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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

古代の悲劇に想いを寄せる!(歴史を振り返る 8/10)

2012-05-21 | 第一章「意識と知覚」

 持統天皇は、天武天皇と共に古代で皇親政治を行ったことで有名であるが、非常に数奇な運命の持ち主である。まず、生まれが645年と乙巳の乱(大化の改新)の年であり、蘇我宗家が滅び、中大兄と中臣鎌足が政治の中心に躍り出てくる年だ。

 そして、持統天皇の母は遠智娘で、蘇我宗家亡きあとに、蘇我氏の中心人物となった蘇我石川麻呂の娘であるとともに、中大兄(後の天智天皇)の妻である。

 乙巳の乱の4年あと、左大臣であった石川麻呂は政治の凄まじい謀略が幅をきかす政治の中で、讒言により山田寺で自刃する。それで終わればまだしも、追討軍が来て、その亡くなった石川麻呂の死体の首を物部ニ田造塩に切らせ、さらに死体を切りつけるなどをした(日本書紀に記載)。さらに、石川麻呂の変の背後には夫の中大兄の思惑があったようで、遠智娘は心を痛め錯乱し、どうも心の病気になったようだ。そして、持統天皇の弟にあたる建皇子が誕生するころ(持統天皇が14歳)に亡くなる。

 持統天皇5歳の時の石川麻呂の惨殺と、それに続く遠智娘の病と死(14歳)は持統天皇にとっても生涯に多大に影響を与えた事件だったにちがいない。しかし、インパクトは父の天智天皇にとっても悲劇であった。書記に次ぎの歌が天智天皇に献上され、天智天皇が「いい歌だ、悲し歌だ」と言われた。

 山川に 鴛鴦(おし)二つ居て 偶(たぐひ)よく 偶(たぐ)へる妹を 誰か率(ゐ)にけむ (山川にオシドリが二羽ならんでいるように仲よくならんでいる媛を、だれがつれていってしまったのでしょうか)

 本毎(もとごと)に 花は咲けども 何とかも愛(うつくし)し妹が また咲き出来む (株ごとに花は咲いているのに、どうしていとしい妹という花がまた咲き出てこないのでしょう) 以上日本書紀Ⅲ (中公クラシックス)131~132P参照。

 私はこうした悲劇を直接体験したわけではないが、昨年の3.11や最近の大伯父さんの台湾での墓参りを体験することにより、何か古代の悲劇に少し共感できるようになった感じだ。

 そして、それと共に、こうした悲惨を乗り越えて生き抜いた方も確かにおられ、それが今ここを支えていることに少しは気付いたようだ。

歴史を振り返る 8/10

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