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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ある映画の音楽について

2014-05-10 16:55:42 | 日記
A.インドの海辺で浮かんだ曲
 あるとき突然、どこかで聴いたことのある音楽が頭の中に現れて、これは何の音楽だったかうまく思い出せないことがある。音楽の旋律だけが思い浮かぶのではなく、映像や物語の断片的な記憶が一緒になっている。たぶん、これは映画かドラマの中の音楽だ。
 20世紀が終わるころ、独りで南インドを旅していた時も、プーリという海辺の町で海岸を歩いていて、急にある旋律が沸いてきた。ここはヒンズー教の聖地のひとつで、ホーリーという春先のお祭りが近い時期で、赤や黄色の粉をふりかける派手な衣装の人々や、海岸で漁をする人々が賑やかに働いていたのだが、音楽のようなものは遠くで鉦や太鼓みたいな音がするだけで、ぼくの頭で鳴っている音楽とは無縁なものだった。
 はて、これは何の曲だったか?シェーンベルクの「浄夜(浄められた夜)」か?いや違う。記憶の底のわずかな断片を繰り返し思い出すうちに、ああ、これは映画の中に出てきた音楽だと気がついた。吉田喜重の『秋津温泉』(1962年松竹映画)の中の、弦楽オーケストラの旋律だった。ぼくは明るい砂の海辺を行ったり来たりしながら、なんとか全部を思い出そうとしていた。林光作曲の映画音楽は、この冒頭の穏やかで甘美なオープンニングタイトル曲と、もうひとつ劇中の緊張した場面で繰り返し流れる〈第一変奏曲〉のこれも切り裂くような弦の調べがあって、どちらも強い印象を残す。この曲について作曲者は次のような言葉を残している。

「吉田喜重はね、やっぱり、まかせるっていう方じゃないですかね。吉田さんは音楽に対するいろんなことを、よく知ってると思うんですよね。ただそれが前世代の監督ですと正面に出てしまう。“キミ、そこはフルートじゃなくてピッコロにしたまえ”ってなってくるわけでしょ。こんなことは絶対云わない人です。むしろ、そういうところで話が通じちゃうと、もっと高い次元での創造性がぶつかり合う仕事にはならないと当然考えるわけですから……。
ぼくが映画の仕事をはじめるようになった頃は、シーンごとに違った音楽書かないと手抜きだと思われた時代ではなくて、むしろ、ひとつのテーマで、一貫するのが常識になっていたんですが、でも、いぜんとして、画面で“アッ”と云った時に音楽が“チャッ”というとか、シーンの終わりでぴたっと合うとか、そういうことがいいんだみたいなことが特に技術関係の人には残っていましてね。吉田さんとの場合、ほとんど松竹の中での仕事ですから、わりとそういう常識が残っていた。ところが監督はそういうことは考えないから、すごくいい録音ができたのにちょっと寸法が足りなかったりすると、“ああ、そこ絵を切るからいいですよ”って云ったりする。すると、スタッフから、監督が妥協するのはけしからんと突きあげられたりしたことがありました。また、松竹の場合、録音条件がいちばん悪くて、たとえば『嵐を呼ぶ十八人』っていうのは京都で作ったんですが、ちょっと気を入れて指揮をすると、床が抜けそうになったりして……でも彼との仕事は、『血は乾いてる』に始まって続けて4本、最初の時期の彼らしいものを出した作品ばかりだったので、ぼくとしては、やっぱり忘れがたいですね。」(原著:LP『日本の映画音楽 林光の世界』東宝レコード 1977年)『林光の音楽』小学館、2008、所収。P.200.
 映画音楽というのは、音楽を聴かせるためではなく、映画作品の構成要素として監督の表現や意思に沿って効果的に書かれ、脚本に合わせて作曲者は演奏も指揮するので、職人的な技が求められる。戦後日本映画の数々の作品で活躍した作曲家のうち、ぼくには林光と武満徹の名前はとくに印象に残っている。『秋津温泉』は一番好きな映画である。



B.林光の音楽
 林光さんが亡くなって、その全仕事を振り返り、追悼した書物が2008年に出た。『林光の音楽』the music of HAYASHI HIKARU.そこにいくつかの対談「林光を語る」が載っていた。谷川俊太郎、新藤兼人、池辺晋一郎など長年林さんと一緒に仕事をした人々が語っている。なるほど林光とはそういう人だったのかと思いを新たにする。まずは、音楽評論家吉田秀和氏のお話をちょっと引用する。

「吉田◎林さんの作曲家としてのキャリアは非常に長い。それはひとつの特徴だろうと思います。それというのも林さんは、楽壇の人たちに一種の「音楽の神童」として認められる形で登場して来ました。しかも極めて、早い時期にです。林さんのお父さんはお医者さんで、ご自分でもよく家で《冬の旅》などのリートを歌っていたという、音楽に非常に関心を持った方で、お子さんを意識して、音楽家になるようにというと、ちょっと言葉がおかいしかもしれないけど、音楽家になっていくのが自然であるような環境にお子さんを置いていた。そういうふうに私は想像しています。それは、戦後日本の音楽界の特徴のひとつでもありますが、戦後の日本では子供たちに対して音楽教育をしようとする機運が非常に強かった、その流れの一環としてとらえることができると思います。林さんにはお姉さんがいて、たしか林リリ子さんとおっしゃったけれど、彼女も戦後の非常に早いときから、フルートの名手として、楽壇に登場されていました。
――はじめ私もお姉さんかと思っていましたが、リリ子さんは、同じ家できょうだいのようにして育った従姉さんらしいですね。
吉田◎そう、従姉さんですか。まずリリ子さんが有名になり、それから林家には、もう一人作曲する男の子がいるんだというような、そんな形で聞いていましたね。そして、もっとも世間的には作曲家・林光の音楽が広く知られるようになったのは、ここにも収録されている《交響曲ト調》でしょう。一九五三年に発表されたこの《ト調》のシンフォニーのときは、まさに林光ここにありと、日本の音楽界における林さんの位置を決定づけたといってもいいですね。だけど僕はその前に、ラジオで、林少年の、たぶん《変ホ長調》だったと思う、をもっと若いときの曲を聴いています。
――それはオーケストラ作品ですか。
吉田◎そう、シンフォニーです。「ああ、少年がこのシンフォニーを書いたのか。まるでモーツアルトみたいな話だな」と思ったものです。
――それは戦前のことでしょうか。林さんは一九三一年のお生まれですから、終戦の年にはまだ十四歳ですね。
吉田◎正確な年月は忘れました。戦争が終わるか、終わらないか、あるいは終わったとしてもそれから間もなくの頃ですね。楽壇ではモーツアルトの出現みたいに受け取られました。少なくとも僕は、こういう少年が出てきたかと思って、とても強い印象を受けたのです。それで、僕は林光という名前を覚えたし、彼については、いまだに「早熟の天才」という印象を持っています。
――同じ頃、林さんはこどもの頃からの友達だった山本直純さんもやはり、早くからデビューされてますね。林さんの自叙伝『楽士の席から』によれば、十代の初めに二人は仲良しでいっしょに曲を作られては、見せ合っていたそうです。
吉田◎林光と山本直純の二人は、初めの頃は、僕らの受け取り方の中では、切り離せないような存在でした。しかし山本直純さんは、もちろん作曲もされたけれども、指揮者としても、音楽の畑の中で幅の広い活動が目立つようになって、その頃のラジオやテレビの番組に積極的に登場して、啓蒙的な活動をした。才能は非常にある人だと思ったけれどもそちらの方に重点が少し偏っているように受け取っていました。それに対して、林さんはシンフォニーを書き、それから僕が覚えているのでは《フルート・ソナタ》かな、それから歌などは、みんなが注目した作品で、言ってみれば少年・林光は華やかな存在でした。
――その後の林さんの作品には、社会との深い関連を持つものがあらわれますね。
吉田◎そう、林さんはずっとそのまま、純粋音楽を書き続けたというのではなく、言ってみれば、モーツアルトみたいじゃなくて、少し、ほかの関心が強くなっていく。その関心というのは、今までの林さんの歩いてきた軌跡の中でとらえると、音楽というものをほかのものと切り離して、特別なものとするのではなく、人間の活動の全体の中での一つのあらわれという、そういうものであらしめようとする、そういう考えにもとづくものだったと思うのです。もちろんその中では作曲というのは中心的な役割なんですけれども、それだけではなく、自分の周囲のいろいろな社会的状況に対する非常に強い発言をされる。林さんは、自分の音楽だけがよくなればいいというのではなくて、日本の社会の全体の中で、音楽というものが占める役割というものについて無関心ではなかったですね。
――そうですね。常に林さんは音楽家として社会と積極的にかかわってこられていますね。
吉田◎そう、そのあらわれの一つが、六〇年の安保改定をめぐる政治運動の時代の彼の行動にも出てきている。それが彼の創作に具体的にどう現れたか、くわしいことは知らないけれど非常に強かったんだと思うんです。いつも社会に対する関心が強かった、というのが林さんの作曲家としての特徴だと思うのです。音楽を社会から切り離して、発展させるというのではなくて、社会と一緒に、強くて、健康的なものにしていこうとする関心の中で、それと密接に手をつなぎながら成長していったと思いますね。その中でいい仕事がたくさんあったと思います。僕が強烈な印象を受けたのは-―僕だけじゃないと思うけれど-―原爆に対するプロテストとして、原爆についての詩を書いた原民喜さんのテキストによる《水ヲ下サイ》という合唱曲です。これは日本の音楽の歩みの中でも、特筆に価する強烈な訴えかけを持った優れた作品であると思いますね。
――この曲が作曲されたのは、六〇年安保の二年前、一九五八年ですね。
吉田◎そうですね。この曲はみんなにとても強い印象を与えましたね。そして、ある方面からはとても嫌がられたと思う。その前に林さんは間宮芳生さん、外山雄三さんと三人で「山羊の会」というグループを作っていますね。」吉田秀和「林光を語る」(聞き手:大原哲夫)『林光の音楽』小学館、2008、pp.038-040.

 吉田秀和氏も、新藤兼人氏ももうこの世にない。戦争、戦後という時代を共に生きて、高齢になるまで現役で活躍した一流の人たち。たんなる文化人、芸術家というだけでは収まらない多彩な仕事を残したわけだが、「戦後レジームの否定」を語る首相のもとでの、今の日本をどう思っているだろう。

「――林さんは、映画音楽が百曲以上、劇音楽も多い。校歌だけでも、今回数えてみたら四十一曲もありました。
吉田◎校歌といえば、僕の本の非常に早い頃からの読者で、小学校の先生をやって無事定年まで勤め、校長になって辞めた人を知っていますけれど、その方は、山形県の田舎の先生を一生していらした。その人が、自分たちの学校の校歌を作曲して、それを林さんに見ていただいたことがあったらしいけど。そのことをほんとうに感謝していて、僕に手紙をくれました。林さんはたくさん校歌を書いているでしょう。そして皆さんが喜んで歌っている。林さんの作品はそういう人の共感を強く呼び起こす。それは林さんの人柄だからというのではなく、技術的に非常に考えて作った音楽語法だという風に僕は思います」吉田秀和「林光を語る」『同書』p042.

 次は、後輩の作曲家、池辺晋一郎氏の話は、同じ作曲家という立場で、具体的なエピソードに満ちておもしろい。

「池辺◎僕は芝居が好きで、芸大のクラブ活動で演劇部に所属していたんです。演劇部は美術学部の学生が多くて、音楽学部生は少ない。ましてや作曲科の学生は僕一人だった。そうしたら、あるとき、俳優座から芝居のピアノ弾きをやってくれという依頼が来たんです。このためには稽古の期間中、ずっと付き合わなくてはならない。生で歌う役者の伴奏をするわけですから。僕はほとんど毎日、稽古場へ通った。これがブレヒトの芝居だったんです。ブレヒトの芝居っていうのは、オリジナルの作曲家がちゃんといるんですね。ハンス・アイスラー、パウル・デッサウ、クルト・ヴァイル。でも、このとき俳優座は林光さんの作曲でやったんです。
――では林さんの手書きの楽譜を弾かれた?
池辺◎そうです。ある日稽古場に林先生が現われた。東京芸大の作曲科の学生としては、もちろんこの大作曲家の名前は知ってます。林さんに初めて会うんだ、と緊張していると「君、芸大の学生?この歌ね、ちょっと三度下げようか」僕は初見で三度下げて弾かなきゃならない。こういうのを移調奏と言うんだけど、三度下げて弾くと「やっぱり二度上げよう」なんて言うんですね。何かいろいろ試された。ずっと後のことですけど、「あのときは芸大の学生だということでわざと試したんだ」と林さんが言ってました(笑)。」池辺晋一郎「林光を語る」(聞き手:大原哲夫)『同書』pp.058-059.

「――池辺さんは、このように武満さんとも林さんともたいへん親しくて、そのお二人の先輩の作曲家、それも日本の音楽界に屹立するお二人と仕事を共にされています。お二人を比較すると何か似ているところ、あるいは違うところがありますが、どのようにお思いですか。
池辺◎似ているところ-―そう、二人とも「構え」がないんですね。僕もちょっとそういう傾向があるからよくわかるんだけど。
――「構え」がない?
池辺◎「らしく見える」のは偽者だって、僕は何かのエッセイに書いたことがあるけど、そういう意味でいうと、武満さんも林さんも「らしくない」んですよ。誇示しないし、標榜もしない。お二人のそういう点が僕はすごく好きです。ただし「らしくない」の現実は、二人は正反対ですね。つまり、林さんという方は、あの時代に音楽の早期教育を受けた人で、子供の頃から耳の訓練をして、ピアニストとしてもすばらしい。そういう意味では、テクニシャンでエキスパートです。音楽の知識もすごい。古典音楽を分析する能力もすごい。早熟であってそれが持続している達人です。
それに対して、武満さんという方は、ものすごくすばらしい人なんだけれど、そういう面はほとんどない人なんです。だから、ピアニスト的なうまさはない。音大のソルフェージュ的な耳も、とくによくないと思う。よく武満さんのお手伝いをしていてスタジオに入ると、僕が楽譜の間違いを見つけたりしましたから。「いいんじゃないの、どっちでも」なんて、武光さんは言うんですね。ある時、武満さんが「ねえ、君マーラー知ってる?」って言うから、「知ってますよ」って言うと、「マーラーって知らなかったけど、すごいね」なんていうんです。つまり、そんなに古典音楽をよく知っているわけじゃない。僕はよく言うんですが、あの方の中では音楽という創作の魂が燃えていたんじゃなくて、芸術という魂が燃えていたんじゃないか。たまたまアウト・プットが音楽だった。それが武満さんですね。
――以前に、武満さんは詩人でもいい、絵かきでもいいとおっしゃっていましたね。
池辺◎そう、そういう感じがある。でも林さんは内的に燃えているものが初めから音楽の人です。音楽しかない。ものすごく音楽だけ。もちろん、ものすごいテクニシャン。そうすると、ややもすると、調性のある古典的な音楽に関してすごく達者だけれども、いわゆる現代音楽的な語法というか現代の社会に対してメッセージを伝える音楽の方はむしろ弱かったりすることがあるんだけれど、林さんはそうじゃない。つまり、自分の中に古典的な言語がいっぱい詰まっているけれど、それを現代的な言語として咀嚼して、アウト・プットさせるという能力を同時に持っている人。すごい才能だと思うんです。そういう意味では武満さんと林さんとは非常に対照的な二人だと僕は思います。でも、僕は両方とも好きですね。」池辺晋一郎「林光を語る」『同書』pp.061-062.

 なるほど、戦後日本の代表的な作曲家、武満徹も先にあの世に行ってしまった人だが、武満徹と林光の特徴をうまく言い当てて、なにか愉快な語りである。武満徹がマーラーを知らなかった!なんてね。
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