古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

笠沙岬(野間岬)

2018年05月26日 | 遺跡・古墳
2018年5月25日、出張の機会を得て鹿児島へ。午前中に用件が終わったので午後から休みを取ってレンタカーで踏査ツアーを敢行。今回の踏査地は、瓊瓊杵尊が降臨したあとに向かった吾田長屋笠狹之碕(あたのながやのかささのみさき)。現在の薩摩半島の西端、野間半島の先にある野間岬だ。野間半島は鹿児島市内から車で2時間ほど。薩摩半島を横断して国道270号線を南下したところ。ついにここまで来てしまった。もう病気かもしれない。


北側から見た野間半島。風力発電の風車が立ち並ぶ。


野間半島はその昔は島だったらしい。それが砂州でつながって半島になったという。Googleマップを見ると半島は坊野間県立自然公園になっていて道路もついているし野間岬展望所というのがある。さすがに半島の先の灯台までは行けそうになかったけど、展望所までは余裕で行けると思っていた。それがこんなことになろうとは。

道路は確かにあった。しかし車一台が通るのがやっとの幅で、しかも新緑の季節に入ったからか、両側から草木が道路に覆いかぶさる。ほとんど勘で運転する状況で、不安は増すばかり。そんな道なのに、なぜか後ろから2シーターオープンのベンツがぴったりついてきた。Uターンする場所もなくバックで戻ることもできず、前進するしかない。

これは帰りに撮った写真。ここは直線だからいいものの、断崖のカーブもあって涙が出そう。だからコンパクトカーが良かったのに。レンタカー屋さんが同じ料金でC-HRを用意しましたって、やっぱり余計なお世話だった。


途中、やっと見つけたUターンできそうな少しのスペース。しかしトラックが停まっていて工事中のお兄さんが二人。ここでのUターンをあきらめて車を停め「この先、Uターンできる場所はありますか」と聞いてみた。「ぼくもここまでしか来たことないからわからないけど、さっきランクルのおばさんが行って戻って来たから大丈夫でしょう」と教えてくれた。とにかく行くしかない。少し走るとかろうじてUターン出来そうな場所があったので頭を突っ込んだ。追ってきたベンツも横で停まった。同い歳くらいの夫婦。「えらいとこに来てしまったけど、まだ先に行くんですか」と聞くと「行きます」との答え。そうだよな、ここまで来て引き返す手はないよな。幸いにも順番が逆転してベンツが先を走ってくれることになったし一緒に行こう。気がつくとベンツのうしろにさらに軽四がついている。三台もいれば何とかなるだろう。そしてついに展望所へ到着。

半島の先端が野間岬。ベンツ夫婦のおかげだ。来てよかった。笠沙岬だ。感動! ベンツのおじさん曰く「草をかき分けて来た甲斐があった。これくらいしないと絶景は観れないよ」と余裕の笑顔。

でも見ての通り、これだけ苦労してきたのに、まだ半島の中ほど。でもこれ以上は無理。

のどかなモニュメント。こんなの建てるのなら、もう少し道を整備してください。奇跡的に対向車がこなかったから良かったけど、もしも来ていたらと思うとゾッとする。

軽四のおじさんは地元の人らしい。この地が天皇家のふるさとと言われる所以を語ってくれた。この笠沙岬とあとふたつ。ひとつがこのあと行くことにしていた瓊瓊杵尊が宮を構えたと言われる場所。もうひとつが伊勢神宮よりも古いと言われる野間神社。野間神社のことは知らなかった。

瓊瓊杵尊の宮跡は向こうに見える島の対岸あたり。


さて、野間半島の手前に野間岳という尖がった山があります。古代にはこの山が航海の目印になったことは間違いない。大陸の江南あたりを出て東シナ海を渡った人々は間違いなくこの山を目指してやってきたと思う。その事実が神話に反映されたのだ。天照大神の孫、すなわち天孫である瓊瓊杵尊は高天原から高千穂の峯に降臨したあと、この岬にやってきた。天孫降臨の話は天皇家の祖先が大陸から南九州のこの地にやって来たことを投影しているのだ。野間岳をこの目で見てそう確信した。

展望所からの帰りに見えた野間岳。標高の高いところからなのであまり尖った感じはないけども平地から見るとかなり目立った尖りよう。

このとき、再び大きな不安に襲われるドライブになるとは露知らず、帰路についた安心感から余裕の撮影となった。



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