昨晩もカウンセリング勉強会で5万年前、2000世代前の祖先の話をした。そして悲惨な状況を生き延びてきた人類共通の祖先のことに思いを馳せると、今私たちの様々な不安・苦難が何か相対化され、気持ちが楽になるように思う。
ロシアの入れ子のマトリョーシカ人形のように、再帰的に意識を意識化する複雑な心の仕組みは、私たちを幸せにする不思議な脳の働きかもしれない。そんな、私たちの知覚や意識についての仕組みを、この章で見ていきたい。
さて、私の意識の夜明けはどのようであっただろうか?
東京大空襲、原爆投下、終戦から6年目の1951年に私は都内で生まれた。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」とマッカーサーが名言を残し退任した年である。
赤痢で1万人以上が亡くなり、結核が戦後初めて死因の2位に落ちたとしでもあった。翌年は血のメーデー事件などもあり、朝鮮戦争も休戦を迎えていない。そんな0-1歳の明確な記憶はない。両親の会話、ラジオから、流行歌「あの丘を越えて」「りんご追分」などを知覚したかもしれないが、記憶には残っていない。
意識の夜明けはいつのことであろうか?やはり、両親と住んでいた四谷の木造平屋2LDKの小さな家と、祖父母の住んでいた家との間にある庭での記憶からである。空襲で焼けた元の家の土台が残る庭はであったが、チューリップやアジサイなど、いつも花が咲いていた。
その庭を二本の足で歩く。家で太鼓を叩いたり、積み木で遊んだりしたぼんやりとした記憶。そのあたりかもしれない。明確な知覚(触覚、痛い、苦いなどの五感と簡単な知識/反応)の記憶は2-3歳のころからである。
歯が生えて遅くまで乳離れせず、乳首に傷をおって困り果てた母は、お化けの絵で脅かしたり、苦い薬をつけたりでやめさせようとした。その時の記憶。さらに、居間で転んで瀬戸物の火鉢の角で、頬骨を思い切りぶつけた痛さの記憶。
食事と排泄に関する世話をされた記憶も、知覚の記憶として残っている。その中で父に胡坐で食べさせてもらったことの寛いだ記憶は、愛の記憶のひとつである。
この数年、福祉の仕事で食事介助、排泄介助などをする機会ができた。人間の生きる原点である幼いころの記憶は、愛の記憶としてどこかで役にたつと思う。
食事と排泄は人類の遠い祖先まで遡る共通の記憶と考えると、厳かな気持になる。
こうして新鮮な知覚を通しての自分と世界の把握が始まったようである。
<知覚1/2>
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