イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

貧乏ゆすり

2006-07-15 | 2006年度(1/13まで)
 貧乏ゆすりをして、父から「貧乏ゆすりをするな!」と注意されたり、妻から注意されることもあった。最近では、自分で貧乏ゆすりにふと気がつくこともある。

 「感情」を考えてみると。貧乏ゆすりには、不思議なメカニズムがあるようだ。貧乏ゆすりをするプロセスは次のようなものではないだろうか。

 ①ある種の不安感を持つ。不安感は理想と現実のギャップに根ざす。
 ②その不安感を身体の緊張(下肢等)に置き換える。防衛機制と見る人もいる。
 ③自分は不思議なことに、①②に気がつかない。

 貧乏ゆすりで他人を不快にさせることはよくないことかもしれないが、貧乏ゆすりに潜む不安感を感知し、そうした自分を暖かく見つめることは重要なことだと思う。

スズメ

2006-07-14 | 2006年度(1/13まで)
 公園でベンチに座っていると、鳩の群れのなかにスズメがやってきた。最近鳩は珍しくなくなったが、スズメはめっきり少なくなった。そのスズメもどことなく、淋しそうであった。

 幼かったころ、よくうちの庭には沢山のスズメがやってきた。うるさいぐらいだった。沢山で捕まえたいと思ったが、幼い私には難しかった。

 隣には、母の両親が住んでおり、毎日遊びに行った。そこには祖母が若い頃描いたのスズメの日本画があった。

 祖母は私が悪態をついても、甘納豆をくれた。無条件の愛だった。祖母が亡くなったのは小学校低学年のころであり、亡くなることが実感できない年齢であった。それだけに、今祖母のことを思うと心が痛む。

2006-07-13 | 2006年度(1/13まで)
 夕方激しい雨が降ったあと、狐の嫁入りで、強い陽が差し込んだ。丁度車の中に居たが、綺麗な虹がかかっているのを見ることができた。
 
 虹を見て、私はいつも嬉しくなる。大げさかもしれないが、生きていることに感謝する一瞬である。音もなく、消えていく虹の特性をいろいろネガティブに云う人もいるが、私は虹が消えることを空しく感じない。一瞬でも天国を感じることは本当に素晴らしい。


霧の中

2006-07-13 | 2006年度(1/13まで)
 先日の御殿場はあいにく天候に恵まれず、富士山は見られなかった。山間の宿は霧の為視界が悪かったが、霧の合間からしっとりとした景色が時々見られた。

 霧は不思議な感情をもたらす。

 この感情の原型を考えてみる。7歳のころ、アラスカのパルプ工場から自宅に向かう、父が運転するトラックの中で霧に遭遇したときの感情のようだ。崖から落ちはしないかという不安感と、父がとなりに居るというちょっとした安心感。

 霧の思い出は他にもある。青年時代、東京、大阪郊外の山に登ったり、時には槍ヶ岳などに登った。その時山道で霧に会うことは結構あった。

 こうした、いくつかの霧に遭遇した時間と場所が、御殿場での霧を媒介に繋がる。霧はメビウスの帯のように、私をワープさせる。

感謝すること

2006-07-11 | 2006年度(1/13まで)
 マルクス・アウレリウスの「自省録」(講談社学術文庫 鈴木照雄訳)を読みながら感激した。その第一章は、祖父への具体的な感謝ではじまり、神々と運命への感謝で終わっている。すべて感謝の一章である。
 感謝とは何であろうか、予期せぬ贈り物を頂き、「ありがたさ」に心が躍ることではないだろうか。カリタス・カウンセリングで理想と現実のギャップが解消されると、平安感等の明るい感情が生まれると学んだ。感謝する心は、まさに、この明るい感情の一種である。
 梅雨で気が晴れないときには、ちょっとしたことに意識して「ありがたさ」を感じ、感謝してみよう!