思いがけないパソコン・クラッシュからの湧き起る感情への対応を前回報告させていただいたが、昨日はもう十年近く通っているU先生の某所勉強会に参加させていただいた。
この勉強会では実に深いところを学ばせていただいている。心理学の勉強会は、どんな感情が湧いても、それを正直に語ることができる何かがあるかが大事だ。昨日の勉強会には、それが満ちていた。その何かは、気障な言い方かもしれないが、愛とゆるしである。心理学用語だと受容ということかもしれない。
さて、パソコン・クラッシュの時に湧き起った感情。これと対話をするためにも、この受容が大事だと思う。人それぞれ、受容の仕方があると思うが、私はカトリック信徒なので、私を愛する神の存在を信じ、聖パウロの人の体は神の神殿という思想を信じている。そして、その思想を深めることにより、自分の様々な湧き起る感情に怯えることが少なってきているように思う。
今回のトラブルでも、奈落の底に引き込まれそうな錯乱感、後悔をはじめとする自責感、魂からの不安感、などがあったようだ。良く考えると、その感情の多くは自分の生育史に根ざしているようだ。奈落の底に引き込まれそうな錯乱感はかなり原初的で、0-2才のころの生育史と関係が深いかもしれない。母に私の0-2歳ころの自分や母の心配ごとなどを訊いたり、生まれたころの世相を調べたりすると、当時の雰囲気が何か影響を与えているような気になる(私は1951年生まれだが)。
自責の感情は、実は良く分からないが自分の防衛機制(合理化とか・・)から逆算すると、ちょっと気になる。魂からの不安とも繋がっているかもしれない。
湧き起る暗い感情。考えていくと、一時的なパソコン・クラッシュという表面的な体験だけでなく、その奥にある何か深いものと関連してくるようだ。自己実現ということがあるが、①私は何のために生きているのか?②生き甲斐は何か?③自分の魂、心(生育史)、身体を大事にしているか。この三つの切り口を思い浮かべてしまう。
背中を軽く押す人 6/10