2017年9月、福岡市博多区にある板付遺跡を訪ねた。板付遺跡は福岡平野のほぼ中央に位置し、標高7~9メートルほどの段丘と周辺の沖積地に広がる縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡で、環濠集落跡や水稲耕作跡が発見されている。国史跡に指定され、公園として整備されるとともに隣接して展示施設の板付遺跡弥生館がある。
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環濠集落の入り口。
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復元された環濠。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/53/50e9aaf86bb95dce510e0078eccc7445.jpg)
復元された水田。向こう側の少し小高いところが環濠集落。水田と環濠の間には水路があり、取水口などの跡も検出された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/8a/7c697737d2acee06a3be72e5912b406a.jpg)
板付遺跡弥生館。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/42/10bffb46be401142305cae7c55ffb537.jpg)
右に環濠集落、左に弥生館、その間に復元水田。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/c8/3f83e2c85a9da6842079fc2666cb54f4.jpg)
縄文時代晩期の夜臼式土器。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/01/52082977a7c995d107172c460d1fee15.jpg)
弥生時代前期の板付式土器。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/8e/d9ccab01a556bee02520a79b7979ea5b.jpg)
水田跡に残されていた弥生人の足跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/ec/5648c30fdbc18faeed4702b3dfcda7af.jpg)
環濠集落の全体図。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/9d/a967128725ca5f97cc6a11a27896617f.jpg)
上図にある左上の斜めに走る濠を北側から。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/a3/c4458d17f50e5f6db9595a76c7a4382c.jpg)
以下、Wikipediaに記載された遺跡の沿革。
1916年(大正5年)に、中山平次郎が、甕棺内から青銅製の矛や剣が出土したことを学会に報告した。弥生土器に金属器がともなうことの初めての報告であった。
1950年(昭和25年)1月、竹下駅前で仕立て屋を営んでいた在野の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)が、ゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼式(柏崎式)土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集し、最古の弥生時代の遺跡である可能性が浮上した。日本考古学協会の共同研究「日本農耕文化の生成」の一環として、中原や九州大学の岡崎敬、明治大学の杉原荘介らを中心とした発掘調査が4年間にわたり行われ、断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出され、板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土し、日本最古の環濠集落であることが確実となった。また、炭化米や籾圧痕の付いた土器などが出土したことで稲作農耕の存在が確認された。
遺跡全体の復元模型。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/55/7a57c410f15ddec8a2d2818f480b2172.jpg)
弥生館の入口で受付をして中に入るとすぐに事務室の扉が開き、受付に座っていたおじさんが出てきた。そして、こちらが何もお願いをしていないのに説明を始めた。これまでの経験上、どこの博物館や資料館でも地元の方の説明を聞きながら見学する方が勉強になることがわかっていたので、素直におじさんの話を聞くことにした。
遺跡全体の復元模型を前にしてかなり詳しい説明をしてくれたのだけど、説明の内容から考古学の専門的な知識があることがわかったので、こちらも時々質問を投げかけて理解を深めることができたので大変ありがたかった。
このムラは最終的には弥生時代の中期から後期にかけて、南にある須玖岡本遺跡を中心とする奴国に吸収されてしまったと考えられる。
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環濠集落の入り口。
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復元された環濠。
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復元された水田。向こう側の少し小高いところが環濠集落。水田と環濠の間には水路があり、取水口などの跡も検出された。
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板付遺跡弥生館。
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右に環濠集落、左に弥生館、その間に復元水田。
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縄文時代晩期の夜臼式土器。
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弥生時代前期の板付式土器。
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水田跡に残されていた弥生人の足跡。
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環濠集落の全体図。
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上図にある左上の斜めに走る濠を北側から。
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以下、Wikipediaに記載された遺跡の沿革。
1916年(大正5年)に、中山平次郎が、甕棺内から青銅製の矛や剣が出土したことを学会に報告した。弥生土器に金属器がともなうことの初めての報告であった。
1950年(昭和25年)1月、竹下駅前で仕立て屋を営んでいた在野の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)が、ゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼式(柏崎式)土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集し、最古の弥生時代の遺跡である可能性が浮上した。日本考古学協会の共同研究「日本農耕文化の生成」の一環として、中原や九州大学の岡崎敬、明治大学の杉原荘介らを中心とした発掘調査が4年間にわたり行われ、断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出され、板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土し、日本最古の環濠集落であることが確実となった。また、炭化米や籾圧痕の付いた土器などが出土したことで稲作農耕の存在が確認された。
遺跡全体の復元模型。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/55/7a57c410f15ddec8a2d2818f480b2172.jpg)
弥生館の入口で受付をして中に入るとすぐに事務室の扉が開き、受付に座っていたおじさんが出てきた。そして、こちらが何もお願いをしていないのに説明を始めた。これまでの経験上、どこの博物館や資料館でも地元の方の説明を聞きながら見学する方が勉強になることがわかっていたので、素直におじさんの話を聞くことにした。
遺跡全体の復元模型を前にしてかなり詳しい説明をしてくれたのだけど、説明の内容から考古学の専門的な知識があることがわかったので、こちらも時々質問を投げかけて理解を深めることができたので大変ありがたかった。
このムラは最終的には弥生時代の中期から後期にかけて、南にある須玖岡本遺跡を中心とする奴国に吸収されてしまったと考えられる。
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