2017年10月7日、初めての車中泊ツアーで岡山・倉敷に出かけたときに立ち寄った五色塚古墳。兵庫県神戸市垂水区五色山、淡路島を望む台地上に築かれた前方後円墳だ。全長は194m、兵庫県でもっとも大きな古墳で、4世紀末から5世紀初頭の築造とされる。隣には五色塚古墳とともに国史跡に指定された直径70mの円墳である小壺古墳がある。また、日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られる。
2段目のテラス。葺石の復元の状態がよくわかる。
名古屋の志段味古墳群にある志段味大塚古墳も同様の復元がなされていたが、この完璧すぎる復元は個人的にはあまり好きではない。
これだけの状態に復元する前には当然、古墳全体の発掘調査が行なわれたのであるが、なんと埋葬主体は掘っていないらしい。墓を暴くことに抵抗があるのだろうか。学者や研究者は宮内庁管理の天皇陵の発掘は望むのに、全国各地の大きな古墳で埋葬主体が調査されていないところは山ほどあるようだ。
調査の結果、上段と中段の葺石は淡路島産ということが判明している。
日本書紀の神功皇后紀に「神功皇后が仲哀天皇の亡骸を伴って穴門から難波に戻ろうとするときに、香坂王・忍熊王が播磨の赤石に天皇の偽りの墓を造って淡路島の石を運び、人々に武器を持たせて待ち伏せした」という記述があるが、葺石の調査結果はこれを裏付けることとなった。
淡路島の西側には五色浜というところがある。ここから石を運んだから五色塚古墳と呼ばれる、という説もある。
出土した埴輪が少しだけ古墳横の管理事務所に展示されていた。鰭付円筒埴輪2点、鰭付朝顔形埴輪1点、いずれもレプリカだったと思う。
この古墳に並べられた埴輪は総数2,200本と推計され、うち600本が採集された。採集された埴輪のうち鰭付円筒埴輪42点・鰭付朝顔形埴輪3点・円筒埴輪3点の計48点は全形が復元されており、国の重要文化財に指定されている。千本を超える数の円筒埴輪が「千壺古墳」とも呼ばれる所以だと言う。
淡路島を望む台地上、という立地がよくわかる景色。
古墳のすぐ下(埴輪の隙間に見えるところ)に線路が見える。古代にはこの向こうがすぐ海岸だったという。
右下に見える白い建物が管理事務所。
古墳の周濠に設けられた方形の土壇。全部で3カ所ある。祭祀を執り行った場所らしい。
復元後の古墳全景。
明石海峡、淡路島を空から望む。
いずれも管理事務所にて撮影。
日本書紀にある赤石(明石)の墓がこの五色塚古墳だとすると、被葬者のない偽りの墓ということなるが、単に騙すためだけにこれだけの規模の古墳を築くはずはないが、残念ながら被葬者は明らかではない。しかし、瀬戸内海航路の要衝の地に古墳が築かれたことから考えると、明石海峡や淡路島までをも支配した豪族首長と推測される。
2段目のテラス。葺石の復元の状態がよくわかる。
名古屋の志段味古墳群にある志段味大塚古墳も同様の復元がなされていたが、この完璧すぎる復元は個人的にはあまり好きではない。
これだけの状態に復元する前には当然、古墳全体の発掘調査が行なわれたのであるが、なんと埋葬主体は掘っていないらしい。墓を暴くことに抵抗があるのだろうか。学者や研究者は宮内庁管理の天皇陵の発掘は望むのに、全国各地の大きな古墳で埋葬主体が調査されていないところは山ほどあるようだ。
調査の結果、上段と中段の葺石は淡路島産ということが判明している。
日本書紀の神功皇后紀に「神功皇后が仲哀天皇の亡骸を伴って穴門から難波に戻ろうとするときに、香坂王・忍熊王が播磨の赤石に天皇の偽りの墓を造って淡路島の石を運び、人々に武器を持たせて待ち伏せした」という記述があるが、葺石の調査結果はこれを裏付けることとなった。
淡路島の西側には五色浜というところがある。ここから石を運んだから五色塚古墳と呼ばれる、という説もある。
出土した埴輪が少しだけ古墳横の管理事務所に展示されていた。鰭付円筒埴輪2点、鰭付朝顔形埴輪1点、いずれもレプリカだったと思う。
この古墳に並べられた埴輪は総数2,200本と推計され、うち600本が採集された。採集された埴輪のうち鰭付円筒埴輪42点・鰭付朝顔形埴輪3点・円筒埴輪3点の計48点は全形が復元されており、国の重要文化財に指定されている。千本を超える数の円筒埴輪が「千壺古墳」とも呼ばれる所以だと言う。
淡路島を望む台地上、という立地がよくわかる景色。
古墳のすぐ下(埴輪の隙間に見えるところ)に線路が見える。古代にはこの向こうがすぐ海岸だったという。
右下に見える白い建物が管理事務所。
古墳の周濠に設けられた方形の土壇。全部で3カ所ある。祭祀を執り行った場所らしい。
復元後の古墳全景。
明石海峡、淡路島を空から望む。
いずれも管理事務所にて撮影。
日本書紀にある赤石(明石)の墓がこの五色塚古墳だとすると、被葬者のない偽りの墓ということなるが、単に騙すためだけにこれだけの規模の古墳を築くはずはないが、残念ながら被葬者は明らかではない。しかし、瀬戸内海航路の要衝の地に古墳が築かれたことから考えると、明石海峡や淡路島までをも支配した豪族首長と推測される。
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