イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

再生を願う慈眼!(慈眼 3/10)

2016-12-08 | 第三章「無意識の世界」

 確か今年の冬至は12月21日だったと思う。残念ながら仕事の日で、昨年行ったように多摩境駅の近くの田端遺跡で夕日を見ることができない。昨年は天気が良かったものの雲が掛かっていて、残念ながら蛭ケ岳に夕日が沈む神秘的な景色は見られなかった。

     

 ブログの巻頭の写真は2014年の写真で、やはり田端遺跡には行けず、近くの南大沢から日没前に撮ったものだ。ちょっと残念だが、蛭ケ岳に落ちる冬至の太陽のイメージとしては十分な写真だと思う。

 そして、この冬至に蛭ケ岳に落ちる夕日が見られる場所は、田端遺跡だけでなく、なんと東京都の7世紀の八角墳で有名な多摩市の稲荷塚古墳、それからなんと大国魂神社がある。

 田端遺跡は、ストーンサークルで有名だが、その遺跡は縄文後期、約4,000年前とされている。縄文中期は多摩も栄えた時代だが、後期は人口も激減する厳しい時代だったようだ。その中での死者を祀る遺跡。太陽が力を失い、日が短くなっていく極みの冬至。一つの変曲点で、実際は冬至から日が伸びて春を迎え夏を迎えていく。

 冬至、年の瀬、クリスマス・・・祭りの日は、その対極の最悪の日からの復活のようである。

 冬至の太陽が沈むとき。邪眼でいることもできるが、慈眼も心がけ次第でできるように思う。祖先も、皆で希望を持ち慈眼で新年を迎えたのだろう。

慈眼 3/10

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月を慈眼で見る!(慈眼 2/10)

2016-12-07 | 第一章「意識と知覚」

 昨日は稲村ケ崎で美しい海と月を見る機会があった。そして、やはり月を見る目は慈眼だなと思った。

 日々の生活の中で、慈眼と邪眼(主に自分の)を意識すると、いろいろな気づきがある。

 慈眼邪眼とはなにか。一応私なりにちょっと無理かもしれないが定義すると。慈眼は自己肯定・他者肯定の世界での眼かなと思う。反対に邪眼の典型は自己否定・他者否定の世界かもしれない。

 一日あっというまに過ぎるという感覚は年をとると実感するものだが、その中で、今の私は慈眼なのかな・・・と時折意識してみるのは良い習慣かもしれない。そして、慈眼でなかった時は、どうしたら慈眼になれるかを考えてみる。意外と発見があるかもしれない。

 ところで、どんな月が良いか?自分は三日月が好きだ。新月等月が見えなくなる日の後に、太陽の沈む西向きの空に輝く三日月を見つけると、こころが洗われる。三日月は再生の月でもある。

慈眼 2/10

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幸福をもたらす眼差し・・・(慈眼 1/10)

2016-12-05 | 第一章「意識と知覚」

 「生き甲斐の心理学」をU先生から学んでよかったな。と思うことはいくつかあったのだが、その中のひとつがこのテーマで、慈眼と邪眼を意識することであった。何、それということであるが、本当に役に立つ。

 かつて、ブログの写真を撮ることを始めた時、蝶をよく撮りに行った。しかし、近づいて、カメラを構えると、ふっと逃げてしまう。私の邪眼に気づいているようだった(笑)。そして、慈眼を学んで意識するようになると、不思議に蝶の写真がうまく撮れるようになった。

 私が慈眼の持ち主になったのかなと、ほくそ笑んでいたら、そうではなくカメラの性能があがり望遠機能が充実したからということかもしれない(笑)。

 それは、とにかく今の私は、30歳代、40歳代、50歳代といったころと比べ、利害関係に日々晒されるということは少なくなったが、それでも小説を出版したりすることもあり、慈眼が急遽邪眼に変身する可能性が今でもあるようだ。そして、蝶々ではないが、警戒されたりする。

 慈眼とは何か・・・これから考えていきたい。 

慈眼 1/10

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視点が変わるということ(図と地)・・・(思考 10/10)

2016-12-02 | 第一章「意識と知覚」

 写真は中央高速で東京方面から信州・諏訪湖方面に向かうところだが、きれいな山並みが見えている。この中央高速でも、建設中に阿久遺跡や釈迦堂遺跡など有名な縄文遺跡と遭遇したようだが、甲州街道?は今だけでなく、江戸時代、戦国時代、そして5000年前などの縄文時代にもあったようだ。この山の風景を、例えば5000年前の祖先も見ているかもしれない・・・そんな風に見る視点ができると人生は結構楽しくなる。

 さて、今回の縄文小説(U先生が叙事詩のようだと言われたので、小説が適切かは自分でも再考の余地があるのですが)をほぼ完成させてみると、いろいろ視点の持ち方について気になってくる。

 この小説はBC3076くらいから約60年の主に関東・甲信を舞台にした話で、登場人物は約50人になります。そして主人公をはじめ準主役的な人が3名、主要人物が15名程度出てきます。ところが、書き終わった後で、殆ど書かなかった3-4人のことが不思議に気になってくるのです。

 心理学では、よく図と地ということが言われます。有名なところではだまし絵があり、一つの絵が貴婦人に見えたり老婆に見えたりするのですが、一度貴婦人に見えると老婆が見えてこなくなる・・・そんな人間の認識の現実といったものでしょうか。そして、私の心の中の図が小説で明確になると、今度は図と地が逆転して違うものが見えて来るのでしょうね。

 ちなみに、こうした現象を厳密に考えるために、ロジャースの命題11を参考に挙げてみます。命題11は意識の世界だけでなく、無意識の世界とも実に関係が深いのでしょうね。

命題11:いろいろの経験が個人の生活において生起すると、それらの経験は、

(a) なんらかの自己との関係へと象徴され、知覚され、体制化されるか、

(b) 自己構造との関係が全然知覚されないので無視されるか、

(c) その経験が自己の構造と矛盾するので、象徴化を拒否されるか、もしくは、歪曲化された象徴化をあたえられるか、のいずれかである。

思考 10/10

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