元外資系企業ITマネージャーの徒然なるままに

日々の所感を日記のつもりで記録

スピノザ「エチカ」第四部定理6「受動感情、あるいは感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは能力を凌駕することができる。それほどに感情は人間にとりつおいている」

2017-02-06 08:35:43 | 哲学エッセイ
スピノザ「エチカ」*第四部定理6「受動感情、あるいは感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは能力を凌駕することができる。それほどに感情は人間にとりつている」。同じく定理7「感情とは、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない。」*

ここで、受動感情とは*「他と対立して他から圧倒されたり、圧倒したりするときに生じてくる感情である。他から圧倒され、自分の活動力が減退するとき、悲しみの感情が生じ、逆の場合は喜びの感情が生じてくる。しかし、この場合の喜びの感情は、他の者の悲しみを自分の喜びとするような感情であるから、健全なものではない。」*

この定理を読んでいてつくづく感じるのは、感情は本当にやっかいなものである。出来れば、うまく自分の感情をコントロールして、その力を利用し自分の能力を凌駕できるように使いたいものである。ただし勝負事はすべて、自分の喜びは他人の悲しみであるので難しい。その点、試合後にお互いを称えあう、ラグビーのノーサイドの精神は素晴らしい!
座禅修行も、仏教修行も、感情にとらわれない自分を磨くためのものであるなら、西洋東洋を問わず真理は一つなのがよくわかる。

*の引用元は、スピノザ著「エチカ」中公クラッシクス、工藤喜作&斎藤博訳

スピノザ「エチカ」第四部 定義1「善とは、われわれにとって有益であることを、われわれが確実に知っているものと解すること」

2017-02-06 08:02:45 | 哲学エッセイ
スピノザ「エチカ」*第四部 定義1「善とは、われわれにとって有益であることを、われわれが確実に知っているものと解すること」。同じく定義2「他方、悪(禍)とは、われわれがある善いものを手に入れるために、妨げとなるのを確実に知っているものと解するであろう。」*
これは定義なのでスピノザの公理や定理の前提条件である。ここで問題になるのは、スピノザも言っているように善とは個人や集団にとっての善であり、全ての人民にとっての善ではない。同じく悪も普遍的なものではなく相対的なものである。
そして「善とは何か?」をいろいろな哲学者が考えることになる。
この定義の「善」は西田幾多郎が「善の研究」で唱えた純粋経験をベースとした善と基本的には同じであり、単純化するとスピノの三種類の感情「欲望、喜び、悲しみ」の中の「喜び」に当たるのではないか。ただ、他人の悲しみが自身の喜びとなる「喜び」ではなく、自他ともの「喜び」となる感情である。
善をすると自分も他人も嬉しい(もしくは自分は嬉しいが他人はどうでもいいこと、少なくとも他人に影響を与えない自身の喜び)、すわなち喜びある。今気づいたが、「善」の音読みは「よろこび」である。日本の漢字はよく出来ている。

ここまで考えても、まだまだ考えることがたくさんある。
では、どんなことが「善」なのか?
他人は嬉しいと思っているのか?他人の気持ちがわかるのか?
果たして大人に純粋経験を感じることは可能か?座禅で感じられるのか?
自身の喜びを高める行動は、他人の不幸ではないのか?だから戦争が絶えない。

*の引用元は、スピノザ著「エチカ」中公クラッシクス、工藤喜作&斎藤博訳