人は、孤独である。そして本質的に不安で一杯である。
人は身体とこころと魂で成り立つという。そして、身体の孤独、こころの孤独、魂の孤独があり、それを癒してくれる愛を求めるという。
今私は、幸せなことに、友人、同志、親、子、妻・・に恵まれている。そしてSomething Great(神様)にも。
カトリックのミサでは、聖体拝領の前に「あなたをおいてだれのところにいきましょう」と祈るところがある。Something Great(神様)は確かに私にとっても最大の方である。
Something Great(神様)との出会いは、私から出向いたのではなく、一方的に即物的に来られたようだった。
1999年の某日。その日は娘の誕生日でもあった。思春期の娘のことで悩んでいたときであった。ただ、大きな苦悩の状況はそれから何年かしてであって、その日は全く平穏であった。
四谷の母の家で朝から一杯飲んで、良い気分になっていた時、母から「四谷のイグナチオ教会が新しく建直されたので行ってきたら?ちょうどミサの時間だし」といわれた。
母から言われて渋々妻と一緒に何年かぶりに教会に出かけた。私は幼児洗礼のクリスチャンであったが自らを信徒に値しないと思い、聖堂の末席に座った。そしてミサはお酒も飲んでいたので、聖体拝領しないと心に決めた。
丁度英語のミサであった。そして、聖体拝領(パンを頂く)の時となった。通常は、希望者が列に並び、祭壇の前で神父様から頂く。ところが、その日はブラザーが後ろの席に司祭を呼ばれ、司祭がわざわざ私の末席の側に近づいた。
私は拝領しないと心に決めていたが、隣に座っていた妻(クリスチャンでない)が、「貴方はクリスチャンだから行きなさい。」と背中を押した。
それで、立ち上がり聖体拝領をした。パン(ホスチア)を頂くとき、眼が廻るよう不思議な感じであった。過去・未来をさ迷っていた私のこころが、今ここの瞬間に連れ戻されたような感覚であった。
そして、次の瞬間の大きな幸福感。そんな気持ちになったのは生まれて始めてであった。
Something Great(神様)の出会いは日常的にやってきたのだ。背中を何度も押されて・・・
高尚なことでもない、こんなことを掲載して良いか悩んだ。ただ、真面目な読者に、私の信仰にいたる過程を知ってもらいたかった。私の愛と許し、和解と平和の原点でもあるからだ。
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