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維新150年 光と影、連続じゃなく切断、西南と東北

2018-05-23 17:20:26 | 日記
A.社会システムの変更は可能か?
 社会が成り立ち存続するには、法律や企業や行政組織や警察やら各種の装置が必要だが、それだけではじゅうぶんとはいえない。社会を構成する人々を交流させ合意と一体感をつくり出すもの、文化的・精神的に統合するものが必要だと社会学は教える。近代国家は、国民により人為的に作られたものとして憲法のようなお約束を必要とするが、さらにその体制の正当性legitimacyを保証する神話が必要だ。西洋では唯一の神の名をこれに充てた。God save the Queen! でも、日本では西洋の神にあたるものがいないので、明治国家を作る際に古代的な王の末裔・天皇をそれにあてたと考えることができる。これは国民がそう望んだとか、それを選んだとかという近代的な手続きではなく、気がついたらそうなっていたというようにゆっくり、しかし巧妙に教育されていったと考えられる。
 戦前の末期、大戦争になだれ込んでいった時代に、それは社会的イデオロギーとして露出し人々に覆いかぶさることになった。それを体験的に知っている人はもうほとんどいなくなるが、天皇制にふれることは相変わらずタブー視されていると同時に、それが絶対不変の制度であるとは思わない若い世代が増えていることは確かだろう。来年には天皇の退位交代が予定されている。それが社会システムの変更につながるものではないように、準備されるだろうが、「国体」の正当性を担保する機能がいささかも揺るがないといえるだろうか?

 「ところで、戦後に天皇制を語る際に繰り返し参照されてきた、「一木一草に天皇制がある」という中国文学者の竹内好の有名な言葉がある。この言葉は、「天皇制的なるもの」が、天皇と実際に近接・接触している政治機構上部の統治エリートの中で発生し、社会全体に一方的に押しつけられていったのではなく、日本社会の至る所で「天皇制的なるもの」が形づくられているとの指摘である。あの天皇制ファシズムという異様な統治機構は、それを受け入れる広範で肥沃な土壌があったからこそ、成立し得たのであると。
 この指摘は、日本社会のさまざまな組織や共同体にボスと茶坊主たちによる不条理な支配が見られるという現実に照らして、正当である。
 しかし、「天皇制的なるもの」が仮に空気のように遍在する、すなわち日本社会のありかたを永久に規定する定めにあるのならば、その支配から逃れることをわれわれは諦めるほかないであろう。つまり、天皇制に関する一件「深い」議論は、その克服の不可能性を結論することにしばしば帰着する。
 それゆえ本書は、天皇制あるいは国体を、基本的にあくまで近代日本が生み出した政治的および社会的な統治機構の仕組みとしてとらえることに、自己限定した。一木一草の揺らぎにまで天皇制の痕跡を求めずとも、われわれは十分検証できるほど近い歴史的起源をたどることでその機能を把握できるはずだ、という確信に基づいてのことである。
 本書はまた、天皇制の機能の根源を宮中祭祀に代表される天皇の司る儀式に見出す、という方法も採らなかった。民俗学や歴史学によって、天皇の権威や権力の起源が、制度的にどのように確立され展開されてきたかについては、研究が進められてきた。古代天皇制の権威や権力の起源が祭祀王としての地位にあり、その記憶が大嘗祭をはじめとする今日の宮中祭祀にまで伝承されている事は確かである。
 このことから、たとえば、民俗学者の赤坂憲雄は天皇制は遠からず衰亡の道をたどらざるを得ないと結論している。いわく、「わたしたちの生きてある現在はたぶん、天皇制の宗教的かつ儀礼的な構造をささえてきた物質的な基盤が、やがて根こそぎに失われようとしている未曽有の時代である。天皇という制度は避けがたく形骸化してゆく」。
 「物質的な基盤」が「失われ」るとは、近現代日本において農耕社会が工業社会へ、さらにはポスト工業化社会にまで変転してきたことを指している。天皇による宮中祭祀の起源が農耕社会を前提としているのだから、その社会基盤が根こそぎ入れ替わってしまえば、天皇の執り行う宗教的および儀礼的実践は、日本人にとってわけのわからないものとなるだろう、というのが赤坂の見立てである。
 しかし、本書で見てきたのは、社会の主要な生産様式に支えられなくとも、近代日本において「天皇制的なるもの」は十分に機能しうる、ということである。それはなぜなら、少なくともわれわれにとって身近な天皇制とは、古代的意匠をまとった近代的構築物であり、天皇の存在そのものならびに天皇制という統治構造が、その出来の良し悪しはともかくとして、近代化を意図してつくられた装置にほかならなかったからである。そうであるからこそ、戦後においては、アメリカニズムと天皇との間に、代替可能性が生まれ、アメリカニズムはわれわれを取り巻く物質的生活において、それこそ「一木一草に」宿るものとなり得た。
 歴史家の安丸良夫は、『近代天皇像の形成』において、「天皇制=近代的構築物」との見方に基づいて、天皇制の基本観念を次の四つにまとめている。
① 万世一系の皇統=天皇現人神と、そこに集約される階統制秩序の絶対性・不変性
② 祭政一致という神性的理念
③ 天皇と日本国による世界支配の使命
④ 文明開化を先頭にたって推進するカリスマ的政治指導者としての天皇

一見してわかるように、安丸のまとめは、明治期に形成・確立された戦前の天皇制に対する簡潔な特徴づけである。だが、こうした特徴づけを直接的に戦後の天皇制に適用するならば、議論は即座に説得性を弱めることになってしまう。なぜなら、①~④のいずれの機能も、今日の天皇制は担っていないからである。
主として近代天皇制の形成過程を扱っている『近代天皇像の形成』は、末尾部分で現代における天皇制の機能について言及しているが、そこでは天皇が関与するさまざまな儀礼と国民の日常生活との乖離が指摘され、天皇制は「人畜無害の骨董品」のごときものとなり、国民国家の統合原理として無力化する可能性が指摘されている。
 しかしその一方で、同じ天皇制が、日本国家の統制する秩序の「基本的な枠組み全体のなかでもっとも権威的・タブー的な次元を集約し代表するものとして、今も秩序の要として機能している」とも述べられている。
 率直に言って、この論旨は筆者には理解できない。なぜなら、一方で天皇制はもはや無力だと言われながら、他方で同時に、全く逆のことが主張されているからである。
かつ、ここでの天皇制は、第一義的には国民国家の統合原理として機能するものとしてとらえられているが、近代以降にも君主制が維持されている世界各国において、その機能は共通であるはずだ。しかし、安丸の論では天皇制と君主制一般とを明瞭に区別する原理は示されておらず、なぜ殊更に天皇制が批判対象として問題化されなければならないのか、根拠が不明である。
 あるいは、近代国民国家が国民を均質化して統合すること自体がここでの批判の第一義的な対象であるとすれば、それにしたがって、統合の装置としての天皇制ないし君主制よりも、国民国家一般が第一義的な批判の対象とされるべきである。
戦前の天皇制については簡にして要を得た特徴づけに成功している議論が、天皇制の現在を扱おうとするや否や甚だしい混乱に陥るのは、なぜだろうか。それは、「戦後の国体」はアメリカという要因を抜きにしては考えられないからである。
 翻って、このことは、安丸が行ったような特徴づけの内容は、「アメリカを頂点とする戦後の国体」の特徴として、別の意匠に翻案されて今日社会的に機能していることを意味する。したがって、これらの特徴づけは、その内容がアメリカによる媒介を経て変態したものとしてわれわれの目の前に現れているととらえるならば、「戦後の国体」に孕まれた幻想的観念を明瞭に映し出す力を持つ。
 すなわち、「①万世一系の皇統=天皇現人神と、そこに集約される階統制秩序の絶対性・不変性」における、「万世一系の皇統」の観念は、天皇による支配秩序の永遠性(天壌無窮)を含意するが、今日、外交の場面で大真面目で謳い上げられているのは、日米同盟の永遠性(天壌無窮)である。ここにおいて米大統領は神聖皇帝的性格を帯びることになるが、安倍政権による米大統領やその近親者に対する接遇の様式は、それを報じるメディアの報道姿勢と共に、この観念を裏書きするものであった。
また、この聖なる秩序についての幻想的観念は同時に全く現実的(現世利益的)なものでもあるのであって、政官財学メディアにまたがる日米安保マフィアの面々は、この観念の永遠化にどれだけ貢献しているかという業績に従って、「階統制秩序」のなかで位置づけをされる。
 次に、「祭政一致という神政的観念」における「祭政一致」のそもそもの意味は、司祭者が政治権力を保持する神政政治である。この司祭者=政治指導者は、宗教的実践の原初的形態においては、五穀豊穣や大漁を祈るマツリゴトの場面で、祈念したり神の託宣を受けたりといった主役の役割を果たす。
今日の社会でこれに類似する機能は、「グローバリスト」たちによって構成される経済専門家(中央銀行関係者、経済学者、アナリスト等)集団が果たしている。市場の恵みの行方を占いその託宣を一般人に告げるのは彼らであり、常に怪しげな福音を説いて回ることによって、マルクス=エンゲルスが「イデオローグの最初の形態」と呼んだ司祭・僧侶階級と類似した社会的機能を果たしているが、彼らの首領たる中央銀行総裁は実際的な権力を兼ね備えている。ニューヨーク・ダウ平均株価の上下に一喜一憂し、最終的な政策決定者たる神聖皇帝(米大統領)の経済思想を懸命に忖度するといった現代のありふれた光景は、祭政一致の今日的形態であるとみなすことができる。
 そして、「③天皇と日本国による世界支配の使命」は、戦前国体の「八紘一宇」のイデオロギーと直結するものであるが、その戦後的形態は「パックス・アメリカーナ」に見出されうる。後述するように、この観念こそが、今日最も差し迫った危険の原因として立ち現れつつある。
本書で強調してきたように、歴史的に言えば、日本はアメリカの同盟者として「冷たい戦争」を闘い、そこから受益しながら、勝者の地位を獲得した。アメリカは日本に代わって八紘一宇を実現してくれたのであり、日本はそれを助けたのである。しかし、この勝利は、ソ連・東欧圏の崩壊、共産中国の世界資本主義市場への統合をもたらし、共産主義の最終的敗北を意味したが、それは同時に、日本が冷戦構造から受益できる状況が失われたことをも意味した。
 アメリカが失策を続けている中東の情勢や、激変しつつある東アジアの情勢に鑑みれば、パックス・アメリカーナの追求は、日本に利益をもたらすとは限らない。にもかかわらず、「パックス・アメリカーナへの助力」以外の選択肢が一切思い浮かばないのであるとすれば、それはパックス・アメリカーナが合理的判断から推論される望ましい秩序ではなく、八紘一宇としてとらえられていることを意味するであろう。
最後に、「➃文明開化を先頭にたって推進するカリスマ指導者としての天皇」もまた、戦後におけるアメリカニズムの流入に鑑みれば、その機能を了解することができよう。無論、物質的生活・消費生活・大衆文化等々の諸領域におけるアメリカニズムの拡大は、第二次大戦後の世界の至る所で一般的に観察しうる事象である。「現代的であること=アメリカ的であること」という定式は、二〇世紀後半の世界を席巻した。
 アメリカニズムの流入の日本的特徴は、ネオリベラリズムの覇権獲得以降、顕在化したように思われる。すなわち、戦後日本の国民経済が成熟し、日常的な消費生活においてアメリカが「憧れの中心」の地位から去った後、「アメリカ的なるもの」は、「制度改革の原理」のようなより抽象的で、時に見えづらい次元で機能するようになった。労働慣行の改革や司法制度改革、大学改革等々、「グローバル化への対応」を旗印とした一九九〇年代以降の制度改革において、ありうべきモデルの参照先はまことにしばしばアメリカであった。つまり、「グローバル化への対応」は「平成の文明開化騒ぎ」の様相を呈し、その戦闘に立つものとしてアメリカが引き合いに出されてきた。
目につくのは、これらの改革が総じて失敗しているにもかかわらず、停止されないことである。例を挙げるならば、筆者にとって身近な現場は大学であるが、「アメリカ流の公正な競争」を目指した競争的研究資金獲得制度の導入がもたらしたのは、研究教育環境の荒廃・論文生産の低迷であった。これらの事実に対しては、現在ようやく目が向けられつつあるが、驚くべきは事態が直視されてこなかったことである。その姿は、壊滅的な戦況を直視することから逃げ続けた戦時下の日本を彷彿とさせる。あたかも「神国ゆえに負けるはずがない」という命題が、「アメリカ流なので間違っているはずがない」へと転化したかのごとき光景を、われわれは目にしている。そこには一片の合理性もない。」白井聡『国体論 菊と星条旗』集英社新書、2018.pp.316-325.

 「アメリカにくっついていれば大丈夫だ」「アメリカの機嫌を損ねては失敗する」「アメリカのような国になることを目指そう」という盲目的な「戦後の国体」が意味をもった時代は、冷戦終結の時点で終った。にもかかわらず、他にとるべき道をもたず、考える力もなく、グローバル人材を作って経済成長すれば再び栄光が甦る、などと寝ぼけたことを夢見ている人たちは、後世亡国の元凶と呼ばれることを覚悟しているのだろうか。



B.東北の敗者はいまも怨念に・・
 東北とは縁も所縁もなかったぼくだが、3月に山形庄内にスペースを借りて、ときどきそこに通うことにしたので、東北は無縁な土地ではなくなった。鶴岡の町をこれから散歩していろいろ見たり考えたりしたいのだが、庄内藩は幕末の戊辰戦争で「負け組」となった側で、江戸時代は日本海の交易や米どころとして栄えた歴史がありながら、明治以降は後進的な農村地帯として大きな発展を遂げられなかったとされる。現在の町を歩いてみても、人口減少の進行で商店街は活気を失っているように見える。でも、それは表面的なことかも知れず、しばらくは人人の生活をよく見ることにしたい。

 「五〇万名以上の戦死者を出したアメリカの南北戦争とは比較にならないが、鳥羽・伏見戦争以降、戊辰戦争でも東軍・西軍遇わせて八〇〇〇名以上、おそらく一万名近い犠牲者が出ている。戊辰戦争で敗退した東北士族の苦難の道のりは、石光真人編著『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』(中公新書、一九七一年)をはじめとして、よく知られるところだが、彼らが「戊辰」の雪辱を果たす最初の機会となったのは、一八七七年の西南戦争への出征であり、西郷軍の撃滅だった。
  (中略)
 東北は長い間、「戊辰」に呻吟していた。一九一七年五月に平石弁蔵の『会津戊辰戦争』が出る。序を寄せた板垣退助は「官軍といひ賊軍と呼ぶも、そは単に外形に過ぎずして、其忠を皇室に効さんとするの志や一也」としたうえで、「会津は天下屈指の雄藩也、若し上下心を一にし、戮力以て藩国に尽さば、僅かに五千未満の我官兵、豈容易に之を降すを得んや」と論じ、領民が逃避したことで藩力が寸断され、官軍に敗北したと述べている。雄藩会津藩の分裂状況から、板垣は国家統一・主権確立をめざす自由民権運動の必要を悟ったという、この一節は一九一〇年に出版された『自由党史』第一章「維新改革の精神」中の「板垣退助の会津滅亡の感」の転載である。かさのぼれば一八九三年刊行の栗原亮一・宇田友猪編纂『板垣退助君伝』(自由新聞社)「第二十七 若松城攻囲と降伏、東征軍の凱旋」で披露された所謂「会津落城の話」に見られ、さらには一八八一年十二月の『土陽新聞』掲載の「会津落城の逸話」にたどりつく。しかし、会津戦争の体験から自由民権運動へ展開したという板垣のストーリーに関しては、当時より後世の作ではないかと疑われていた。要するに、板垣の弁は戊辰戦争の(勝者)故の余裕ある発言であり、軍事力の点では、雄藩を誇る会津の藩士より官軍の方がはるかに有能・強力であったという自負にほかならない。
 一九一一年七月刊の藤原相之助『仙台戊辰史』にも、「薩長ノ眼中復タ奥羽ナシ、其ノ為サントスル所ロヲ為シテ若シ反抗ノ態度ニ出デンニハ一併シテ之ニ賊徒ノ名ヲ附シ反逆ヲ以テ論ズルニ於テ、天下何人モ異論ヲ唱フルモノナキヲ知ルガ故ニ、殆ト傍若無人ノ挙動ヲ敢テシタリ」と、西軍の東北蔑視が明記されている(『会津戊辰戦争』にも同様の記述あり)。「賊徒」「反逆」史観は帝国議会でも問題で、「東北振興ニ関スル質問」を行った村上先(岩手県・政友会)は、東北不振の原因を戊辰戦争に求めている(国会会議録検索システムによる)。

 此戊辰ノ戦争ナルモノハ日本帝国ノ旧組織ヲ破壊シ、更ニ日本帝国ニ新シイトコロノ光明ヲ与ヘ、殊ニ西南地方ニ多大ノ新シイ光明ヲ与フルト同時ニ、東北六県ニ対シマシテハ反対ニ暗黒殆ド見ルコトモ出来ナイヤウナ惨憺タル光景ヲ与ヘタノデアリマス、是ヨリ東北ハ殆ド奈落ノ底ニ墜落シタト云フヤウナ状態ニ陥ッタノデアリマス、世間無常ナルトコロノ者ハ東北ニ向ッテ何ト言ヒマスカ、東北ハ一山百文デアル、殆ド東北ナルモノハ一山百文デアッテ、何等ノ用ヲナサヌト云フコトヲ――我東北ニ於テハ殆ド聞クニ忍ビナイヤウナ軽蔑ノ言葉ヲ以テ斯ウ云フコトヲ言ッタト云フコトハ、是ハ立派ナ証拠ガアリマス

 村上は、東北の不振は「薩長政府ガ極度ナル圧制ヲ加ヘ、残酷ナル取扱ヲシタ結果」だと断言した。しかし、東北への差別的政策を縷々指摘する村上に対して、議場内から「簡単ニ願ヒマス」「マダアルノカ」「質問ヂヤナイ」「シッカリヤリ給ヘ」といったヤジが飛び、村上も我慢できず「黙ッテ聴ケ」と応酬する始末だった。時は第二次西園寺内閣、答弁に立った内務大臣原敬は、東北振興全体は農商務省の管轄だとそっけなかった。
」河西英通「戊辰戦争・明治維新一五〇年と東北」(『現代思想』6月臨時増刊号:総特集「明治維新の光と影」)青土社、2018. pp.76-77.

 この論文の最後に、2017年に発覚した〈西南政治家〉の東北差別発言(おそらく「東北でよかった」の失言で辞任した復興相のこと)に触れ、「白川以北一山百文」の意識がいまなお社会通念というほどに残存し、それに無自覚な人間が国政担当者のなかにいることを悲劇と書いている。東北出身者には同感する人が多いだろうが、百五十年前の恨みがかくも根深い被害者意識となっていることは、東京にいる者にはちょっと驚きではある。
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