イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

H政権も理想化と蔑視の嵐に翻弄される・・・(愛の領域⑱)

2010-05-16 | 第七章「光と復活体」
 H首相の支持率は、テレビ番組でも一時理想化されていたのに、今は見る影もない。例えばNHKの調査では支持率は昨年の9月に72%だたのに、現在5月は21%である。一年もたたないうちにこれだけ変化するのかと思う。
 
 代議士も先生と呼ばれるが、お医者様や学校の教師なども先生と呼ばれる。そして、その評価は先の支持率ではないが結構変化するようだ。昔は、先生という職業は暗黙のうちに尊敬する仕事というところがあったと思うが、今はサービス業的に捉える思想?が浸透し、以前にまして理想化と蔑視の両極端に揺れることも多いようだ。

 先生という職業は別にしても、親子関係、上司・部下、先輩・後輩など到る所に、この先生的な要素があり、対人関係も理想と蔑視の間を揺れることがある。

 特に日本人は、精神構造的にこのある意味で病理的な、理想化と蔑視を育む≪甘えの構造≫があることをU先生から学んだ。今丁度、井沢元彦氏の≪逆説の日本史≫を古代から中世にかけて読んでいるが、怨霊思想なども、≪甘えの構造≫(防衛機制でいうと同一化)と深く関係するのではと思うようになった。

 理想化と蔑視の嵐の経験は、実に辛いものだと思う。人間はそう変わるものではないのに、評価が極端に変わるのは何かおかしい。そして、嵐の中で自己否定的になったり他者否定的になったりするのはしかたがないことかもしれないが、自己肯定・他者肯定に居続ける道も残されていると思う。

 私は何のために生きているのか?この問いは≪甘えの構造≫をかいくぐり、より真実に近づく道のようである。

愛の領域⑱(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 58/60)

人気blogランキングへ・・1クリックで燃えます!感謝しています!!! 


 
 

まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる (愛の領域⑰)

2010-05-15 | 第七章「光と復活体」
 サラリーマン川柳(第一生命)で、記憶にある川柳が「まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる」である。調べてみたら、1990年代中ごろの作品であり、丁度私が40歳台前半で仕事に没頭していた時期であった。
 
 この川柳を何故記憶しているかは、やはり当時の心象と繋がりがあるようだ。

 家族との語らいなどは二の次。家庭をある意味で無視し、仕事優先させる。仕事も、自分の業績に熱中する。ある意味では生き抜くためのエネルギーそのもので責められないが、自分中心で何か空しいものも感じる。
 
 新約聖書では、良く徴税人が出てくる。ローマ人でもないのに税金を搾り取る仕事につく人である。人の持つ搾取性を具現化したような仕事である。当時の私も、何かそんな感じであったのだろうか。あるいは、そういった搾取性のある世界にウンザリしていたのだろうか。
 
 今当時のことをいろいろ思い出すと、やはりちょっと変だったようだ。その自分が平静を取り戻したのは、何故だったのだろうかと思う。理論的にいうと、次の3つのことを考え始めたからだと思う。

 1.自分は何のために生きているのか?
 2.生き甲斐は何か?
 3.自分の身体、こころ、魂を大切にしているか?

 この川柳は、自分にとって懐かしい日々を思い出させてくれる。苦い記憶でもあるが、今思い出すと大きな恵みの時だったかもしれない。

愛の領域⑰(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 57/60)

人気blogランキングへ・・1クリックで燃えます!感謝しています!!! 


≪ありがとう≫って伝えたくて!(愛の領域⑯)

2010-05-14 | 第七章「光と復活体」

 今日は5月14日であるが、旧暦(太陰暦)では4月1日である。昔の人は今日は1日と知ってピンと来る。つまり新月なのである。1日の夜は晴れていても真っ暗である。そして、太陰暦15日はいつも満月で明るい。とても判りやすい。

 そんな、太陰暦のように、月ならぬ心の状態が判ればと思うが、心の状態はカール・ロジャースのプロセス・スケールがあるが、ちょっと勉強が必要で、使い込むにはやや時間がかかる。誰でもというには、ちょっとした教育が必要なのである(生き甲斐の心理学では学ぶが)。

 そんな中、朝のゲゲゲの女房の主題歌が流れた。「ありがとう」って伝えたくて~。ふむ、感謝の気持ち。これは重要と思った。

 昨日一日のことを振り返る。いろいろあったが、自分の心の中に身近な人を始め、感謝したことが(本音で)あったか。それを振り返る。お陰さまで、私のミスを優しく許してくれたAさんを始め、何人かに感謝の気持ちがあった。一日の中で感謝している時があった。

 これで○(リトマス試験紙は青?)

 世の中、一人では何もできないし、一人では余りに無力である。大なり小なりいつも他人(神仏もあるが)に助けられているのが自然な姿である。そして、自然に感謝する。それが、どういう訳か怒りに満ちていると、そういう訳にいかなくなる。

 自分の過去をふり返っても、≪感謝の心が無くなる≫時期があった。それには、幾つか原因があり、それを責めることができない事情があった。怒る必要もあったのだと思う。

 ただ、ずっと怒りの中にいることは健全でないと思う。一日の中に、晴れ間がさすように、ちょっと≪ありがとう≫と想える場面があってよいはずだし。実際は考え方次第であるのだと思う。

 感謝する心を大切にしたい。

(愛の領域⑯(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 56/60)

 人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!


劣等感も大切なのだ!(愛の領域⑮)

2010-05-13 | 第七章「光と復活体」

  幼いころから、身近な存在であった、父や祖父はそれなりに社会的にも成功してきた経歴をもっていた。通っていた小学校も地域では名門であり、後で知ったが優秀な生徒が多かったようだ。

 そんな環境で、自分の成績は、見栄えもしない。得意科目は体育と図工。その他は余り好きでなかった。ある日、クラスで優秀なA君と帰り道にぽつぽつと話をした。将来どういう進路をとるかというようなことであった。

 話をしながら、暗い気持ちになった。著名な心理学者エリクソンによると8歳から12歳は技能を鍛える年代であり、劣等感や逆に良い面では勤勉性が芽生えるとされている。

 当時は11歳のころで、私の劣等感の原型は帰り道でのA君との語らいだったかもしれない。そして、エリクソンは確かに的を得たことを言っていて、この時期勤勉ということも沢山学んだように思う。

 そして、その後の人生でも良い意味で劣等感も役にたったが、ある時は身近な人から厳しい批判を受けたりすると、この劣等感を刺激され激しく怒ったこともある。そこまで怒らなくてもというほどであった。

 そういうときは、自分の柱がどこか定まっていないところがあり、後から考えると、本当は大きな恵みの時だったとも思う。そして愛とは何か。自分とは何か。生き甲斐とは何か。自分を大事にしているか。そんなことをゴチャゴチャ思索し、歩みを固めているううち(勤勉行動が重要)に時間と共に安定してきたようだ。

(愛の領域⑮(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 55/60)

 人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!

 


自己顕示の花を楽しむ!・・・(愛の領域⑭)

2010-05-12 | 第七章「光と復活体」

 今年の2月から、日本の古代史の本を時間があれば読むようにしている。最近は井沢元彦氏の「逆説の日本史」を愛読しているが、歴史を動かしてきた人達が、どういう思想で生きてきたかという視点があり、眼を開かれる。

 例えば道鏡と称徳女帝は、高校生の時に姦通説を聞いて以来悪く解釈していたが、井沢氏の本を読むと、理路整然とそのようなことはありえず、藤原氏の私腹を肥やす政策に抵抗したが、その後政権交代で犠牲になったように説明されている。歴史も解釈一つでクリアな世界が見えてくるのだと感激した。

 さて、今日は自己顕示について思索をしている。生育史を思い出すと中学・高校のころに受験があり、学校の成績を気にしたり、変に自己顕示的になっていると思いこんだり、そんな自分に嫌悪感を覚えた記憶がある。

 自分さえ良ければ・・・そういう心の動きに、罪悪感を覚えたり居直ったり。さらに、1960年代後半の学生運動の影響で、何か乗り遅れたようで、苦しんだ。他者肯定・自己否定の世界でもがいたようだ。

 そんな高校時代のあと大学に入学し、工学部ではあったが、ドイツ文学や聖書、仏典、中国思想の本を読んだりし、それなりに思想の重要性を学んだ。同じ行動をしても、思想(解釈)が異なれば精神的な印象は随分変わることに気づいたりした。

 自分中心の蟻地獄の思想を持つより、世のため人のためになる思想を持てば、同じ行動や苦労をしても救いがあるとだんだん気づいていった。自己肯定・他者肯定の思想は、悩んでも救いがある。

 テッセンは自己顕示的な花だと思うが、嫌いではない。

(愛の領域⑭(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 54/60)

 人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!