自分の不思議、他人の不思議に触れながら、熱い想いを掛けられる人が増えてくるように思う。
熱い想いを掛けられる人には、無防備で接することができるのかなと思う。熱い想いが湧かない人へは、無防備はなかなか難しい。熱い想いは、微かでも良いが人を好きにならなければ、湧くものでないようだ。
嫌いな人を、好きになることは、無防備になることとも関係する。
今日たまたま、テレビを見ていたら、米国にあるチベット語放送局のことが放送されていた。正確な報道を心がけるラジオ局。その主たる情報源は、ラサ等の中国におられるチベット人からの通報だという。それが、最近通報者が減少しているということであった。
自分の身を大切にする人が増えてきたことを責めるわけにはいかないが、困難な状況で「無防備」にも、通報する人がまだいるということに驚く。恐らく、そこには熱い想いがあるのだろう。
<無防備論4/4>
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