写真は中央高速で東京方面から信州・諏訪湖方面に向かうところだが、きれいな山並みが見えている。この中央高速でも、建設中に阿久遺跡や釈迦堂遺跡など有名な縄文遺跡と遭遇したようだが、甲州街道?は今だけでなく、江戸時代、戦国時代、そして5000年前などの縄文時代にもあったようだ。この山の風景を、例えば5000年前の祖先も見ているかもしれない・・・そんな風に見る視点ができると人生は結構楽しくなる。
さて、今回の縄文小説(U先生が叙事詩のようだと言われたので、小説が適切かは自分でも再考の余地があるのですが)をほぼ完成させてみると、いろいろ視点の持ち方について気になってくる。
この小説はBC3076くらいから約60年の主に関東・甲信を舞台にした話で、登場人物は約50人になります。そして主人公をはじめ準主役的な人が3名、主要人物が15名程度出てきます。ところが、書き終わった後で、殆ど書かなかった3-4人のことが不思議に気になってくるのです。
心理学では、よく図と地ということが言われます。有名なところではだまし絵があり、一つの絵が貴婦人に見えたり老婆に見えたりするのですが、一度貴婦人に見えると老婆が見えてこなくなる・・・そんな人間の認識の現実といったものでしょうか。そして、私の心の中の図が小説で明確になると、今度は図と地が逆転して違うものが見えて来るのでしょうね。
ちなみに、こうした現象を厳密に考えるために、ロジャースの命題11を参考に挙げてみます。命題11は意識の世界だけでなく、無意識の世界とも実に関係が深いのでしょうね。
命題11:いろいろの経験が個人の生活において生起すると、それらの経験は、
(a) なんらかの自己との関係へと象徴され、知覚され、体制化されるか、
(b) 自己構造との関係が全然知覚されないので無視されるか、
(c) その経験が自己の構造と矛盾するので、象徴化を拒否されるか、もしくは、歪曲化された象徴化をあたえられるか、のいずれかである。
思考 10/10