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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

聖なる季節・少年少女期のパワー!(自分との和解 1/10)

2011-01-10 | 第五章「和解と平和」

 8歳から12歳はエリクソンの理論からすると、≪技能、勤勉性、劣等感≫が育まれる時期のようだ。私の場合は昭和34年から38年にかけてであり、日本の古き良き時代(高度成長期)であり、恵まれていたと思う。

 個人的には、この時期は隣に住んでいた祖母が亡くなり、祖父を支えるために伯父さん家族が引っ越して来た。3歳上の従兄弟たちが身近に住み、楽しく遊んだり学んだりした。さらに、母がカトリック信徒であったが、母のお友達と教会で過ごしたり、旅行にいったりする時間も結構あった。

 この時期、四ツ谷の近くのある修道会の日曜日のミサに待者としてお手伝いをしたことが思い出される。しかし、ミサの後に、修道会が美味しい朝食を出して頂くのが楽しみで続けられたのだと思う。ミルクティーの香りが今でも忘れられない。もう一つ忘れられないのは、ミサの中で、ある修道女の方が歌う美しいキリエ・エレイソンのメロディーであった。聖なる場所の記憶と言えるのだろうか。

 この時期、教会に行ったりする外にも、コツコツと勉強したり(好きな科目は体育と図工、音楽であったが)、コツコツと趣味に励んだりすることも覚えた(天体観測、地学に興味。時に自分で勝手なテーマで本を作ったりもした)。

 私は、新しい環境に置かれると、決まって慌てる(錯乱)ところがあるが、その後ゆっくり挽回していく力もある。それは、この時期に、≪技能、勤勉性、劣等感≫が育まれたためなのだろう。青年期以降のことを考えると、その時は気がつかなくても、後から考えると大切だったと思う。

 さて、私はカトリックに40台後半に復帰した(主観的ではあるが)のだが、自分の子供達には、当時は幼い子供達を日曜日に教会に連れて行くこともなかった。初詣に一緒に近くの神社仏閣に行くのがせいぜいであった。しかし、聖なる場所に行くのは良いことなのだろう。自分の宗教ということではないが、祖先が信じた場所に行くのは、深い意味があると思う。子供達にも、いつの間にか聖なる場所を大切にすることが根付いたようだ。

 汚れと禊ぎ。十字架の贖罪。見た目は違っていても本質はかなり近いのかもしれない。そして、勤勉性、律義さは弱い人間の護符(切り札)のようなものなのだろう。

自分との和解 1/10

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