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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

市場に任せてお天気の回復を待つ・・みたいな経済学って。

2017-01-14 03:44:40 | 日記
A.「経済学者」の考えること
 資本主義経済は、つねにうまくいって拡大成長しているのではなく、不況や環境の変化で縮小整理しなければならない時期を迎える。景気の循環は歴史的に繰り返され、不況期には雇用が減り失業が顕在化する。でもしばらく我慢して技術を磨いていれば、次には必ず回復成長のチャンスがやってくる、と普通の経済学者は固く信じている。だって実際そうなってきたんだ、と20世紀の経済史をもちだして説明する。でも、それは「歴史法則」というほど確かなものではなく、ただ戦後の先進国経済が、自分たちに都合の良い自由貿易と、未開発で資源を得やすい後進地域に支配力を行使することができたから、なんとか持続的な成長を遂げることができたにすぎない。それがいまや、危機に瀕しつつある。国際競争に勝つため、厳しさを増す国際環境に対処するため、国威を発揚して日本人が元気になるため、などと理由をつけて、実際には雇用の削減、労働強化、自衛隊の増強、などなど、がどんどん進む。
 「経済学者」は教科書通りに、自由な市場に国家や政府が余計な介入をしてはならないと唱え、それが結果的には強い経済を復活させ、競争に失敗した人にも再び再生のチャンスを与えることになるのだ、と説く。これはひとつのイデオロギー、かなり硬直した現実の隠蔽ではないか。

「社説余滴:「楽観」は成り立つのか 石川尚文
 昨年12月27日、東京青梅市にある東芝青梅事業所の土地が、野村不動産に売却された。東京ドームの2.5倍の広大な敷地にあるパソコンやテレビの開発拠点は移転し、建物も取り壊される。
 地元青梅市は「市内の雇用が期待できる企業に一括売却を」と望み、東芝側は、それも念頭に売り先を選んだという。野村不動産はテナント型の物流施設を建てる計画だ。ただ、青梅市の担当者は「どんなテナントが入るかはまだ白紙で、具体的な雇用の姿は見えていない」と話す。
 東芝の一連のリストラのきっかけは不正会計問題だったが、背景には海外との競争がある。米国でトランプ現象を起こしたグローバル化の影響は、日本も無縁ではない。
 貿易や技術革新による効率化で、一部に損をする人が出る。どう対処すべきか。3日の社説でこの問題に触れた。
 国全体でプラスなら、得をした人の利益の一部を、損をした人への補償に回し、みんなをプラスにすればいい。そう考えるのが普通だろう。
 だが、経済学の教科書には違うことが書いてある。そうした補償は実際には難しく、市場を歪めかねない。一方で効率化をどんどん進めていけば、ある時損をした人も、次は得をする。だからいちいち補償をしなくても、長期的にはみんなが得をする――。
 「ヒックスの楽観」というのだそうだ。でも、そんなにうまく行くのだろうか。
 神取道弘・東大教授は自著でこの「楽観」に触れ、歴史的に一定の裏付けがあると指摘している。そのうえで、実際にどう判断するかは、我々に突きつけられた思想的課題だとも述べている。
 トランプ現象について尋ねてみた。「所得分配への不満が広がり、政治的な不安定性が増しているのは見過ごせない事態だ」。社会全体のパイを小さくしないように注意しながら、市場競争に敗れた人が再出発できる仕組みをつくることが重要だという。
 楽観の補正が必要な時、政治の働きに期待がかかる。だが、そこにも問題がある。加藤創太・東京財団上席研究員は「経済は効率、分配は政治でという考え方があるが、政治と経済は連動している。実際、経済力で民主主義を動かすというのが米国のこの数十年の傾向だ」という。
 確かに、米次期政権には富裕な実業家が並ぶ。トランプ現象からくみ取るべき教訓は、まだまだありそうだ。(経済社説担当)」朝日新聞2017年1月13日朝刊、16面。

 日本だけの利害を考えれば、トランプがなにか無理を言ってもうまくかわして、消費が伸びず国内市場が細っても、アメリカと一緒に世界でおししい汁を吸えればなんとかなる、というのだろうか。「社会全体のパイを小さくしないように注意しながら、市場競争に敗れた人が再出発できる仕組みをつくること」というのはもはや空虚な教科書のなかだけのお題目ではないか。そんなことが今の日本政府にほんとにできると思っているのだろうか。ヒックス先生にけちをつける気はないのだが・・。



B.どのようなコミュニズムが可能か?
  ジジェク『ポストモダンの共産主義』の続きだが、ここではハートとネグリの『マルチチュード〈帝国〉時代の戦争と民主主義』2004.にある「コモンズ」から「敵対性」のタイプをあげて批判的に論じている。
 
「コミュニズムは社会主義と対立しており、平等主義の集団のかわりに有機的なコミュニティを提示する(ナチズムは国家社会主義であって、国家コミュニズムではなかった)。言い換えれば、社会主義で反ユダヤ主義はありそうだが、コミュニズムで反ユダヤ主義はありえない(スターリン政権の晩年のように、あるように見えるとしても、それは革命への忠節を欠いたことを示しているにすぎない)。
歴史家のエリック・ホブズボームは最近発表したコラムにこんな題をつけた――「社会主義は失敗し、資本主義は破綻、さて次は何だ?」答えはコミュニズムである。社会主義では、四つの敵対性のうちはじめの三つを解消したいのだ――四つめ、つまりプロレタリアート単独の連帯には取り組まない。
グローバル資本主義がこの長期にわたる敵対性を生き延びつつ、同時にコミュニズムによる解決を避けたければ、コミュニタリアニズムやポピュリズム、アジア的価値観をもつ資本主義などの形態を装った、ある種の社会主義を再創造するしかない。かくして未来はコミュニズムのものだ……それとも社会主義のものか。
  マイケル・ハートが述べたように、もし資本主義が私有財産を、社会主義が国有財産を支持するとすれば、コミュニズムはコモンズにおける所有の超克を表わしている。社会主義はマルクスが「粗野なコミュニズム」と呼んだもので、そこではヘーゲルならば所有の領域内での所有の否定であって、それはとりもなおさず「普遍化された私有財産」である。したがって、2009年2月16日付ニューズウィーク誌の特集タイトル「われらみな社会主義者」とそのサブタイトル「アメリカ経済は多くの点ですでにヨーロッパ経済に似ている」は、しごくもっともだ。経済リベラリズムの砦たるアメリカでも、資本主義は自らを守るために社会主義を再創造している。
 「ヨーロッパに似てきている」ということは、要するにいずれ「フランスにもっと似るだろう」と予測される――この皮肉な事実に読者は衝撃を受けずにいられない。サルコジがフランス大統領に選ばれたのは、つまるところ、ついにヨーロッパの福祉国家社会主義の伝統にけりをつけ、アングロサクソンの自由主義モデルに再度加わるという公約によってだった。そして、模倣すると提言したそのモデルの側が、これこそ離反したかったものへ変わりつつある。不面目とされる経済への大規模な国家介入へと進んでいるのだ。
ポストモダン資本主義の条件下では非効率だの時代遅れだのと、さんざんにけなされたヨーロッパの「社会モデル」が逆襲するという構図だ。とはいえ、これで喜ぶ理由はない。社会主義はもはやコミュニズムの不名誉な「低次の段階」ではなく、真の競合相手にして最大の脅威なのだ(やがて、20世紀のあいだ、コミュニズムの脅威に対して資本主義は、社会民主主義を対抗手段としていたことが思い出されるだろう)。だからネグリの著書のタイトルは『さらばミスター社会主義……ようこそ同志コミュニズム!』とすべきである。
コミュニズムはプロレタリアートの立場に忠実であり、したがって時代遅れの物質的な連帯への回帰を意図するたぐいのイデオロギーは断じて受けつけない。2008年11月28日、ボリビア大統領エボ・モラレスは「気候変動――資本主義から地球を救え」と題した公開書簡を発表した。以下はその書き出しだ。

世界の兄弟姉妹へ。今日、私たちの母なる地球が病んでいます。(……)すべての始まりは1750年の産業革命でした。そこから資本主義制度が生まれました。二世紀半のあいだに、いわゆる「先進」諸国が、五億年にわたって形成されてきた化石燃料の大部分を消費してしまいました。(……)競争と資本主義制度のあくなき利益への渇望が、この星を破壊しています。資本主義のもとでは、私たちは人間ではなくて消費者です。資本主義のもとでは、母なる地球は存在しません。かわりに原材料があるだけです。資本主義は世界のひずみとアンバランスのもとなのです。

ボリビアのモラレス政権がめざす政治は、現代の進歩的闘争のまさに最前線であるが、前景の引用ではイデオロギー面の限界が痛いほど明らかだ(そうした限界に対しては実践面で犠牲が払われるのが常である)。モラレスはあまりに単純に、ひとつの厳密な歴史的瞬間に没落の物語が生まれたとしている――「すべての始まりは1750年の産業革命でした……」。そして思ったとおり、この没落は、母なる地球という人類のルーツの喪失に依るのだという――「資本主義のもとでは、母なる地球は存在しません」(ここで一言冷やかしを入れたくなる。資本主義の唯一の美点は、そこにはもはや母なる地球が存在しないことだ)。「資本主義は世界のひずみとアンバランスのもと」とは、目標は「自然の」バランスと調和の回復だという意味だ。ここで攻撃され、否定されているのは、現代の主体性を生みだしたプロセス、人間のルーツは実体ある「母性的な」自然の理法にあるという考えとともに、母なる地球(そして父なる天空)という性別化された伝統的な宇宙観を消去するプロセスである。
コミュニズムの思想に忠実であるには、詩人アルチュール・ランボーの有名な言葉「断固としてモダンでなければいけない」をくり返すこと、そして資本主義批判を「道具的理性」や「近代技術文明」批判に読み替えてしまう口先だけの一般化をはねつけることだ。これが〈包摂される者〉から〈排除される者〉を分けているギャップという第四の敵対性と、他の三つとの質的差異にこだわるべき理由である。こうした〈排除される者〉への言及のみがコミュニズムという語を用いることを正当化する。〈排除される者〉を脅威と見なし、いかに適当な距離を保つかに腐心する国家コミュニティ以上に「私的」なものなどない。
だから四つの敵対性のなかで、この〈包摂される者〉と〈排除される者〉の敵対はきわめて重要である。この視点なしには、他の三つとも転覆力を失い、エコロジーは「持続可能な開発の問題」、知的所有権は「複雑な法的問題」、遺伝子工学は「倫理的問題」と化してしまう。たとえ〈包摂される者〉と〈排除される者〉との敵対に向きあわなくても、環境保全のために真剣に戦ったり、知的所有権の拡大概念を擁護したり、遺伝子の複製に反対したりすることはできる。さらにはこれらの闘争を、汚らわしい〈排除される者〉に脅かされる〈包摂される者〉の視点から規定することすらできる。しかし、それでは真の普遍性は得られない。カント用語でいう、「私的」関心事にとどまる。
ホールフーズやスターバックスのような企業は、たとえ組合活動を弾圧していようとも、リベラルからひいきされつづけるだろう。秘訣は、販売活動に進歩的な装いをまとわせることだ。人はフェアトレード・コーヒーを飲み、ハイブリッド車を運転し、社員や顧客の利益を保証する(あくまで企業側の基準で)会社の製品を買う。そういう世界ではビル・ゲイツは貧困と病気と闘う偉大な慈善家であり、ルパート・マードックは自身のメディア帝国をつうじて何億という人を動員できる最強の環境活動家である。内と外を分断する敵対性の視点なしには、このような世界に身を置くことになってしまう。
はじめの三つと第四の敵対性とでは、もう一つ重要な違いがある。前者は(経済的、人類学的、物理的な)人類の生存の問題であるが、後者はとどのつまり正義の問題なのだ。
 地球環境が陥った苦境から脱しなければ人類は絶滅するだろう。しかし、最初の三つの敵対性を専制的な手段で――既存の社会ヒエラルキーと分断と排除を維持どころか強化することで――解決する社会ならば、想像に難くない。ここで扱っているのは、ラカン用語でいう主人のシニフィアン(S1)と一連の通常のシニフィアン(S2)とを隔てている差異、すなわちヘゲモニー闘争である。〈包摂される者〉の敵対性における〈排除される者〉の敵対性におけるどちらの極が他の三つを「主導する(ヘゲモナイズ)」のかという闘争だ。カギを握る〈包摂される者〉と〈排除される者〉との「階級」闘争に勝利すれば、はじめの三つの問題は解決されるという、古典的マルクス主義の「歴史的必然」――階級区分の克服によってのみ地球環境の苦境は現実に解決できるという論理――は、もはやあてにできない。
  四つの敵対性すべてに共通する特徴がある。それはプロレタリアート化、つまり行為者としての人間を実質(財産)をもたない純粋な主体に還元してしまうことだ。とはいえ、プロレタリアート化のしかたはことなる。はじめの三つでは、行為者から物質的な内容を奪いとる。四つめでは、公式の事実として社会的・政治的空間から一定の人物を排除する。この3+1の構造は強調しておくべきだろう。すなわち、人間集団内の主体と実体(実質なき人間という実体)間の外的緊張の表われである。人間集団内には、実質なき主体性というプロレタリアートの立場を直接に体現している主体がいる。だからコミュニストは、「外的」問題を解決する(疎外された実体を再充当する)ためには内的主体の(社会的)関係を根本から変えるしかないと確信しているのだ。
 ここで、コミュニズム的な平等主義の解放思想にこだわること、しかも厳密にマルクス主義的にこだわることは重要である。社会ヒエラルキーの「私的」序列に定位置を欠いているがゆえに、普遍性を直接に体現する社会集団がある。ジャック・ランシエールが社会的身体の「器官なき部位」と呼ぶものだ。真に解放をめざす政治は、カント流の「理性の公的使用」という普遍性と、「器官なき部位」の普遍性とが直結することで生み出される。これは若きマルクスがコミュニズムに見た夢、すなわち哲学者の普遍性とプロレタリアートの普遍性の融合である。このように〈排除される者〉が社会的・政治的空間に侵入してくることを、われわれは古代ギリシャ以来こう呼んでいる――民主主義、と。
  今日、疑問とされるのは、民主主義は今もこの平等主義の爆発にふさわしい名前かということだ。ここでは立場が両極端に分かれている。一方は、民主主義は幻影にすぎず、現実は逆で階級支配なのだと斬って捨てる立場。もう一方は、既存の民主主義は真の民主主義が歪められたものにすぎないという主張だ。ガンジーの有名な言葉も添えよう。英国人ジャーナリストから西洋文明について問われ、ガンジーは「いい考えだ。ぜひとも実行に移すべきだ!」と答えたという。明らかに、この二極間を行きかう議論は抽象的にすぎる。ここで取り組むべきは、民主主義がいかにして〈排除される者〉の体現する普遍性の次元とつながるかということだ。」スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(栗原百代訳)ちくま新書、2010.pp.160-168.

 ここでジジェクがあげている四つの敵対性というのは、①迫りくる環境破壊の脅威。②いわゆる「知的所有権」に関連した私的財産についての不適切な答え。③とりわけ遺伝子工学などの新しい科学テクノロジーの発展にまつわる社会・倫理的な意味。そして最後になったが、やはり重要な④新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とイスラム、である。
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