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マックス・ヴェーバーを読めばすべてがわかる?と病床で思った。

2018-05-07 12:16:22 | 日記
A.ヴェーバー体験
 マックス・ヴェーバーの本を読まなくては…、とぼくは20歳のとき骨折で入院していた病院のベッドで思った。そう思ったのは、たしか「思想の科学」という雑誌で鶴見俊輔や作田啓一といった人たちの座談会の発言に、われわれの生きている現代社会が、どこから来てどこへ行くのか、そういうことを根本から考えるにはヴェーバーを読まなくてはいけない」とあったからだ。当時日本中の大学で燃えあがった大衆団交、バリケード封鎖、街頭デモなどが警察機動隊の力で収束され、過激なヘルメット学生は追い出され、運動は萎みつつあった。学生の運動で叫ばれたスローガンは、「反帝反スタ」「米帝打倒」「造反有理」など単純な言葉と、「中核」「革マル」「ブント」みたいなセクト同士が内輪で怒鳴り合っていて、それらはマルクス主義の用語からきているらしいが、どこがどう違うのかよくわからなかった。
  それまで社会と歴史を大づかみに捉えるには、マルクスをまず読んで歴史法則のようなものを知るのが第一だと言われた。それがわかれば、世界が今どういう状況にあって、どこを変えればよいかが見えてくるはずだと。それでぼくもいきなり『資本論』は難しそうなので、『経哲草稿』『ドイツ・イデオロギー』あたりを手に取って読んでみた。しかしそれは19世紀のヨーロッパの話で、20世紀後半の現代社会にそのままつながるわけではないし、もう少し橋渡しがないと理解したとはいえない。『経哲草稿』の疎外論やエンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」などは、読んでみれば分かるし面白いと思ったが、『資本論』第一巻の価値形態の話は読んでも簡単には頭に入らなかった。そこでいろんな解説書を読むが、これまた立場が錯綜してかなり面倒臭い。活動家の学生たちはこれをちゃんと読んでいるんだろうか?
   当時はソ連東欧や中国など、「東側」に社会主義諸国があって、そこではマルクス主義の理論に従って現実の国家が運営されていた。では、日本など「西側」の資本主義諸国でマルクス主義を唱えて政治運動をしている人たちは、社会主義革命を起こしてソ連や中国のような体制に変えればイイと言っているのかと思うとそうではないのだ。ソ連や中国の社会主義はマルクスの考えた本物の理想社会ではなく、人民の名で言論は統制され秘密警察で人民を抑圧している窮屈な社会らしいから、そっちがイイとはいわない。でも、それじゃどんな「革命」が可能なのか?ヴェトナムで民衆を殺している米軍は悪だと思うが、その米軍と手を組む日本政府や財界の権力をどうしたら倒せるのか、大学でいくら騒いでも何も変わらないと思った。
  そのときに「ヴェーバーを読まないと…」に出会ったのだ。病院から出て、ぼくは図書館にこもってヴェーバー『理解社会学のカテゴリー』(林道義訳が岩波から出たばかりだった)を読み始めた。それから「ヴェーバー」と題名についた本は片っ端から読んでいった。

 「ドイツ社会学で今日まで最大の人気を集めてきた巨人は、ジンメルよりも六歳後輩であるマックス・ヴェーバーであった。社会学者としてのヴェーバーは、テンニェスおよびジンメルとともにドイツ社会学会の設立に尽力し、彼らから大きな影響を受けているが、ヴェーバーには彼らと違って歴史学派経済学者としての前歴があるので、日本における従来のヴェーバー研究には経済会社が多かったのが、大きな特色をなしている。またヴェーバーの多くの政治発言のゆえに、ヴェーバー研究には政治学者からの参加も多い。宗教社会学者としてのヴェーバーはしばしばデュルケームと並び称される(折原浩、1981)が、デュルケームの読者が主として社会学と宗教学に集中しているのに対して、ヴェーバーは宗教社会学だけでなく、経済史・経済社会学・法社会学・政治学・東洋学などきわめて広範な研究分野にまたがって研究を展開したので、ヴェーバーの読者はそれらの全体に広がっている。
 丸山眞男によれば、ヴェーバーの著作が日本に知られるようになったのは1921(大正10)年ごろからで、はじめは主として経済学者がヴェーバーをとりあげ、ついで1920年代末ごろから社会学者がヴェーバーを論じるようになった(大塚編、1965:153)。ヴェーバーへの人気を日本で最初に高めた経済学の分野に関して注目すべきことは、ヴェーバーが知られるようになった1920-30年代の時期は、マルクス経済学が日本に定着していく時期とちょうど重なっていた、ということである。しかもこの経済学の分野におけるマルクス主義の優勢は、第二次大戦後にはいっそう顕著になり、それはほぼ1970年代くらいまで続いたので、この分野においてはマルクスとヴェーバーという二人の英雄が並存することになった。そうなれば、当然にマルクスとヴェーバーの関係が問題にならざるを得ない。かくして「マルクス-ヴェーバー問題」と呼ばれる、日本に特有の問題状況が形成されるにいたった(内田芳明『ヴェーバーとマルクス』1972、高島善哉『マルクスとヴェーバー』1975)。
 このマルクス-ヴェーバー問題は、「マルクスかヴェーバーか問題」と、「マルクスとヴェーバー問題の二つに分れる。ヴェーバーは「ロッシャーとクニースおよび歴史学派経済学の論理的問題」において歴史学派経済学の立場を離脱して以後、『経済と社会』をその第三巻として含む全九巻の『社会経済学講座』において、オーストリア学派の近代経済学に接近した。ヴェーバーがこの立場からマルクスの史的唯物論に対してくりかえし批判的なスタンスをとりつづけたこと、そしてオーストリア学派のミーゼスと同様に社会主義経済はうまく機能し得ないとする見解を表明していたことなどを考えれば、「ヴェーバーかマルクスか」という二者択一的観点が成立するのは当然である。日本に非常に多数存在していたマルクス主義経済学者たちの多くは、マルクスの視点に立って「ブルジョワ経済学者」ヴェーバーを批判する立場をとった。
 これとは対照的に、近代経済学の立場からは、ヴェーバーの視点に立ってマルクスを批判するという視角が成立する。その最もすぐれた例として、ここでは青山秀夫『マックス・ヴェーバーの社会理論』(青山、1950)所収の第三論文「近代資本主義経済の合理性」をあげよう。青山は、イデオロギー的なマルクス主義批判を厳格に抑制しながら、ヴェーバーの社会主義批判の学問的論点には二つの視点がある、とする。企業家にかかわる要因と、労働者にかかわる要因がこれである。企業家に関しては、社会主義は資本主義におけるような市場的競争をつうじての利潤追求の誘因を欠くために、高い経済効率を求める動機づけがない。また労働者に関しては、社会主義は資本主義におけるような貢献による選択淘汰のシステムを欠くために、働く動機づけが確保されがたい。こうして、社会主義経済は停滞に陥るというのが、ヴェーバーが提起した社会主義批判の要点であった。ヴェーバーがこれを書いたのがおそらくロシア革命の直後であり、青山がそれをリファーしたのが第二次大戦直後の1947年であったことを確認しておきたい。1989年のベルリンの壁崩壊は、第二次大戦後の半世紀をつうじての冷戦体制の下で、ソ連型社会主義経済が資本主義との競争に勝てなかったことを世界に明示したが、ヴェーバーは最初からその結末を見通していたのだということができる(なお、青山、1948、参照)。
 他方、「マルクスとヴェーバー問題」というのは、マルクスとヴェーバーの両者に共通していた要素をとり出してきて、マルクスとヴェーバーを両立するものとして見ようとする視点である。内田義彦は、このような視点が日本に生れた理由を、両者に共通に含まれている「市民社会」の概念に求めている(大塚編、1965:112)。戦前の日本社会においては、明治憲法と家父長制家族と財閥企業と寄生地主制のもとで、近代資本主義ならざるプリモダンの資本主義が支配していたから、自由と平等が制度化された近代産業社会としての「市民社会」はいまだ形成されていなかった。経済史家として、ヨーロッパにおける封建制から資本主義への移行過程を研究テーマとした大塚久雄は、このテーマの追求を目指してマルクスの『資本論』とヴェーバーの『宗教社会学論集』をともに援用したので、「マルクスとヴェーバー」アプローチの代表者とみなされた。
 社会学者によるヴェーバー研究は、経済学者によるそれよりもおくれて始まった。第二次大戦前から戦後初期までの社会学におけるヴェーバー研究は、尾高邦雄や福武直の研究に見るように、理念型論、理解社会学、没価値性など、主としてヴェーバーの方法論に関する研究に集中していた(福武直、1949;尾高邦雄、1950)。このようにヴェーバーの方法論的貢献に社会学者の関心が集中した理由の一つは、歴史学派経済学から社会学へのヴェーバーの転身の過程において、『ロッシャーとクニース』に始まる一連の方法論文が集中的に書かれている点に求められよう。1964年の生誕百年シンポジウムにおける私の報告「社会学とヴェーバー」(大塚編、1965:9-38)は、この視覚から、ヴェーバーにとって社会学とは方法的にそもそも何であったのかというかたちで問題を立てたものであった。この問いに答えるためには、『経済と社会』に展開されているヴェーバーの思考をくわしく検討してみることが必要である。当時の私には、この問題に全面的に答える用意はまだなかったが、阿閉吉男の近年の研究は、この問いへの包括的な答を用意していると思われるので、つぎにそれを短く要約しておこう。
 『経済と社会』は、周知のように行為理論の提示から出発し、これにつづいて、経済・支配・社会階層・伝統ゲマインシャフト・民族・宗教・法・政治・都市・国家などの個別領域の社会学的分析が配列されている。ヴェーバーの行為理論は、行為の開明的理解を目的とする理解社会学の視点を示すものであるが、理解社会学が出来事の一般的諸規則を探求するには、理念型方法論がなければならない。ヴェーバーにとって、理念型は因果帰属のための方法論的手段として用いられるもので、価値判断にはまったく無関心である。このように、社会学は人間行為に関する一般的な諸規則を探求する経験科学である。それは、一方では、法学・倫理学・美学のように、「正しい」「妥当な」意味を追求しようとする教義的学問(dogmatische Wissenschaften)から区別され、他方では、個別的な文化事象の因果帰属を求める歴史学から区別される。阿閉は、ヴェーバーが『経済と社会』において提示したのは、経済・支配・法・宗教などの多様な文化的諸領域を、理解社会学の観点から、体系的・統一的にとらえるという長大な試みであったと結論づけている(阿閉吉男、1976:1-42)。
  ヴェーバーの社会学は、同時代における社会学の組織者ジンメルおよびデュルケームをたえず意識しながら形成された。「社会化の形式」に着目したジンメルに対して、ヴェーバーは「行為の意味理解」に着目した点に独自性がある。また「社会的事実の個人に対する外在性」に着目したデュルケームに対して、ヴェーバーは「個人の内面」にあるエトスや動機に着目した点に独自性がある。ジンメルとヴェーバーはともに、コントやスペンサーに欠けていた個人レヴェルでの分析から出発した点で共通しているが、ヴェーバーはジンメルに欠けていた行為理論の構築を果した。またデュルケームとヴェーバーはともに、経済社会学や法社会学や宗教社会学などの「連字符社会学」を相互に関連づけながら体系化した点で共通しているが、ヴェーバーにはデュルケームに欠けていたミクロ・レヴェルでの個人行為への注目があった。三者はそれぞれ日本の社会学に根底的な影響を与え、その影響は現在なお衰えていない。しかしジンメルの「形式」社会学がすでに現在の学説ではなく、デュルケームの「社会学主義」もそのままのかたちでは現在もはや支持されていないという意味では、日本において最も広範かつ持続的な影響をもちつづけているのはヴェーバーである、といい得るであろう。」富永健一『マックス・ヴェーバーとアジアの近代化』講談社学術文庫、1998.pp.199-204.

 教条主義と訳されるdogmatismだが、語源はギリシア語dogma(意見、法令)からきた「公正なように思われる」教理がもともとの意味だという。キリスト教の文脈では、信徒が信ずべき教説というところからやがて、ドグマは独断的主張という否定的なニュアンスを帯びた。マルクス主義というのは、カール・マルクス(1818-1883)が『資本論』などで唱えた経済・社会理論から派生した政治的立場や運動のことを言うわけだが、マルクスが言っていることが正しい、という吟味抜きの前提ですべてを判定していくような態度は、教条主義といってもよい。教条主義の始末に困る点は、正しい立場に少しでも疑問を投げたり批判的なことを言う者を、敵視し罵ることに情熱を燃やしてしまうことだ。マルクスの生きた19世紀半ばの西欧では、革命や暴動も起こり、さまざまな政治運動や社会思想がそれぞれの主張を闘わせていたが、新しい運動が国家権力を握ることはなかった。
 20世紀が始まって、世界戦争とロシア革命がマルクス主義政党による国家の奪取という事態を実現させると、「正しい思想による正しい政治」が国家を指導するという形が登場し、やがてそれはドグマになっていった。日本では、1930年前後にマルクス経済学の急速な流入がインテリ層をとらえ、共産党の結成と危険思想としての弾圧がはじまり、戦争中の禁止が解かれた戦後には再びマルクス主義は大きな流行をみた。アカデミックな社会科学の世界でも、マルクス主義の影響は1970年代まで続いた。確かにぼくが大学に入った頃は、教養科目の経済学概論には「マルクス経済学」と「近代経済学」が別々の科目として並んでいた。社会学ではそういう区別はなかったけれど、だんだん勉強していくと、やっぱりマルクス的な立場の社会学と非マルクス的、というか近代主義的社会学の立場で社会学をやっている人たちが対立しているということがわかってきた。21世紀の今、こうした構図はほぼ消滅したと思うけれど、富永先生の視点とは少し違うが、「マルクスとヴェーバー」という問題設定は、いまもその意味を失っていないと思う。



B.戦後レジームの捉え方
 2018年5月という現在から日本という国の行方を見るとき、ぼくは安倍政権が目標とする「戦後レジームからの脱却」、つまりどういう形にせよ憲法をいじくって、亡びたはずの大日本帝国との連続性に引き戻すこと、この国の隠微な復古保守勢力が悲願としてきたヴィジョンが、露骨に表に出てきていることにこの5年ほど、深く悲痛と憤怒を抱いてきた。国政選挙のたびに安倍自民党は勝利し、支持率は高めに維持されてきたのを見て、どうして日本国民はこのような過去を台無しにするような愚劣な思想を見抜けないのか、絶望的な気分になることもしばしばだった。
 しかし、このところの朝鮮半島情勢の急展開や森友・加計学園スキャンダルや官僚の失態続きで、さすがに安倍人気は失墜しつつある。だがもっと視点を引いて、「戦後レジーム」自体を大もとから考え直してみると、実は「安倍の失敗」はもっと深いところで進行している、と見ることができるかもしれない。それは、「アメリカへの隷属」と「天皇制の現代的意味」というテーマがキーワードになるのかもしれない。

「米国への「異様なる隷属」 主体的な思想なき政府 :終わりと始まり 池澤夏樹
 沖縄は何か罰を受けているのではないだろうか。
 広大な基地を押しつけられ、軍用機の騒音と米軍人の犯罪に苛まれ、土人呼ばわりされ、あからさまに侮蔑される。異議を申し立てればまた叩かれる。
 これが罰でなくて何だろう。問題はいかなる罪に対する罰かということだ。なぜアメリカ軍はかくも横暴にふるまい、なぜ日本政府はそれを放任ないし助長するのか?
 過去をどこまで遡っても思い当たる節がない。ひょっとして、まさか、七十三年前にここが戦場になって、一万二千五百二十名のアメリカ兵が戦死したことではあるまい。だいいち、あの時はアメリカ軍と日本軍が沖縄を戦場にしたのだ。沖縄人の死者が最も多かった。
 沖縄における米軍の専横の根拠は日米地位協定である。その背後には安保条約がある。事実上これが日本国憲法より上位にあるのは、戦争に負けた以上しかたがないのだろうか。
 同じように第二次世界大戦の敗戦国であり、同じように米軍基地を抱えたドイツとイタリアではどうか。
 沖縄県ではこの二月、三人の職員をドイツとイタリアに派遣して地位協定の運用を調査した。あちらでは事態はまるで違った。
 日本の米軍は日本の航空法の埒外にある。いつでもどこでも飛び放題。しかしドイツでは自国の航空法が適用され、周辺自治体や市民代表と米軍司令官からなる「騒音軽減委員会」がある。基地内にはドイツの警察官二名が常駐しており、警察権が行使される。米軍の訓練・演習についてはドイツに許可・承認の権限がある。
 イタリアでは米軍基地はイタリア軍が管理し、イタリア軍の司令官が常駐している。自治体の要望で飛行ルートが変更されることもあるという。
 初めからこうだったわけではない。何度かの交渉を通じて地位協定は改定された。ドイツの場合は米軍基地がドイツの主権のもとにあることが確定した。イタリアも同じ。米軍機の事故の調査権も自国の側にある。
 日本では、二〇〇四年の沖縄国際大学ヘリ墜落事件の際、消防や警察でさえ現場に入れなかった。
  なぜこうまで違うのだろう?
 歴代の日本政府はアメリカという言葉が出ただけで直立不動になり、頭が真っ白、判断停止状態になる。
 白井聡の『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)がこの問いに対して最も根源的な答えを提出している。
 「国体」とはまたずいぶん古い概念だ。明治維新から昭和二十年までの間、日本の国の形を規定していた「天皇を頂点に頂いた『君臣相睦み合う家族国家』を理念として全国民に強制する体制」。これは敗戦で崩壊した。
 しかし、大日本帝国憲法による天皇が消えた後の空白に「アメリカ」が入り込んだ。そういう形で国体は継続された。この論証が本書のもっともスリリングなところだ。戦前の国体は力尽くで作られ(明治期)、安定したところで見えなくなり(大正期)、硬直化して矛盾のうちに壊滅した(敗戦まで)。
 同じ過程をアメリカを頂点に頂く戦後の国体も辿っている。敗戦から復興までが第一期、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたのが第二期、バブル以降の空白の三十年が第三期。
 歴史は過去をなぞり、われわれは一九四〇年代と同じ間違いを犯している。冷戦後、衰退するアメリカにまだ日本がしがみついてきたのは、主体的に国を運営する思想基盤がないからだ。
 この日米関係を本書は「異様なる隷属」と呼ぶ。第三者から見れば不可解な事態なのに本人たちは気づかない。嬉々として滅私奉公に走る。この先、日本が相手にすべきはアジア諸国なのに、そちらとの仲は悪化するばかり。
 白井は言う――「本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。」
 今の国会でこの種の非難が与党議員の口から頻繁に洩れる。
 二〇一六年八月の今上天皇の「お言葉」は退位の意思を通じて、機能する象徴天皇の姿を改めて国民の前に明示するものだった。動かなければならない。動いて、国民の傍らに膝をついて、祈る。弱きものの側につく。今上はそれを日本国憲法のもとにおける天皇の姿として、三十年に亘って具現してきた。
 国体の頂点という危険な場所から距離を置くこと。貪欲な愚者どもの神輿とならないこと。持てるものは放置して、何も持たない人々の側に身を置こう。
 天皇が働く場所は弱者の傍らしかない。」朝日新聞2018年5月2日夕刊3面文化欄。

 この記事に出てきた白井聡『国体論 菊と星条旗』が気になって、早速書店に行って買ってきた。これから読んでみる。『永続敗戦論』はぼくは初版ですぐ読んで感心したのだが、この人の本は、はじめの「レーニン論」(『未完のレーニン――「力」の思想を読む』講談社、2007年)から読んでいた。若い人がレーニン!と驚いたが、ますます進化してるな。
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