投石日記

日野樹男
つながれて機械をめぐる血の流れ生は死の影死は生の影

2010年09月15日(水)

2010年09月15日 | 映畫
●オリエント急行殺人事件(MURDER ON THE ORIENT EXPRESS)/1974、英/シドニー・ルメット監督/アルバート・フィニー、ローレン・バコール、ウェンディー・ヒラー、ショーン・コネリー、アントニー・パーキンス、イングリッド・バーグマン、ジョン・ギールグッド、リチャード・ウィドマーク
◎NHKBSの錄畫。イスタンブールを出發しパリに向かつてひた走るオリエント急行、その一等寢臺車の客室で深夜に億萬長者のアメリカ人が殺され屍體には12箇所もの刺し傷があつた。走行中の犯行とはいへ停車驛もあるので本來は外部犯の可能性も考へられる事件のはずだつたが、犯人にとつて運の惡いことに折りからの大雪で列車が動けなくなり「走る密室」から「雪の密室」へと豫期せぬ事態になつてしまふ。雪の上に足跡がない以上犯人はまだ車内に留まつてゐることになるのだ。犯人にとつてさらに大きな不運は名探偵エルキュール・ポワロが偶然同じ車輛に乘り合はせてゐたこと。ポワロはたちまち犯行が可能なのは一等寢臺車の乘客12人と車掌だけであることを確信し、それぞれの話を訊きとることで事件の搜査を始める。そして推理の結果驚くべき結論に達するのだが、しかしその犯行動機の深刻さからポワロは敢へて犯人を最後まで追求せず外部犯人説をもつて搜査を締めくくる。今年はアガサ・クリスティーの生誕120周年でケーブルテレビではさまざまな映畫やドラマが放送される。その中でもこの「オリエント急行」は興行的に最も成功した映畫。同名の原作は作者が讀者に仕掛ける廣義のトリックである「意外な犯人」の奇拔さで有名なクリスティーの代表作のひとつ。もともと映畫やドラマのミステリーには配役によつて犯人が簡單に分かつてしまふといふ難點があつた。その解決策のひとつが「刑事コロンボ」のやうな倒叙形式で、最初から犯人を明かしてゐるため安心して大物俳優を起用できる。もうひとつの解決策は登場人物すべてにスター級の俳優を揃へてしまふ方法で、この映畫はそれで成功してゐる。オールスターとはいつても「往年の」といふ形容が付いたり脇役として有名であつたりといふ俳優も含めての話だが、制作費のことを考慮すれば當然限界はある。この「オリエント急行」の面白いところは、特殊な「トリック」の關係で「オールスター」であつてもやはり「配役だけで犯人が分かる」可能性の高い作品であること。また一般的にミステリー映畫では原作の一部に變更を加へ違ふ人物を犯人にして作品の獨自性を出さうとすることがあるが、この作品はトリックがそのまま犯人像に結び付いてゐるために大筋は變へることができない。讀んでも讀んでも犯人やトリックをすぐに忘れてしまふ私でも、これに關する限りは一度で犯人を覺えてしまつた。ある意味ではミステリーの掟破りのこの作品、同じクリスティーの「そして誰もゐなくなつた」のやうにつぎつぎに登場人物が殺されるといふ話とは全く逆に死ぬのはひとりだけで、殘りの全員に動機があるのにそれぞれの證言によつて全員がアリバイを持つといふ展開。ポワロ役のアルバート・フィニー相手に俳優陣の演技にも自然と力が這入り大變に面白い作品になつてをり、そんなこともあつて本格ミステリーの映畫化としては異例の成功を收めたのだらう。犯行の動機として用意されてゐる「5年前の誘拐事件」はリンドバーグ事件をモデルにしてゐるらしいが、これは日本でも有名人の子供が誘拐されたりすると必ず引き合ひに出されてきたもの。原作はこの事件がまだ完全には「解決」し切つてゐない時期に書かれた生生しい作品で、しかもこの事件はその後もさまざまな臆測を呼び續けて來たので40年後に映畫が作られた頃でもまだ歐米では十分に「過去の事件」になりきつてゐなかつたかも知れない。さういふ點も含めて映畫化にあたつての原作の選擇や配役などの企畫力の見事さが際立つ作品だつた。