』の主題は、あくまで存在論であって、哲学的人間学や実存哲学などではないという。そして、序論に付けられている、上下巻を通じての内容の概要を読むと、それはそのとおりなんで人間存在論としても読める既刊の部分、つまり上巻は、下巻において本格的な存在論を展開するための予備作業にちがいないんです。
生松 その下巻が書かれないでしまったので、実存哲学として読まれてしまったというわけね。
木田 そう。ところで、その存在論の方はどういうものかというと、これもかなり厄介なんですね。一つには認識論から存在論へ、認識論から形而上学へという時代風潮と結びつく。前世紀末から第一次大戦までの新カント派やフッサールの時代は認識論一辺倒だったわけですね。これは、「学問」というものへの深い信頼感がそこにあって、そうした学的認識の基礎づけこそが哲学の仕事だという信念からきている。ところが第一次大戦後……。
生松 そうした学問そのものの意味、生にとっての意味が根本的に問題にされるようになって、形而上学、つまり存在論への転向が起こったわけですね。
木田 一方、ハイデガーはもともとアリストテレス学者だし、教授資格論文でも「ドゥンス・スコートゥスの範疇論と意義論」を書いている。存在論的な傾向はもともとあったわけですね。そうした時代風潮とあいまって、自分の哲学を存在論として構想したのは当然といえます。
 ところが、もう一つフッサールの現象学との関係がある。フッサールは、新カント派の時代の人だし、当時起こりつつあった科学の方法論改革の哲学的意味を問おうとした人だから、その現象学も認識の問題に定位して展開されている。ところが、ハイデガーは、現象学は本来、存在論であるべきだと考えているんですね。これは『存在と時間』を刊行した年に、ハイデガーがフッサールを手伝って、『大英百科辞典(エンサイクロペディアブリタニカ)』の「現象学」という項目の原稿づくりをしている。そのときハイデガーが書いた草稿の一つに出てくるんです。つまり、存在論というのは、存在とは何かと存在の意味を問うわけだが、古来その存在への問いはその存在を思惟する意識の解明を通じて答えられてきた。フッサールの現象学とハイデガーの存在論の関係もうまく理解できますね。
木田 フッサールという人は、もともと数学者として出発した人でしょう。いわゆる哲学の古典の勉強をそうしたわけではないんで、自分の考えていることが、哲学史のなかでどういう位置をしめるのか、うまく評価できなかったようなんだけど、アリストテレス学者であるハイデガーは、アリストテレス以来の存在論の伝統のなかに据えて現象学というものを考えることができたわけですよね。しかも、フッサールのフライブルク時代の遺稿が公刊されてみると、『存在と時間』には、たしかにフッサールの思想のあるモティーフが継承されていることがわかってきた。昔よく言われたように、「現象学から実存哲学へ」といったかたちで、フッサールがハイデガーによってすっかり乗り越えられたといったものではなさそうなんです。
 まあ、そう考えると、『存在と時間』のなかには、キルケゴール的ないし実存哲学的契機と、フッサールないし存在論的契機とが混在していることになる。しかも、この二つは、哲学的思索のあり方としては全く性格の異なったものなんですね。それを緊密に結びつけたところにこそ、『存在と時間』の価値があるという見方もできるだろうと思いますが、僕はやはり、そこにむりがあったため、下巻を書き継げなくなったのだと思います。」生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 理性の運命』講談社学術文庫、1996年。pp.199-209. 

 ぼくが高校生だったころ、つまり1960年代後半では最新流行の哲学といえば実存主義existentialisme、サルトルやメルロ=ポンティといった名前はしきりに語られた。実存主義がなんであるか、もちろんよくわからなかったが、サルトルはボーヴォワールと一緒に来日して妙にかっこよく見えたものだ。しかし、少しかじってみると実存主義にはもっと大物がいて、それはハイデガーであるらしい、といわれていた。やがて、マルクス新左翼の大騒動になり、実存主義などという話題はすっかり鳴りを潜めてしまったのも不思議だった。


B.積極財政派の頭の中?
 日本の政府の借金が1200兆円を超えたという報道があった。これがどれほど巨額か、誰に借金しているのか、ちょっと想像がつきにくい。日本が過去30年ほど、沈滞縮小した経済を立て直し、災害やコロナなどの危機に対応するために、どんどん金を流した。そのために、税金収入だけでは到底足りないから、国債や将来世代が返していかなければならない負債を積み増して、気がついたら1200兆円になっている。これでほんとに大丈夫なのか、と誰でも心配になる。でも、その財布を預かる金庫番の財務省官僚は、どう考えているのか。

「取材考記 積極派VS.規律派 財政再建 対話で新たな道を  東京経済部 西尾邦明
 「財務省が国債(借金)ゼロを企てている」
 「積極財政派は無限に借金できると主張している」
 財務省の担当記者として取材したこの1年間、積極財政派と財政規律派の双方から、こうした不満を聞くことが少なくなかった。
 両者を取材した者として、はっきり言えるのは、どちらも正確ではないということだ。
 財務省は、経済規模に見合う借金の程度である「債務残高対GDP比」を引き下げるとしているが、経済規模が大きくなれば借金の額そのものは増えることもありうる。まして、歳入の3割を国債に頼る中、それをゼロにできるという財務官僚に会ったことがない。
 積極財政派にも、財政規律はあり、それは一定のインフレ率や雇用の状況を指すことが多い。自民党の若手・中堅でつくる責任ある積極財政を推進する議員連盟の中村裕之共同代表は「いくらでも借金してよいとは一度も言っていない。2%の物価安定目標まではほど遠いので、いまは財政出動が必要だ」と話す。
 両者の話をよく聞くと、次の点で合意ができそうなことに気がつく。
 ▽債務残高対GDP比が増え続けるのはよくない▽税にはインフレ抑制や再配分の役割がある▽経済成長は財政健全化のためにも重要―-などだ。
 対話を重ね、二項対立を超えた財政再建の道を探るべきではないだろうか。
 留意すべきは、財務省は国の財布を握り力も大きいが、最終的には政治の決定に従うことになる。安倍晋三元首相は回顧録で財務省を「国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足」と述べているが、それはお門違いだ。
 教育や年金、医療などの暮らしを守る制度を持続可能なものとし、災害などの有事に備え、国債発行ができる財政規律にしておく責任が財務省にはある。政治家は耳を傾けるべきだ。
 一方、財務省も新しい発想が生まれる組織に変わらなければならない。ヒントは民間の取り組みにある。
 本省の幹部の女性は1割に満たず、中途採用はほぼ見かけない。財政制度等審議会も、にたような立場の有識者の集まりに見える。他方で、デジタル技術を使えば、事務作業に追われる官僚たちの時間の使い方や、地方を含む支出の効率化も進められるだろう。
多様性やDX(デジタル化)といった民間では当たり前の改革が実は遅れている。そんなことを目のあたりにした1年だった。」朝日新聞2023年5月11日夕刊11面。

 政権を握ってきた歴代内閣は、どんな政策を実行するにも財源は必要で、健全財政を守っていたら何もできないと、打出の小づちのように借金を積み増した。どこかでこれを止めるには、官僚ではなく政治家の頭を変えないと実現しないのだろうな。
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理性の運命 7  フッサールの現象学  安楽死の合法化について

2023-05-10 16:41:10 | 日記
A.フッサールというラディカル
 20世紀の初め、とくに第1次世界大戦とロシア革命という、19世紀までのヨーロッパでは考えられなかった新しい状況が現実になった。それが1920年代から30年代、つまり次に来た第2次世界大戦までのあいだの「戦間期」。いまから百年前の「スペイン風邪」とよばれたパンデミックも、その変革のとば口だった。哲学という領域でも、当然のように前世紀の実証主義・科学と技術の進歩に歴史法則を重ねるような西欧近代の楽観的な観念論に対して、それを相対化しその根拠を批判するような傾向が表に出てくる。それはいくつかの新たな領域で、まず方法論を疑うというところから始まった。ただ、それがある大きな潮流になってくるのはもっと時間がかかるので、とりあえずいくつかの分野で、間歇的に現われたということになる。ひとつは自然科学に近づこうとした心理学のなかで、ベルリン大学のゲシュタルト心理学が出てくる。

「木田 実際、これら一連の方法論的改革は、時間的にはかなり前後しているんです。
生松 そうですね、領域によってはね。哲学や社会科学のほかに、文学・美術・建築といった芸術領域まで視野に入れて考えれば、その前後の凸凹はもっと著しいんじゃないかと思うね。
木田 そして、あとになればなるほど、他の領域からの成果をとり入れることができるから、その方法論的改革が、ある意味では、大規模に、そして徹底しておこなわれることになる。早かった領域、例えば心理学の領域などでは、方法論的改革が不徹底におわった。その含蓄を展開しきれなかったということもいえるわけなんです。ゲシュタルト心理学などは、せっかく発見したゲシュタルトという現象を、いざ説明する段になると、「物心同型説」なんていうものをもちだしてきて、心理的なレベルでのゲシュタルトは、生理的なレベルのゲシュタルト、つまり大脳皮質での興奮の分布と同型であり、生理的なゲシュタルトは物理的なゲシュタルトとして処理することができるというので、またもやゲシュタルトを物理学的な世界のなかに置きもどすようなことをしてしまう。これは一種の妥協でしょうね。
生松 なんとなく自然科学というものに対するひけめというか、それを頼りにしたいという気持ちは、そう簡単に払拭しきれない。
木田 どうも思い切ってはね。科学そのものでなくなってしまうのではないかという不安があったんでしょうね。
生松 十九世紀末の諸改革の場合には、みんなそれはあるんじゃないですか。たとえば、ウェーバーにしてもフロイトにしても、みんな、ヒューズの『意識と社会』での言い方を借りれば、啓蒙の貫徹という基本線を維持しながら実証主義への反逆を企てたところにその功績はあるわけで、ただひっくり返して非合理主義、あるいはオブスキュランティズムにいってしまうのはやさしい。むしろ、まことに安易な道だということにもなる。むしろ、まことに安易な道だということにもなる。ただ当時としては、なんといっても科学主義、実証主義万々歳なんだから、そのなかで批判を言いだす人は、その強大な勢力と対抗し、ただのロマン主義的裏返しにも抵抗し、という微妙な立場で、やはり真にあるべき科学への方法論的反省に取組むということだったんじゃあるまいかという気がします。
木田 そうね。そういった営みはあったわけですね。でも、当事者たちがそれほど自覚的だったかどうかは、少し疑問です。二十世紀前半におこってくるそうした方法論的改革のもつ哲学的な意味をいちばん的確にとらえられたのは、というよりある意味で先取りしたのは、フッサールだと思うんです。フッサールという人は自分自身、はじめ経験心理学的な立場から出発して数学的認識の心理学的基礎づけをしようとし、それにゆきづまったものだから、その立場に反省の目を向け、心理学の方法論的改革を企てているうちに、その企てをもっと普遍的なかたちで行う必要があるというんで、「現象学」という哲学的立場を構想することになったんです。ですから結果的に見て、他の領域で同じようなかっこうで起こってくる方法論的改革を先取りすることになったわけなんですね。
生松 諸科学の方法論的改革という問題を哲学のレベルで最初に採りあげてその意味を考えたということですね。新カント派と現象学というのは、もうほとんど同時的に展開されていくんだけれど、その点では現象学の方がはるかに徹底している。
木田 フッサールは単に実証主義的な人間諸科学の批判だけではなくて、人間諸科学が自然科学からうけついだその前提そのものを根本的に考えなおそうというところまで、問題を掘り下げている。だから新カント派よりもっと徹底しているわけです。新カント派は、自然科学は自然科学として置いておいて、というところがありますね。
 フッサールの考え方をもう少しくわしく言うとこうなると思います。当時の経験心理学では、「経験」という概念をひどく狭隘化してとらえていたので、数学的な対象のような、経験からは導出できないイデア的な対象はどうにも問題にできない。そこでフッサールは、そうした心理学にはなにか根本的な欠陥があるのではないかと考えたわけなんですが、彼の考えでは、その欠陥は当時の心理学が自然科学からうけついだ前提、つまりニュートンの物理学的な世界像に典型的に示されているような、「客観的世界」の存在を無条件に前提してかかるところにあると思われた。そうした客観的世界を前提にし、われわれの経験、われわれの心理現象をその客観的世界のなかでの出来事として、物理的過程と連関させ、いわば外から説明してゆこうとする。そうした根本前提にまでたちかえって、もう一度すべてを考えなおし、心理学の改造をはかろうとしたわけですね。ところが、それをやっているうちに、どうも問題は心理学に限られない、当時の人間諸科学から同じ前提をうけついでいるのだから、人間諸科学全体の根本的な改革を図る必要があるというので、一つの普遍的な哲学、普遍的な知的革新の運動として「現象学」を構想することになるわけです。そういう意味で、フッサールの現象学は、やがて起こってくる人間諸科学の領域での方法論的改革を、先取りしたかたちになる。しかも、そうした改革を領域内部の出来事に終わらせずに、もっと統一的知的革新の運動として徹底的に押しすすめようとしているわけです。
生松 なるほど。もう第一次大戦前にもいろいろな領域に影響を与えているのかもしれないけれど、現象学というのは、さしあたり当時はきわめて特殊ドイツ的な哲学運動みたいなものとしてしかうけとられなかったようですね。今日までくれば、いかにそれが大きな影響力を持っていたか、また持ちうるものであったかということは、もうはっきりしているわけだけれど……。
木田 そうですね。たとえばゲシュタルト心理学ん成立にも、多少の影響は及ぼしている。フッサールは経験心理学をかなり徹底的に批判しているわけですから、それから脱却する素地をつくったところがあるんでしょうが、直接にも、コフカなどはフッサールの講義を聞いているし、それに、ゲシュタルト心理学の提唱者であるヴェルトハイマ―やコフカやケーラーの先生にあたるシュトゥムプ(1848~1936)が、ブレンターノ(1838~1917)門下でフッサールの兄弟子にあたるわけで、フッサールも『論理学研究』をそのシュトゥムプに献呈しているんです。だから、シュトムゥプを通じて現象学的な発想が、ゲシュタルト心理学に継承されているとも考えられるんですね。コフカは、『ゲシュタルト心理学の原理』のなかで、フッサールの心理学主義批判に対して弁明しながら、現象学との関係に触れています。
生松 そのシュトゥムプという人は、カッシーラー(1874~1945)なんかの伝記で見ると、あんまり評判がよくないんですよ。あんなのがいるから、ベルリン大学の哲学科はいっこうに面白くないんだ、といった批評もあったようですね。たしか第一次大戦のはじまる前に、哲学の講義を心理学の教授が持っていることに対する抗議文が出されたことがあったでしょう。哲学の教授連が連名で。あれは、心理学者を哲学の講壇から追い出そうという運動ったんですね。まあシュトゥムプがへの悪評は、そんなこととも関連するかもしれないけど。
木田 そうでしたね。ヴィンデルバンド、リッケルト(1863~1936)、コーヘン(1842~1918)、ナトルプ(1854~1924)、フッサールといったドイツ、オーストリア、スイスの哲学者たち百六人が署名して、「カント研究」とか「ロゴス」といった雑誌に声明文を発表していましたね。「実験心理学は哲学にあらず」といった趣旨の。あれは当時のドイツの哲学者たちが、実験心理学からどれほど大きな圧迫を感じていたかということをよく示していますね……。感覚の研究のレベルにおいてであれ、着々と成果をあげるものだから、そのうち哲学がいらなくなるのじゃないかという不安を感じたのでしょうね……。あれは面白い。
 まあそんなふうにして、哲学の領域でも生物・人間諸科学の領域でも、最初は潜在的に進んでいた反実証主義的な動きが、第一次大戦後に一挙に噴き出してくるようなかっこうになるわけですね。
生松 そう、なんといっても戦争というのは、戦場での人の殺し合いで、けっして合理的な、理性的な出来事ではないわけだから、人間というのがいかに非合理的な情念に駆られて人を殺したり、事物を破壊したりする存在であるかということが如実に示される。フロイトは、この第一次大戦を経験して、「戦争と死の時代」への省察を書いているけれども、その中で、いかに文明開化の進んだ人間のなかにも未開野蛮な人間が潜んでいるんだということを言っている。普仏戦争からの数十年の平和を破った第一次大戦というのは、とくにヨーロッパにおいては、時代の転換を示す大きな事件だったわけなんで、それまで少数の先覚者が気づき、口にしてきたことを、なるほどそうだったのかと認めさせる契機になっていると思いますね。
木田 とくに敗戦で、政治的にも経済的にもひどい混乱状態に落ちったドイツでは、既成の秩序の崩壊が極端だったわけで、知的な世界でもドイツ・アカデミーがもう戦前のような権威はもちえなくなって、役者も新しい世代にとって代わられることになるわけですよね。
 ぼくの守備範囲でいうと、たとえばフッサールとハイデガー。ハイデガーは、1916年にフッサールがゲッチンゲンからフライブルクに移って以来の弟子なんて、フッサールから大きな影響を受けたにはちがいないんだけど、それでもこの師弟のあいだで、その知的情熱のあり方はまるで違っています。フッサールはやはり、「学」というものに絶帝の信頼を置いていて、ただそのあり方を問題にしているんだけれども、ハイデガーになると、敗戦後の照度の上に投げ出された自己の存在にとってのその「学」そのものの意味を問うようになる。1923年に、三木清が、当時マールブルク大学にいたハイデガーのところに行っているんですが、そのころハイデガーの机の上には、パスカルとドストエフスキーの肖像が飾られていたなんていいますから、その哲学へかける情熱のありようもうかがえるような気がします。そうした新しい世代の登場、当然、そこには新しい知的な冒険の可能性も生じてきたというわけでしょう。
生松 敗戦国ドイツの場合は、まさにビスマルクの帝国の崩壊なわけだから、旧来の権威はここで大きくつき崩される。時のカイザーの帝国の崩壊なわけだから、旧来の権威はここで大きくつき崩される。時のカイザー・ヴィルヘルム二世(1859~1941)というのは、ウェーバーなどもしょっちゅう批判したディレッタント的政治家として悪評高い皇帝だけれども、この人のやった仕事で何が一番功績があるかというと、それはドイツの科学・技術の研究と開発の助成なんですね。金をふんだんにつぎこんで、いまのマックス・プランク研究所の前身となるカイザー・ヴィルヘルム研究所をつくって、この科学・技術振興によって、ドイツを世界の一大強国たらしめようとした。それこそ、追いつき追いこせの時代ですからね。だから、カイザー・ヴィルヘルムのドイツ帝国の崩壊は、シンボリカルな意味を付与すれば、在来の権威の崩壊でもあるし、科学・技術の進歩へのネガティヴな気運が出てきて当然であるし、科学・技術の進歩へのネガティヴな気運が出てきて不思議ではない。もちろん当時はまだそんなに明確に自覚されていないとは思うけれど、出てきて不思議ではない。なにしろ敗戦後のおドイツの混乱は、まず想像を絶するほどのものだったわけで、アカデミーの世界でも、がらり一変するという機運は生まれてくるんです、たしかにね。」生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 理性の運命』講談社学術文庫、1996年、pp.178-187. 

 フッサールの現象学については、現代哲学の一潮流というにはあまりに根源的な認識の再構築、知のあり方まで見直すものなので、やがてそれが第2次大戦後の思想哲学におおきな影響を及ぼすことになるのだが、それは次のお話。


B.安楽死の合法化
 医療のなかの緩和ケアという技術が進歩したことで、かつては耐え難い病苦の期間はそう長くなく死を迎えていた状況が、かなり長い期間死の直前にあるままベッドのうえで生きながらえる人が多くなった。そこで安楽死という選択肢が問題になり、宗教を背景に自殺を禁じていたいくつかの国では、一定の条件のもとに自殺幇助、つまり人為的な手段で死を選べる安楽死の合法化が進んでいるという。高名な映画監督、ジャン・リュック・ゴダール氏がスイスでこの安楽死を選んだというニュースが流れたことで、日本でも注目された。その記事が新聞に載った。

「安楽死導入の議論 活発化する欧州 「終末期患者から対象拡大」根強い反対論
 ゴダールさんが自殺幇助を受けた(ジュネーブを拠点に自殺ほう助の措置を行う非営利団体)エグジットの共同代表は活動について「死を後押しするためのものではなく、生きることをまっとうするためのものだ」と強調した。
 その証しとして、紹介されたのが101歳のフェルナン・ベンザケンさん。2年前の秋、誤嚥性肺炎が原因とみられる感染症で入院した際、自殺幇助を考えてエグジットに登録した。だが、その後治療が奏功し、健康を取り戻した。
「決して死にたかったわけじゃない。ただ、安らかに死を迎えられると分かって、安心する自分がいた。そこから少しずつ元気になった気がする」と話す。
 欧州ではここ数年、自死をタブーとするカトリックの影響が強い国でも安楽死の議論が活発化している。
「一定の条件のもとで『死への積極的援助』を認めることに賛成する人が多数派になりました」
 パリで4月2日に開かれた、安楽死導入の是非を議論する「市民会議」。演壇に立った参加者の一人が議論の結果を報告すると、大きな拍手が響いた。
 フランスでは2016年、終末期患者に延命治療をせず、新生役で死に至るまでの苦痛を緩和する「消極的安楽死」が認められた。日本で「尊厳死」と呼ばれる措置だ。しかし、国内では積極的安楽死も自殺幇助も禁止のため、隣国のベルギーやスイスに向かう人が後を絶たない。
 そのため、マクロン大統領は昨年9月、市民会議の設立を発表。市民会議の結論を受けて、フランス政府は今年夏までに安楽死に関する法案を作成する。
 しかし、反対論も根強い。みとり・緩和ケア協会の会長を務める医師のクレール・フルカドさんは「安楽死を合法化した国では、当初は対象を終末期の患者に限定するが、いずれの国もその後に対象を拡大している」と批判する。
 2002年に国として世界で初めて安楽死を合法化したオランダは4月14日、12歳未満の子どもにも安楽死の適用を認める方針を発表した。カナダでは21年に精神疾患のみを抱える人にも安楽死の適用を認める法案が可決された。安楽死の合法化で、回復の可能性がある患者まで安楽死を迫られていると思いかねないという懸念は消えない。
 それでも、欧州では近年、安楽死の容認へ動く国が増えている。スペインは21年3月、積極的安楽死を認めた。ポルトガルでは、大統領の拒否権などで法制化されていないが、議会が今年3月までの3年間に安楽死を認める法律を4回、賛成多数で可決している。
 イタリアでも交通事故で10年以上寝たきりだった男性(44)が昨年6月、憲法裁判所の判例を根拠に、医師に処方された致死薬を自ら服用して亡くなり、初の合法的な自殺幇助の事例になった。
 緩和ケア発達し 合法化はデメリット大きい  横浜市立大 有馬斉教授(倫理学)
 米オレゴン州やオランダ、ベルギーなど安楽死や自殺幇助を法的に認める国や地域が増えている。背景として、終末期の生命維持や延命につながる医療技術が発達してきたことが大きい。寿命が延びるのは望ましいことなのだが、思うようにからだが動かなかったり、つらい症状があったりする状態で長く生きる人が増えていることがある。
 安楽死は本人の選択によるものだが、欧米の合法化された地域のルールを見ても、本人が希望さえすれば、死ねるということにはなっていない。非常に重い病気や障害がなければ、死ぬことは認められていないのが現状だ。
 安楽死なら。家族に見守られながら、苦しまずに死ぬことができる。病気や障害が耐え難いほどつらいために、生き続けるより死んだ方がいいと考える人にとっては、安楽死の合法化にもいくらかメリットはあるだろう。
 他方、健康な人は、病気や障害がある人のことを不幸だと思いがちだ。また、周囲に気兼ねしながら生きている病人や障害者の「死にたい」という言葉は、そもそも本心ではない可能性もある。本人はたとえば一時的な気分の落ち込みで「死にたい」と言い出しただけなのに、死にたいと思うのはもっともだと周囲が早合点したり、介護に疲れた周囲の人がそれを後押ししたりするリスクがある。これは日本だけの問題ではない。
 日本では新聞のアンケート結果などを見ると、「安楽死は認められるべきだ」と思っている人はかなりいるようだ。だが、日本には安楽死や医師による自殺幇助について明記した法はないのが現状だ。
 各種の医師会や厚生労働省などが出すガイドラインでは、どれもお積極的な安楽死は禁止、対象外だ。いわゆる「ソフトロー」(法的な強制力はないものの、現実社会では拘束感があると受け止められている規範)では認められていないと言える。
 緩和ケアの発達によって、終末期のつらい症状はほぼ取り除ける。こうしたことを踏まえると、現状での安楽死の合法化はメリットよりもデメリットの方が大きいと考える。 (丹内敦子)」朝日新聞2023年5月6日朝刊6面。

 日本では、自殺を宗教的に禁止するというキリスト教のような考えは希薄だったので、安楽死に対する考え方はあまり真剣に突き詰められてはこなかったともいえる。しかし、医療がもたらす生命に対する技術が進展しているいまの状況の中で、死に至るプロセスが長く続く可能性が高まっているとすれば、本人の意思を第一にするという「個人の意思と選択と尊厳」というむずかしい問題に、自分自身がどう向き合うか、そのなかで積極的な自殺幇助を合法化するか、という議論も日本で出てくるだろうと思う。ぼく自身は、いまのところ年齢を重ねてもとりあえず通常の健康は維持しているので、あまり真剣に考えていないというしかない。
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理性の運命 6 実証主義への反逆  AIの判断!?

2023-05-07 15:32:45 | 日記
A.ゲシュタルト心理学
 心理学という学問は、ある時期まで大学の文学部の哲学科のなかにあった。つまり人間の精神とか心を考えるのは哲学の一分野と19世紀の大学では考えられていたわけだ。それが20世紀の始まるころ、心理学者たちは、心理学はもっと自然科学的数理的な方法でやった方がいいと考え、人間の心のなかは、哲学や文学的に把握するのではなく、外から観察し測定できるものとして自然科学的経験的に研究しようとした。つまり観察可能な刺激に対する身体反応として研究する。これはアメリカの行動主義心理学につながっていく。しかし、実験観察とデータ分析でやってみて分かることはよいけれど、それだけで人間の心理現象を理解するのは無理がある。そこで、第1次大戦終了後、ベルリン大学のヴェルトハイマーたちから「ゲシュタルト心理学」というものが出てきた。実験心理学の創始者ヴントを中心とした要素主義・構成主義の心理学に対する反論として、人間の精神を、部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重点を置いて捉える。この全体性を持ったまとまりのある構造をドイツ語でゲシュタルト(Gestalt :形態)と呼ぶことからくる。例えば果物が描かれた絵を見て、それが部分的には線や点の集合なのに、全体を見て「りんご」であるように見えることや、映画を見て複数のコマが映写されているのではなく動いているように見える事は、ゲシュタルトの働きの重要性を考えさせる。
 木田元・生松敬三の対談『現代哲学の岐路』では、まず論理学や数学の20世紀的展開から始まって、自然科学のニュートン物理学的世界への疑問が問われ、さらに生物学の革新やフロイトの精神分析、そして社会科学の方法論義へとすすんでいくが、焦点の一つは19世紀経験科学の主流である科学的経験的方法に、より添おうとする心理学のやり方と、その「反実証主義」との関係になる。

「木田 論理学が記号化され、それが一定の規則にしたがって記号を結合したり分離したりする操作だと考えられるようになってくると、数学もそれとどこも違わないじゃないかと考えられるようになってくる。そこで今度は、数学をも広い意味での論理学の一部として考えれば、算術や代数学や幾何学といった数学のさまざまな分野を統一的な体系にまとめあげることもできるのではないか。ここから数学の論理学化が押しすすめられることになる。実際、その手続きをやってみせたのが、フレーゲ(1848~1925)やホワイトヘッド(1861~1947)、ラッセル(1872~1970)といった人たちです。こうして、数学の公理論的な性格が一般に認められるようになってくるんですね。
生松 というのは、数学の体系をそれだけ特別の体系と見る必要がなくなった、ということですか。
木田 いやむしろ、こういうことでしょうね。つまり一般に数学の体系というのは「いくつかの記号配列群(公理群)を、いくつかの規則にしたがって変形してゆくことによって得られる記号配列群」と考えてよいということになる。それを数や空間についての真の認識の体系と見る必要がないということになるわけです。これはたいへんなことだったわけで、これまでは、数の観念とか幾何学的図形の観念というのは、人間理性が生得的にもっていた観念、つまりア・プリオリな観念だから、その観念の操作によって得られる数学的観念は真理なんだと考えられてきたわけで、これがくつがえされることになったんですから。
生松 それに少し遅れて、物理学の領域でもアインシュタイン(1879~1955)の相対性理論や、プランク(1858~1947)にはじまる量子力学が出てきますね。ニュートン物理学の絶対空間・絶対時間という枠組みや、基本的カテゴリーが問題視されてくる……。
木田 そうですね。さらに科学史家、たとえばポアンカレ(1854~1912)、デュエム(1861~1916)、ル・ロワ(1870~1954)といった人たちですが、こういう人たちも、近代自然科学の成立を跡づける仕事をはじめる。近代の自然科学は、理性的認識の現実的展開といったようなものじゃなくて、経験を整理するのに比較的便利な道具を作りあげたに過ぎないんじゃないか、といったことを言い出してくる。こんなことから、「数学の危機」とか「物理学の危機」が叫ばれるようになってくるわけです。そうした事態がはっきりしてくるのは、二十世紀に入ってからですが、気配としては、十九世紀後半にもすでにあったわけでしょうね。
生松 ただね、実際にそういう動きが出てくるといっても、それを本当に自覚しえたのは科学者のなかでもほんの一部分でね、圧倒的多数の科学者たちはいままでどおり科学万能主義で突き進んでゆく、第一次大戦まではね。いや、これは第一次大戦後まで、まだそうかもしれない。当時はなんといっても、ニュートン物理学をモデルとする個別科学の成立の方向が支配的大勢なわけで、それに、いわゆる俗流唯物論の流行や進化論がからむわけです。だから当代のブルジョワ社会の人びとは皆そういう大勢の中で、万事カネとモノの世界にいていると思い、その方向の延長線上に人類社会の進歩を思い描いていた。十九世紀後半から末葉にかけて出てくる新カント派は、そういった唯物論や自然科学万能に対する批判として出てくるわけだから、やはり現代的な問題を提出していたことになるわけです。
木田 とにかくそれまでは、人間諸科学は、心理学にしても社会学にしても歴史学にしても、自然科学と同じ方法でやっていけそうだという見当でやってきたわけでしょうが、新カント派は、どうも自然科学と精神科学ないし歴史科学はまったく違った認識様式なのではないか、したがって精神科学・歴史科学は自然科学的な認識とは違った基礎づけを必要とするのではないかという問題を提起したわけです。それほど徹底したものではなかったにしても、これも、やはりそれまでの実証主義なり科学主義なりへのある反省ではあったわけでしょうね。
生松 たとえば、ヴィンデルバントのシュトラスブルク大学の総長就任演説、例の「歴史と自然科学」という講演などは、たしかマイネッケ(1862~1954)が、それまでの実証主義の重圧から歴史学を解放してくれたもの、として回想している。そういう感じを1890年代の若い学者たちはもったんですね。これは、実証主義的・科学主義的な方法の重圧というのがいかに人文諸科学においても大きかったかということを示すものだと思う。やはり新カント派の仕事には、そういう十九世紀的科学主義からの解放という役割がなにほどかあったわけでしょう。
木田 そうですね。ワン・ステップではあるにしてもね。
生松 やはり科学批判ということになるでしょうね。
木田 哲学の領域では、そんなふうに、さしあたっては新カント派が、あるレベルでの実証主義批判をやったわけでしょうが、二十世紀に入るころから、個別科学の領域でも似たような動きが出てくるんです。つまり、十九世紀に自然科学からそっくり借りてきた方法論的な前提の上に立って組みたてられたこれまでの方法では、どうも自分たちの対象領域をとらえきれないのではないか、それではとうてい説明できないようないろいろな現象が発見されてきて、どうも自分たちの使っている方法に基本的な限界なり欠陥なりがあるのではないかという反省を、それぞれの領域ではじめることになるわけです。
生松 この十九世紀の末には、一方ではそうした自然科学にたいする批判、あるいは方法論的反省がはじまる反面、他方では、ファン・ドゥ・シェークル(fin de siècle)という世紀末的なデカダンスの文学・芸術が大きく前面にせり出してくる。あれは科学への反省というのとはちょっと違うんで、むしろ科学とは別の世界に逃げるというか、卑俗な現実世界とは別の芸術世界を築き上げようとする試みだろうと思うけど、こうした営みも特徴的です。
木田 十九世紀後半に科学主義・実証主義が、単に学問の領域だけでなく、文化一般、芸術をまでおおってしまった、それに対する反動でしょうね。しかしそこにある対応はありますね。科学の内部での方法論的反省と、それから科学以外の文化一般の領域での科学からの離脱とのあいだに。
生松 個別科学の場面でいちばん顕著なのは、ゲシュタルト心理学でしょうか。かつての要素主義的・分析的な心理学からゲシュタルト心理学への転換。
木田 そうですね。十九世紀の実験心理学は、心理現象を客観的に観察可能な事実として扱おうとした。結局のところ、ニュートン物理学が典型的なかたちで描き出してみせた物理学的自然というものを根本的な前提にして、心理現象も事実であるかぎりそのなかにきちんと定位できなければならないと考えた。前のところでちょっとしゃべりましたね。複雑な心理現象を、一定の地点と時点とに定位できるような要素的事実に分解してしまうというやり方ですよ。そのころの実験心理学者たちが考えていた要素的事実というのは、感覚なんです。感覚はとにかく物理的な過程である刺激によってひきおこされるわけで、感覚と刺激のあいだに一対一の対応関係がある。しかも、刺激の度合いが高まれば感覚の度合いも高まる。つまり量的な比例関係も認められる。だから、この感覚から出発してもっと複雑な心理現象をすべて説明できれば、それらを科学的・客観的に処理したことになると考えたわけです。要素主義とか要素還元主義とかいわれる立場ですね。
生松 それはまさに、デカルトの「方法の規則」にのっとったやり方ですよね。複雑なものをできるだけ単純なものに分解して、その単純なものをつかまえて合成してゆけば、複雑なものをもつかまえることができるという。
木田 それが、どうも実際にやってゆこうとするとうまくいかない。たとえば、われわれの近く経験ひとつとってみても、そこには十九世紀の心理学者たちが考えたような感覚なんてものは、いっこうに見当たらない。つまり、感覚なるものは刺激によってひきおこされる興奮、それ自体はまったくなんの意味ももたない興奮でなければならない。
 たとえば、赤なら赤の印象、なんの赤でもなければ、どういう性質の赤でもない、ただの赤の純粋印象でなければならないはずなんです。ところが、そんな純粋印象は、実験室の中で被験者に小さな針穴から赤い色を塗った板でものぞかせて「つくり出す」ことはできても、われわれの具体的な知的経験のなかには全然見当たらない。そこでは赤はいつも、表面色であるか、照明の赤さであるか、地の赤さか、図の赤さか、必ずなんらかの性質、なんらかの意味をもったなにかの赤としてしかあらわれてこない。「感覚」というのは、われわれの経験の記述から得られた概念ではなく、物理学的世界から出発すると、こうあらねばならないというかたちで要請された概念だということになります。
 われわれの知覚経験の、最も初次的な所与は、はっきり「図」と「地」という体制をもったまとまり、ある意味をもった全体的なまとまり、つまりゲシュタルトなんで、けっして無意味な感覚の寄せ集めなどではない、ということを言い出してくるのが、ゲシュタルト心理学者たちなんですね。これは、ヴェルトハイマー(1880~1943)、ケーラー(1887~1967)、コフカ(1886~1941)、それにレヴィン(1890~1949)といったベルリン大学出身の若い心理学者たちによって提唱され、1910年代にかたちをととのえた立場です。こういう全体的なまとまり、ゲシュタルトといったものは、十九世紀の心理学者たちが前提にしていたニュートン物理学の世界のなかにはどうにも位置づけることの会できないものですよね。それをわれわれの経験の最も初次的な所与だと認めたということは、たしかにその発見のもつ意味を徹底させていけば、古典物理学的な世界像の破棄につながる可能性はあったわけです。
 ところでこの「ゲシュタルト」という概念は、直接には「感覚的性質」に対して「ゲシュタルト性質」を認めたエーレンフェルス(1859~1932)から借りてこられたものなんでしょうが、ゲーテにもいくらかひっかかりがあるんです。といっても、ゲーテ自身は『形態学論集』のなかで、ゲシュタルトという言葉は動的なニュアンスを欠いているので『形成(ビルドゥング)』とか『形成されたもの(ダス・ゲビルデテ)』という方が適切だという言い方をしているんですが、フランスにゲシュタルト心理学を紹介したポールギヨームなどは『ファウスト』や、同じ『形態学論集』でも「植物の変態」という論文のなかでの「ゲシュタルト」という言葉の用法から、これをゲーテ由来の概念だと見ようとしているようです。ケーラーも、「内なるものは外にあり」なんていうゲーテの言葉を、自分の本のある章の表題に選んでいるくらいですから、そういった連想が働いたのでしょうが。
生松 なるほどゲーテね。ニュートンが光を全部、波長に解体して色彩を数量化してとらえようとしたのに対して、ゲーテの色彩論は、それでは真の色彩をとらえたことにならないと批判する。いま見ているこのバラの赤さを、それとしてつかまえたいというわけですからね。だいたいゲーテの自然研究の基本特徴は、一種の全体直観にあるわけで、例の「イデーを見る眼」という言葉が示しているように、まさに形態(Morphus(モルフス))、根源的現象(Urhanomenon(ウアフエノメノン))が問題になる。ゲシュタルトというのは、きわめてゲーテ的な概念だね。
木田 少なくともゲーテには、ゲシュタルトの把握、つまり内的組成をも含めた意味での形態(モルフス)の直感、いわば一種のパターン認識という考え方はあったわけで、ゲシュタルト心理学者はそれをうけついでいるわけですから、そういう意味では、これはニュートンによって代表されるような分析的理性の立場とは違った系譜でしょう。それをロマン主義といっていいかどうかわかりませんが、少なくともロマン主義もそこに属するような知の系譜ということですかね。
生松 だからこのゲシュタルト心理学を発端にして、今日ではゲーテの自然研究の意義といったことがいろいろなかたちで問題にされることになった。その走りだね、たしかに。
木田 そういう意味では、もっと幅広い反実証主義の運動の有力な一環をなすものと見ていいでしょうね。
生松 ただゲシュタルト心理学者たちは、自覚的にゲーテからゲシュタルトという概念をもってきたとしても、前章でとりあげたような、裏街道としてのロマン主義的自然哲学との連関は考えていたんだろうか。
木田 いや、そうじゃないでしょう。というのも、この人たちは自分たちの発見を理論化する段階ではね、たとえばケーラーなんか物心同型説(アイソモルフイスム)といった考えをもち出してきて、ゲシュタルトの現象をもう一度物理学的な世界のなかになんとか位置づけなおそうという努力をしはじめますからね。意識的なレベルではそういった連関を考えていたわけではないと思います。」生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 理性の運命』講談社学術文庫、1996年、pp.156-166. 

 ドイツの思想史に詳しいお二人なので、ゲーテまで出てくるのは、ここではやや脱線気味だけれど、ベルリンでのゲシュタルト心理学派の人たちは、ユダヤ系の人が多かったので、やがてナチスの時代には、迫害を逃れてアメリカに亡命した人も多い。それで戦後のアメリカ心理学や社会科学にも影響を与えた。


B.周りに流されぬ意思の強い個人?
 ワンマン、ゴーマン、押しの強いボス的な人物は、あちこちにいる。それはある意味で強い意志をもって反対者や非同調者を押しのけ排除してもなにかを実現しようとする人間だとはいえるだろう。しかし、それが合理的で正しい結果をもたらす判断かどうかは、なんともいえない、というより往々にして理不尽で誤った結果をもたらす。それは、意思を貫く意欲やパワーの問題ではなく、判断の正確さや裏付けとなる知識やデータ分析の能力こそ問われるからだ。その部分がAIによってかなりいい線にいけば、あとは人々をどう動かすかになる。でも、AIが人間の行動や意識をどこまで精確に予測できるか?強引な意欲や情念で危うい決定をするリスクは大きく、そこにAIでチェックをかけるのはいいとしても、AIが最終決定する判断力があるかどうかは、まだなんともいえないとぼくは思う。

「経済季評:AIが自動化してゆく未来 人にしかできない選択とは 竹内 幹 
 1969年6月28日未明、機動隊約300人が出動する中、新宿郵便局に郵便番号自動読み取り区分機が搬入された。機動隊は、強盗を警戒していたのではない。搬入を妨害する労働組合員に対抗するための出動だった。今からすると、郵便番号を人間が読み取り、手紙を手作業で分類するのは労力の無駄でしかない。だが、機械による自動化(オートメーション)は、ブルーカラー労働者にとって、職を奪う脅威であったのだ。
 そして、目覚ましい発展を遂げる人工知能(AI)の登場で
ホワイトカラーの職も奪われる時が来たようだ。AIは、資料を読んで要約リポートを書くような業務だけでなく、写真と見分けがつかない精緻な画像を注文に基づいて自動生成したり、コンピュータープログラムはもちろん詩を書いたりすることさえ可能になってきた。その進歩の様はSF的。ホワイトカラー労働者は連帯して、AIの普及に歯止めをかけるべきなのだろうか。
 そもそも、すべての仕事がロボットなどの機械やAIで自動化されれば、私たちは労働から解放された桃源郷にいるはずだ。しかし、生産物や富が「必要に応じて分配」される理想社会は到来しないだろう。自動化が進んでも、生産物や富の大半は各人の貢献に応じ、労働市場を通じて分配されるはずだ。すると、自動化されてしまう業務に従事する人は、貢献が小さいので分配も十分に受けられない。自動化の進展は、必然的に所得格差をさらに拡大する。
  •      *      * 
 技術革新から生ずる賃金格差は、需要と供給の両面から次のように考えられる。生産に必要な労働には2種類あり、AIなどで自動化されてしまう定型業務と、自動化できない創造的業務があるとしよう。この二つの職種の賃金格差は、それぞれの重要性と希少性に依存する。AIなどの技術革新によって、定型業務の相対的重要性は下がり、その労働需要は減少する。結果、余剰人員が発生し、賃金格差は拡大する。
一方で、拡大した賃金格差に労働量も反応する。中長期的に労働供給が変化し、創造的業務を担える人が増える。希少だった人材の供給が増えるので、創造的業務の賃金が抑えられ、格差は抑制される。
 新しい人材層を生み出すのが教育である。例えば、アメリカでは20世紀の間に自動化が大きく進んだが、同時に教育水準が高まり、労働者が担える業務の質も変化した。20世紀中ごろまで、アメリカは圧倒的な教育先進国であったのだ。1955年時点で、高校などへの進学率はヨーロッパ諸国でおおよそ10~30%であったのに対し、アメリカではすでに約80%である。
 ハーバード大学のゴールディン教授とカッツ教授の研究では、進学率の大幅な上昇が起きた20世紀前半、賃金格差は縮小したとされる。教育水準向上のほうが、自動化よりも大きく賃金に影響したからだ。20世紀後半には知識産業の比重が高まり、賃金格差は広がり始めたが、この時は大学進学率が伸びたので格差拡大に一定の歯止めがかかった。職業訓練校ではなく、高校や大学で学ぶことで、変化の激しい時代を柔軟に生き抜く人材が養成された面もある。
 ただ、アメリカでは大学進学率の伸びが1980年ごろに鈍化し、賃金格差が急拡大した。もし、80年代以降も大学進学率がそれまでと同様に伸び続けていたら、格差は縮小に転じたはずだという。
  •       *       * 
 技術革新に後れをとらぬように、教育を拡充し続けることが、次世代を育成する正攻法なのだろう。
 だが、いま役立つスキルはすぐに役立たずになる。技術革新のスピードが速いので、スキルの陳腐化も加速しているからだ。かつて、文書の清書に使われた和文タイプライターなるものがあり、技能検定試験も行われていた。当然、ワープロの登場により廃れたスキルだ。そして、そのワープロでさえ、いまは製造されていない。だが、様々な状況で、何を文書に残すべきかを判断する思考力は、使う道具が変わっても活きる。こうした思考力を育成する教育をすべきであって、和文タイプライター技能のようなものを教育と位置付けるのは、失敗を招くだけだ。
AIには不可能で、私たちにしかできないことは何か。それは「責任を取る」ことかもしれない。これは、失敗や不祥事について謝罪することではない。結果を自分ごととして引き受けることだ。その意味で、責任を取れるのは、不確実性があるときに、リスクをとって自発的に意思決定した人だけだ。
 経済実験で、人間の代りにコンピューターに結果を選択させることがある。すると、人間と同じ結果を選択しても、周りの人々の反応は異なる。責任のあり方が、意思決定の背後にあるはずの意図に深く関係するからだ。同様に、AIに選択はできても、意図をもって選択する役は、人間にしかできない。
 責任をもって意思決定するには、強い自己決定力と責任感の基盤が必要だ。それは、命令や「空気」に従う画一的な集団主義のなかでは培われない。未来を担う意思の強い個人を育てるためにも、急いで変えるべきことはまだたくさんある。」朝日新聞2023年5月6日朝刊9面、オピニオン欄。
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理性の運命 5 ニーチェのニヒリズム  真摯な絶望 

2023-05-04 21:21:10 | 日記
A.ニーチェという人物
 フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月~1900年8月)は、どういう人だったか。伝記によれば、プロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン(現在はザクセン=アンハルト州)の、ライプツィヒ近郊の小村レッツェン・バイ・リュッケンに、父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの間に生まれた。父カールは、ルター派の裕福な牧師で元教師であった。父カールは近眼が原因で足元にいた小犬に気付かずにつまづき、玄関先の石段を転げ落ちて頭を強く打った。1849年ニーチェ5歳の時に父はこの時の怪我が原因で死去。また、それを追うように、翌年には2歳の弟ヨーゼフが歯が原因とされる、けいれんによって病死。1854年にナウムブルクのギムナジウムに入学。ギムナジウムでは音楽と国語の優れた才能を認められて、ドイツ屈指の名門校プフォルタ学院の校長に招かれ転校。1858年から1864年までは、古代ギリシアやローマの古典・哲学・文学等を全寮制・個別指導で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。また、詩の執筆や作曲を手がけている。卒業後ニーチェはボン大学へ進んで、神学部と哲学部に籍を置く。神学部に籍を置いたのは、母がニーチェに父の後をついで牧師になる事を願っていたための配慮だったと指摘される。しかし、ニーチェは徐々に哲学部での古典文献学の研究に強い興味を持っていく。最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている。古典文献学の研究で実証的・批判的なすぐれた研究を行ったフリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュルと出会い、師事。リッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ転属となったのに付いていき、ニーチェもライプツィヒ大学へ転学。1865年に古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入し、この書の虜となる。また、1868年11月、リッチュルの紹介で、当時ライプツィヒに滞在していたリヒャルト・ヴァーグナーと面識を得た。
 1869年のニーチェは24歳で、博士号も教員資格も取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材は見たことがない」という強い推挙もあり、バーゼル大学から古典文献学の教授として招聘された。バーゼルへ赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得を考え、プロイセン国籍を放棄する(実際にスイス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェは終生無国籍者として生きることとなる。本人は哲学の担当を希望したが受け入れられず、古代ギリシアに関する古典文献学を専門とすることとなる。1872年、ニーチェは第一作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』と改題)を出版した。しかしリッチュルや同僚をはじめとする文献学者の中には、厳密な古典文献学的手法を用いず哲学的な推論に頼ったこの本への賛意を表すものは一人とてなかった。こうした悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義からは古典文献学専攻の学生がすべて姿を消し、聴講者はわずかに2名となってしまう。大学の学科内で完全に孤立したニーチェは哲学科への異動を希望するが認められなかった。1879年、激しい頭痛を伴う病によって体調を崩す。ニーチェは極度の近眼で発作的に何も見えなくなったり、偏頭痛や激しい胃痛に苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題を抱えており、その上落馬事故やジフテリアなどの悪影響もこれに加わって、バーゼル大学での勤務にも支障をきたしたため、10年目にして大学を辞職せざるをえず、以後は執筆活動に専念する。
 ニーチェの哲学的著作の多くは、教壇を降りたのちに書かれたものである。1878年に『人間的な、あまりに人間的な』を刊行した。そして、それを皮切りにして、ニーチェは1888年まで毎年1冊の著作(ないしその主要部分)を出版することになる。特に、執筆生活最後となる1888年には、5冊もの著作を書き上げる。1889年1月3日、ニーチェはトリノ市の往来で騒動を引き起し、二人の警察官の厄介になった。ニーチェはバーゼルの精神病院へ入院。1897年に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトは兄の面倒をみながら、もはや意思の疎通ができない兄と暮らしていた。1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で亡くなった。つまりニーチェの最後の10年ほどは通常の精神状態を喪失していた人となった。

「木田 そうですね。そういうことでいえば、近代ヨーロッパ文化の行き詰まりが見えはじめたあの時点で、シェリングやマルクスがそれぞれに「根源的自然の回復」を提唱したというのは、注目してよいことでしょうね。西洋の哲学思想に一つの大きな転機が生じたのはここいらからです。
 しかし、そうした「根源的自然」の概念を持ち出して来て、ヨーロッパの近代哲学はもちろんの事、もっと大きく、西洋の哲学的伝統の全体を批判するという仕事を、ある意味でいちばん壮大なかたちでやってのけたのは、再三言うようにやはりニーチェでしょう。時代的にいえばシェリングやマルクスよりも、もう少し遅いし、その直接の動機も少し違ってはいるんですが。
生松 くりかえしニーチェになっちゃうけど、ニーチェというのは、やはり現代の問題を考える場合、どうしても真正面から問題にせざるをえないというこおなんでしょうね。
木田 ニーチェの場合、シェリングやマルクスと違うのは、ヘーゲル批判がその直接の動機になっていないということのように思うんですが……。
生松 いや、そうも言えないんじゃないかな。ショーペンハウアーが間に入るわけだから。
木田 なるほど、そうですね。ショーペンハウアーが介在しますね。ショーペンハウアーがヘーゲルを批判し、そのヘーゲル批判を通じて、近代の合理主義を批判する、その契機をニーチェがうけつぐかたちになりますかね。
生松 そうそう。ショーペンハウアーのヘーゲル批判というのは、簡単に言えば、カント哲学の解釈のし直しです。カント哲学のドイツ観念論的、ヘーゲル的な解釈の拒否ということ。カントが認識批判のレベルで考えた現象界と物自体というあの枠組みを、形而上学のレベルに移して考えようとしているわけです。木田さんが前に言っていたように、カントの現象界を「表象としての世界」、物自体界を「意志としての世界」、生への盲目的な意志の支配する世界としてとらえ直し、意志の形而上学を展開するわけです。ニーチェは、少なくともその出発点では、それをそのままうけついでいるのだから……。
木田 そこにヘーゲル批判の契機はある、ということになりますね。たしかに、カントを広い意味での合理主義の展開の路線のなかに結局は位置づけてしまうヘーゲル尾のやり方ではなく、そうした表象の能力、認識能力としての理性の根底に、暗い意志的なものを見ようとするわけですから、むしろ後期シェリングに通ずるところがあります。その点、後期シェリングと似たようなヘーゲル批判、合理主義批判の動機がニーチェにもあったということになりましょうかね。
生松 そう思いますね。
木田 ただ、ニーチェの場合は、はじめから哲学者として哲学の勉強をしたわけじゃない。古典文献学、つまりギリシア・ローマの古典研究から出発した人ですよね。だから、はじめから自覚的にそういった哲学史的文脈の中でものを考えたわけではないでしょう。むしろ直接の動機は、前にも言った時代批判だと思います。
生松 その古典文献学と時代批判は、どう結びつくんですか。
木田 古典文献学者としてのニーチェがやったのは、ギリシア悲劇の成立史とソクラテス以前の哲学者たちについての研究なんです。そうした研究のなかから、プラトン以前のギリシア――ニーチェのいわゆる「悲劇時代のギリシア」――の自然観、自然を生きたものとして見る自然観を学びとってくる。それを拠点にして、それ以後の西洋文化形成の全体を徹底的に批判しようとするわけです。
生松 なるほど。たしかにギリシアの古典時代からこっち、ヨーロッパ近代までも全部っひっくるめて根本から否定しようとしていますね。プラトン以来の形而上学と、キリスト教と、ストア主義的道徳によって規定されてきた西洋文化の形成をすべて「プラトン主義」だときめつけて。しかし、その自然観と時代批判との関係は。
木田 ちょっと話はややこしくなりますが、こんなことじゃないでしょうか。前にも話に出た十九世紀後半の文化的状況ね、つまり、文化の創造力がまったく枯渇してしまったかに見えた虚無主義(ニヒリズム)的な雰囲気、ニーチェのいわゆる「心理的状態としてのニヒリズム」ですが、これを乗り越えるためにはどうすればよいか。それには、いったいどうしてこんな状態に陥ってしまったのか、まずその原因を確かめる必要があるわけです。
 ニーチェには、これが近代ヨーロッパ文化形成の必然的な帰結としか思われなかった。彼の言い方に従えば、これまでヨーロッパ文化形成を導いてきた最高の諸価値、つまり形而上学的諸価値がその効力を失ったためだというんです。
生松 「神は死んだ」という宣言ね。
木田 そう、あの神というのは、形而上学的な諸価値のシンボルなんですが、彼にとってキリスト教の神というのは、形而上学的な諸価値のシンボルなんです。つまりこれまでは、いっさいの存在者の上にそういった形而上学的な最高価値が厳然と支配していて、それらの存在者にそれなりの価値を与えてきた。しかるに、それら最高価値が効力を失ったために、それによって価値や意味を与えられてきたこの世界が無価値に思えるようになった、というわけです。
 ニーチェが形而上学的諸価値ということで考えているのは、たとえばプラトンのイデア界とかキリスト教的人格神とか、近代の哲学者が説く理性といったものですね。「形而上学的(メタフィジカル)」というのは、言葉どおりには「超自然的(メタ・フユシス)」ということですから、こういった諸価値は、この現実の自然界を完全に超えたところにあるものとして設定され、自然界の現実の諸事物は、そのイデアの影を宿しているから、あるいは神によって創造されたものだから、あるいは理性によって認識されうるからこそ、価値があり意味があると考えられてきたわけです。ところが、いくらそうした最高の諸価値を目指して文化形成の努力をつづけていっても、どうしてもそこにはゆきつけない。その徒労感がペシミズムとなり、「心理的状態としてのニヒリズム」をひきおこした、というのでしょうね。
 しかし、それではどうして、そこにゆきつけず、どうしてそうした形而上学的価値が効力を失ったのか。ニーチェに言わせれば、そんなものはもともとなかったからだというんです。そうした形而上学的諸価値は、元来人間の願望が投射されて実体化されたものでしかないんだから、いくら努力してみてもそんなところにゆきつけないのは当然だし、それが最高価値としての機能を失ったって当然だというわけです。
生松 そうなると、いわゆる虚無主義的雰囲気の生じてきた遠因は、そんなありもしない最高価値を設定したところにあるというわけ。
木田 そうなんです。だからニーチェは、ニヒリズムということを言うなら、そこまでさかのぼって考えなければならないと言う。つまりプラトンが、この自然界を超えたところにイデア界といった超自然的、形而上学的原理を設定し、それを参照にしながらこの自然界の個々の存在者の存在を問題にしはじめた。そこに今日のニヒリズムの遠因があると見るわけです。自然界を超えたところに形而上学的原理を設定し、それとの関係でこの自然界を見ようとする、そうした思考様式をいちおう「形而上学的思考様式」とよんでおくことにしますが、これがその後の西洋哲学の伝統となり、西洋の文化形成の基本的設計図を描くことになる。なるほど形而上学的原理として立てられるものは、そのときどきイデアであったりキリスト教の人格神であったり人間理性であったり絶対精神であったり、呼び名はさまざまに変わるわけですが、そうした思考様式そのものは、一貫してうけつがれるわけです。
 だからニーチェは、プラトン以来の西洋哲学は、ストア的道徳やキリスト教をも含めすべて「プラトン主義」だと言い、そうした思考様式によって規定された文化形成の伝統をニヒリズム、「ヨーロッパのニヒリズム」とよぶわけですね。こうして、ニヒリズムというのが、単なる虚無主義的な雰囲気とか心理的状態とか主義主張をいうのでなく、ヨーロッパの歴史を根本から規定している歴史的運動を指すことになるわけです。
生松 なるほど。しかし、それとさっきいった自然観とはどう結びつくんだろう。
木田 それはこう考えられるんじゃないでしょうか。つまり、いったんそうした形而上学的原理を設定してしまえば、自然界の諸事物は、それに与るかぎりで存在者としての資格を認められる。たとえばプラトンの「イデア論」でいけば、イデアというのは事物の純粋な形なんだけど、その形を近似的に具現しているかぎりで、個々の事物は、机として椅子として存在しうるわけです。とすると、事物に形を与え存在者に仕立て上げる形成原理はイデアなわけで、自然の方は、それによって形成される単なる材料、質料(ヒユレー)になってしまう。つまり、形而上学的思考様式のもとでは、自然界が全体として、それ自身のうちに生成の原理をまったくもたない無機的、無構造的な質料(マテリア)(物質)になってしまいます。自然が悪しきもの、無価値なものと考えられ、それから離脱することがつまり文化の形成だ、という考え方は、こんなところから出てきたわけでしょう。
 古典文献学の研究をやったニーチェは、ギリシア人のもとでも、プラトン以前には自然はもっと違うふうに受けとられていたことを知っていたわけですね。ふつうフォアゾクラティカー(Vorsokratiker)とよばれるソクラテス以前の哲学者たちの残した断片、そこから読みとられる自然(プユシス)は、決してそんな質料的なものではない。それ自身のうちに生成の原理をそなえた「生きた自然」です。しかも、自然(プユシス)はよく万物(タ・パンタ)と言いかえられているように、ありとしあらゆるもの、存在者の全体を指しており、自然を超えたものなど思いつきようもなかったらしい、そこでは人びとは、自然に包まれ、その懐にいだかれて、人間であれ人間社会であれ自然の理法(ロゴス)に従うことが最高の在り方だと考えて生きていたのでしょうね。その自然が、プラトン以後、形而上学的思考様式のもとで、単なる質料(マテリア)におとしめられてしまう。もはや、存在者の全体をではなく、自然(プユシス)と人為(ノモス)、自然(プユシス)と技術(テクネー)、自然(ナトウーラ)と恩寵(グラーテイア)、自然と社会、自然と文化といった対概念の一方の項として、存在者のある特定領域を指すものでしかなくなったわけです。
ニーチェは直接には時代批判から出発するのでしょうが、それを展開させて行って、ついにはそうした悲劇時代のギリシア人の「根源的自然」の概念を拠りどころに、西洋の形而上学的な文化形成の伝統の全体を否定するところまでゆく……。
生松 なるほどね。それは筋が通る。ニーチェが『悲劇の誕生』でもち出すアポロン的な原理とデウウィオニュソス的な原理、あれにひっかけて言えば、まさにそのディオニュソス的原理が文化形成のプロセスから完全に脱落してしまったということでしょうね。
 ディオニソス的世界といったら、まさに生成発展の混沌とした世界、ショーペンハウアーのいう「意志としての世界」であり、アポロン的世界というのは、その上にかけられた薄いヴェールのような「表象としての世界」にすぎない、というわけですから。
木田 そうですね。結局ニーチェは、同時代の文化のニヒリズムは近代合理主義の必然的帰結だと見ていたわけでしょうが、近代の合理主義の成立には、たしかに一方では古代ギリシアの幻想が大きな役割を果たしていたというところもある。とくに十八世紀の啓蒙運動、その帰結であるフランス革命の指導理念、その中にこの幻想が働いていたことはたしかです。
ところが、そのギリシアたるや、まったくアポロン的なギリシア、あのオリュンポスの神々や、造形美術、それに理性的存在者のみによって構成された共和政体であるポリス、そういったものに象徴されるような「明るい」ギリシアだったわけです。いわば近代ヨーロッパの合理主義の模範になったのは、まちがいなくあの古代ギリシアの合理主義だったわけでしょう。ニーチェは、ギリシアがけっしてそんなものではなかったということを言いたかった。つまり、あの澄明な造形美術の根底には、暗いディオニュソス信仰と結びついた音楽があり、あの明るさの根底には、暗いペシミズムがあったのだということを主張したかったわけですね。古代ギリシア人は、そのペシミズムに耐えるために、暗いディオニュソス的世界の上にアポロン的なヴェールをかけたのであり、ギリシア悲劇の成立史がそのことを如実に示している、と言いたかったわけでしょう。
生松 それで『音楽の精神からの悲劇の誕生』というわけですね。ふつうあれは単に『悲劇の誕生』で通っているけど、要するに、近代ヨーロッパ文化の軽薄さは、古代ギリシアをとらえそこなったところから来ている。上にかけられたヴェールだけを見て、それを模範にして自分たちの文化を形成してきたところにその誤りがあった、と言いかえてもいいわけですね。」生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 理性の運命』講談社学術文庫、1996年、pp.113-123. 

「ニーチェのニヒリズム」というとき、ニーチェの思想の特徴がニヒリズムだったというのは誤解で、近代合理主義、つまりプラトン以後の西洋哲学の「明るい思想」、啓蒙的なものがもはやニヒリズムに陥っているとニーチェは考えた、ということなんですね。


B.底深い絶望
 阿部晋三銃撃犯の山上徹也が書き込んだと思われるツイート全1364件を分析し考察した本、五野井郁夫・池田香代子『山上徹也と日本の「失われた30年」』集英社インターナショナルを読んでみた。「silent hill333」のアカウント名で、2019年10月から2022年6月30日までの、この山上という人物の生活史記録、というよりは綿々たるツブヤキから何が見えるのか。たしかに興味深い。その中にこのようなコメントがあった。

「池田 以前にも、勝ち組、負け組という言葉が流行った時期がありました。そもそも勝ち負けで分けるという発想に違和感があって、「そんなことを言ったら私たちはほとんどみんな負け組よ」とか言っていたんですが、今の若い人にはもっとヒリヒリするような重いものとして感じられるんでしょうか。
五野井 ヒリヒリするんでしょうね。
池田 それを受け止めて、そういう言説の中で二十代、三十代を生きなければならないんですね。私みたいな一丁あがりのお婆さんは、もう鈍感になって、みんな負け組よなんて言って、べつに勝ち負けにこだわらないでいられるけれど、若い人はそれどころじゃない。
五野井 まさにそれどころじゃないです。今、十代、二十代、三十代、四十代なんていうのは、基本的にネットとSNSがすべてで、とりわけインスタグラムとか、ああいうものによって自分のプライベートな生活が可視化されていく中で、他者が羨望するような生活というものが見えてくるわけです。今までだったら見えなかった他人の羨ましい部分、一面というものが見えてきてしまうし、ルッキズムも苛烈で否が応でも比較される対象になっていくわけです。
 先ほどからたびたび挙げているように、かつては見田宗介さんが『まなざしの地獄』という本をお書きになりましたが、今という時代は、携帯電話などの携帯情報端末を通じていつでも「まなざしの地獄」につながっていると思うんです。本来「まなざしの地獄」というのは、みんながいる家の外にあった衆人環視の空間を前提として、他者のまなざしを内面化することで感じるものでした。けれど今は、本来いちばん人のまなざしを遮断できるはずの家の中であったとしても、SNSを通して直接的に他者のまなざしを意識せざるを得ず、かつてフーコーが『監獄の誕生』で論じたように、パノプティコンてきに内面化してしまうわけです。パノプティコン(Panopticon)とは全展望監視システムのことですが、あるいはパノプティコン的な「格子なき牢獄国家」(久野収)のような、そういう時代にわれわれはいるんですね。
池田 孤独の意味が変わってきたように思います。山上被告も「だから言っただろう」「最後はいつも一人」(2019-12-7)と言ったり、「人が一人では生きられんのも絶対的な事実ではあるが」(2019-11-22)と書いたりしていますね。
五野井 ご指摘の箇所は山上被告の心がものすごく揺れていますよね。
池田 揺れています。人恋しいんですよ。山上被告のものと思われるツイートは、わかっているだけで1363件とされていますが、その中にたった一件、動物ネタがあって、それは「ダム添いの道で小鹿が柵から抜け出せず死んでいた。ほんの少しの手助けがあれば死なずに済んだのだろうか?」(2021-1-18)というものです。おそらく自分で撮った写真が添えてあります。誰かによる「ほんの少しの手助け」を求めていたのは山上自身だったのだと思わずにいられません。
 先ほど五野井さんは、山上は生活保護行政が十分に機能していないと批判している、とおっしゃいましたが、ベーシックインカムについてえんえんと連ツイしていて、それが肯定的なのです。」五野井郁夫・池田香代子『山上徹也と日本の失われた30年』集英社インターナショナル、2023、pp.76-78. 
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